目次

中世の小奴可村と小奴可氏

はじめに

 

広島県庄原市東城町小奴可には平安時代末期に平家物語に出てくる奴可入道西寂が亀山城の拠ったことが記載されている。

 

また、戦国時代にはその亀山城を拠点に勢力を張っていた奴可氏や小奴可氏もいたことが確認できる。

 

奴可入道から奴可氏、小奴可氏がどのように関係するのかは不明なところが大きいが、現在の福山市に大勢力があった宮氏との関係も否定できない。

 

この小奴可氏も、同じ宮氏で現在の東城町、西城町に勢力のあった久代宮氏に小奴可の地を奪われて、毛利氏に領土の返還を愁訴している書状もあり、戦国時代の悲哀を感じさせる。

 

最終的には関ケ原の戦いにて毛利氏は萩に移封され小奴可宮氏も萩に移り、名も小奴可氏から宮氏に変え、江戸時代にはその家臣として存続した。

 

ここに、文献等や周りの状況から小奴可氏の行動を詳細に確認して、戦国時代に小奴可氏がどのような過程をたどっていったかを記録したいと思う。

 

第1章 平安時代末期の小奴可村と奴可入道西寂

 

「平家物語」の中に奴可入道西寂が出てくる、事の発端は伊予国の豪族である河野通清が高縄城にて反平氏の兵を挙げて、平氏の勢力を追放し、平氏方の奴可入道西寂がその制圧の為に小奴可から南進して河野通清を討ったが、その後油断して通清の子どもである、通信によって殺されたという。

 

奴可入道西寂が平氏の命令を直接受けて、備後から伊予へ瀬戸内海を越えて侵攻しており、備後国における有力な平氏家人であったことが伺える。

 

具体的な記載として

『平家物語』長門本では

伊像の国の住人河野大夫越智通清こゝろを源氏に通はして、平家を背き、国中を管領し、正税官物を抑留するよし聞えければ、東は美濃の国まで源氏に討とられぬ、西国さへかられば、平家大に驚きさわぎて、阿波民部大輔しげよし、備後国の住人貫賀野入道高信法師に仰せて是を追討せらる、通清いかめしく思ひ立ちけれど力を含するものなければ、俄に高信法師が手にかゝりて討れにけり

とある。

承平五年(935)以前に成立した倭妙抄の中に「奴可郡」がすでに成立しており、この郡名と関係が深いのが「小奴可」であり、江戸時代の地誌である『芸藩通志』の中には小奴可を「郡内第一の広き郷にて、額部(ぬかべ)といへる地名もありければ郡名の原(もと)づく所にて、昔郡庁のありし地なるべし」とみて郡内の要地としている。

 

郡衙所在地だとすれば、このあたりに郡司などの下級官職を与えられた豪族が住み、地位・財力をもって開発をすすめていたのかもしれない、近世になって、山が姿を消すほど砂鉄採取が盛んに行われたので「郡内第一の広き郷」は、中世の姿とはことなるとは思われる。

 

『東城町史 通史編』346頁より

 

しかし、この奴可入道西寂が奴可郡を本貫地として、平氏の武士団として開発領主となり豪族化したものと考えても違和感がない。

 

また、奴可入道西寂の位置づけを平氏軍制における備後の「国奉行人」と考えたい。平氏軍制は内裏大番役を通じて諸国武士を編成していた。諸国には国内武士を動員して反平氏蜂起の鎮圧にあたった。野口実氏がこうした国内武士の統率にあたる有力平氏家人を「国奉行人」として概念化している。

 

『芸備地方史研究280 備後国の平氏家人 奴可入道西寂について 斉藤 拓海』より

 

 

奴可郡は1250年頃には九条家の荘園があったことが確認できるが、いつ頃から荘園として支配していたか不明である、想像になってしまうが、九条家と奴可郡との関わり合いはもう少し遡れるのではないかと思う。

 

『東城町史 資料編』の中に以下の記載がある。

 

一部抜粋

~~小野宮殿日、礼記日、疑勿作、不可賞、九条殿日、可賞之理、直(忠)文怨而飢而死日、小 野宮殿児孫ヲハ、奴子、( ヤツコトナスヘル)九条殿御子孫ヲハ永ク守リトナルヘシト誓而

故二関白アシモツレ、武家トナリ玉フ、今ハ備后ノ宮ト云々、小野宮殿ノ遠孫也、又カノ入道西寂ハ、其先祖ナリ、~~

 

『東城町史 資料編』22頁

 

現代語訳

平将門の乱の恩賞の廟議(びょうぎ)で、小野官殿(藤原実頼)は、征東将軍藤原忠文の功を認めなかった。そのため忠文は怨んで餓死した。忠文の怨霊は小野宮殿にとりつき、その子孫は九条家(実頼の弟の系統、後の摂関家)の「奴子(やっこ)」となり、武家に転身した。これが備後の宮氏である。また、『平家物語』に出てくる奴可入道西寂(ぬかにゅうどうせいじゃく)は宮氏の先祖である…

 

この資料は文明一八年(1486)四月二七日の条である、どのような経緯でこの情報を入手したのかは不明であるが、興味深い内容である。

 

また徳雲寺所蔵の「宮政盛寿像賛写」の中でも宮氏が藤原氏を称していたことが分かる、宮氏の奴可入道西寂の子孫とする説は他には見えないが、ただの噂とは考えにくい。また、宮氏の一系統が「信」を通字としており、平家物語「延慶本」などに見える奴可入道西寂の実名を「高信」との関係を考えることもできる。

 

また、家系図の中では九条家との関係を示唆するものもある。

 

この家系図には奴可入道盛信(法名蓮心)と記載されている。

 

そして家系図を遡ると九条家との繋がりもある。

この家系図では九条実頼が小野宮を号すると記載されており弟の師輔の子孫として奴可入道西寂に続いているが、家系図の誤謬の可能性もある。

 

家系図で記載すると以下のようになる。

注:家系図では義考→行成だが、実際は義考→伊尹→行成となる。

 

仮説として、以下の事が成り立たないか。

●藤原家(九条家)は平安時代に奴可郡に荘園を持っていた可能性がある。

 

●時代が下って貴族に間にも階層が生まれる、上は摂関家、下は地方役人となる

 

●そして、九条家の荘園が奴可東条、西条にありそれを管理する形で小野宮家が領家職として下向してきた。家礼(けれい)として。

 

●その後、開発領主として在地化し苗字も在地名をとり奴可を称してその中に奴可入道西寂がいた。

 

●また、彼らは平氏の「国奉行人」として反平氏蜂起があった場合はその鎮圧を担っていた。

 

●最終的には平氏没落により、奴可郡の支配権を失う事となる。

 

第2章 室町時代の奴可氏について

亀山城の看板に以下の記載がある。

 

この城に関する正確な史料は現存しないが、近世の文献によると、平安時代末期には、奴可入道西寂の居城であったとされ、その後、奴可四郎・奴可源吾・奴可平四郎・飯田新助・亀井武蔵守玆経らが居城したというが明らかでない。

 

この中で奴可四郎・奴可源吾・奴可平四郎らが平安時代にこの地域を支配していた豪族と考えられる。

 

彼らは「太平記」などに若干の記載があり、戦で活躍したことが描かれている、資料もなく奴可入道西寂との関係は不明であるが、縁のある人物だった可能性も否定できない。

 

奴可四郎 

太平記/巻第九に以下の記載がある。

60 足利殿打越大江山事

 

追手の合戦は、今朝辰刻より始まて、馬煙東西に靡き、時の声天地を響かして攻合けれ共、搦手の大将足利殿は、桂河の西の端に下り居て、酒盛してぞおはしける。角て数刻を経て後、大手の合戦に寄手打負て、大将已に被討ぬと告たりければ、足利殿、「さらばいざや山を越ん。」とて、各馬に打乗て、山崎の方を遥の余所に見捨て、丹波路を西へ、篠村を指て馬を早められけり。爰に備前国の住人中吉十郎と、摂津国の住人に奴可四郎とは、両陣の手合に依て搦手の勢の中に在けるが、中吉十郎大江山の麓にて、道より上手に馬を打挙て、奴可四郎を呼のけて云けるは、「心得ぬ様哉、大手の合戦は火を散て、今朝の辰刻より始りたれば、搦手は芝居の長酒盛にてさて休ぬ。結句名越殿被討給ぬと聞へぬれば、丹波路を指して馬を早め給ふは、此人如何様野心を挿給歟と覚るぞ。さらんに於ては、我等何くまでか可相従。いざや是より引返て、六波羅殿に此由を申ん。」と云ければ、奴可四郎、「いしくも宣ひたり。我も事の体怪しくは存じながら、是も又如何なる配立かある覧と、兎角案じける間に、早今日の合戦には迦れぬる事こそ安からね。但此人敵に成給ぬと見ながら、只引返したらんは、余に云甲斐なく覚ゆれば、いざ一矢射て帰らん。」と云侭に、中差取て打番、轟懸てかさへ打て廻さんとしけるを、中吉、「如何なる事ぞ。御辺は物に狂ふか。我等僅に二三十騎にて、あの大勢に懸合て、犬死したらんは本意歟。嗚呼の高名はせぬに不如、唯無事故引返て、後の合戦の為に命を全したらんこそ、忠義を存たる者也けりと、後までの名も留まらんずれ。」と、再往制止ければ、げにもとや思けん、奴可四郎も中吉も、大江山より馬を引返して、六波羅へこそ打帰りけれ。彼等二人馳参て事の由を申ければ、両六波羅は、楯鉾とも被憑たりける名越尾張守は被討ぬ。是ぞ骨肉の如くなれば、さりとも弐はおはせじと、水魚の思を被成つる足利殿さへ、敵に成給ぬれば、憑む木下に雨のたまらぬ心地して、心細きに就ても、今まで着纒ひたる兵共も、又さこそはあらめと、心の被置ぬ人もなし。

 

鎌倉殿より奴可郡司に補せられ、後、摂州に移る。

元弘三年(1333)、京都の敵を退治の為、北條の催促によって足利殿上洛ありて赤松に向う。

 

時に六波羅より目代として奴可四郎、中吉十郎を添られる。

 

足利殿官軍に属し山崎に軍立せず、随将士卒を引具して大江山を越る。

 

奴可、中吉、謀叛を察し、両勢引別れ六波羅に帰りつく。

 

六波羅没落し関東へ落行、路、江州番場にて越後守仲時自害の時、殉死せり。

 

『西備名区 巻六十』より

 

注:元弘三年(元弘の変)

越後守仲時=北條仲時

江州番場=江州番場峠(現在の滋賀県米原市)

 

 

このことから奴可四郎は鎌倉時代末期に奴可郡司に任じられており、後に摂津国に移動。

北条家の指示で六波羅探題辺りにいたが、足利尊氏の謀反で関東に逃げる途中に北條仲時自刃にて殉死する、北條仲時は摂津守護の職にあったため、摂津国の武士は戦で仲時の指揮下に入ることが義務付けられていた。

 

しかし、六波羅探題は敗北的となっておりほとんどの武士は従わなかったがこの奴可四郎に関しては最後まで従った模様。

 

 

奴可源吾

太平記/巻第二十八に以下の記載がある。

237 三角入道謀叛事

 

爰石見国の住人、三角入道、兵衛佐直冬の随下知、国中を打順へ、庄園を掠領し、逆威を恣にすと聞へければ、事の大に成ぬ前に退治すべしとて、越前守師泰六月二十日都を立て、路次の軍勢を卒し石見国へ発向す。七月二十七日の暮程に江河へ打臨み、遥敵陣を見渡せば、是ぞ聞ゆる佐和善四郎が楯篭たる城よと覚て、青杉・丸屋・鼓崎とて、間四五町を隔たる城三つ、三壷の如峙て麓に大河流たり。城より下向ふたる敵三百余騎、河より向に扣てこゝを渡せやとぞ招たる。寄手二万余騎、皆河端に打臨で、何くか渡さましと見るに、深山の雲を分て流出たる河なれば、松栢影を浸して、青山も如動、石岩流を徹て、白雪の翻へるに相似たり。「案内も知ぬ立河を、早りの侭に渡し懸て、水に溺て亡びなば、猛く共何の益かあらん。日已に晩に及ぬ。夜に入らば水練の者共を数た入て、瀬踏を能々せさせて後、明日可渡。」と評定有て馬を扣へたる処に、森小太郎・高橋九郎左衛門、三百余騎にて一陣に進だりけるが申けるは、「足利又太郎が治承に宇治河を渡し、柴田橘六が承久に供御の瀬を渡したりしも、何れか瀬踏をせさせて候し。思ふに是が渡りにてあればこそ、渡さん所を防んとて敵は向に扣へたるらめ。此河の案内者我に勝たる人不可有。つゞけや殿原。」とて、只二騎真先に進で渡せば、二人が郎等三百余騎、三吉の一族二百余騎、一度に颯と馬を打入て、弓の本弭末弭取違疋馬に流をせき上て、向の岸へぞ懸襄たる。善四郎が兵暫支て戦けるが、散々に懸立られて後なる城へ引退く。寄手弥勝に乗て続て城へ蒐入んとす。三の城より木戸を開て、同時に打出て、前後左右より取篭て散々に射る。森・高橋・三吉が兵百余人、痛手を負、石弓に被打、進兼たるを見て、越後守、「三吉討すな、あれつゞけ。」と被下知ければ、山口七郎左衛門、赤旗・小旗・大旗の一揆、千余騎抜連て懸る。荒手の大勢に攻立られて、敵皆城中へ引入れば、寄手皆逆木の際まで攻寄て、掻楯かひてぞ居たりける。手合の合戦に打勝て、敵を城へは追篭たれ共、城の構密しく岸高く切立たれば、可打入便もなく、可攻落様もなし。只徒に屏を隔て掻楯をさかうて、矢軍に日をぞ送ける。或時寄手の三吉一揆の中に、日来より手柄を顕したる兵共三四人寄合て評定しけるは、「城の体を見るに如今責ば、御方は兵粮につまりて不怺共、敵の軍に負て落る事は不可有。其上備中・備後・安芸・周防の間に、兵衛佐殿に心を通する者多しと聞ゆれば、後に敵の出来らんずる事無疑。前には数十箇所の城を一も落さで、後ろには又敵道を塞ぬと聞なば、何なる樊■・張良ともいへ、片時も不可怺。いざや事の難儀に成ぬ前に、此城を夜討に落して、敵に気を失はせ、宰相殿に力を付進せん。」と申ければ、「此義尤可然。されば手柄の者共を集よ。」とて、六千余騎の兵の中より、世に勝たる剛の者をえり出すに、足立五郎左衛門・子息又五郎・杉田弾正左衛門尉・後藤左衛門蔵人種則・同兵庫允泰則・熊井五郎左衛門尉政成・山口新左衛門尉・城所藤五・村上新三郎・同弥二郎・神田八郎・奴可源五・小原平四郎・織田小次郎・井上源四郎・瓜生源左衛門・富田孫四郎・大庭孫三郎・山田又次郎・甕次郎左衛門・那珂彦五郎、二十七人をぞすぐりたる。是等は皆一騎当千の兵にて、心きゝ夜討に馴たる者共也とは云ながら、敵千余人篭て用心密しき城共を、可落とは不見ける。八月二十五日の宵の間に、えい声を出して、先立人を待調へさせ筒の火を見せて、さがる勢を進ませて、城の後なる自深山匐々忍寄て、薄・苅萱・篠竹なんどを切て、鎧のさね頭・冑の鉢付の板にひしと差て、探竿影草に身を隠し、鼓が崎の切岸の下、岩尾の陰にぞ臥たりける。かるも掻たる臥猪、朽木のうつぼなる荒熊共、人影に驚て、城の前なる篠原を、二三十つれてぞ落たりける。城中の兵共始は夜討の入よと心得て、櫓々に兵共弦音して、抛続松屏より外へ投出々々、静返て見けるが、「夜討にては無て後ろの山より熊の落て通りけるぞ、止よ殿原。」と呼はりければ、我先に射て取らんと、弓押張靭掻著々々、三百余騎の兵共、落行熊の迹を追て、遥なる麓へ下ければ、城に残る兵纔に五十余人に成にけり。夜は既に明ぬ。木戸は皆開たり。なじかは少しも可議擬、二十七人の者共、打物の鞘を迦して打入。城の本人佐和善四郎並郎等三人、腹巻取て肩に投懸、城戸口に下合て、一足も不引戦けるが、善四郎膝口切れて犬居に伏せば、郎等三人前に立塞ぎ暫し支て討死す。其間に善四郎は己が役所に走入、火を懸て腹掻切て死にけり。其外四十余人有ける者共は、一防も不防青杉の城へ落て行。熊狩しつる兵共は熊をも不追迹へも不帰、散々に成てぞ落行ける。憑切たる鼓崎の城を被落のみならず、善四郎忽討れにければ、残二の城も皆一日有て落にけり。兵、伏野飛雁乱行と云、兵書の詞を知ましかば、熊故に城をば落されじと、世の嘲に成にけり。其後越後守、石見勢を相順て国中へ打出たるに、責られては落得じとや思けん、石見国中に、三十二箇所有ける城共、皆聞落して、今は只三角入道が篭たる三隅城一ぞ残ける。此城山嶮く用心深ければ、縦力責に攻る事こそ不叶共、扶の兵も近国になし、知行の所領も無ければ、何までか怺て城にもたまるべき。只四方の峯々に向城を取て、二年三年にも攻落せとて、寄手の構密しければ、城内の兵気たゆみて、無憑方ぞ覚ける

