目次

中世の秋山村と秋山氏

はじめに

広島県広島市安佐北区白木町秋山には中世には秋山村の前身となる三田新庄の上村があり、戦国時代に秋山村へと発展、またこの地には後に毛利家の譜代家臣となる秋山氏が活躍した地である。

秋山氏がいつ土着したかは不明であるが13世紀後半から遅くとも15世紀後半までにはこの地域に土着した可能性がある。

戦国時代この地域は「中郡衆」と呼ばれた国人領主がおり、毛利家の発展に寄与した氏族がいた、秋山氏もその「中郡衆」の一人であった。

しかし、同じ譜代家臣で「中郡衆」の井原氏の息子を養子として家督を譲り、またその息子も毛利輝元の命により、苗字を井原に復姓した為、関ヶ原の戦いの前に秋山氏としては断絶してしまう、その為、詳細が伝わっていない。

ここに、文献等や周りの状況から秋山氏の行動を詳細に確認して、戦国時代に秋山氏がどのように発展していったかを調査してみたいと思う。

まずは、秋山氏の調査と共に、この地域の地名となった「秋山」についても考察してみたいと思う。

 

凡例

1 この冊子は、中世の秋山を舞台に活躍した秋山氏とそれに関わる事柄についてまとめ、中世の秋山の歴史を理解する手がかりとするため作成したレポートである。

2 漢字・かなづかいは、原則として当用漢字・現代仮名遣いを用い、資料の引用にあたっても出来るだけこれに準じて改めた。

3 資料の引用部はゴシック体で表記し、文中または引用文の後ろ及び脚注に資料名を付した。

4 本文中は原則として算用数字を用いたが、出典の引用資料中の漢数字は一部そのまま表記した。

5 掲載した図のうち、山城等の鳥瞰図は全て余湖浩一氏のホームページ「余湖くんのホームページ」(http://yogokun.my.coocan.jp/)から引用、または同氏に作図を依頼した。

6 収録した写真は筆者が作成した。

7 本冊子の執筆は筆者が行った。

8 古文書等で秋山の記載があるところは下線を付した。

9 古文書等の□は、欠字や不明な文字などを表す。

 

第1章 中世の秋山村

1節:平安時代の秋山

現在の広島市安佐北区白木町秋山は中世のある時期から秋山村が存在していた。

安芸国には八郡があり管内には沼田、賀茂、安芸、佐伯、山県、高宮、高田、沙田(豊田郡があった、その中の高田郡の中には三田、豊島、風早、麻原、川立、船木、粟屋の七郷が存在していた。

芸藩通志によれば、「三田は今三田村あり、豊島は今戸島村あり、麻原は今小原村あり、川立は今甲立村あり、船木粟屋も皆村名あり、只風早の郷詳ならず、応徳年の文書に風早郷帆垣村とあり、然は今保垣村辺の諸村古の風早郷なるべし」と比定した。

芸藩通志は三田郷についてさらに言及し、「仁平四年(1154)三田郷立券文書あり、其所載村名、小越村、志路村、須澤村、波多食原村、加津見村、堀越村、粟原村、梁原村凡八名なり、小越、志路は今其村あり、須澤、波多食原、加津見は今秋山村の内地名に須澤、畑杭、川角あり、粟原、梁瀬、堀越は皆三田村内の地名なり仁平の間皆各一村たりしにやとある。(註1)※堀越は秋山村内の地名誤り

仁平四年の文章は失われており現在伝わっていないが、別に応徳二年(1085)の高田郡司解があって、その中に現在の秋山の小字に比定できる場所が4村記載されている。

鑿越村(字中賀、字鑿越畠、鎌蔵寺字鑿越)

須佐は村(打開字久リ屋谷畠、字樌脇畠、字七三田、字中原、字出見畠、字今井畠寺地)

波多久比村(字波多久比畠)

加津見村(字加津見畠)

 

 

江戸時代には秋山村の字として(横路 向瀬戸 畑杭 無連子 川角 堀越 傍示 須沢 藪山谷 大槌)などがある。

鎌倉時代になると、古代の三田郷は行政上細分され、寛元の頃(1243~46)作成された安芸国国衙領往進状では国衙領に三田郷・小越村・三田久武・志道村・井原村などがあり、かつ厳島神社の荘園に三田新庄があり、上村と下村に分かれていた。井原・志道・小越の諸村は近世の村名に繋がるものであるが、市川・秋山・三田の村名はまだ見られなかった。.

