城データ
城名:三ツ城
別名:無し
標高:286
比高:190
築城年:室町時代
城主:不明、阿曽沼氏の関係した人物
場所:広島県広島市安芸区瀬野西4丁目
北緯:東経:34.431010/132.591690
攻城記
かろうじてこの部分だけ崩されていないところがあった。
急峻なことが分かる。
団地造成に伴い遺構は全く残っていない。
この辺りが城跡だと推測される。
東方面(隠居城方面)
南方面。
眺望は非常によい。
位置関係
1960年当時の航空写真
現在の航空写真
open-hinataより【三ツ城】
余湖図【在りし日の三ツ城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【三ツ城】
城の概要
本城跡は,瀬野川北岸高城山(標高496m)から北東に延びる丘陵頂部に位置し,東側直下を榎ノ山川が流れ,西に海田方面,南西に瀬野川の沖積地,東に榎ノ山川流域を一望できる眺望良好の立地を示す。
郭は尾根上に並ぶ三つの起伏部を中心に展開し,六つの郭,六条の堀切,二条の竪堀,二か所の竪堀群から成っている。二段に形成された1郭の南に堀切を挟んで2郭を置き,その東西斜面に二つの郭,さらに南側にも堀切を挟んで郭を配している。城跡の北端と南端には竪堀群を配している。
起伏部に設けられた三つの郭からは建物跡,土坑,柱穴などが検出されている。特に,土坑は狼煙に関係ある施設と考えられ,本城跡が連絡の城としての機能を有していたことを示している。
出土遺物から,15世紀前半までに築城され,16世紀前半まで存続したと考えられている。
15世紀初頭,この地域を支配した阿曽沼氏は武田氏の勢力下にあり,榎ノ山川を挟んで東広島側は天野氏の所領であり,大内方であったことから,両者の境界である本城跡周辺は境目防備と連絡のために築城されたものとえられる。
その後,両者は大内方につき手を結ぶが,16世紀初めの尼子氏の鏡山城跡攻撃に際して大改修され,現在の構造となったと考えられる。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
城の歴史
本城跡は,既述したように少なくとも15世紀前半から16世紀前半頃まで存続したとみられ,当初は阿曽沼・天野両氏の境目の城であったと考えられる。
一方,阿曽沼・天野両氏は,15世紀中頃には対立関係を解消し,共に大内方国人領主として自己保全を図る。
また,16世紀に入いると安芸国中・北部の国人領主と一揆,軍事的に結束するようになる。このように両氏の関係が密接になるにもかかわらず,両領の境界付近に位置する本城跡が実戦的な改修を受けていることは矛盾するものである。
しかし,この改修が両氏の合意のもとに行われたと考えれば,道理にかなったものとなる。規模や整形の点で傑出した竪堀造は,莫大な労力が注がれたことを窺わせており,同様の築造形態をもつ竪堀群2も考えられよう。
そのような施設を標高300mに近い本城跡に敢えて築かなければならな志芳荘及び世能・荒山荘を巻き込んで起とったとすれば,それは大永3年(1523)の尼子氏による鏡山城政撃しか考えられまい。
大内方に与すると共に一揆契状も取り結んでいた阿曽沼・天野両氏にとって,尼子氏は共通の敵であった。
その尼子氏が毛利氏らを従属させながら東西条に南下してくることは,東西条周辺に所領を威を与えたと推察される。
このため,両氏が結束して尼子氏に対抗することを決めたとし合うことは必定である。こうしたことから,本城跡は境目の城から共闘する領主間の緊重要な役割を担うことになったと考えられる。
南北双方を防禦正面に見たてた非常に阿曽沼・天野両氏の存亡を左右する政治的緊張が生んだ所産と言えよう。
なお,天文22年までに阿曽沼氏が志芳荘の奥屋を所領に加えているが,いつの時点に遡るか不明である。
しかしながら,先の大規模かつ実戦的な改修は,本城跡が阿曽沼・天野両氏の境界付近に位置し続けたからこそ,行なわれたと考えられるべきものである。
それゆえ,改修を大永3年と考えるなら,奥屋の所領化は大永3年から天文22年までの間と考えることが可能になる。
『広島市安芸区瀬野町・中野町所在 三ツ城跡発掘調査報告』から一部抜粋。
所感
●団地造成のために遺構は破壊されているが、現地にいけば比高がわかる。
●一部山肌が見えるところがある、破壊されていると思われるが、逆に急峻なところも確認できる。
●歴史を確認すれば、この城が重要な城だとわかり、阿曽沼氏の本城以外では一番精巧に造られている。
関連URL
参考URL
参考文献
『広島市安芸区瀬野町・中野町所在 三ツ城跡発掘調査報告』
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2024/02/23