 

 

観応元年(1350)石州の三隅入道、足利直冬朝臣に従い三隅城に籠城す。

 

足利将軍尊氏卿より退治すべしと、高越後守師泰を大将として中国の勢 師泰が令に従うべき旨命せられる。

 

師泰、石州に発向して中国の勢を招き、先、佐波善四郎が青杉、丸屋、鼓が崎の三城を攻む。

 

時に三吉一揆の選兵二十七人を以って鼓が崎の城を落とす。その一人なり。

 

『西備名区 巻六十』より

 

注:観応元年(観応の擾乱)

石州=石見国(島根県)

三隅入道=三隅氏

足利直冬(足利尊氏の庶子で叔父の足利直義の養子となる)

佐波善四郎(佐波顕連) 南朝の臣 高師泰に攻められ死亡

 

 

上記の内容から、奴可源吾は奴可四郎と親子関係かそれに近い人物と考えられる、奴可四郎は鎌倉幕府滅亡の時に殉死したが、奴可源吾は南朝である足利直冬に従い各地を転戦する。

 

その中で、三隅氏の居城である三隅城に立て籠る。

 

南北朝時代に三隅氏はいち早く後醍醐天皇のもとに馳せ参じ、南朝方として各地を転戦する。

 

暦応5年・興国3年(1342年)には北朝方の上野頼兼が諸城を落として三隅城へと攻め寄せたが、これを撃退。さらに観応元年・正平5年(1350年)高師泰が大軍を率いて石見国の諸城を落とし三隅城を包囲する。

 

しかし、これも落城するには至らず、翌年には包囲を解いて引き上げた。

 

 

奴可源吾の南朝への帰順

奴可源吾が何故南朝に帰順したかは不明であるが、備南に勢力があった宮盛重が南朝方であった為、それに従ったものと考えられる、『東城町史 通史編』に以下の記載がある。

 

奴可東条(荘園)や町城の各地でも、農民の成長、備南宮氏をはじめ諸勢力の侵入があったであろう。

 

観応元年足利直冬が挙兵し、尊氏と戦いはじめた際、備後南部の宮盛重は直冬川南朝方であった。

 

このころ、盛重が宮氏の善提寺中與寺(芦品郡新市町)へ東条宇計原(東城町受原)を寄進したのは、戦勝祈願にかかわるものとおもわれる。盛重の子師盛も文和四年(一三五五)宇計原、「西条森」(東城町森か)、戸宇郷(東城町戸宇)および山野村(福山市)を中興寺領として安堵した。

 

これらの文書は、中興寺に原文書が現存しないため『西備名区』(一八〇四年成立)によっており、検討の余地も残されるが、一応これに頼ってみよう。

 

宮氏は前記各所からの収益 を寄進したものとおもわれ、宮氏の支配が町域に及んでいたことがわかる。

 

『東城町史 通史編』369~370頁

 

上記の理由として南朝に与したと思われるが、それは主家である宮下野守家の意向に沿ったものだと考えられる。

奴可平四郎

明徳二年(1392)山名陸奥守氏清、謀叛の時、大内介義弘に従い、山名が家長、小林修理亮の軍を破る、その一人なり

注:明徳二年(明徳の乱)

 

『西備名区 巻六十』より

 

明徳の乱の時に大内義弘に従い山名氏清の家臣である小林修理亮(小林義繁)の軍を破る一人として数えられる、その後大内義弘が応永の乱で足利義満に謀反を起こして最終的には討死する。奴可半四郎がその時大内義弘に付き従ったのか、距離を置いたのかは不明。

明徳記で大内義弘が小林修理亮を打ち倒す場面。

 

第3章 戦国時代の小奴可氏について

戦国時代には小奴可宮氏が活躍する、南北朝時代から室町時代前半に活躍した奴可氏(四郎、源吾、半四郎)との関係は不明。

 

福山市新市周辺に勢力を持っていた宮下野守家がこの地域に勢力を持っていたことから、その一族ではないかと思われる小奴可氏が小奴可地方に勢力を扶植していた可能性もある。

 

『東城町史 通史編』には以下の記載がある。

 

宮氏の出自には不明な点が多いが、藤原氏とされ、有職故実の家として知られる小野宮家の裔と称している。

 

宮氏信の系統を引く上野介家が南部で発展し、宮盛重の系統をひく下野守家が惣領家で、新市の亀寿山城を拠点とし、備北へも早くから勢力をのばしていたといわれる『広島県史 中世』

 

宮氏の奴可郡道出

一四世紀半ばになると、下野守家宮氏は奴可郡に所領(宇計原・戸字・森)をもち、吉備津神社(芦品郡新市町)の別当寺である中興寺(同町)に、これらを寄進した。宮氏出身といわれる桜山茲俊を支援した武士たちも、さまざまな立場で吉備津神社とつながりがあり、宮氏の勢力圏拡大は、同社の信仰圏のひろがりと結びついているようにおもわれる。

 

すでに一一世紀から一二世紀ごろ、全国各地で「国衙や一宮に結集することによって領域的な百姓支配を進めていく在地領主層と、それに対抗して産土神に結集しつつ、これを中央権門寺社の末社に位置づけ自らは権門の散在神人・寄人の 身分を獲得していく上層農民の動き」が見られたといわれるが、吉備津神社の別当寺、中興寺へ奴可郡の地を寄進することで、備後一宮への信仰は備北へも広がっていったであろう。

 

それは、宮氏が住民の精神生活に接近することでもある。

 

備南宮氏は、神社のみならず寺院も保護し、宮下野守満重は貞治六年(一三六七)千手寺の仏殿堂舎を改築し、中興開基とされたという。

 

さらに、下野守家宮氏は東条の堪料 (検注免除の雑税)徴収を請負っており、奴可郡への勢力伸張ぶりがうかがわれる。

 

『東城町史 通史編』378~379頁

 

永正十八年(一五二一)春、小奴可宮氏は備南宮氏に従い品治郡柏村(芦品郡新市町下安井)の合戦に出陣した、小奴可宮氏が備南宮氏の威勢を背にして備北に根をはっていたようすがみられる。

 

「譜録」では、小奴可宮氏の系図は天文三年(一五三四)に死去した定実(又次郎、下野守)からはじまり、 「従是以前之世代不祥(詳)」とし「始宮、後小奴可」とある。また、備南の宮氏と同じく「姓ハ藤原華族小野宮末裔」としているから、その一族であろう。

 

小奴可宮氏家系図

 

小奴可宮氏は『萩藩閥閲録』に古文書があり詳細が分かるため、まずは、その資料を載せて説明を行う。

 

 

第4章 『萩藩閥閲録』における小奴可氏

年代ごとに記載いく。

 

1 文章番号17 永正18年(1521)4月10日付

宮政盛→小奴哥亦次郎(小奴可定実)

これは、いわゆる「感状」と言われるもの。

永正18年4月9日に柏村で合戦があり、その際。「小奴哥亦次郎」が活躍、

武功を立てて宮政盛からお褒め頂いたということだと思う。

 

【原文】

四月九日於柏村固口被及合戦、太刀打之條高名之段無比類候、

弥可被抽戦功者也、仍状如件

永正十八四月十日   政盛

小怒哥亦次郎殿

 

【書き下し文】

四月九日 柏村固口に於いて合戦に及ばれ、太刀打ちの条 高名の段比類無く候、弥々(いよいよ)戦功を抽(ぬき)んぜらるべきものなり、仍て(よって)状 件の如し(くだんのごとし)

 

【現代語訳】

四月九日 柏村固口(虎口=城郭の出入口のことか)において合戦に及ばれ、太刀をもって打ち合われたことは、高名(武功) 比類なきものである。いよいよ戦功を立てるよう励むべきである。よってこのように書状をしたためるものである。

 

 

2 文章番号16 永正18年(1521)4月10日付

宮親忠→小奴哥亦次郎

前項と同じだが、政盛の息子「親忠」からも同様にお褒め頂いている。

この「感状」は武士にとっては、とても名誉なこと。

 

【原文】

昨日四月九日於柏村表合戦、被打太刀之条粉骨無比類候、弥被抽忠節者可為

神妙者也、仍状如件

永正十八四月十日   親忠

小怒哥亦次郎殿  進之候

 

【書き下し文】

昨日九日 柏村表の合戦に於いて、太刀を打たるるの条 粉骨比類無く候、弥々(いよいよ)忠節を抽(ぬき)んぜらるれば 神妙たるべきものなり。仍て(よって)状 件の如し(くだんのごとし)

※宛名の後にある「進之候」は、「之を進らせ候(これをまいらせそうろう)」と読みます。

 

【現代語訳】

昨日九日 柏村表の合戦において、太刀をもって打ち合われたことは、粉骨比類ないものである。いよいよ忠節を尽くされれば神妙である。よってこのように書状をしたためるものである。

 

注:このころの出来事

1534年:小奴可定実が毛利元就に攻められ病没

1536年:宮盛常が生まれる

1537年:策雲(竹英)が毛利元就の長男隆元を人質として大内義隆に差し出した際、従者として加えられている。

1553年10月:宮隆盛討死(旗返城の戦い)

 

 

8 文章番号1  天文22年(1553)11月1日付

毛利元就→策雲

久代当主宮景盛に懇望し久代には一万二千貫を返納させて、

千二百貫ばかりにして貰いたいとの申し入れに、元就より異議なしとの返事を貰っている

 

【原文】

尚々いたはり干今少も不止候、書状なとも忘却之躰候

就民太(宮盛常)御進退之儀蒙仰候、誠尤至極無余偽候、久代なと

如此之刻不紛事候、然處無其儀候間、於我等者一圓御言もなく候までにて候

就其只今被仰聞之旨無余儀候 於心中聊無疎儀候、陣中にも被仰起候

度々御存分無余儀事候 猶委細勝(渡辺)可申上候 恐惶謹言

 

(天文22年)霜月一日

(興禅寺策雲竹英)策雲 尊答

元就 判

 

【盛常の孫・元常の注記】

此御書者久代(宮景盛)御當家様へ御懇望仕度と申由及承、

左様御座候は御約束之本領壱萬弐千貫ヲ返被下、久代には久代(備後)之本地

千二百貫計被遣被下候様こと申上候時被仰下御書也

 

 

【書き下し文】

(尚々書=追伸)尚々 いたはり今に少しも止まず候、書状なども忘却の躰(てい)に候(くりかえし)

民太御進退の儀に就いて仰せを蒙り候、誠に尤(もっと)も至極 余儀無く候、久代など此(か)くの如きの刻(とき)紛れざる事に候、然る処(しかるところ)其の儀無く候間、我等に於いては一円御言もなく候までにて候、其れに就いて只今仰せ聞かさるるの旨 余儀無く候(くりかえし)、心中に於いて聊(いささ)疎儀無く候、陣中にも仰せ越され候、度々御存分 余儀無き事に候(くりかえし)、猶 委細 勝申し上ぐべく候、恐惶謹言

 

【盛常の孫・元常の注記】

此の御書は久代御当家様え(へ)御懇望仕(つかまつ)り度きと申す由 承り及ぶ、左様御座候はば御約束の本領壱万弐千貫を返し下され、久代には久代の本地千二百貫計り遣され下され候様にと申し上げ候時 仰せ下さるる御書なり

 

【現代語訳】

尚々(追伸) 痛み(?)が今もって少しもやまず、書状なども忘れていたほどです

民太(宮盛常)の御処遇のことについて(策雲の)仰せを承りました。誠にもっとも至極でやむを得ないことです。久代などはこのような時に紛れもないことです(この部分意味不明)。しかし、そういったことがなかったので、我らにおいては全く申し上げなかったまでのことです。そのことについて、只今(策雲から)仰せ聞かされたことは全くもっともなことです。心中においていささかも疎略に思ってはおりません。陣中にも仰せ越され、度々御存分をお聞きしましたが、もっともなことです。なお、委細は(渡辺)勝から申し上げます。恐惶謹言。

 

(注記)

この御書は、久代御当家(宮景盛)へ懇望したいと申した時のものと聞いている。そうすれば、御約束の本領12,000貫をお返し下され、久代には久代の本地1,200貫ばかりを遣わしてほしいと申し上げた時に、(元就から)仰せ下された御書である。

 

【説明】

小奴可宮氏が返してほしいと要求しているのは(「久代の本地」以外の)12,000貫の本領であり、久代宮氏には「久代の本地」の1,200貫だけを与えればよいと言っているのだと思います(減らしてほしいと言っているのではありません)。

 

 

3 文章番号21 天文22年(1553)12月23日付

大内晴英→宮盛常(17歳)

宮盛常が大内晴英(大内家当主)に、家督のお祝いとして太刀を送り、そのお返しとして

同様に太刀を遣わすとの内容。

晴英は、青景隆著を使者に遣わしているようだ。

晴英はこの文章の翌月、将軍足利義輝から「義」の字をもらい、大内義長と改名しているようだ。大内義隆を討った、陶晴賢の傀儡といわれていた。

合戦の前年に、相手方に家督のお祝いを贈っているというのが、何か変な感じがする。

もともと隆盛の叔父策雲(竹英)が毛利隆元の従者として、大内に行っていますので、この時点では、まだ、尼子軍には参戦していなかったということか?

 

【原文】

為家督之儀、太刀一腰到来喜悦候、仍同一腰進之候、猶青景越後守可申候 恐々謹言

(天文二十二)十二月二十三日

宮民部(盛常)大輔殿

(大内義長)

晴英判

 

 

【書き下し文】

家督の儀として、太刀一腰到来 喜悦候、仍て(よって)同じく一腰 之を進(まい)らせ候、猶(なお)青景越後守申すべく候、恐々謹言

 

【現代語訳】

家督の祝儀として、太刀一腰が到来し、まことに喜ばしく思っている。よって同じく太刀一腰を進呈する。なお(詳しくは)青景越後守が申すであろう。恐々謹言。

 

疑問1

まず、盛常の父、小奴哥隆盛が、泉合戦(旗返しの戦い)で戦死したのがこの文章が書かれたと考えられている。

天文21年の翌年、天文22年(1553)といわれている。

大内軍(大内氏、毛利氏)VS尼子軍(尼子氏、江田氏、小奴可氏)の構図であると思われるが、前の年までは江田氏は大内の旗下にいたと思われる、戦国時代の習わしとして何らかの理由で大内から尼子になびいたと思われる。

 

疑問2

大内晴英から宮盛常(16歳)に送ったということは天文21年当時すでに当主は小奴可隆盛から息子の宮盛常に家督相続していたのか?

なぜ若くして家督相続しているのか?