(註2)

 

2節:三田新庄内の秋山について

白木町史によれば以下の記載がある。

三田新庄

応永四年(1397)の厳島神社社領注進状の内、神領に三田新庄があるので、三田新庄は鎌倉時代に成立した厳島神社の庄園であった。三田永井氏に伝来した永仁六年(1298)五月の安芸国三田新庄上村と下村との境を定めた和与状があって、そのうちいく分でも現在の地名に比定できるのは次の山野の境である。(註3)

永井文書

一 藤原氏代使源光氏藤原親教連署和與状

和与 

安芸国三田((高田郡))新庄上村与下村境事

條々

一田畠境事

右互可守前御使下妻孫次郎入道浄一熊谷三□(郎)□(四)□(郎)入道行連((頼直カ))之牓示者也、但就富御使小早河美作前司忠茂武田孫四郎泰継之復検、自下村所被取出之田畠三分一者、吉氏屋敷中分之時、以下村分之田畠可被付上村由事、相互和与之上者、不及申子細

 

一山野境事

右自河以東者、自七曲道上者可限柚木谷也「安駄与布山間也」、但布山并平等寺兩狩倉西之者、自七曲一至于平等寺大谷者可限レ道者也、自大谷向北者、上原源次郎林西際江直仁通天可堺也、次友安名栗林者、上村當知□((行))之上不可有相違者也、次平等寺布山兩狩倉内      (堺)(西ヵ)栗林替者、吉氏之屋敷中分之時、以下村分之田伍段可付上村者也、自河以西境者、上村三郎丸名之田与下村富知行之林境与里始天、貝((市)平(川))之峯尾於西江通天可限者也、

 

一小押越狩倉内目籠大丸小丸可被付上村、但件堺者、限西鞍橋木道、限南北大宇通道也、

 

一吉氏屋敷事

右雖爲上村最中、相互以和与之儀、可令中分知行者也、次吉氏押領分林事、兩方可被等分之沙汰也、

 

一八幡新宮神田事

右同雖爲上村最中、以和与之儀云耕作事云神事段、任前御使之例、隔年一年通ニ可被其沙汰者也

以前條々、子細雖多之、所詮永止相論之儀定堺畢、此上若雖一塵一、越立置堺等相互令致違乱者、爲上裁可被付所領於一方者也、仍爲向後龜鏡和与之状如件

  永仁六年(1298)五月 日     藤原氏代使源光氏(花押)

                  藤 原  親 教(花押)

出典『広島県史古代中世資料編Ⅳ』永井文書

 

【大意】

和解した安芸国三田新庄上村と下村の堺のこと。

条々。

一つ、田畠堺のこと。

右の堺について、互いに前の御使下妻孫次郎入道浄一と熊谷三郎四郎入道行蓮が定めた榜示を守らなければならない。ただし、現在の御使小早川美作前司忠茂と武田孫四郎泰継の再検視により、下村から選び出された田畠三分の一は、吉氏の屋敷地を中分するときに、この下村分の田畠をもって上村に渡すべきことについては、事情を申すまでもない。

 

 一つ、山野堺のこと。

  右の堺について、三篠川より東、七曲から道上の間は柚木谷で堺を限るべきである。「安駄と布山との間である。」ただし、布山と平等寺の両狩倉の西の堺、七曲から平等寺に至る大谷は、道を堺にするべきものである。次いで友安名の栗林は、上村が当知行しているので、相違あるはずもないのである。次いで平等寺と布山の両狩倉「堺は以西」の栗林の替えは、吉氏の屋敷地を中分するとき、下村分の田五段をもって上村に渡すべきものである

 

一つ、吉氏屋敷のこと。

右の屋敷地は、上村の当知行であるけれども、互いに和解の取り決めによって、中分し知行するべきものである。次いで、吉氏押領分の林のことは、両方で等分せよという裁許である。

 

一つ、八幡新宮神田のこと。

右の神田は、同じく上村の当知行であるけれども、和解の取り決めによって、耕作も神事も前の御使が定めた先例のとおりに、上村と下村は隔年で勤めなければならない。

 

以前の取り決めには、多くの事情があるけれども、結局のところ永久に相論を止め、堺を決めた。この上、もし少しでも堺を越えて榜示を立て置き、秩序を乱すならば、厳島神主の裁許として、所領を上村か下村のどちらか一方に渡すべきものである。そこで、今後の証拠として、和与状の内容は以上のとおりである。

 

永仁六年(1298)五月 日       藤原氏代使源光氏(花押)

藤 原  親 教(花押)

三田新庄上村と下村との山野の境界は三篠川より東側は柚木谷をもってした。柚木谷は安駄山と布山との間なりとあって、今の大字三田鳥居原を流れる谷川である。榎谷と書き、三田村国郡志書出帳に、「榎谷川、当村安田山布山の間榎谷と申より流出、鳥居原郷にて大川え流入申候」とある。安田山、布山とも大字三田にある山所である。

平等寺跡には薬師堂一宇が残っている。「右平等寺跡は安田山麓なり、奥の谷を平等寺谷ろ云ふ、里俗榎木谷とも云、寺跡は今の堂ある所より半町ばかりも上みの方なる由 此所に土器田と云ふ寺田あり、往古平等寺灯明かはらけ割たるを取集め捨来候所故斯云ふ由、濫觴廃寺等の様子段々相しらべ見れども不知三田村始まりて寺院最初の所と申伝候」と同所にみえている。

川より西側は貝の平の峰をもって境界としたようである。貝の平の地名は今日大字市川に残っていて、市川村国郡志書出帳に「往還道、当村の内井原境油石より秋山村境藤野岡まで弐拾四町、其の間に海の平と申小峠険道にて登下り七町程御座候、此麓大川往古は大きなる渕御座候由、それにつき海の平と唱申候」とある。したがって貝の平峯とは何処を指すのか判然とは言い難い。

およそ大字秋山を中心とした地域が三田新庄上村で、大字三田を中心とした地域が三田新庄下村であった。(註4)

 

青い部分が近世(江戸時代)の秋山村の領域である、永仁六年(1298)の安芸国三田新庄上村と下村の堺の境が確定した時には赤い部分も含めて、三田上村と推測できる。当時の上村(秋山)は現在よりも広い場所を指していた可能性が高い。

 

 

 

3節:南北朝時代の秋山(観応の擾乱と秋山)

観応3年(1352)11月8日、足利直冬の将である今川頼貞が、武田氏信の攻める安芸坂城の毛利親衡を救出しようとして、氏信と戦い、これを打ち破った。その際、吉川経兼が今川頼貞へ提出した軍忠状のなかに、武田氏信の陣取った場所として「三田馳(秋カ)山」の名が見える。

この「三田馳山」が現在の秋山に比定出来るかは疑問もあるが、現在の白木町市川に市川氏がおりこの市川氏は武田氏の一族で天文の初めまで市川星ヶ城にいたと推測される為、市川に近い秋山もしくはその付近に武田氏が陣取っても不思議では無い為記しておく。

※戦国時代後期に吉川一族の市川氏がこの地にいるが、それとは別の市川氏である。

 

吉川経兼軍忠状

吉川次郎三郎経兼申軍忠事

右、可致芸州坂城後攻之由、預御催役之間、今月一日、馳参寺原御陣、即大将御共仕、同八日夜、押寄坂向陣、追落武田兵庫助氏信、要害以下貳拾余ヶ所悉焼払訖、同十三日、氏信取三田馳山陣之間、同十七日、押寄彼敵陣、経兼致自身太刀打、追払御敵等處、被疵如此戦戦功之次第、大将及御見知者也、然者早賜御判為備後證、恐々言上如件、

観応三年十一月 日

「承了」「花押」(今川貞頼)

出典『大日本古文書家わけ 吉川家文書』30

 

【大意】

吉川経兼軍忠状

吉川経兼軍忠の事

芸州の坂城を攻める時、11月1日に寺原の陣から馳せ参じ、大将と共に仕える、11月8日に坂城を取り囲む武田氏信を攻め、追い落とすとともに要害20ヵ所余りを追い払った。11月13日に氏信は三田馳山に陣を構えたが、11月17日にこれも追い払った。