 

→この書状が、本当に天文21年のものなのか、再検討する余地があると思います。閥閲録のカッコ書きの年代比定は間違っていることもあります。この書状は、恐らく天文22年のものではないか。

 

4 文章番号22 天文22年(1553)年12月23日付

陶晴賢→宮盛常

宮盛常が、陶晴賢に嘆願したことについての返事

山口(周防)へは伝えたが、詳しくは、興禅寺策雲竹英から説明させよということだと思います。何を嘆願したのか?「本領の内、久代の地のことか?」

 

【原文】

預御音問候、令被閲候、仍御愁訴之趣、至山口令被露、

委細直被申候、巨細猶西堂(興禅寺策雲竹英)可有御演説候、次太刀一腰送給候

誠畏入候、何様自是可申述之条、先省略候、恐々謹言

 

(天文二十二)十二月二十三日

宮民部大輔殿 後返報

(陶)晴賢 判

【書き下し文】

御音問(ごいんもん)に預かり候。披閲せしめ候。仍て(よって)御愁訴の趣、山口に至り披露せしめ、委細直ちに申され候、巨細(こさい)猶(なお)西堂御演説有るべく候、次いで太刀一腰送り給い候、誠に畏れ入り候、何様(いかよう)是より申し述ぶるべきの条、先ず省略候、恐々謹言

 

 

【現代語訳】

お手紙をいただき、拝見しました。よって、御愁訴の趣旨を山口に披露したところ、(大内氏から)直ちに詳しい指示がありました。詳細については西堂(興禅寺策雲竹英)がお話になるでしょう。また、太刀一腰をお送りいただき、誠に畏れ入ります。詳しいことはこれから申し述べますので、(この手紙では)まず省略します。恐々謹言。

 

 

疑問1

「本領の内、久代の地が」大内氏の預かりとなったのが、隆盛戦死の後、天文22年で間違いないのなら、この史料の()書きの年号、天文21というのは検討の対象となる。

 

 

疑問2

逆にこの史料の年号が間違い無いというのであれば、「本領の内、久代の地」が大内氏の預かりとなった年代は、隆盛が戦死したからではなく別の理由があったのかもしれない。

 

→やはり、この史料の年代比定に再検討の余地があると思われる。天文22年のものではないかと推測。

 

5 文章番号24 天文23年(1554)カ2月26日付

河屋隆通→宮盛常

年初の挨拶(年賀状)と先代からの佐東表(安芸)の土地については策雲に申し入れよと言っている。

河屋隆通(かわや たかみち)

大内家臣。大内家滅亡後、大庭賢兼・波多野(吉見)興滋・仁保隆慰らと共に、山口奉行の補佐を務める。

 

【原文】

誠今年之嘉祝雖事旧様候、迫日珍重々々、不可有休期候

次就於佐東(安芸)表先代被成御合力候代所之儀、當時無便宜之在所候

連々策雲(興禅寺)可申談之由隆著(青景)被申事候

於某亦不可存余儀候、委細西堂可被仰入候条

不及紙上候、仍五明令排受之候、毎々御懇意畏入候

諸慶期後音候間令省略候、恐々謹言

 

(天文二十三)二月二六日

宮民部(宮盛常) 参 貴報

(河屋)隆通 判

 

【書き下し文】

誠に今年の嘉祝 事(こと)旧様に候と雖(いえど)も、追日(ついじつ)珍重々々、休期(きゅうご)有るべからず候、次いで佐東表に於いて先代御合力成され候代所の儀に就いて、当時便宜の在所無く候、連々策雲申し談ずるべきの由 隆著申さるる事に候、某(それがし)に於いても亦(また)余儀に存ずべからず候、委細 西堂仰せ入らるべく候条、紙上に及ばず候、仍て(よって)五明(ごみょう)之(これ)を拝受せしめ候、毎々御懇意 畏れ入り候、諸慶 後音(こういん)を期し候間、省略せしめ候、恐々謹言

 

※この史料は、天文22年ではなく、天文23年のものではないかと思われる。

 

【現代語訳】

まことに今年(年頭)のお祝いは、古い様式ではあるけれども、日増しにめでたいことで、やむことがないものです。さて、佐東表において先代(宮隆盛)がお力添えいただいた(恩賞の)代所のことについて、現在はちょうどいい在所がないので、引き続いて策雲に相談するようにと、(青景)隆著が申されたということです。私においてもまた、もっともなことだと思っています。委細は、西堂(策雲)が仰せになるのでこの紙面には記しません。また、五明(結構なもの?)を拝受しました。いつも御懇意をいただき畏れ入ります。その他諸々のことはまたの手紙にしたいと思いますので省略します。恐々謹言。

 

 

6 文章番号23 天文23年(1554)3月8日付

陶晴賢→宮盛常(17歳)18歳カ

陶晴賢に太刀を送り、お返しとして、祝いとして太刀を頂いている。

願い事は、なおざりにはしない、詳しくは策雲に相談せよ。

このことは、とても利のあることだ。

 

【原文】

為當年之儀、太刀一腰送給候、欣悦候、同一振進候、表祝儀計候

仍御愁訴次第連々可申談候、盡身更不可有御等閑候、委細興禅寺(策雲)

可有演説候、就中此表事大利に候、可御心安候、恐々謹言

 

(天文二十三年)三月八日

宮民部大輔殿(宮盛常) 御報

(陶)晴賢 判

【書き下し文】

当年の儀として、太刀一腰送り給い候、欣悦候、同じく一振進(まい)らせ候、祝儀を表す計りに候、仍て(よって)御愁訴の次第 連々申し談ずべく候、身を尽くし更に御等閑有るべからず候、委細 興禅寺演説有るべく候、就中(なかんづく)此の表の事 大利に候、御心安かるべく候、恐々謹言

 

※この史料も、天文22年ではなく、天文23年のものではないかと推測します。

※史料後半は、「(宮盛常が)訴えていることについては引き続き相談したいと思っている。(盛常が陶氏のために)身を尽くし、更になおざりなことがあってはならない。詳しいことは、興禅寺から話があるだろう。特にこの表(陶氏がいる場所)の事は、(陶氏に)有利な状況であるので、安心してほしい」という意味だと思います。

 

【現代語訳】

当年の祝儀として、太刀一腰をお送りいただき、喜んでいる。同じく(太刀)一振を進呈する。これは祝儀を表すばかりのものである。さて、御愁訴の次第は、引き続き相談しよう。身を尽くし更になおざりなことがあってはならない。委細は、興禅寺から話があるだとう。特にこの表の事は有利な状況であるので、安心してほしい。恐々謹言。

 

7 文章番号3  天文23年(1554)5月12日付

毛利隆元→策雲

毛利隆元が、下野守隆盛討ち死にに際し、失った土地はそのうち返されるもので安心しなさいと、宮盛常の叔父策雲に伝えている。

 

【原文】

尊書令拝見候、誠先日は御登城恐悦候、其以後我等こそ無沙汰申候

出張之内何とそ得閑暇候はば卒度可令参上候、条々御懇意乍不始本望候

随って久代(備後)表之儀如仰懇望之儀共候つる

雖然山内(隆通)へ種々存分共候間相滞候、可有御推量候、

就其民太(宮盛常)御進退之事蒙仰候、是亦令承知候、

愚父申談不可存疎意候、猶自是可令啓候間不能詳候  恐惶頓首

 

(天文二十三年)五月十二日

策雲 足下 喜報

隆元 御判

 

 

【盛常の孫・元常の注記】

此御書は尼子伊予守(晴久)備後表切入、江田(隆連)の旗返迄取詰申時

宮下野守(隆盛)亀奇山之台にて切死仕御用ニ立、

倅家を失申候ニ付時節を待候へ、何も御切返被成、本領返可被下之由、祖父民部

大輔(盛常)ニ仰下御書也

 

 

【書き下し文】

尊書拝見せしめ候、誠に先日は御登城 恐悦に候、其れ以後我等こそ無沙汰申し候、出張の内 何とぞ閑暇を得(え)候はば、卒度(そっと)参上せしむべく候、条々御懇意 始めならず乍(なが)ら本望に候、随って久代表の儀、仰せの如く懇望の儀ども候いつる、然りと雖(いえど)も山内え(へ)種々存分ども候間 相滞(あいとどこお)り候、御推量有るべく候、其れに就いて民太御進退の事 仰せを蒙(こうむ)り候、是亦(これまた)承知せしめ候、愚父申し談じ 疎意に存ずべからず候、猶 是より啓せしめ候間 詳らか能(あた)わず候、恐惶頓首

 

※この史料は、天文23年のものと推測。

 

【盛常の孫・元常の注記】

此の御書は 尼子伊予守備後表より切り入り、江田のはた返迄取り詰め申す時 宮下野守 亀奇山の台にて切り死に仕(つかまつ)り 御用に立ち、悴家(かせいえ)を失い申し候に付き 時節を待ち候へ、何も御切り返し成され、本領返し下さるべきの由、祖父民部大輔に仰せ下さる御書なり

 

【現代語訳】

尊書を拝見しました。誠に先日は御登城いただき、 恐悦に思っています。それ以後、我等こそ無沙汰を申しています。出張の間、どうにか暇が得られたら、そっと参上するつもりです。いろいろと御懇意をいただき、いつものことながら本望に思っています。さて、久代表のことは、仰せの如く(宮氏から)懇望のことなどがあります。しかし山内氏にいろいろと存分などがあるので、滞っています。御推量ください。そのことに関して、民太(宮盛常)の御進退についての仰せを承りました。これもまた承知しました。愚父(元就)と相談し、疎略にはしないつもりです。なお、この使者から申し上げさせますので、詳しくは書きません。恐惶頓首

 

(注記)

この御書は、尼子伊予守(晴久)が備後表より切り入り、江田氏の旗返城まで攻め込んできた時、宮下野守(隆盛)が亀奇山の台で切り死にして御役に立ち、わが家を失ったので、時節を待ちなさい、いずれ切り返して本領を返し下さるということを、祖父民部大輔(盛常)に仰せくだされた御書である。

 

 

9 文章番号2  天文22年(1553)12月26日付

毛利元就、隆元→策雲

元就、隆元親子から、そのうち本領安堵になるであろうとの沙汰

 

【原文】

就民武(宮盛常)大輔殿御進退之儀、以此者蒙仰候、度々如申候

於我等父子雖不存御等閑候、弓矢之姿候条御分別候様可被仰候

何様以時分可申沙汰候、其内便宜之地御尋、合力可申候

不可有油断候、猶口上申候、恐惶謹言

(天文二十三年)十二月二十六日

隆元 判

元就 判

策雲 参 足下

(注記)

此御書は倅家之本領多分久代致所持、御當家様に御敵仕候時

隆元様は備後之御調ニ被成御在陣候時、祖父民部書状を上候其時被下御書也

 

【書き下し文】

民部大輔殿御進退の儀に就いて、此の者を以て仰せを蒙(こうむ)り候、度々申し候如く、我等父子に於いて御等閑に存ぜず候と雖(いえど)も、弓矢の姿に候条 御分別候様 仰せらるべく候、何様(いかよう)時分を以て沙汰申すべく候、其の内便宜の地 御尋ね、合力申すべく候、油断有るべからず候、猶口上にて申し候、恐惶謹言

 

【盛常の孫・元常の注記】

此の御書は悴家(かせいえ)の本領 多分久代所持致し、御当家様え御敵仕り候時 隆元様は備後の御調に御在陣成され候時、祖父民部書状を上げ候 其の時下さるる御書なり

 

【現代語訳】

民部大輔殿(宮盛常)の御進退のことについて、この使者をもって仰せを承りました。度々申しているように、我ら父子においてはなおざりには思っていませんが、戦のさなかなので御分別されるように、おっしゃってください。いずれ時を待って沙汰するつもりです。そのうち、便宜の地を探して力添えをするつもりなので、油断ないようにしてください。なお、(使者から)口上にて申し上げます。恐惶謹言

 

(注記)

この御書は、わが家の本領をおそらく久代宮氏が所持いたし、御当家様(毛利家)に敵対した時、隆元様は備後の御調に御在陣されていた時、祖父民部が書状を差し上げ、その時に下された御書である。

 

 

10 文章番号4 天文23年(1554)6月4日付

毛利隆元→宮盛常(18歳)

国司就信から沙汰する

 

【原文】

御状祝着候、此表之儀敵城数ヶ所落去候、即至温井(安芸)陣取候

不日可有一途候間可御心安候、随って久代方於自然懇望は御進退之事蒙仰候

愚父令相談不可有余儀候、尚国雅(国司就信)可申候、恐々謹言

(天文二十三年)六月四日

隆元 御判

民部(宮盛常)大輔殿 御返報

【書き下し文】

御状祝着に候、此の表の儀 敵城数ヶ所落去(らっきょ)候、則ち温井に至り陣取り候、不日一途有るべく候間 御心安かるべく候、随って久代方自然懇望に於いては 御進退の事仰せを蒙り候、愚父相談せしめ余儀有るべからず候、尚 国雅申すべく候、恐々謹言

 

【現代語訳】

御書状をいただき、祝着です。この表の状況は、敵城数ヶ所が落ち、温井に陣を取りました。すぐに決着が着くでしょうから御安心ください。したがって、久代方の懇望においては、(貴殿の)御進退の事について仰せを承りました。愚父と相談し、なおざりにしないようにします。なお、(詳細は)国雅(国司就信)が申すでしょう。恐々謹言。

 

1558年:宮盛慶が生まれる

 

11 文章番号18 永禄3(1560)2月20日付

足利義輝→宮盛常(24歳)

足利義輝より下野守授けられる。

上野信孝が伝える

 

 

【原文】

受領可任下野守儀可然候、為其染筆候、猶信孝(上野)可申候也

(永禄三年)二月二十日

(足利)義輝公 御判

宮民部(盛常)大輔とのへ

 

【書き下し文】

受領 下野守に任ずべき儀 然るべく候、其の為 筆を染め候、猶 信孝申すべく候なり

 

【現代語訳】

受領名 下野守に任ずることは、然るべきである。そのため、一筆をしたためる。なお、上野信孝が申すであろう。

 

12 文章番号19 永禄3年(1560)8月8日付

上野信孝→宮盛常(24歳)

前項御礼として、太刀一振り、銭百疋を差し出したことについての御礼

 

【原文】

為御受領之御礼、御太刀一腰・鷲眼百疋御進上之旨、即令披露候

被喜思召之由候、仍被成御内書候、尤御面目之至候

猶得其意可申之旨被仰出候、恐々謹言

(永禄三年)八月八日

(上野)信孝 判

宮下野守(盛常)殿

 

【書き下し文】

御受領の御礼として、御太刀一腰・鵞眼百疋御進上の旨、則ち披露せしめ候、喜び思し召さるるの由に候、仍て(よって)御内書を成され候、尤(もっと)も御面目の至りに候、猶 其の意を得申すべきの旨仰せ出だされ候、恐々謹言

 

【現代語訳】

御受領の御礼として、御太刀一腰、銭百疋を御進上される旨を、ただちに(将軍義輝に)披露しました。喜んでおられるということです。よって、御内書をしたためられました。もっとも御面目の至りです。なお、その意を汲み取るようにと仰せ出だされました。恐々謹言。

 

13 文章番号20 永禄3年(1560)8月8日付

上野信孝→宮盛常(24歳)

信孝へも百疋差し上げたことへの御礼

国清寺恵心から話があると思う(なんの話?)

 

【原文】

就御受領之儀、被成御内書候、誠御眉目之至目出存候、仍為御礼

御太刀一腰百疋御進上之旨令披露候、珍重候次仕え百疋送給候、御懇音祝着至候

京都相應之儀承更不可有疎意候、猶立雪斎(国清寺恵心)可有御演説候、恐々謹言

(永禄三年)八月八日

(上野)信孝 判

宮下野守(盛常)殿

 

【書き下し文】

御受領の儀に就いて、御内書を成され候、誠に御眉目の至り 目出存じ候、仍て御礼として、御太刀一腰百疋御進上の旨 披露せしめ候、珍重に候、次いで私え百疋送り給い候、御懇音(こんいん)祝着の至りに候、京都相応の儀承り 更に疎意有るべからず候、猶 立雪斎 御演説有るべく候、恐々謹言

 

【現代語訳】

御受領のことについて、御内書をしたためられました。誠に御名誉の至りで、目出たく存じます。よって御礼として、御太刀一腰、銭百疋を進上される旨を、披露しました。珍重なことです。また、私にも銭百疋をお送りいただきました。御懇意をいただき、祝着の至りです。京都(将軍家)に従うということを承り、更に疎略なことがないようにしてください。なお、立雪斎からお話があるでしょう。恐々謹言。

 

1567年:策雲が死亡する

 

上野 信孝(うえの のぶたか、生没年不詳)は、戦国時代の武将。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系 河内源氏の流れを汲む足利氏の傍流 上野氏。室町幕府の幕臣。備中国鬼邑山城主。父は上野尚長。子は上野清信、上野頼久。官位は民部大輔従五位下。

上野氏は足利氏の支流で足利将軍家の近臣たる家柄。祖先の中には守護を務めた武将もいるが、世襲に至らず京都にあって将軍の側近として幕政を支えていた。信孝は11代将軍足利義稙が従弟 足利義澄に将軍職を追われて、西国に落ち延びると、動向した近臣 上野信孝をして備中国鬼邑山城に封じたのをはじめ、二階堂政行、伊勢貞信もその近隣の諸城に封じて西国における義稙方勢力の形成にあたらせた。 永正年間に、信孝は鬼邑山城を一門の上野高直を入れて城主となし、子の上野頼久をして備中松山城主に封じ自らは帰洛し再び幕府に近侍した。

 

ウッキペディアより

 

1573年:宮盛常死亡

 

14 文章番号5 年号不明10月3日付け

毛利輝元→国司元蔵、児玉元良

宇今無承引之由」→「今に無承引のよし」(未だに承諾がない)

有地正信(福山の有地か?)

 

【原文】

宮中務(盛慶)抱上役之儀、二三ヶ年有地(正信)方押望候、

先度雖申候于今無承引之由候条、兎角如前々可相調之由、従両人所能々可申候、謹言

十月三日

輝元 御判

 

国助(国司元蔵)

児 三右(児玉元良)            輝元

 

【書き下し文】

宮中務 抱上役(?)の儀、二三ヶ年有地方押望候、先度申し候如く今に承引無きの由に候条、兎角前々の如く相調(ととの)うべきの由、両人の所より能々(よくよく)申すべく候、謹言

 

【現代語訳】

宮中務(盛慶)の抱上役(意味不明・何らかの役の代償として与えられている土地)を、この二三ヶ年の間、有地(正信)が横領している。先度(宮氏に返すようにと)申し付けたが、いまだに(有地氏が)承知しないので、前々の如く復するよう、両人(国司元蔵・児玉元良)からよくよく(有地氏に)申し付けるようにしてほしい。

 

1580年:宮元常が生まれる

 

15 文章番号11 天正16年(1588)年12月26日

毛利輝元→宮盛慶(31歳)

藩主毛利輝元より「下野守」伝達される。

 

【原文】

受領 下野守

天正十六年十二月二十六日  輝元 判

宮中務少輔殿

 

【書き下し文】

受領 下野守(下野守を受領せしむ)

 

【現代語訳】

下野守を受領させる。

 

16 文章番号6 天正19年(1591)10月21日付

毛利隆元弟の穂田元清→興禅寺元策

 

【原文】

興禅寺(元索)   冶部(穂田)元清

尚々各様之御書五封返進申候、慥可被成御請取候 以上

 

先日は御出本望存候、取紛然々不申談候、我等社以参可得御意之處、

依不得隙無音背本意候、随って十兵衛(宮忠理)殿御愁訴之儀

前々之御一通など掛御目、昨日具申上候、委被聞合候、隆景様御出之時分可被成御談合之由御意にて候条、被成其御心得、隆景様え御申尤候、尚期面拝之時候 怖々謹言

(天正十九年)十月二十一日             元清 判

 

【書き下し文】

(尚々書=追伸)尚々 各様の御書五封返し進(まい)らせ申し候、慥(たし)かに御請け取り成さるべく候(くりかえし)、以上

先日は御出で本望に存じ候、取り紛れ然々申し談ぜず候、我等社以参(※この部分不明)御意を得(う)べきの処(ところ)、隙を得ざるに依って無音 本意に背き候、随って十兵衛殿御愁訴の儀、前々の御一通など御目に掛け、昨日具(つぶさ)に申し上げ候、委(くわ)しく聞き合わされ候、隆景様御出での時分 御談合成さるべきの由 御意にて候条、其の御心得を成され、隆景様え御申し尤もに候、尚 面拝の時を期し候、恐々謹言

 

【現代語訳】

尚々(追伸)それぞれの御書状五通をお返しします。確かにお受け取りください。

先日はお出でいただき、本望に存じます。取り紛れて全くお話しができませんでした。われらの方から伺ってお聞きしなければならない所、隙を見つけられずに御無沙汰していることは本意に背くことです。さて、十兵衛殿の御愁訴のことは、前々の御一通(書状)などを(隆景に)お目にかけ、昨日詳しく申し上げたところ、詳しくお聞きになりました。隆景様がお出でになった時分に御談合なされるということなので、そのように心得られて、隆景様へお申し出になるのがよいと思います。なお、お会いした時にお話ししましょう。恐々謹言。

 

17 文章番号10 天正19(1591)10月26日付

小方兵部丞元信→興禅寺

興禅寺四世元策西堂へ、本領の件については、検地が終わってから沙汰がある旨の文章

 

【原文】

御使札致拝見候、小怒哥之儀、御先祖御本領ニ付いて被成御愁訴

御検地之上を以可被仰出之旨候、安国寺御奉書致拝見候

吾等検地仕候所、備後、備中右之辻、一両日中ニ至大坂申上候

勿論小怒哥御公領當御倉納之辻申上候、早々大坂え可被仰上事肝要存候

委細御使者え得御意候 恐惶謹言

(天正十九年)十月二十六日

小方兵部丞

元信 判

興禅寺

 

【書き下し文】

御使札拝見致し候、小怒哥の儀、御先祖御本領に付いて御愁訴成され、御検地の上を以て仰せ出ださるべきの旨に候、安国寺御奉書拝見致し候、吾等検地仕(つかまつ)り候所、備後・備中右の辻、一両日中に大坂に至り申し上げ候、勿論小怒哥御公領 当御倉納の辻申し上げ候、早々大坂え仰せ上げらるべき事肝要に存じ候、委細御使僧え御意を得候、恐惶謹言

 

【現代語訳】

御使者が持って来られた書状を拝見しました。小奴可のことは、御先祖の御本領ということで御愁訴なされていますが、検地をした上で(毛利輝元から)沙汰が仰せ出だされるとのことで、そのことについての安国寺の御奉書を拝見しました。われらが検地を行い、備後・備中の(検地の)結果を一両日中に大坂へ申し上げます。もちろん小奴可御公領の御倉納(小奴可直轄領の米の収納高)の結果も申し上げます。早々に大坂へ仰せになることが肝要と存じます。委細は御使僧へ申し上げました。恐惶謹言。

 

18 文章番号8 天正19(1591)年11月8日付

左衛門佐隆景(小早川隆景)→安国寺恵瓊、堅田元慶

小早川隆景が安国寺恵瓊と堅田元慶に対して

 

【原文】

就小怒哥之儀、去春興禅(元索)・宮十兵(忠理)被得御意之通申上候、

以御検地之上可被出之由候つる、然間此刻被遂御案内候、

誠累年頼被存祇候之筋目候条、可被加御憐愍事尤存候、

猶安國寺(恵瓊)・堅兵(堅田元慶)可有御披露候、恐惶謹言

(天正十九年)十一月八日

左衛門佐

隆景 御判

安國寺

堅 兵 御申之

 

【書き下し文】

小怒哥の儀に就いて、去春興禅・宮十兵御意を得らるるの通り申し上げ候、御検地の上を以て仰せ出ださるべきの由に候いつる、然る間此の刻(とき)御案内を遂げられ候、誠に累年頼み存られ祗候の筋目に候条、御憐愍を加えらるべき事 尤(もっと)もに存じ候、 猶 安国寺・堅兵御披露有るべく候、恐惶謹言

 

【現代語訳】

小奴可のことについて、去る春に興禅寺と宮十兵衛の考えを(輝元に)申し上げた。御検地の上で沙汰を仰せ出だされるということなので、この時にご案内してほしい。誠に累年にわたって懇望されていることなので、御憐愍(あわれみ)を加えられることがもっともである。なお、安国寺と堅兵(堅田元慶)から御披露してほしい。恐惶謹言。

 

 

19 文章番号7 天正19(1591)11月8日付

小寺鎮賢→宮忠理

【原文】

一紙之躰御免~

両度被仰聞候題目、昨日以國雅(国司就信)被成御尋候条具申上候

就夫奉書被相調候、殊外御懇候、御内儀之通就信物語被申候

委細彼可被申候、尤以参加申上候得共、只今罷上候間捧一書候 恐惶謹言

(天正一九年)十二月四日

(小寺)鎮賢 判

「(宮)忠理 人々御中               小佐 鎮賢」

 

【書き下し文】

一紙の躰(てい) 御免(くりかえし)

両度仰せ聞かされ候題目、昨日国雅を以て御尋ね成され候条 具(つぶさ)に申し上げ候夫(それ)に就き奉書相調えられ候、殊(こと)の外 御懇(ねんごろ)に候、御内儀の通り 就信物語申され候、委細彼申さるべく候、尤も参るを以て申し上ぐべく候得共(そうらえども)、只今罷(まか)り上り候間 一書を捧(ささ)げ候、恐々謹言

 

【現代語訳】

一紙の体裁で御免

(貴殿から)再度仰せ聞かされていた題目(小奴可の件)について、昨日国雅(国司就信)を使者として(輝元が)お尋ねになったので、詳しく申し上げました。そのことについて、奉書を整えられました。ことのほか、懇ろなことだと思います。(輝元の)御内意について、就信が話をされました。委細は彼から申されるでしょう。もっとも私が参上して申し上げるべきことですが、只今罷り上っているので(大坂かどこかに上っているので)、一書を差し上げます。恐々謹言。

 

 

 

20 文章番号9 天正20年(1592)3月27日付

左衛門佐隆景(小早川隆景)→堅田元慶

 

【原文】

宮十兵衛(忠理)被申分之儀、安國寺紙面之辻を以、先度申入通定可為御披露候、

然らば此節高麗(朝鮮)御人数遣ニ付いて、只今之御配之内にて候へ共、

西堂(興禅寺元索)下向迄之儀、旁為御心得、先被浮置候様御心得可為肝要候

恐惶謹言

(文録元年)三月二七日

左衛門

隆景御判

堅 兵少 申給へ

【書き下し文】

宮十兵衛申し分けらるるの儀、安国寺紙面の辻を以て、先度申し入るる通り 定めて御披露を為すべく候、然らば此の節高麗御人数遣わすに付いて、諸家の所領等御差し引き之(これ)有るべく候、彼(か)の十兵本領の儀は、只今の御配りの内にて候へ共、西堂下向迄の儀、旁(かたがた)御心得を為し、先ず浮き置かれ候様 御心得肝要たるべく候、恐々謹言

 

 

【現代語訳】

宮十兵衛の申し分について、安国寺の書状の結果を受けて先に申し入れた通り、(輝元に)御披露してほしい。その際、この節は高麗に人数を派遣するために(の費用にあてるために)諸家の所領等を差し引いており、かの十兵衛の本領も只今の割り当ての内に入っているが、西堂が下向するまでの間は皆々で配慮して、その本領を(割り当てから)除外しておくように心得られることが肝要である。恐々謹言。

 

21 文章番号12 慶長2年(1597)年12月28日付

藩主輝元→宮彦七(元常)

藩主輝元より「与左衛門尉」を許されたということ?

 

【原文】

任 与左衛門尉

慶長弐年拾二月二十八日 御判(輝元公)

宮彦七(元常)どのへ

 

 

【書き下し文】

与左衛門尉に任ず

 

【現代語訳】

与左衛門尉に任ず。

 

1599年宮盛慶が死亡

 

22 文章番号13 寛永6(1629)11月22日付き

藩主秀就→宮弥太郎(就定)

「加冠」とは元服の事だと思います

藩主より「就」の字をいただいて、「就定」を名乗ったものと思います。

 

【原文】

加冠

寛永六年十一月二十二日 御判(秀就公)

宮弥太郎(就定)とのへ

 

【書き下し文】

「就」を加冠す

 

【現代語訳】

元服に際して、「就」の字を与える。

 

23 文章番号14 寛永7(1630)年6月2日付

藩主秀就→宮与左衛門(元常)(51歳)

宮与左衛門尉(元常)へ、藩主秀就より「但馬守」を許される

 

【原文】

受領 但馬守

寛永七年六月二日御判(秀就公)

宮与左衛門尉(元常)とのへ

 

【書き下し文】

受領 但馬守(但馬守を受領せしむ)

 

【現代語訳】

但馬守を受領させる。

 

24 文章番号15 寛永18年(1641)2月1日付

藩主秀就→宮弥太郎(就定)

宮弥太郎(就定)へ、藩主秀就より「権右衛門尉」を許される

 

【原文】

任 権右衛門尉

寛永十八年二月一日御判(秀就公)

宮弥太郎(就定)とのへ

 

【書き下し文】

権右衛門尉に任ず

 

【現代語訳】

権右衛門尉に任ず。

 

『萩藩閥閲録』まとめ

本家である久代宮氏は山内氏との抗戦のため毛利に接近していったが、小奴可宮氏、永正(1504~21)頃には大内氏の配下であったというが大永(1521~28)以降は尼子氏に従ったので天文(1532~55)初期、大内方の毛利氏に攻撃され、宮定実(小奴可定実)は小奴可亀山城に籠城中、天文3年(1534年)に病死したという。

 

ただしこの天文3年の籠城は東城町の亀山城ではなく、備南地区に勢力があった宮氏の亀寿山城のことだと考えられる。

 

その後小奴可宮氏も毛利元就に近づき天文6年(1537年)元就が長男隆元を人質として大内義隆に差し出した際に従者として小奴可定実の弟が加えられている、定実の弟は名僧として知られ興龍寺2世であった、興龍寺は元就以前から吉田郡山城内にあった臨済宗の大寺で元就は厚く崇敬していた。

 

しかし天文22年に尼子氏は山内氏や旗返城の江田氏と結び南下して口和町竹地谷川を挟んで毛利軍と尼子軍が激戦をした戦い(泉合戦)で江田方として戦った小奴可宮隆盛は戦死した。

 

そして小奴可宮氏の「本領之内、久代之地」が大内氏の「預かり」となってしまった。

 

表向きは隆盛の子供の盛常が「若年」のための処置であったというがこのとき盛常は元服を終えすでに17歳であったから宮氏は「久代之地」の返還を求め嘆願を繰り返すようになる。

 

第5章 『譜録 宮慶郷』における宮氏

萩藩では「譜録」というものがある。

宮慶郷の譜録

 

譜録は毛利一門六家と永代家老益田・福原両家並びに寄組・大組以下平士・細工人など二五九五家(現存分) 及ぶ藩士の系図・正統略譜・伝来の文書等を、藩令によって各家から録上したものの総称。

 

享保年間編修のの「閥閲録」についで、元文・寛保・延享年間に録上させたもの(古譜録)と、明和・安永年間のもの(新譜録)とに大別されるが、家により享和・天保期に追加譜録として録上されたものもある。

 

閥間録にとりあげていない系図と正統略譜を記載し、閥閲録に遺漏や除外の文書を収録しているなどの特色があり、互に参酌すべきである。

 

とある。

 

小奴可宮氏の子孫である宮慶郷の『譜録』もあり40枚にわたる資料であるが現代語訳したものを載せる。

 

なお、『萩藩閥閲録』の内容とほぼ被っており一部『譜録』にしか記載されていないものもある。

 

伝書

 

宮下野守定實

 

姓ハ藤原華族小野宮之末裔故利を以て称宮従是以前之世代不詳備後国奴可郡之領主にて小奴可村に住す依之中頃在名小奴可を以暫称号とす雖然子孫宮に復す也竹英之外兄弟多く并甚男等余多有之一家広く候由雖申伝事跡不詳ニ付略系等に仕用捨之也

 

一 永正之頃大内家江属し大永之頃より尼子家江随身之由雖申伝其旨趣之伝ハ不詳天文之始 元就公尼子家江御手切之時節ハ定実事於御隣国尼子家江随属ニ付尼子家江御手切逢  之最初ニ定實の家城御責被成候由籠城之内病死之由雖申伝不詳

 

 

一 御先祖様方より宮家江被為対被下候御書多くハ興禅寺江御当テ被下候儀ハ芸州様雲山興禅之寺後に妙寿寺と被改防州山口宮野の妙寿寺是也興禅寺二世を竹英龍東堂別号策雲  と言妙寿寺之勧請開山也俗姓小野宮氏にて宮下野守定実の弟なり元就公隆元公被遊御帰依法儀ハ勿論御政事軍事等之御事迄も被仰合たる由就夫天文三之頃大内家へ御随身被成候最初 隆元公防州山口被遊御越久敷御滞留之時分も元龍事御供之内に被召加山口江被召連候程之御深志故出世等之儀段々無滞昇進被仰付■ニ永禄三年之夏南禅寺住持職之公帳頂戴之東堂紫衣に転衣ニて位極所に至り候事偏元就公隆元公御帰依にて思召深く御慈情之故也と  申伝来候次ニ中興三世明叔揚東堂之事又妙寿寺之伝来にハ是又宮氏之俗姓之由ニ候へ共御忰家ハ明叔宮俗姓之段伝来無之候且又興禅寺四世元索西堂ハ妙寿寺之三世也是又宮氏俗姓ニて宮下野守盛常次男也尤俗姓之事於妙寿寺ハ伝来無之由ニ慶長年中芸州より山口江御移

之節元索事 妙寿様御位牌奉守護山口妙寿寺江奉安置寛永之末迄住職ニ付但馬守元常時代迄互に往来書翰之被遣尓今残り居候書状も有之候右之通興禅寺住職宮俗姓之僧相勤候ニ付宮家愁訴等興禅寺相共ニ御歎申上候付興禅寺江被成下御書候は右之申継故と申伝来候事

 

一 策雲事妙寿寺之伝来ハ竹英龍東堂之一ノ弟子ニて興禅寺住職相勤候共又不相勤候共又出世之位も不知雖為早世遷化年月日も不知■名等も不見候付事跡一切不詳之由妙寿寺伝来之由ニ候へ共幸靏様輝元公より元揚首座江年号御幼名不知六月廿五日之御書ニ策雲不慮ニ遠行候就は後住之事任契約之旨当寺家并末寺等如前々可有御裁判との御書之写忰家ニ■■候へば御本書之儀ハいか様妙寿寺可有之哉右御書之趣ニ候へば興禅寺之三世明叔元揚は策雲より伝法寺家共ニ譲り遣請被申段明白也然処彼寺之伝ニハ元揚ハ元龍より譲り遣請策雲ハ別僧にて一ノ弟子なるとの儀はい可様元龍之別号策雲と申伝無之故策雲ハ別也との伝来ハ策雲より元揚江寺家等被譲候段は右 御書之写ニ而明白也就は策雲ハ元龍之別名弥分明之様ニ相見候其上玄祖父但馬守元常伝書仕置候内ニも策雲江御当被下候御書之伝書ニ龍東堂を以申上候時龍東堂江被仰下候御書也と伝書仕置候へは策雲ハ元龍之別名なりと慥ニ相見候然ども為意ケ様之古実能々老居候方々江数多相尋聞候処いづ連も策雲ハ竹英元龍之別称之由元龍より之書状ニ月日■下ニ元龍と名判有之上包紙之名書ハ策雲と有之書状多く  相見候へば元龍之別号策雲無疑其外ニも数多証拠も有之由且又元龍之遷化永禄十年十月十日之儀同七年より已然遷化にて無之候八年とならぬ■■も有之由最早相見候 幸靏様より元揚江之御書六月廿五日と有之候幸靏様御事永禄八年二月ニ御元服被遊少輔太郎様と御改被成候へば永禄八年二月より已前之御書と相見へ候右両条之■説いつ連の是非難相決候へとも若元龍之別名策雲に相極候時ハ元龍之遷化永禄十年十月十日と申伝ハいか可有之哉然とも妙寿寺之■名等ニ相見候はば是非ハ難論忰家ニハ元龍遷化之伝一切ニ無御座候ニ付妙寿寺之伝を以竹英遷化永禄十年丁卯十月十日と略系之所ニは書記候事

 

 

一永正六己巳三月日土岐伊予入道一漁ヨリ

宮又次郎江当

写別記也

神鑓秘術之免状也

 

一永正十八四月十日親忠判 小奴哥又次郎江当

写別記也

 