この戦での戦功の疵の具合は、大将も見て知っている、後の備えの為に早々に書状を賜す。

観応三年十一月 日

今川貞頼

観応の擾乱とは:その経緯について

『広島県史』「中世」によれば以下の記載がある。

足利直冬の下向と勢力の扶植

貞和五年(1349)四月、足利直冬が備後国鞆に下向した。長門探題としての赴任の途次であったという。直冬は尊氏の長子であったが、母越前局の身分が卑しかったため冷遇され、叔父直義の養子となった人物である。彼には評定衆・奉行人などが付いており、小幕府的な形態を有していた。

直冬の下向は、尊氏・高師直ら対直義の抗争のなかで直義側の攻勢を示すものであった。けれども、貞和五年八月十四日師直のクーデターが成功し、直義の政務は停められ、腹心の上杉重能・畠山直宗も越前国で殺害された。そして九月初旬、尊氏は近国の国人らに中国探題直冬の追討を命じたのである。杉原又四郎はこの命を受けて、同月十三日鞆に直冬を襲っている。直冬は九州に遁れ、そこでしばらく勢力を蓄えることになるが、その間芸備両国内において大朝本荘一分地頭吉川経盛や、西条氏一族、山形為継、壬生道忠らの南朝側=反幕府勢力の動きも活発であった。また、観応元年(1350)五月には吉川経盛も直冬方の旗をかかげている『吉川家文書』217号

このような情勢のなかで、安芸守護武田氏信(信武の次子)は逸見有朝らの軍勢を率いて、五月二十八日に西条一族の吉岡小五郎や山形十郎らが楯籠る西条郷の城を攻め落とし、ついで六月には吉田荘おいて毛利親衡らを追討し、さらに進んで毛利親衡・寺原時親らが拠る寺原・与谷両城を攻略し、また山形為継・壬生道忠らが拠る猿喰山城もあわせて攻略し、彼らを没落させた『小早川家証文570号』

中略

高氏一族の処刑後、尊氏と直義の間にしばらく続いた和平状態も七月(註:観応2年)には破れて、以後尊氏・直義・南朝の三者の間において鼎立あるいは合従連衡による複雑な政治情勢が展開されるころになる。中国地方では南朝側勢力と直冬側の提携・一体化が次第にはかられていくのである。

安芸守護であった尊氏方の武田氏信は、観応三年熊谷直氏・同直平・内藤教泰・阿曽沼光郷らを糾合して、国内の南朝側勢力の討伐にあたっている『熊谷家文書』216・217・230 2号』『萩藩閥閲録』 巻58・35

武田軍はまず四月十四日毛利弥次郎の楯籠る祢村城を攻め、同十七日にこれも陥落させた。ついで二十二日には、毛利元春の構えた内部城を攻撃し二十八日に落した。元春は逃れて吉田城に楯籠ったが、六月八日降参している。同十五日より武田軍は親衡の楯籠る坂城攻撃を開始した。親衡は約六ヶ月の間武田氏の攻撃を持ちこたえた。なお、十月中旬には直冬方の先遣隊が石見国から安芸国へ入っていったが『吉川家文書』1053号、大将今川頼貞は十一月八日坂城を取り囲む武田軍を攻め、氏信を追い落とすとともに要害二十余ヵ所を焼き払った。氏信は十三日に三田馳山に陣を構えたが、頼貞麾下の直冬軍は十七日にこれをも追い払ったのである。同上30号。こうして直冬方は毛利親衡らの宮方勢力を取り込むことによって、安芸国北部に大きな勢力を扶植することになった。なお、こうして直冬は同年十一月十二日宮方に帰順していた。『園太歴』文和二十年正月十日条(註5)

 

 

4節:秋山村としての初見

秋山が地名として古文書に出てくるのは戦国時代末期のことである、京都方広寺大仏殿の造営の用材として地名としての秋山村の名前が初めて出てくる。

陰徳太平記によると、豊臣秀吉は大仏殿造営のため天正十四年(1586)四月全国に令して良材大木を求め、これを京都に運ばせた。その節秀吉は寺沢志摩守をして毛利輝元に俊乗坊の故事をひいて、中国は山の深い所で昔は大木があったが、定めし今日も大木があることであろう。あまねく中国の山々に大木を求めて京都運漕せよといわせた。