一永正十八四月十日政盛判 小奴哥又次郎江当

写別記也

 

右両通之感状は大内義興様在京

 

 

之節ニ付家臣より之感状被差出候由候

 

宮下野守隆盛

 

一備後国奴可郡之領主之由天文之初頃父定實と共ニ籠城御当家之御人数引請鉾楯之最中定実病死籠城難叶降参之御詫申上被進御許容之由夫より大内家江随身之由然処陶晴賢計いとして領分之中小奴可村被没収候由依之又宮氏ニ復し候由申伝候得共事跡不詳

 

一天文之末備後国より尼子晴久切入江田ノ旗返迄取詰被申候節亀寿山之辺ニて討死行年三十五才之由雖申伝不詳

 

一小奴可村之儀父定實在世之中次男房忠江可分与由雖為契約被没収候付 無其儀然時は小奴可之称号可相損ハ房忠家筋ニ候故十兵衛代ニ至り候ても御歎申上候と相見候小奴可之儀ニ付御先祖様方より被下置候御書等ニも凡之趣相見へ申候事

 

宮下野守盛常 始民部太輔

 

一天文之末父隆盛備後国於亀寿山城打死之節盛常未若年依之陶晴賢計いとして本領之内久代之地大内家江御預りと申伝尤盛常家督之祝儀大内晴英様江申上候御返札尓今所持  仕候盛常成長ニ随い御預り之領地被返下候様ニと御歎申上之由ニ候へとも陶氏差支御沙汰延引旁無曲趣も有之ニ付奉属 御当家之由依之陶御退治本領御切返被成可被下之由御契約と申伝候然処ニ陶滅亡之後も元就公御軍務依無段御沙汰御延引之内同姓之久代方より久代之地ニ付御歎申上之由相聞左様候てハ進退浮沈之堺ニ付久代村壱万三千拝領之内壱万弐千貫之地ハ忰家之本領ニ候へば御約束之通被返下久代方江ハ久代之本領千弐百貫之地所被戻遣候様ニと其時之興禪寺策雲おともに御歎申上候由依之元就公委細被聞召上無余儀■■候へ共山内種々存分共ニ候間相滞候条便宜之地御合力可被成下旨凡之趣御書ニも相見申候其後代地拝領被仰付候由雖申伝いつ連にて御打渡相成候哉於尓今は御証文等も不相見候ニ付不分明候へ共忰家之申伝ハ右之通ニ御座候事

 

一二月廿日年号御判公方義輝公 賜宮民部太輔写別

不知  御判之由申伝      記也

 

右二月廿日将軍義輝公御内書ハ民部太輔盛常被受領下野守候事也右下野守に被受領候御内書頂戴之儀は防州山口常栄寺開山大照国師普明国禅師立雪齋心東堂之御被伝を以公方義輝公江相願被受領下野守候立雪齋之御事興禅寺二世竹英龍東堂之弟子たるに■■宮家贔屓之御方故御被伝被下候由  申伝来候事

 

一八月八日年号上野民部太輔信孝判宮下野守当写別

不知              記也

 

一八月八日年号上野民部太輔信孝判宮下野守当写別

不知              記也

 

右両通上野民部太輔信孝より之書状ハ宮下野守盛常受領之御礼義輝公江申上候時也と申伝来候事

 

 

一十二月廿三日年号晴英判宮民部太輔江当写別

不知          記也

晴英大内義長様御事之由

 

一十二月廿三日年号晴賢判宮民部太輔江当写別

不知          記也

晴賢陶尾張守事之由

 

一三月八日 年号 晴賢判宮民部太輔江当写別

不知           記也

 

一二月十七日年号 隆著判宮民部太輔江当写別

不知           記也

 

隆著青景越後守事之由

 

 

一六月十五日 年号 隆著判宮民部太輔江当写別

不知           記也

 

一十二月三日 年号 隆言判宮民部太輔江当写別

不知           記也

隆言小原安芸守事之由

 

一二月廿七日 年号 隆通判宮戸部江当  写別

不知           記也

隆通河屋伊豆守事之由

 

一五月十二日 年号 隆元公御判 賜策雲 写別

不知           記也

 

 

右五月十二日之御書ハ尼子伊予守備後表より切入江田之旗返迄取詰申候時宮下野守於亀寿山之台打死仕御用ニ立忰家を失い申候付時節を待候へ何も御切返被成御本領可被返下由祖父民部太輔江被仰下候御書之由但馬守元常伝書仕置候付而尓今御書ニ相添所持仕候事

 

 

一六月四日 年号隆元公御判賜民部太輔写別

不知          記也

 

右六月四日之御書ハ忰家之本領多分久代様所持 御当家様江御歎仕候時 隆元公ハ備後之御調ニ被成御在陣之時祖父民部太輔書状差上候其時分被下候 御書之由但馬守元常伝書仕置候付御書ニ相添尓今  所持仕候事

 

 

 

 

一霜月一日 年号元就公御判 賜策雲写別

不知         記也

 

右霜月一日之御書ハ久代御当家様江御懇望仕度と申由及承左様御座候はば御約束之壱万弐千貫を被返下久代ニハ久代之本地千弐百貫計を被遣被下候様にと龍東堂を以申上候時龍東堂江被仰下候御書之由但馬守持伝書仕置 御書ニ相添尓今所持仕候事

 

 

一十二月廿六日年号 元就公隆元公御判賜策雲写別

不知            記也

 

 

宮下野守盛慶

 

一十月三日年号従輝元公国助児三右江当写別

不知           記也

 

右御書ハ宮同姓之有地家と出入事有之候節被仰出候 御書之由申伝候事

 

一天正十六十二月廿六日輝元公御判

宮中務少輔江賜ル写別

記也

 

 

宮但馬守元常 始彦七

与左衛門

 

一慶長二年十二月廿八日  任興左衛門尉

 

輝元公御判     宮彦七江賜ル写別

記也

 

 

一寛永七年六月二日 受領 但馬守

 

秀就公御判   宮与左衛門江賜写別

記也

 

一但馬守御役所勤之儀伝来不詳

 

 

宮権右衛門就定 始弥太郎

 

一正保二乙酉五月父但馬守元常就病死跡職無相違被仰付候之由御判物之儀ハ権右衛門牢人之内いか仕候哉相見不申候同三戌年重■御倹約御改事にて御服被下浪人ニ罷成由年月を始御出入を以御雇ニ被召仕候年月不分明寛文之始より大津郡并山代等之地下役貞享之始迄ハ御役致相勤候数年被対勤功延宝五巳閏十二月ニ御蔵元近習通之御帳付ニ被仰付再御家人江戻り宮之忰家再興仕候事

 

一寛永六年十一月廿二日 加冠 就ノ御字

 

秀就公御判   宮弥太郎ニ賜ル写別

記也

 

一寛永十八年二月朔日  任  権右衛門尉

 

秀就公御判   宮弥太郎ニ賜ル写別

記也

 

一延宝五巳閏十二月廿六日御奉書頂戴之写別

記也

権右衛門数年御雇にて御役目堅固ニ相勤

候付

御帳付ニ被仰付候事

 

 

一貞享四卯十二月廿八日御奉書頂戴之写別

記也

焼物師山村平四郎養子ニ先年権右衛門

 

牢人之内所持之御忰を被仰付と

 

取戻し候はば御理迄■御珍客之事

 

 

宮左兵衛正次

 

一左兵衛正次事父権右衛門就定未牢人之内御細工人焼物師山村平四郎依為養子焼物細工能仕覚居候付宮家江引取親■■之内より青雲院様御在世之中為 御慰焼物御作らせ不■被遊 上総国江御茶屋■江御茶屋焼物場被仰付左兵衛江御預ケ尤■江御茶屋ノ下ニ居小屋をも被仰付左兵衛を被為置修■等之儀も従 公儀被仰付候 青雲院様御逝去以後■江御茶屋御崩せ居小屋之儀ハ家屋敷ともに御隆地ニ〆拝領被仰付候且又年々御心付米六石宛被遣候分は身柄一生被遣候右之通部屋住之節より御慰之焼物御作らせ上焼被遊候付江戸江も被召連一生焼物之方ニ被付置候ニ付外之御役は所勤不仕候事

 

一元禄五申十二月廿八日家督御奉書頂戴之写別

記也

 

一宝永七寅八月十八日内村嘉兵衛三男太之介

 

養子之御奉書頂戴之写別

記也

 

一享保五子七月六日内村嘉兵衛次男与一左衛門を

 

先年養子ニ被仰付候処嘉兵衛嫡子就病死

 

与一左衛門被返下候御奉書頂戴之写別

記也

 

一享保五子七月廿一日御鷹師中沢市右衛門

 

三男与左衛門を養子之御奉書写別

記也

 

宮與左衛門信之

 

 

一享保五十月廿一日家督御奉書頂戴之写別

記也

 

一御役所勤之儀御蔵之廻り諸所相勤遊裏判役口羽清士殿筆先役大坂筆先役両度彼是数年之所勤ニ候へども年数旁不詳

 

 

宮権右衛門慶江

 

一享保十八丑十二月三日家督御奉書頂戴之写別

記也

 

一元文弐巳年御老中之御通知役被仰付同五申

 

十二月迄所勤仕候事

 

一寛延三午正月廿一日上勘所替役同九月

より

定加■役被仰渡候事

 

宮氏庶流

 

宮十兵衛忠理

 

一極月四日 年号 小寺佐渡守

不知 鎮賢判   忠理江当ル写別

記也

 

一十月廿一日年号 元清公御判 賜興禅寺写別

不知           記也

 

 

右十月廿一日従 元清公御書宮家本領小奴可之趣申上候儀ニ付興禅寺江被下候御書年号ハ不相見候然ども此先ニ相見候隆景公より之御書ニ朝鮮江御人数被差渡候御時節之由   御文言ニ相見候へば文禄元年之事と相聞候然時ハ此御書文禄之前年之様被相考候文禄年中   前後之時節ニ候へば興禪寺と当り候住職ハ元索和尚と相見候元索ハ天正拾四丙戌明叔揚東堂就遷化夫より寛永廿一年九月晦日まで住職也元索俗姓ハ宮下野守盛慶二男ニて下野守某始中務弟但馬守元常ニ伯父也

 

一十二月八日年号 隆景公御判 賜安国寺写別

不知        堅言 記也

 

右十二月八日 隆景公より之御書ハ本領小奴可之儀ニ付興禪寺宮十兵衛愁訴之儀ニ付候て之御書也年号ハ不相見候へども前段之通文禄元年之前年にて可有之様ニ被相考候御文言相見候興禪寺ハ元索住職之時節と被相考候元索ハ天正十四年之頃より興禪寺住職寛永之末まで被相勤故也

 

一三月廿七日年号 隆景公御判 賜堅言少写別

不知           記也

 

右三月廿七日之御書は宮十兵衛小奴可之事ニ付愁訴申上候儀ニ付堅田殿江被遣 御書也此御文体ニ此節高麗へ御人数被遣との御事相見候へば文禄元年之御書之様ニ相聞候西堂下向まで之儀為御心得先被浮直候様ニと之御事此西堂ハ安国寺にて可有之候哉前段之御書ニハ安国寺堅田と当り此御書ニハ堅田殿と相見候へば安国寺之御事かと相聞へ候事

 

 

一十月廿六日年号 小方兵部直元■判興禪寺江当ル

不知           写別記也

 

右十月廿六日之御奉書も宮十兵衛小奴可之儀ニ付御検地相調候事ニて興禪寺と当り候ハ前段と同じく元索住職之節と被相考候此御奉書ハ文禄弐年ニてハ無之哉と被相考候事

 

御書御判物并御証文之写

 

 

神鑓秘術書

 

夫レ香取流ノ鑓序メ日下総州従香取明神由来起之彼明神ト言■神宮皇后異国退治ノ御時 之船ノ舵取其時■号天之■■■■為常陸国鹿嶋大明神ノ末社依舵取給称香取ノ宮ト神秘ニハ舵取宮ト書也本地は毘沙門天変作ナリ■然而宝徳■己巳秋八月ノ頃蒙夢想■中ニ兵書在之依懸志ノ競望世■ニ可弘之日宝殿ヲ開拝見スルニ一巻之書在之詠以乍言末世奇特ノ神友之御告忝心肝不■■■不思議ノ次第也仍仕術書ノ旨■鑓之道祖弘ル者也仏法之妙剣三毒之邪路ヲ切神世祭鉾■テヲ退リ人間之兵銭横敵之災難ヲ討ス是併諸悪莫作諸喜奉行之宝銭 善悪不二邪正一如是之■■有世間流布儀非本證之伝者曽テ不可信用以為作之道称舵取流事口借次第難数所之能■尋本所可求相伝可秘■千金莫伝

 

目録次第

 

飛龍        虎龍

雷光三       暗夜

留鑓左其外一    懸鑓左

右         右

 

崩次第

真方        眉相

龍下        小鷹狩

弥絶光       ■七目

朝日出足

 

高上次第

 

 

 

 

第一     第二

第三     第四

第五     第六

第七

 

大事次第

大楮     小楮

飛剣     穴鼡

延鑓     戸口

■高上    高之上

 

永正六己巳三月朔日 土岐伊予入道

一漁判

 

宮又次郎殿依御定進授之申候

 

 

小奴哥又次郎殿  親忠

 

進之候

 

昨日九日於柏村表合戦被打太刀之条粉骨無比類候弥被抽忠節は可為神妙者也仍状如件

 

永正十八四月十日  親忠判

 

小奴哥又次郎殿

 

進之候

五太刀事

 

小奴哥又次郎殿   政盛

旨進之候

 

四月九日於柏村表固口被及合戦太刀打之條高名之段無比類候弥可被抽戦功者也仍状如件

 

永正十八四月十日   政盛判

 

小奴哥又次郎殿

 

 

宮下野守盛常江賜分如左

 

受領可任下野守儀可然候為其

 

染筆候猶信孝可申候也

 

二月廿日 御判 公方義輝公

御判之由申伝

 

宮民部太輔とのへ

 

 

〆 宮下野守殿  上野民部太輔

信孝

 

為御受領之御礼御太刀一腰鷲眼

 

百疋御進上之旨令披露候被喜

 

思召之由候仍被成御内書候尤

 

御面目之至候猶得其意可申之旨

 

被仰出候 恐々謹言

 

八月八日      信孝判

 

宮下野守殿

 

 

〆 宮下野守殿   上野民部太輔

御返報    信孝

 

就御受領之儀被成 御内書弥御

 

眉目之至目出度候仍為御礼御太刀

 

一腰百疋御進上之旨令披露候

 

珍重候次私江百疋送給候御懇音

 

祝着之至候京都相応之儀

 

承更不可有疎意候猶立雪齋

 

 

 

 

可有御演説候 恐々謹言

 

八月八日      信孝判

 

宮下野守殿

御返報

 

 

為家督之儀太刀一腰到来嘉悦候仍同一振進之候猶青景越後守

 

可申候 恐々謹言

 

十二月廿三日   晴英判

 

宮民部太輔殿

 

 

 

〆宮民部太輔殿    陶尾張守

御返報    晴賢

 

預御音問候令被閲候仍御愁訴之趣至山口令披露候委細直被申候巨細 猶西堂可有御演説候次ニ太刀一腰送給候誠畏入候何様自是可申述之

 

条先省略候恐々謹言

 

十二月廿三日   晴賢判

 

宮民部太輔殿

御返報

 

 

〆宮民部太輔殿    酉 晴賢

 

為当年之儀太刀一腰送給候欣悦候同一振進候表祝儀計候仍御愁訴次第連々可申談候尽身更不可有御等閑之委細興禪寺可有演説候就中此表の大利候可御心安候恐々謹言

 

三月八日    晴賢 判

 

宮民部太輔殿

御報

〆宮民部太輔殿  青景越後守

隆著

御返報

 

為今年之儀御太刀一腰御進上之通令披露候修悦之趣被用直礼候仍同一振被進候■■■恐々謹言

 

二月十七日    隆著 判

 

宮民部太輔殿

御返報

 

〆宮民部太輔殿   青景越後守

御返報    隆著

 

為当年之儀御太刀一腰被進候趣旨令被披露候祝着之由候仍同一振進候通御状被下候■■首恐々

 

謹言

 

六月十五日    隆著 判

 

宮民部太輔殿

御返報

 

 

 

〆宮民部太輔殿  小原安芸守

貴報     隆言

 

貴札令拝見候蒙仰之儀令披露候別紙申候仍御太刀一腰拝領過分之至候任一振令進入候猶西堂可有御伝■之条令省略候恐惶謹言

 

十二月三日     隆言 判

 

宮民部太輔殿

貴報

 

 

〆宮戸部    河屋伊豆守

参貴報      隆通

 

誠今年之嘉祝雖事旧様候過日珍重之不可有休期候次就於佐東表先代被成御力合候代所之儀当時無便宜之在所候連々策雲可申談之由隆著被申候於某亦不可存余儀候委細西堂可被仰入候条不及紙上候仍五明令拝受之候毎々御懇意畏入候

 

諸慶期後音候間令省略候

恐々謹言

 

二月廿六日   隆通 判

 

宮 戸部

参貴報

 

 

〆策雲       備中守

足下貴報      隆元

 

尊書令拝見候誠先日之御登城恐悦候其已後我等■■無沙汰申候出張之内何とぞ得閑暇候はば卒土可令参上候条之御懇意乍不始本望候随而久代表之儀如仰懇望之儀共候間雖然山内江種々存分共候間相滞候可有御推量候就其民太御進退之事蒙仰候是又令承知愚父申談不可存疎意候猶自是可令啓候間不能詳候恐惶頓首

 

五月十二日  隆元 御判

 

策雲

足下貴報

 

御状祝着候此表之儀敵城数ヶ所落去候則至温井陣取候不日可有一途候間可御心安候随而久代方於自然懇望ハ御進退之事蒙仰候愚父令相談不可有余儀候尚国雅可申候恐々謹言

 

六月四日   隆元 御判

 

民部太輔殿

御返報

 

 

〆策       右高

旨 尊答    元就

 

尚々いたわり尓今少も不止候書状なとも忘却之体候就民太御進退之儀蒙仰候誠尤至極無余儀候久代なと如此之刻不紛事候然処無其儀候間於我等は一円御言もなくまで■■候於心中聊無疎儀候陣中江も被仰越候度々御存分無余儀事候猶委細勝可申上候恐惶謹言

 

霜月一日   元就 御判

 

旨 尊答

 

 

就民部太輔殿御進退之儀以此者蒙仰候度々如申候於我等父子雖不存御等閑候弓矢之姿候条  御分別之様可被仰候何様以時分可申沙汰候其内便宜之地御尋合力可申候不可有油断候猶口上申候恐惶

 

謹言

 

十二月廿六日   隆元 御判

 

元就 御判

 

策雲

参足下

 

 

宮下野守盛慶江被対候御書写宮中務抱上役之儀二三年有地方押望候先度雖申候にと無承引 之由候条兎角如前々可相調之由従両人所能々可申候謹言

 

十月三日  輝元 御判

 

国助

 

児三右

 

受領       下野守

 

天正十六    輝元公

十二月廿六日  御判

 

宮中務少輔殿

 

 

宮但馬守元常賜御判物写

 

 

任       与左衛門尉

 

慶長弐年十二月廿八日

 

輝元公

御判

 

宮彦七とのへ

 

 

 

受領       但馬守

 

寛永七年六月二日

秀就公

御判

 

宮与左衛門とのへ

 

 

宮権右衛門就定江賜御判物写

 

 

加冠

 

 

寛永六年十一月廿二日

 

秀就公

御判

 

宮弥太郎とのへ

 

毛利伊勢

 

元雅印判

 

毛利太蔵殿

 

 

宮十兵衛忠理江被対被下候御書之写

 

〆忠理         小佐

旨人々御中    鎮賢

 

一紙之体御免

 

両度被仰聞候題目昨日以国雅被成御尋候条具申上候就夫奉書被相調候殊外御懇候御内儀之通就信物語被申候委細彼可被申候尤以参可申上候へとも只今罷上候間棒一書候恐々謹言

 

極月四日      鎮賢 判

〆興禪寺       治部

侍者御中    元清

 

先日は御出本望存候取紛然々不申談候我等■以参可得御意候処依不得隙無音背本意候随而十兵衛殿御愁訴之儀前々之御一通なと懸 御目昨日具ニ申上候委被聞合候隆景様御出 之時分可成御談合之由御意ニて候条成と御心得隆景様江御申尤候尚期面拝之時候恐々謹言

 

十月廿一日    元清 御判

 

就小奴哥之儀去春興禪宮十兵衛被得御意之通申上候以御検地之上可被仰出之由候間然間此刻被遂御案内候儀誠累年頼被存■候之筋目之条可被加御憐愍事尤存候猶安国寺堅兵可有御披露候

 

恐惶謹言   左衛門佐

 

十二月八日    隆景 御判

安国寺

堅兵  御申之

 

宮十兵衛被申分之儀安国寺紙面之辻を以先度申入通定可為御披露候然は此節高麗御人数 遣ニ付而諸家之所領等御差引可有之候彼十兵本領之儀ハ只今之御配之内ニて候へとも西堂下向迄之儀旁為御心得先被浮置候様御心得可為肝要候恐々謹言

 

左衛

三月廿七日    隆景 御判

 

堅兵少

旨■■

 

 

哥之儀御先祖御

 

 

御意候恐惶謹言

 

小方兵部丞

元信 判

 

興禪寺

旨足下

 

 

右私家略系并御書御判物写前書之通御座候其外他家之御奉書御判物等一切所持不仕候以上

明和弐酉六月  宮権右衛門花押

 

第6章 小奴可宮氏の没落

宮下野守家の家臣として、永正18年(1521)に備南地域柏村にて山陰から南下した尼子軍が、宮氏の拠点である「柏村」も攻撃を受け、小奴可又次郎(定実)が戦功を上げて、宮政盛、同親忠から感状を受けていたこともあった。

 

また、天文6年(1537)には小奴可定実の弟である竹英が毛利隆元を人質として大内義隆へ差し出した時に、使者として付き従ったりもしており親毛利、大内、反尼子だったことが分かる。

 

しかし、定実の嫡男である隆盛が天文22年(1553)の旗返城の戦いにて尼子側につき討死し小奴可宮氏が没落してしまう、更に息子の盛常の時代には所領は大内氏の預かりになっているが、実は西城の大富山城主で奴可郡全体を支配した比田山城主久代宮氏は、尼子氏に従って備前方面に出陣し、小奴可宮氏の所領を押領していく。

 

なお尼子氏と結んで奴可郡の豪族となった久代宮氏は、毛利元就から警戒されるようになった。

 

やがて、元就が勢力を拡大すると、宮上総介景盛は小奴可宮氏出身の興禅寺策雲元龍のはからいを受け、天文二十二年(1553)毛利氏に属するようになる。

 

しかし、毛利氏は久代宮氏を牽制するため、この家を下野守家断絶後、同家の正当な後継者として扱っている。

 

天正16年(1588)年12月26日付の書状にて下野守に叙任されており、小奴可宮氏が正式な備南地域の宮下野守家の後継者とされる。

 

どうしてこのような事が起こったかというと、戦国中期の天文年間(1532~55)を境にして、旧奴可郡域の支配者は宮下野守家から久代宮氏に変わるが、『大館常興日記』天文十年(一五四一)八月四日の条によれば、それは下野守家の断絶と宮彦次郎によるその遺跡の「切取」という事態を受けてのことであった。

 

『大館常興日記』天文十年八月四日の条

 

 

 

また、『山内首藤家文書』二一六号山内隆通條書の中に以下の文章がある、

天文二十二年十二月三日付

 

 

この最初の一文に、

一 宮家并東分小怒可 其外久代 当時知行之偽、 一所茂不残 元就以御扶持可致知行事 乍去備中八鳥山之儀者、無申分候事 とあり。

 

山内隆通は「宮家并東分小奴可」など久代宮氏の押領した地一切の領有を毛利氏に要求し、元就の承認を得ている

 

いくら下野守家の跡を継いだとしても力が無ければどうすることも出来ず、山内氏が小奴可氏の土地を支配しようとしていたことも書状から分かる。

 

 

また亀山城の城主が他にも飯田新助・亀井武蔵守玆経など久代宮氏家臣や尼子氏家臣の名前もあり、戦国時代中期には支配できていない状態だったことが推測される。

 

『広島県史 古代中世資料編Ⅴ』1309頁の中に天正九年(1581)村山檀那帳の中に中郡坂之分(安芸高田市向原町坂)に一合 帯 五明のし 宮中務殿が記載されている。宮中務は宮盛慶(1558~1599)のことで当時小奴可村にはおらず、中郡坂村にいた可能性もある。

 

村山檀那帳とは伊勢の御師である村山氏が「吉田・沼田・中郡」を訪問した記録で、61の地域別に1,087人の名前が記載されている

 

1591年頃の土地所有者が分かる『毛利八箇国御時代分限帳』の中に宮彦七(宮元常)が30.094石 備後芦田とあるので、小奴可から遠い芦田に僅かな土地を宛がわれていたのが分かる。

 

慶長5年(1600)の関ケ原の戦いにて毛利氏が萩に移封されるとそれに従う、江戸時代は無給通という身分であった。

 

第7章 戦国時代以降の小奴可氏人物

小奴可定実

初代:小奴可定実

官途名:下野守

通称:亦次郎

生没年:萩藩諸家系譜から 天文3年(1532)没

来歴:これより以前は不詳、本家は久代宮氏と伝えられるが詳しい事は分からない

戦の途中で病没とあるが、主家である宮下野家が亀寿山城落城時に同じようなケースだったので混同している可能性もある

 

竹英

初代弟:竹英

別名:策雲玄龍、(竹英東堂とも)

生没年:萩藩諸家系譜 永禄10年(1567)没

来歴:小奴可可定実の弟で、安芸国吉田の興禅寺の2世。

天文6年(1537)毛利元就の長男隆元を人質として大内義隆に差し出した際、従者として加えられている。

 

興禅寺龍東堂、策雲、竹英、玄龍なども号し興禅寺二世であった、興禅寺は元就以前から吉田郡山城内にあった臨済宗の大寺で、元就       は厚く崇敬していた。

 

また、1553年の旗返の戦いでは甥の宮隆盛が討死した事から、その息子盛常の進退や所領を安堵する為に奔走した。

 

疑問としては備北の小奴可にいる人物が何故安芸国の吉田にある興禅寺の2世になっているのかが分からない。

 

しかし、寺に僧侶として入り、尚且つ2世となるのであれば、それ相応の身分と勢力があったと思われ、小奴可宮氏が宮下野家毛家の一族に連なる人物であったと想像できる。

 

広島市東区明星院の記載で前南禅とあり南禅寺で修業をしたと思われるので宗派は南禅寺派かもしれない

 

元就が詠んだ詠草(和歌、俳句等の草稿)に興禅寺にて竹英東堂花をみせられしに

 

「かくはかり情けあるしの宿なれハ花の色香をなににたたへん」と詠んでいる

 

永禄3年~4年の芸雲和議では竺雲和尚とともに交渉にあたる

 

宮隆盛

2代目:宮隆盛

官途名:下野守

生没年:不詳であるが旗返の戦いで討死とあるので1553年で亡くなっている、譜録に35歳で亡くなったとあるので1519年生まれか?

来歴:小奴可定実の嫡男 天文年中の初期には大内氏に従っていたが、父、定実が尼子氏から寝返って大内に臣従。

 

しかし天文22年(1553)尼子氏に寝返り旗返城の戦いにおいて討死「本領之内、久代之地は大内氏の「預かり」になってしまう。

 

しかし、1553年当時はすでに家督を息子の盛常に譲っており不可解な行動をとっている、それ以前に久代宮氏の小奴可押領なのでかなり勢力を削減されており、また山内家が江田氏に尼子氏に寝返るように催促したように、小奴可宮氏にも催促したのかもしれない。

 

また天文年中には一時期尼子氏が侵攻していた時である、亀山城が尼子家臣である亀井氏が城代として入っていたことから強制的に尼子の支配下になっていたのかもしれない。

 

ともかく、重要な局面において、毛利氏に敗れ、その勢力はさらに削減されたと思われる。

 

宮盛常

3代目:宮盛常

官途名:民部太夫 下野守

没年:萩藩諸家系譜  天正元年2月15日死亡 享年37歳    1536~1573

来歴:宮下野守隆盛の嫡男 天文22年(1553)の旗返城の戦いにて父親の隆盛討死「本領之内、久代之地」は大内氏の「預かり」になってしまう。

 

理由はいまだ「若年」のための処置であったというが、この時盛常は元服をおえ、すでに17歳であった。

 

しかも天文21年(1552)12月23日付 「萩藩閥閲録巻149」により大内晴英→宮盛常(16歳)

 

宮盛常が大内晴英(大内家当主)に、家督のお祝いとして太刀を送り、そのお返しとして同様に太刀を遣わすとの内容の書類が残っており当時すでに家督相続をしていたことは確かである。

 

ともあれ小奴可宮氏は「久代之地」返還を求めて嘆願を繰り返すようになる

 

宮盛慶

4代目:宮盛慶

官途名:中務少輔 下野守

没年:萩藩諸家系譜      慶長4年9月17日死亡 享年42歳  1557~1599

来歴:宮下野守盛常の嫡男 豊臣秀吉の検地によって毛利氏も天正16年から秀吉の命に従い八カ国で検地を実施したこの検地の完了で毛利氏は譜代、外様層のみならず国衆有力家臣の本拠地にいたるまで実態把握が可能になり、家臣の知行がえを行う条件は整った。

 

そこで念願の久代之地の返還を行うことになった、1591年2月1日には穂田元清を通じて小早川隆景へ愁訴する。

 

また11月8日には安国寺恵瓊、堅田元慶を通じて小寺鎮賢へ12月4日には国司就信をつうじて、小寺鎮賢へ愁訴したが結局は小奴可宮氏には返還されず毛利氏の倉入地になったと思われる。

 

宮元常

5代目:宮元常

官途名:但馬守

通称:彦七 與左衛門

没年:萩藩諸家系譜     正保2年5月29日死亡 享年66歳  1578~1645

来歴:宮下野守盛慶の嫡男 1591年頃の所領として宮彦七30石とある1591年当時元常はまだ14歳なのでひょっとしたら父親である盛慶の通称かもしれない。

 

とにかく小奴可宮氏の本家は石高が30石であったことは間違い無い。

 

父親が1599年に亡くなると当主となったと思われるが、翌年の関ヶ原の戦いにおいて、主君である毛利輝元を一緒に萩に移り、ここに小奴可宮氏は終焉する。

 

慶長2年(1597)年12月28日付「萩藩閥閲録巻149」藩主輝元より「與左衛門尉」を許された。

 

元策

元慶弟:元策

別名:西堂

生没年:萩藩諸家系譜 寛永21年(1644)9月30日没

来歴:4代宮元慶の弟で、安芸国吉田の興禅寺の4世である。

 

興禅寺2世が初代小奴可定実の弟であり(曾祖父の弟)ゆかりが深い。

 

天正19(1591)10月26日付「萩藩閥閲録巻149」で興禅寺四世元策西堂へ、本領の件については、検地が終わってから沙汰がある旨の文章があり、この元策も実家の所領回復の為に奔走していたことが読み取れる。

天文14年(1586)に2世明叔元揚死去により妙寿寺の3世となる萩に移動になってからは防州山口妙寿寺の住職となる。

 

広島市東区明星院の記載で前南禅とあり南禅寺で修業をしたと思われるので宗派は南禅寺派かもしれない。

 

 南禅寺 (なんぜんじ)は、京都市左京区南禅寺福地町にある、臨済宗南禅寺派大本山の寺院である。山号は瑞龍山、寺号は詳しくは太平興国南禅禅寺(たいへいこうこくなんぜんぜんじ)である。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は亀山法皇、開山(初代住職)は無関普門(大明国師)。日本最初の勅願禅寺であり、京都五山および鎌倉五山の上におかれる別格扱いの寺院で、日本の全ての禅寺のなかで最も高い格式をもつ。

 

宮忠理

傍系:宮忠理

通称:十兵衛

生没年:不明

来歴:小奴可定実の曾孫である 定実・・・房忠・・・良次・・・忠理 となる

1591年頃の所領として宮十兵衛 253石とある。

 

主家である宮彦七の家禄が30石に対して、宮十兵衛(忠理)の家録が253石というのは疑問が残るが槍働きで勲功があったのかもしれない。

 

十兵衛も主家の所領回復に奔走した事が窺われる。

 

天正19(1591)年12月4日付「萩藩閥閲録巻149」で小寺鎮賢から宮忠理へ何かしらの嘆願(所領回復か?)をした返事がある。

 

嫡男がおらず宮盛常の三男(少輔五郎)を養子に迎えるが正保年中に暇を願い出て断絶する、その後は不明

 

第8章 時系列 小奴可における奴可氏、宮氏の変遷

 

治承5年(1181):奴可入道西寂が河野通清を討ったが、鞆で遊興中に息子の通信に急襲され、捕らえられる「平家物語」「源平盛衰記」

 

元弘3年(1333):奴可四郎が鎌倉幕府より奴可郡郡司に補せられ、後、摂州に移る。

足利尊氏の反乱により主人である北條仲時自害し殉死する。「西備名区」

 

観応元年(1350):奴可源吾が石州の三隅入道とともに足利直冬朝臣に従い三隅城に籠城する。高師泰が攻めるも落とす事ができなかった。「西備名区」

 

明徳2年(1392):明徳の乱にて山名氏清謀叛の時、大内義弘に従い、山名家臣の小林修理亮の軍を破る、その一人となる。「西備名区」

 

永正6年(1509):小奴可定実が土岐伊予入道一漁より神槍秘術の免状をされる。「譜録」

 

永正16年(1519):小奴可定実の嫡子である宮隆盛生まれる。(1553年の旗返城の討死の時に35歳の伝承から)

 

永正18年(1521):亀寿山城主宮政盛が小奴可宮氏(小奴可亦次郎定実)の柏村(新市町下安井)合戦の働きに対して感状を与える。「萩藩閥閲録」

同日付で宮政盛の嫡子親忠も同じ内容の感情を小奴可宮定実に与えている

「譜録」では大内方の宮政盛、親忠から感状を貰っていると記載されている

 