輝元は杣人数千人を動員し、多くの大木を京都に送ったが、その内「芸州三田山より根口一丈二尺の大木ありしを大船数艘にて漕上せければ秀吉公かかる大木も有りけるにこそとて甚だ感称し給ひけり」という。このような大木は外に一本琉球より求めてきたのみである。それに関する三田村の伝承によると、その木は柳であった。柳原八幡宮の境内に切り株の跡と称するおよそ一畝歩の窪地が後世まで残っており、いかに大木であったかが知られた。伐採のとき輝元は三田村に来て報恩寺に本陣をおいて三日間滞在した。木出しには六か国の杣人夫がそれぞれの地方の木遣り歌を唄い興味あることであった。しかし柳の木は京都へ運漕の途上惜しくも備前沖の白石島辺で岩礁にあたり根元が裂けたといわれる。もちろん根元の裂けた木を秀吉が感称する筈はないので、その一本に限らず多くの大木が拠出されたのであろう。(註6)

木を求めたのは三田村ばかりではなく、井原村や秋山村からも搬出された、ここで初めて秋山の名前が出てくる。

 

 

急度申候、京都隙明下向候、然者内々被仰下大仏殿材木之事、早速可差上之由候之条、索縄・河普請道具有用意、人数被召連、至芸州井原・秋山可被打出候、不可有油断候、謹言

(天正十六)九月廿日

                          輝元

 入江喜三郎殿

                                     出典 『萩藩閥閲録』巻149「尾崎新左衛門」1

 

急度申候、京都隙明下向候、然者内々被仰下大仏殿材木之事、早速可差上之由候之条、索縄・河普請道具有用意、人数被召連、至芸州井原・秋山可被罷出候、不可有御油断候、恐々謹言

九月廿日

                          輝元

 福頼殿

                       出典『宮本文書』(天正16年)9月20日毛利輝元書状

 

 

【大意】

(輝元が)確かに申しあげます。(輝元は)京都での任を終え、下向しました。その様なわけで(秀吉から)内々に仰せがあった大仏殿造立のための木材を早急に(秀吉へ)献上するため、(福頼殿は)索縄と河普請の道具を用意され普請の人数を召連られて、芸州井原・秋山に向かってください。(作業に)ご油断があってはなりません。かしこ。

天正16年9月20日

輝元

 

福頼殿

 

 

如数度申候、大仏殿材木早々可差上之由追々被仰下候、誠国家一大事之儀ニ候、此時各励力可差出候、年内津出可申付候、彌向寒天候間不可有緩候、至三田秋山早々可被罷出候、謹言

      九月廿五日

                          輝元

   多賀彦四郎殿

                   出典『萩藩閥閲録遺漏』巻1「多賀兵右衛門」1

 

【大意】

度々申し上げます。大仏殿の(ための)材木を早々に差し上げるよう申しています。誠に国家の一大事なのですから、各々励み差し出すべきです。年内には港に出すよう申し付けます。益々寒くなります。のんびりしてはいけません。三田秋山に早々に来るように

九月二十五日

輝元

多賀彦四郎様

 

入江喜三郎については知るところがないが、井原・秋山両村が毛利氏の直轄地になっていたので、入江喜三郎に材木の搬出を命じたのであろう。索縄と共に河普請道具を用意せよとあるので、三篠川の水を利用して材木を広島に運んだものと思われる。この地方の山林はひとり京都大仏殿の造営に材木供給したばかりでなく、良材が豊かで、かつ運送の利便もよく広島開府に役にたったことであろう。(註7)

まさに、後の広島城や町の建設に不可欠な材木の供給をこの秋山村も担っていた可能性は十分にある。

 

 

5節:伯耆国衆である福頼氏と秋山村について

毛利氏が福頼氏に協力を要請した背景には、福頼氏が材木の伐採・製材や河川運搬に必要な道具・技術を有していたこと、それらの作業に従事できる人々を抱えていたことなど、毛利氏の要求に応えうる条件を満たしていたことが考えられる。このことは福頼氏が西伯耆の材木の伐採・運材に日常的に関わっていたことを窺わせるものである。(註8)

さらに上記の『宮本文書』(天正16年)9月20日付の毛利輝元書状によれば「索縄・河普請道具用意人数被召連、芸州井原・秋山可被罷出候」とあり、「河普請」の任にあたっていることが指摘できる。「河普請」とは付近の山中で伐採した材木を河に浮かべ「索縄」をつけて搬出する際に、河の水量が少ない場合は河底を掘ったり、河をせき止めて水量を増やしてから流したりする作業のことである。(註9)

このことは当時、井原・秋山付近の河がそのような状態であり、「河普請」を行わなくては川下に材木を運搬出来ない状態の場合もあったということ、またその普請を行う普請衆が西伯耆国の国衆であった福頼氏であり、おそらく秋山氏もこの秋山村における「河普請」に関して何等かの協力をしていたものと考えられる。

 

第2章 中世の秋山氏

第1節:秋山氏の発祥

秋山氏が戦国時代に活躍したことは文献等で判明しているが、いつ頃から安芸国へ土着して勢力を扶植していったか詳しくは分かっていない。

秋山氏は清和源氏武田氏の分かれで、名字の地は甲斐国巨摩郡秋山村である。すなわち、武田氏の祖である新羅三郎義光の孫にあたる逸見清光の二男加賀美遠光の長男光朝が、秋山村に居住して秋山氏を名乗ったことに始まるとされている。累代の居城地は中野村にあった。

初代の光朝は、治承四年(1180)の源頼朝の挙兵に応じ、平家追討の戦いには源義経の指揮下に入って、屋島、壇の浦の合戦に参加した。その西征の途中に平重盛の娘を娶ったばかりに、のちに源頼朝に冷遇され、不運な生涯を送る羽目に追い込まれることになる。平家を滅ぼしたあと、頼朝は甲斐源氏の勢力拡大を恐れ、武田氏一門の武将たちを次々と謀殺していったのである。武田一門に連なる光朝も重盛の娘を娶ったのは平家再興の下心があるとのいいがかりをつけられて、鎌倉において処刑されてしまった。甲斐に落ち延びた遺児や秋山一族らは鎌倉幕府の追及を恐れ、加々美の荘に籠って武具を隠して農耕に務めたという。

かくして世捨て人同様の存在に没落していた秋山一族であったが、ふたたび世に出るきっかけとなったのが「承久の乱」であった。乱に際して、秋山氏は尼将軍北条政子の下知に従い、ふたたび武装して官軍追討の東山道軍の総大将に任じられた武田石和信光の幕下に従って上洛した。戦いは幕府軍の圧倒的勝利に終わり、武田氏一門は安泰を迎えたのである。秋山光朝には数人の男子があり、常葉次郎光季が武田氏に仕えた秋山氏の祖になったと伝える。(註10)

 

 

2節:秋山氏の安芸国土着について

承久の乱の後に安芸国の守護となった武田氏であったが、当初は、自分自身は下向せず守護代を派遣して統治していた、しかし、文永十一年(1274)十一月、モンゴルの来襲に供えて武田信時は幕府から安芸国下向を命じられた。(註11)

出典『広島県史 古代中世資料編Ⅴ 東寺百合文書』14

 

『安芸武田氏』に甲斐出身の武田被官が記載されているがその中には、武田一族として武田・逸見・一条・秋山・南古の五氏が記載されている。(註12)

また『芸藩通志』に、安芸武田氏家臣となった清和源氏義光流の加賀美宗遠が、嘉吉年間(1441年から1444年)に甲斐から移り住み、その子孫が代々豊田郡和木村に住んだと伝えている

 

「加賀美氏(和木村)、先祖新羅三郎より出で、五代孫加賀美四郎光清は承久頃の人にて、甲斐国巨摩郡南加賀美村を領す。よって氏とす。その裔彦四郎宗遠、嘉吉年中、この国に来たり、武田氏に、金山に従う。五代の孫、吉遠に至りて、金山陥り、一家皆浪人す。吉遠が子光信・賀茂郡黒瀬に潜居し、天正の末、当郡大草村に来たり、光信が子清庵は僧となり、この村観音寺に住せしを、慶長の頃、還俗せしめて、大里正とせらる、それより今の八郎次まで八代」

出典『芸藩通志』巻91

 

 