大永5年(1525):久代宮氏である宮高盛の臣で、亀割城主である鳥羽七良右衛門尉政家が小奴可にある社殿を改築し、社号を妙見宮と称え、篤く信仰したという。

妙見社は今の奴可神社。

 

 

天文2年(1533):毛利元就は後奈良天皇から叙爵をうけ、推挙してくれた大内義隆に興禅寺の住持、策雲玄龍(興禅寺2世)を礼の使者として送る。

 

天文3年(1534):毛利元就が亀山城を攻める、篭城中に小奴可の宮定実が病戦没する 嫡子の宮隆盛は毛利氏に降伏 「譜録」

 

天文5年(1536):毛利隆元を人質として大内へ差し出す時に小奴可の宮隆盛の叔父竹英も加える。

小奴可宮氏3代目の宮盛常が生まれる(父隆盛18歳の時)

 

天文21年(1552):宮盛常が大内晴英に家督のお祝いとして太刀を送り、その返しとして、同様に太刀を遣わす(返礼の使者は青景隆著)

当主は宮隆盛ではなく息子の盛常なのか、天文22年の間違えの可能性もある。

 

天文22年(1553):旗返(三次市)の合戦で、尼子方であった小奴可の宮隆盛は毛利軍と対し戦死する。

嫡子の盛常は若年(18歳)で、本領の内、久代は大内家預かりとなる「譜録」

 

天文22年(1553):12月3日付の書状で山内隆通は「宮家并東分小奴可」など久代宮氏の押領した地一切の領有を毛利氏に要求し、元就の承認を得ている「大日本古文書. 家わけ第15 (山内首藤家文書)216」

 

毛利隆元→策雲(竹英)へ

宮下野守隆盛討ち死にに際し、失った土地はそのうち返されるので安心しなさいと伝えている(5月12日)「萩藩閥閲録」

 

毛利元就→策雲(竹英)へ

久代御当主宮景盛に懇望し久代には12000貫を返納させて、1200貫ばかりにして貰いたいとの申し入れに、元就より異議なしとの返事を貰っている(11月1日)「萩藩閥閲録」

 

毛利元就、隆元→策雲(竹英)へ

毛利親子からそのうち本領安堵になるであろうとの沙汰がある(12月26日)

「萩藩閥閲録」

 

天文年間(1532~55):小奴可亀山城に尼子幕下亀井武蔵守茲経が居城していたという「備後古城記」

亀井武蔵守、亀に似た石があり、よなよな光を放つのでこれを砕いて天満宮の社を建てたので、この場所を亀割と伝える「備後古城記」

 

このころ後の辺城に飯田新助と亀井能登守永綱(秀綱か?)が居住「備後古城記」

亀井氏=元雲州須佐の城主 目代としてこれに住す 尼子晴久の一族にして飯田新助の後主なり「西備名区」

 

飯田新助=小奴可新助で久代宮氏の家臣であった「新山勝男氏所蔵文書の久代宮家之侍衆中にあり」

 

弘治3年(1557):小奴可の宮盛慶が生まれる(父盛常22歳)

 

永禄3年(1560):足利義輝より「下野守」を授けられる、上野信孝が伝える(2月20日)                                                                                                         「萩藩閥閲録」

(お礼として宮盛常から足利家へ太刀一振りと銭100疋、上野信孝に銭100疋を贈る)

 

上野信孝→宮盛常

太刀一振り、銭100疋を差し出した事へのお礼(8月8日)「萩藩閥閲録」

 

竹英が興禅寺で紫衣に転衣となり位を極める

永禄7年(1564):前南禅 竹英が妙寿寺の和尚となる 前南禅=元南禅寺 「明星院伝承」

 

永禄10年(1567):宮隆盛の叔父竹英が亡くなる。

 

天正元年(1573):小奴可の宮盛常が亡くなる(享年38歳)

 

天正6年(1578):奴可の宮元常が生まれる(父盛慶22歳)

 

天正9年(1581)村山檀那帳の中に中郡坂之分(安芸高田市向原町坂)に一合 帯 五明のし 宮中務殿が記載されている。宮中務は宮盛慶(1558~1599)のことで当時小奴可村にはおらず、中郡坂村にいた可能性もある。

 

天正14年(1586):前和尚の明叔元揚死去により元策が興禅寺の和尚となる、同時に妙寿寺の3世となる。

天正16年(1588):毛利輝元より宮盛慶へ「下野守」が伝達される。「萩藩閥閲録」

 

天正19年(1591):穂田元清を通じて小早川隆景へ愁訴(2月1日)

安国寺恵瓊、堅田元慶を通じて小寺鎮賢へ愁訴(11月8日)

国司就信をつうじて小寺鎮賢へ愁訴(12月4日)

 

慶長4年(1599):9月17日 宮盛慶死去

 

慶長5年(1600):関ケ原の戦いじて毛利氏が萩に移封、宮氏も萩に付き従う。

宮氏1591年頃の所領。

 

その他の亀山城主

小奴可宮氏のほかにも亀山城主が3名いた。

鳥羽七良衛門政家

奴可神社の由来書の中に

「室町時代の大永五年宮高盛の臣鳥羽七良右衛門政家(亀割城主)社殿を改築し社号を妙見社と称え篤く信仰した」とある。

 

大永5年=1525である、この当時まだ小奴可定実も健在のため、久代宮氏が入り込む隙は無いように思われるが、由来書ではこのような記載になっている。

 

浄久寺所蔵文書 久代宮氏家臣団名簿の中には鳥羽姓である、鳥羽又三郎という人物もいるようなので、あながち嘘でもないと思われる。

 

ひょっとしたら大永5年ではなく他の年号の可能性もある。

 

飯田新助

久代宮氏の家臣としているが浄久寺所蔵文書 久代宮氏家臣団名簿の中では小奴可新助として出てくる。

また、飯田姓ではいないが小奴可にいる家臣では飯沼新兵衛 同 弥二郎がいる。

 

亀井武蔵守玆経

亀井武蔵守玆経が江戸時代の文献で出てくるが整合性が無い、玆経は1557年生まれで元服することには尼子氏が無くなっている。

 

唯一「西備名区」に記載のある亀井能登守永網が可能性として高い。

 

亀井永綱は玆経の祖父に当たる(妻の祖父)その頃だと時代的にも合う。

 

第9章 小奴可宮氏に関する史跡 伝承等

 

亀山城

史跡としてあげられるのが亀山城である、奴可入道西寂の居城との伝承もあり戦国時代には小奴可宮氏の居城でもあった。

 

まずは文献、資料から城の詳細と城主をピックアップする。

 

『国郡志御用ニ付下調書出帳』

亀山之城 只今ハ森次之城と唱申候 城之由来を尋るに亀山之城と号、治承之頃奴可入道西寂居住、其後飯田新助居住、又雲州尼子より当国を責取 候砌、亀井武蔵守茲経(ナリツネ)其節彼亀似たる石より夜々光りを発ス故に、是を砕テ天満宮之社を建、依而其所 割と申伝候

 

 

『芸藩通志』

龜山城 小奴可村にあり、森次城ともよぶ、治承の比、 額入道西寂所居といふ、後には、飯田新助、これに據れり

 

『西備名区』

龜割城 當城、はしめ龜石城と號けしは、此處によく龜に似たる大石ありしに因て名とせしとそ。其後いかなる故にや取除んとて打けれは、夜な〜光りをはなちける故、取集め、方三十余間に山の如く築上け、其うへに天滿天神宮を勸請し、龜割城と改め名付けしとかや申傳ふ。

 

亀割山亀石城  此城地菅村に界ひせり、故に前に此城主の事跡は菅村に記したり。

奴可入道西寂 同四郎 同源吾 同平九郎

後の邊城 飯田新介

龜井能登守永網

永網一作、安綱。元雲州須佐の城主。

本州に目代として此に住す。尼子晴久の一族下にして飯田の後主なり。

 

『備後古城記』

菅村

(龜石城)(奴可入道西寂) 當村亀石之城は、奴可入道西寂の居城なり、陰徳太平記七十巻には、鞆にて遊宴しける折節、親の敵なれは、河野四郎通信・出雲房宗賢二人して、忍て奴可入道を虜り、伊像國高縄之城にて、親通清の墓の前を、三度引まわし、 首を刎、西寂もさるものにて、墓の上に尿す、是より河野に墓を築事を不用ご云々。又源平盛衰記には 住人河野介通清治四年冬より謀報を起、道前道後の境高縄之城に稲籠、備後国住人額入道西寂数千艘にて押寄 (清)を討取、猶四国を淨んも伊予國に滞留す、道(通)治(清)ノ子四耶通信忍て西寂を生取ご云ふ、異説多し、然れども、当城主に違なし、其後飯田新助住、共巳後尼子幕下、亀井武蔵守慈経居城す、當城を亀石之城といふ 亀に似たる大きなる岩有、去によりて、亀石之城といふ、其後知何なる故にや、此石をうち破けれは、夜な~ 光りを放ちける故、取集、四方=十間余に築きて、天滿宮を動講し、亀割之城を改號しけるさなり。

 

『備後風土記巻之一』

小奴可村(菅村共にあり)、亀石の城跡は養和 元歴の頃、奴可入道西寂の居城よし、その後、飯田新助居住す又、其後、尼子幕下、亀井武蔵守慈経、天文年中、居城のよし、当城、亀に似たる大きな、岩あり、依て亀石の城と称す、後、故ありて此石を打割、取集め、。四方三十間余に築上げ、天満宮を勧請し、亀割の城と改め号しけるとぞ・・・・・・

 

 『比婆郡史』

亀山城址

大字小可小字龜割にあり森次城とも称す養和の頃奴可入道西寂所居といふ、その後飯田新助資賢據れりしを、尼子氏これと陷れ、龜井武職茲經をして守らしめぬ。當時龜に似れる大石あり、依て、龜石城と称へしが、後その石と打砕き方三十間余に築き上げ天満宮を勘請し龜割城と改稱せりといふ。今の天満宮境内てれなり。近年此地の附近より刀剣甲胃の類と堀り出し事あり。

 

 『広島県の地名』

亀山城跡 東城町小奴可

小奴可盆地西南の(標高五九〇メートル、比高四〇メートル)に築かれた山城。

 

「備後古城記」「備陽六郡志」「西備名区」「芸藩通志」などによれば、治承(一一七七~八一)から元暦(一一八四~八五)の頃、奴可入道西寂の居城であったという。

 

治承五年、伊予の住人河野通清が源頼朝の挙兵に応じ高縄城(跡地は現愛媛県北条市)にこもったため、平氏方の西寂は三千余騎を率いて鞆浦(現福山市)から攻寄せ、通清とその子通員を捕らえ殺したという。

 

その頃関東にいた通清の子四郎通信はこれを聞きひそかに帰り、翌年鞆浦に凱旋して祝宴を張っていた西寂と子宗賢を襲って捕らえ、父の墓前で引回しのうえ鋸で首を引落したという(吾妻鏡、平家物語、源平盛衰記)。

 

その後当城には元弘年中(一三三一~三四) に奴可四郎、観応―貞治(一三五〇~六八)の頃奴可源吾、明徳年中(一三九〇~九四)には奴可平四郎が居城したという。

 

戦国時代には宮氏の一族小奴可氏が本拠を置いたといい、小奴可隆盛は天文二二年(一五五三)尼子晴久に味方し備後国江田の旗返(現御調都御調町)で毛利氏と戦い戦死するが、家督を継いだ小奴可盛常は毛利元就・隆元の許しを得て毛利家臣となったという。

 

また一説に戦国末期に亀井能登守永網が尼子氏の幕下として出雲国から移ってきたとか、天文の頃には亀井武蔵守茲経が居城したとも伝える。

 

本丸は約一千一四平方メートルで、独立丘陵の頂上部を削平。搦手の南東部分は高さ一・五メートル、幅ニメー トル余に地山を削り残して土塁としている。

 

本丸の北則大手には一段下がって本丸を取巻く形で二の丸をつくり、 東側に二段の小郭を設ける。二の丸の北側には丘陵をY字形に切落した大空堀を設け、さらにその北側の丘陵先 端に二段の郭を設ける。

 

本丸の搦手は急崖で、その下にも郭状の平地や空堀が設けられる。

 

比高が低く小規模な城ながら本丸からは小奴可盆地が一望され、とくに諸方から盆地への入口すべてが把握できる地の利をえた堅固な山城である。

 

居館は本丸の西側の麓にあったと伝え、 約一千五〇平方メートルの郭状に築かれた平地が残る。

 

居館跡の北西の隅に要害桜とよばれる根回り六・五メートルの桜の古木がある。

 

『日本城郭大系』13

明治31年、備後の奴可・三上・恵蘇の三郡は合併して比婆郡と呼ばれるようになった。

 

亀山城のある小奴可盆地はそれまで奴可群に属し、「郡内第一の広き郷にて、昔、郡庁のありし地なるべし」と「芸藩通志」は記している。

 

北方や西方を中国山地の山々に囲まれて、現在はのどかな山村の風情をみせるこのあたりも、往時は伯耆・備中との境を接し、枢要の地を占めたと思われる。

 

亀山城主であったといわれる奴可入道西寂は、治承4年、伊予の住人河野通清が反乱を起こして、道前・道後の境にある高縄城に籠ったため平氏の命により鞆の浦から兵船をととのえて押し寄せ、これを討ちとったという、しかし、その後通清の子息四郎通信は遊宴中の西寂を襲い、父の墓前で引きまわしのうえ、首をはねたという(源平盛衰記、陰徳太平記)

 

この城は戦国時代には宮氏の一族である小奴可氏が本拠を置いた。

 

小奴可隆盛は天文22年(1553)尼子晴久に味方し備後国江田の旗返で毛利勢と戦い戦死するが、家督を継いだ小奴可盛常は大叔父で郡山城内の興隆寺の住職策雲竹英の奔走によって毛利元就・隆元の許しを得て毛利氏の家臣となった。

城は国鉄芸備線小奴可駅の約500m南にある小高い丘の上に築かれており、この東側直下を国道314号線が南北に走っている。

 

本丸は丘陵頂部を39m×26mに削平し、背面の南東部分は高さ1.5m幅2m余に地山を削り残して土塁としている。

本丸の北側はこれをとりまく形で二の丸をつくり、東側に二段の小郭を設けている 。

 

二の丸の北側には岩盤をくり抜いた空堀を設け、さらに丘陵の先端に向かって二段の郭を設けている。

 

本丸の背後には空堀や土塁で区切られたかなりの空間があるが、後世のタタラ製鉄による砂鉄採掘壙(鉄穴溝)で区切られており、 複雑な地形を呈している。

 

また本丸の西側の谷に面して居館があったという30m×50mの台地があり、その一角には要害桜(県天然記念物)が影を落としている

 

『東城町史 通史編』

亀山城は小奴可盆地の南側寄りに位置し低地からの比高約三〇メートルの独立丘陵上につくられている。

 

「備後古城記』や「備陽六郡志」『西備名区』などの史料によると平安時代末ごろには奴可入道西寂が居城したとされ、戦国期には、山陰尼子氏の家臣の亀井氏が居城したとされる。

 

奴可氏は平氏の家人とされているが、この奴可氏が平安末に築城したとの伝承はともかく、構造的にみて小奴可盆地を基盤とした国人衆が、遅くとも室町期前半には築城 したのであろう。

 

『萩藩閥閱録』によると、亀山城は宮氏一族の小奴可宮氏が本拠としていたとされる。

 

小奴可宮氏は久代宮氏と同じように尼子氏と結びながら勢力を伸ばしているが、天文二十二年(一五五三)に毛利氏に服属したのちも小奴可を基盤に存続しており、この亀山城は、毛利氏の尼子方への備えの城として大きな役割があったと考えられる。

 

 

以上が亀山城の城主に関する記載がある書物であるが、

城主として奴可入道西寂、奴可四郎、奴可源吾、奴可平九郎がおり、飯田新助や亀井武蔵守玆経など、外部の人間が城主を務めている時もあったようだ。最終的には関ケ原の戦いまでは小奴可宮氏が治めていたと思われる。

 

伝承として、亀井氏が城主の時に亀に似た大石があり夜光るので打ち砕きその石使用して天満宮を勧請して亀割城と改名したという。

 

亀山城の形態についての資料

 

広島県教育委員会『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』

概要

最高所の1郭南東側に土塁があり、さらに南東下には空堀が迷路のように設けられている

1郭の北から西下に最大規模の2郭があり、その北に堀北がある。

 

2郭の西下の郭は居館跡と伝えられ、北西隅には県天然記念物の「要害桜」が立つ。

 

 

『東城町史 自然環境 考古 民族 資料編』

 遺構の状態

亀山城の遺構は、山頂部の 削平段を主郭とし、その周囲の七つの削平段(郭)で構成された山城である。

 

主郭は、南側が一段高く本丸であったとおもわれるが、北側の削平段との段差はあまり明確ではない。

 

主郭の東南端には、自然の地盤を削平して 土塁状に残した施設がみられる。

 

北側は深い堀切で画されており、堀切の北には土塁状の高まりがみられる。

 

また、主郭の東南側麓には、小さな堀切や土塁状の遺構があり、西麓には、居館跡といわれる長方形にちかい平坦地がある。

 