このように武田一族である秋山氏も甲斐国から一緒に下向した可能性も否定出来ない。

時期の確定は出来ないが、戦国時代に近隣で統一した行動を行っていた「中郡衆」の土着した時期と大きくは変らないのではないかと思われる。

 

秋山氏以外の中郡衆

内藤氏:1216年に幕府から正式に地頭職に任じられている

井原氏:1336年に井原氏教が入部。

三田氏:詳細は不明であるが毛利元春が1332年に生まれ、その外祖父として三田入道がいる。

 

以上の事から秋山氏も13世紀後半から遅くとも15世紀後半までにはこの地域に土着したのではないかと推測される。

 

 

 

安芸国の秋山氏として以下の古文書に秋山氏が記載されているが、白木町秋山との関係は分かっていないが興味深い史料である。

 

吉川辰熊丸実経代河内道覚軍忠状

 

暦應三年(1340)十月十日、伊予国凶徒退治時、吉河龍熊丸代河内七郎入道道覚申、致軍忠間事え

 

海上手久津名(忽那)嶋合戦、同十一日防戦之處、道覚左足被射候了

右、為彼嶋搦手所被疵也、此条若御不審候者、武田一条孫太郎貞充、秋山与二信時令

存知候者也、以此旨可有御披露候、恐惶謹言、

 

暦應三年十月

                           沙彌道覚(裏花押)

  進上 御奉行所

           (証判) (武田信武)

「承候了(花押)」

出典 『大日本古文書家わけ 吉川家文書』 1049 

 

【大意】

暦応三年十月十日、伊予国の凶徒を退治した時、吉河(吉川)龍熊丸の名代の河内七郎入道道覚が申す、軍忠を働いた時のこと

 

一 海の上方の久津名(忽那)島合戦において、同十一日防戦したところ、道覚が左足を射られた。

右は、かの島の搦手(からめて)として疵を受けたものである。このことにもし御不審があれば、武田一条孫太郎貞充、秋山与二信時が存知している(ので確認してほしい)。

この旨を、(お屋形様に)披露してほしい。恐惶謹言。

 

暦応三年十月                  沙彌道覚(裏花押)

 

御奉行所に進上す

(証判) (武田信武)

「承った(花押)」

 

1340年頃安芸国に秋山与二信時という人物がいたことが分かる

 

略系図

 

東寺雑掌頼憲申状

 

東寺雑掌頼憲謹言上

欲早被経御 奏聞、被成 綸旨於武家、停止小早河備後入道 平山 秋山不知実名

以下輩等押領、急速被沙汰付国衙於雑掌、全所務當自領安芸国々務軄事

副進

一通 綸旨案 元徳三年七月六日

一通 院宣案 貞和四年四月廿三日

一通 武家 院宣案 四月廿八日

二通 御教書等案 貞和四年五月十二日

 

右 件吏務軄者、為當寺修造料所、重色異于他地也、而小早河備後入道 平山 秋山以下

之輩等、寄事於動乱、近年令押領之条、希代所行也、為後混不可不誡、所詮被成下

綸旨於武家、停止彼輩等押領、急速被沙汰付国衙於雑掌、全修造要脚、弥為奉祈

聖運長久御願、粗言上如件 

 

應安元年(1368)九月 日

 

出典『広島県史古代中世資料編V』 東寺百合文書 167 東寺雑掌頼憲申状

 

 

(大意)

東寺雑掌の頼憲が謹んで言上する

早く(天皇への)御奏聞を経て、武家に綸旨を出され、小早河(小早川)備後入道・平山・秋山(実名を知らず)以下の輩(やから)の押領を停止し、急速に国衙の雑掌に命じて当地の自領(東寺領)である安芸国国務職を全うさせてほしい。

副進

一通 綸旨案(綸旨の案文=写し) 元徳三年七月六日

一通 院宣案(院宣の案文) 貞和四年四月廿三日

一通 武家 院宣案(院宣の案文) 四月廿八日

二通 御教書等案(御教書の案文) 貞和四年五月十二日

 

右、くだんの吏務職は、当寺の修造料所として、重要な所領で他に異なる地である。しかるに、小早河(小早川)備後入道・平山・秋山以下の輩らは、事を動乱に寄せ、近年押領しているのは怪しからぬ所行である。後世のために、戒めずにはいられない。こうなったからには、武家に綸旨を出され、かの輩の押領を停止し、急速に国衙の雑掌に命じて、修造の費用を全うさせ、いよいよ聖運長久の御願をお祈り申し上げるため、おおよそこのように言上するものである。