各郭の削平はていねいで郭や堀切部分の切岸も明瞭で 小規模ながら山城の構造としては、堀切や土塁、切岸の整備など防御施設がよく整っているといえる。

 

特色

城域を郭群で囲み、郭も地形に沿って段状に配していることや、堀切、切岸の発達など構造からみると室町後半期の城の特徴をもっている。

 

しかし、本城が、小奴可盆地を一望できる要地を占め、しかも低い独立丘陵を利用して築いていることなどから推測すると城の縄張りの成立は、さらに遡るものと推定される。

 

恐らくは、はじめは西麓の居館および山頂部の削平段が設けられ、その後、室町後半ごろになって山頂部削平段の拡張や堀切、土塁、切岸 などの施設が整備されたものと考えられる。

 

本城の城主、歴史などを明らかにする史料はないが、江戸時代の『備後古城記』や『備陽六郡志』、『西備名区』 『芸藩通志』などによると 平安時代末期のころは奴可入道西寂が居城し、その後、鎌倉、室町期には、奴可四郎、奴可源吾、奴可平四郎、飯田新助と続き、戦国期の天文年中ごろには、山陰尼子氏の家臣の亀井氏が居城したといわれている。

 

平安末に築城されたとの伝承はともかくとして、 鎌倉期になると小奴可盆地を基盤とした国人、土豪層が地域支配の拠点として亀山に城を築いたものと推定できる。

 

亀山城の鳥瞰図、イメージ図

余湖くんお城のページより引用。

山城賛歌より引用

城域画像

要害桜が有名。

亀山城看板。

登城口。

要害桜がある場所が居住跡と伝わっている。

二の丸跡、切岸もしっかり加工されている。

 

亀山城跡

丘陵を利用して築かれた山城で、亀石城とも呼ばれ、本丸以下段状に郭が8カ所築かれ、いたるところに堀切や土塁がめぐらされている。西方のふもとが居館跡と伝えられ、一角に要害桜が名残りをとどめている。

 

この城に関する正確な史料は現存しないが、近世の文献によると、平安時代末期には、奴可入道西寂の居城であったとされ、その後、奴可四郎・奴可源吾・奴可平四郎・飯田新助・亀井武蔵守玆経らが居城したというが明らかでない。

 

戦国時代の永正年間から慶長年間までは、宮氏の一族である宮下野守定実・同隆盛・同盛常・同盛慶らのいわゆる小奴可宮氏が居城していた。

 

このうち隆盛は、尼子氏に味方し毛利勢と戦い戦死するが、その子盛常は、許しを得て毛利氏の家臣となった。

平成十九年三月 庄原市教育委員会

本丸跡。

本丸にある土塁。

土塁を下から見上げる。

本丸からの風景。

亀山城全景。

古地図にある亀山城

『芸藩通志』小奴可村から抜粋。

亀山古城跡と亀割天神となっている。

天保10年(1839)頃の地図。

 

亀山城の伝承

亀山城のこと

亀山城は、亀石城、亀割城とも呼ばれる。

此処に亀によく似た大石があり、夜な夜な光を発していた。その石を割って、30間四方に築き上げ天満宮を勧請した。よって、亀割城と呼ぶようになったという言い伝えがある。

 

小奴可公民館編(1980)「ふるさと小奴可(第1部 歴史と民話)」

 

須村家と松

亀山城が尼子氏の軍勢に不意に攻められ、落城したときのことである。

 

討ち死にする者、逃げる者でごった返す中、亀山城の家老をしていた須村氏は、敵と渡り合っているさいちゅう、庭の松の枝に鎧の袖を引っかけて、よろめいたところを敵に踏み込まれて、討ち死にしてしまった。

 

須村氏の子孫は、それ以来、先祖の霊を慰めるため、現在でも決して庭に松の木を植えないのだという。

 

弓場と呼ばれる場所がある

昔弓を放ったが城まで届かずこの場所に落ちた為。

※亀山城の南東の地名に「弓場」という地名がある。

 

尼子に縁の家がある。

 

亀山城はこの場所ではなく、他の場所である。

 

山崎木材の対面の山が「雲光寺山」という山であるが、昔寺があった、この寺がある部分と亀山城の山頂の高さが同じである。

「寺が平」テラガナルと呼ばれる部分。

 

成羽川は昔氾濫を起こしており、奴可神社の前身である妙見社があった場所のあたりでは井戸を掘っても砂ばかり出て水が出なかった。

 

小寺という屋号の家の場所は昔浄土真宗のお寺があった。

 

亀山城の場所が現在の場所ではないという伝承

現地の方に色々確認すると、現在の亀山城とは違うところに亀山城というものが存在している可能性がある。

それを1つ1つ検証する

 

1つ目の城

1つ目は庄原市にも指定されている亀山城。

こちらは、市町村史などにも記載されており、一般的に認識されている亀山城

 

2つ目の城

2つ目は亀山城の対面にある小山で地元の方の話ではこちらが亀山城との話もある。

 

この場所の地名が「亀割」というところで、古地図にも亀割と記載されている。

 

また、「西備名区」などの記載では亀割城とあり、天神様を祀ったなどの記載がある。

 

実際に山頂には天神を祀っていた基礎の残決が残っており、小山全体も加工されている雰囲気もあり、ここに城(砦程度か)があった可能性も否定できない。

 

戦国時代以前は①と②の間に道なども無かった可能性もあり、1つの山として一体化しており曲輪の一部だった可能性もある。

 

亀割城と呼ばれる部分の削平地。

石垣(後世のもの)。

山頂にあった天神社の基壇部分。

江戸時代の古地図にも2か所表記されている。

 

3つ目の城

3つ目は亀山城の東にある丘陵

「ホノギ」という場所にあったとの伝承がある。

丘陵状になっている。

現地の状態。

 

後世に畑として利用されており、原型を留めていない。

 

ただし、丘陵の上にある程度まとまった削平地があったのであれば、この場所に居館跡や砦があっても不思議ではない。

 

亀山城と川を挟んで向かい側にあり、敵の来襲時に挟撃できる立地でもあり、砦や居館があったとしてもおかしくはない立地。

 

4つ目の城

4つ目は小奴可小学校の上に山にあったとの話がある。

 

広島県教育委員会で「広島県中世城館遺跡総合調査報告書」で調査をされた方に聞き取り調査をした結果、小学校の裏山にも城があるとのことであったが、すべてを載せることができなかったので報告書には載せなかったとのこと。

 

現在は小奴可小学校の移転時に造成工事もしており遺構が消失している可能性もある。

 

山頂部分は削平地になっており陣があっても不思議ではない状態であった。

 

この山の対面の山も城との伝承があり道を挟んで挟撃できることも可能、

 

また亀山城は標高約580mに対してこちらは613mとこの地域では最高峰になる為、見張りの砦があってもおかしくはない。

 

5つ目の城

5つ目は可能性として非常に高く感じる

江戸時代には神社があった。

手水鉢も残っている。

山頂にある祠とその後ろにある土塁。

城域には中世の五輪塔や宝篋印塔が積まれているエリアもありこの地域の支配者階級の墓だと思われ、この場所が特別なところだと確信できる。

宮氏の墓だと思われる宝篋印塔。

 

この後述するが、この城域に多くの古い墓石があり、中心的な所だと推測される。

 

更にこの山の地名が「亀山」であることも亀山城の要因でもある。

実際にこの場所が「亀山」でありここに城があれば「亀山城」となってもおかしくはない。

 

小奴可宮氏縁の墓

小奴可小字奴可部(ヌカベ)にある山の中に古い墓があり、その形態から鎌倉末期から戦国時代までのものがある。

亀山城との伝承がある山林の中にひっそりとある。

 

2基の石塔とも、笠と塔身だけが宝篋印塔のもので、相輪のところには、五輪塔の空・風輪が載り、基礎の部分ははっきりしないが、別物が積まれている。

宝篋印塔の笠を見ると、右は隅飾(突起)が直立に近く、左の笠の隅飾は少し反っている。しかし、だいぶ風化しているが、強いて時代の判定をすると、右の笠が室町前期、左が室町後期とみたい。

ただ、注目すべきは、右の五輪塔の空・風輪は、空輪が幅の広いお椀のような風輪に食い込み、形がよいので、南北朝に近い室町前期とみてもよいかもしれない。塔身には仏像が刻まれていますが、これは地域の特徴かもしれない。

もっとも、宝篋印塔の時代判定の大きな決め手になる基礎に格狭間があれば、さらに時代がはっきりする。

 

左の五輪塔は空・風輪を欠いているが、火輪、水輪、地輪は同時代相応のものが揃っている。

火輪は軒の厚さが薄く、両端がわずかに反り、軒の厚さが中央部より両端がわずかに厚みがあるので、室町前期とみてもよいと判断する。

水輪の円球の形もよく、地輪は扁平なところが室町でも前期とみたいところ。先の宝篋印塔の右の空・風輪が大きさも合い、バランスよくここに収まれば、室町前期、もしくは南北朝とも言える形のいい五輪塔だと考える。

 

右の石塔は空輪、風輪、火輪は五輪塔のものですが、下の2石は宝篋印塔のものだと判断。

 

火輪は左の五輪塔と同じで室町前期とみたいが、空輪は先が尖り、時代が下がる形をしている。

 

江戸時代に近い室町後期でしょうか。この空・風輪が時代を下げるので、世代を重ねた墓地と考えられる。

 

以上、石塔部分の形の特徴から時代判定を試みたが、この墓地には室町前期から後期までの2世紀前後の石塔があると判断する。

 

また、宝篋印塔も混在しているので、土豪や地侍が考えられる、したがって、活躍の時代も整合する小奴可宮氏の墓所である可能性が高いと思われる。

 

雲光寺山寺院跡

山崎木材の道を挟んだ山を江戸時代は雲光寺山と呼ばれていた。

 

現在も地名が雲光寺となっており、寺が存在していた、現在小奴可には見性寺がある。

 

開基も1425年と古いが、当時は現在ではなく持丸にあった。

 

いつ頃現在地に移転したかは不明だが、小奴可宮氏縁の物もなく伝承なども伝わっておらず宮氏との縁は無いのではないかと思われる。

 

半面、この雲光寺に関しては「高さが亀山城と同じ高さの位置に建立された」という伝承もあることから少なからず縁があると推測する。

 

現地には五輪塔の残骸が僅かに残っているのと、土塁様な土の盛り上げが確認できる。

 

山中ということで広くはなく、また後世の炭焼きで改変されている部分もあると思われる。

 

雲光寺の伝承として、この山の中にため池があり、僧侶が身投げしたとか、池の中には金の茶釜が沈められていると言われている。

 

また、寺があった場所の地名は「寺が平」(テラガナル)で近隣に住んでいる方の屋号は「雲光寺」と呼ばれている。

 

基壇部分と五輪塔の水輪部分。

 

第10章 小奴可宮氏に縁のある氏族

宮下野守家と久代宮氏

 

小奴可宮氏の主家にあたる家と推測。『萩藩閥閲録』の中で永正18年(1521)宮政盛、親忠親子から柏村での合戦の感状があり小奴哥亦次郎(小奴可定実)が活躍している。

 

しかし、戦国時代の中期以降になると小奴可氏の没落と久代宮氏の所領押領で苦しくなってくる。

 

『広島県史 中世』には以下の記載がある。

 

宮下野守家の勢力は早くから奴可郡におよんでいた。

 

すなわち、南北朝初期の盛重は吉備津社中興寺に奴可郡宇計原村(比婆郡東城町受原)を寄進しており、師盛は文和四年(一三五五)さらに西条森村の内(同町森)・山野村大原名田畑 (所在地不名)・戸宇郷の内(比婆郡東城町戸宇)を寄進している。

 

降って明応五年(一四九六)、政盛は山内直通に未渡村(同町帝釈三渡)を公用の地であるが進め置くと述べており、これは幕府料所で政盛が代官として支配していたところを山内氏に与えたのであろう。

 

宮下野守家のこうした奴可郡における勢力浸透を前提として、久代宮氏と小如可宮氏が成立する。

 

久代宮氏は、「久代記」によれば大和字陀郡より下向したと伝えているが、確かなことは不明である。

 

奴可郡久代(同町久代)の比田山城を本拠としていたが、文亀二年(一五〇二)に源親盛、永正十五年(一五一八)に源尚盛がいずれも西条久里村(比婆郡西城町栗)の熊野神社を修造しているから、源姓を称したこのころには西条(奴可郡の西半分)にも勢力を拡大 しており、奴可郡全体におよぶ豪族となっていた。

 

天文二年(一五三三)宮高盛のとき城を久代から西条入江大富山城に移したと伝え、上総介高盛(天文九年っ没)―上総介興盛(天正七年没)―上総介景盛続く。

 

宮上総介は天文六・七年に尼子氏に従って備前方面に出陣しており、その後も小奴可宮氏の所領を押領し、西隣の山内氏と領地を争っ て勢力拡大につとめている。

 

このように尼子氏と結びながら奴可郡一帯の豪族となった久代宮氏は毛利元就の警戒するところとなったが、天文二十二年に毛利隆元の師である小奴可宮氏出身の興禅寺策雲元龍の計らいもあって、毛利氏代にも存続したのである。

 

なお、この小奴可宮氏の出自は明らかでないが、奴可郡小奴可(東城町小奴可)を本拠地とし、小奴可の亀山城を居城としていた。

 

永正十八年(一五二一)の柏村表における小奴可宮氏の軍忠は宮政盛・親忠という下野守家より賞されており、下野守家の家臣のような地位にあったものとみられる。

 

宮下野守家家系図。

最後の当主辺りの政盛や親忠の時代に小奴可定実が柏村合戦にて感状を頂く。

久代宮氏家系図。

宮景盛時代に小奴可の土地を押領されたと思われる。

小奴可宮氏家系図。

元常までが小奴可におり、元常も関ケ原の戦い以降は萩に移封する。

 

 

おわりに

おわりに

今回、小奴可宮氏についての記載をしていた、備後国から北に向けて大勢力を維持していた宮氏が実は『平家物語』に出てくる奴可入道西寂の子孫かもしれないというロマンを刺激する伝承もあるが、備後国品治郡という備南地方が何故備北地域まで抑えていたのかの謎も理解できた。

 

鎌倉、室町時代には一族も大いに繁栄して多くの庶流を輩出し、また時に競合しながら生き残っていった。

 

この宮氏の惣領家だと思われる、宮下野守家の家臣という位置づけにある小奴可宮氏であったが、その勢力範囲が奴可郡一帯にあると考えれば、庶流の一族が小奴可という地域にとどまり在地化していってもおかしくはない。

 

 

それはかなり早い段階ではなかったかと推測する、戦国時代の小奴可宮氏と鎌倉時代末期から室町時代前半に活躍した奴可氏の後身が小奴可宮氏だと思うのはやや飛躍的な考え方かもしれないが、山中にひっそりとある古墓を見ると、200年間位の差があるので、小さいな勢力にも関わらずしっかりと、この地域に根差した勢力と考えたい。

 

また、『萩藩閥閲録』や『譜録』などの古文書から没落した国衆が所領返還の愁訴を繰り返していた悲哀を感じることができた、おそらく小奴可宮氏だけでなく、国中の没落した国衆・地侍が少しでも所領の回復、地位の回復を求めて嘆願していたと思われる。

 

しかし、この小奴可氏は備南地方に大きく勢力を張っていた宮氏よりもしたたかに乱世を生き抜いた、数多くの宮氏が大内や毛利に攻め滅ぼされたり、久代宮氏のように、出雲に移封した後に消息が不明な点を考えれば、小奴可宮氏は萩藩で無給通と言えども藩士として存続した。

 

どの地元にも歴史がある、そしてその歴史の歯車が回転して大きな歴史的事件が回ることになる。

 

小奴可という地域で小奴可氏という国衆のみで切り取っても、亀山城、古墓、神社仏閣跡など多くの歴史的な史跡に恵まれている。

 

これらを丁寧に調べていき、更に眠っている史料などが発見できれば更に発展できる可能性を秘めている。

 

また、今回の調査では数多くの方々の協力なしには完了できなかった、更には地元の方々の伝承、口伝などの情報から判明したことも多く、改めて地元の力を頼る事となった。

 

参考文献

『東城町史 通史編』

『東城町史 資料編』

『広島県史 中世』

『広島県史 古代中世資料編Ⅴ』

『芸備地方史研究280 備後国の平氏家人 奴可入道西寂について』斉藤拓海著

『西備名区』

『備後古城記』

『久代記』

『毛利八箇国御時代分限帳』岸浩著

『萩藩諸家系譜』岡部忠夫著

『芸藩通志』

『日本城郭大系』13

『広島県の地名』

『広島県地名大辞典』

『広島県の古石塔』蔵橋純海夫著

 

参考URL

太平記 第九

太平記 第二十八

太平記 現代語訳 28-3 高師泰、石見へ遠征

宮氏の素性(新資料から考察する備後国人衆)

城郭放浪記 石見三隅城

武家家伝宮氏

大日本古文書. 家わけ第15 (山内首藤家文書)

大館常興日記 : 一名・公儀日記. 第4 NO18 

「郡山城と城下の構造を再考する」講義録

余湖くんのお城のページ 亀山城

山城賛歌 亀山城

西国の山城 亀山城

古城盛衰記 亀山城

小奴可の里 自治振興区

 

公開日2021/11/14

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