 

應安元年九月 日

 

1368年当時秋山某が東寺の支配地を押領していたことも分かる。

また、高田郡三田庄は東寺の荘園でもあった為、何かしらの関係があったのではないかと推測できる。

上記2つの史料から、秋山氏が安芸国に存在していたことは確認できているが、それが白木町秋山と関わり合いがあるかは不明である。

 

4節:文献に出てくる秋山氏の初見

現在の白木町秋山を中心に活躍した秋山氏が文献に出てくるのは15世紀の後半からである。当時秋山村はなく三田新庄上村が秋山村の該当地域と考えられている。

白木町史によれば上村秋山氏と三田新庄上村について以下の様に記載されている。

鎌倉時代に上村の支配がどうなっていたのか全く不明である。戦国時代には秋山氏の所領であった。秋山氏は源姓、小笠原流と思われる。神官家に伝わっている文書に依ると、文明五年(1473)三月に上村朝日城主である源朝臣小笠原親次は、畑杭山八幡宮と岡山新宮宮山の二か所を秋山村祢宜長屋孫之丞に売却し、代銀三貫五百目を得て土蔵普請の用意とした。土蔵といえば金借業(高利貸)の代名詞で、質物をとって金銭を融通するには、火災や盗難を予防するため質物を土塗りの堅牢な土倉に収めて保管するのが例であった。そのため金借業者を土倉または土蔵といい、「どそう、どぞう」と呼んだとされている。近世になって質屋と呼ぶのと同じであろう。土倉を営むものには酒屋や味噌屋などの商人が兼業とするものが多かったが、上村では神社の金銭を資金に領主自らこれを営んだようである。

永仁六年(1298)の和与状に「八幡新宮神田事」と云う一項があって、この二社は上村の最中に鎮座するが、上村と下村の両村が耕作及び神事を隔年毎に沙汰するように定めてある。この八幡と新宮は上記文明五年の文書に見える秋山村の畑杭八幡と岡山新宮であろうか。いずれにしても神田もあり富裕な神社であったであろう。

上村と秋山村との関係は判然とはいえないが、文明の頃秋山村は上村の一部であったようである。芸藩通志に、三田村・秋山村・小越村の三村を今三田庄といふといい、また秋山村・小越村はもと一村たりといい、かつ市川村および秋山・小越三村を併せてもとは一村なりしと言い云うとも云っている。これらの地名が以上のような変遷を経て近世の村の成立したことを窺わせるのである。(註13)

この事から分かるのは1473年当時朝日山城主が小笠原(秋山)親次であると言うことである。また、当時まだ上村と呼ばれており秋山村とは言われていないことが分かる、このことから、秋山村と言われ始めたのは更に時代がくだった後年になってからでは無いかと推測される、秋山親次の次の世代である秋山親吉は毛利氏の家臣化に伴って各方面の戦に追随することとなるが、それらの活躍によって譜代化していくことによって勢力の拡大、ひいてはこの地域を在地領主の苗字をとって「秋山村」といわれるようになったのかもしれないが残された史料が少なく断定することは困難である。

いずれにしても、1473年当時にはこの地域を治めていた小領主が「秋山氏」であったことは確認できるため、もう少し遡った年代にはすでに「秋山氏」が在地領主として存在していたと思われる。

 

 

5節:小笠原氏と秋山氏について

古文書によれば文明五年(1473)に上村朝日城主として「小笠原親次」とある、本来であれば「秋山親次」と名乗るところをあえて「小笠原親次」と名乗るのには意味があると思われる。

仮説ではあるが長男秋山光朝、及び次男小笠原長清の父親である加賀美遠光子孫は、小笠原一族といわれることが多い。実際に「寛政重修諸家譜」第四でも、「小笠原支流」として納められている。

正確な理由は定かではないが、本来であれば苗字を受け継いだ加賀美支流となるべきところがその名字を受け継いだ四男の加賀美光経の系統が勢力拡大せずに没落して、逆に小笠原一族が大いに繁栄した為、この小笠原氏が一族の長となりそれに関係する氏族は小笠原支流と呼ばれるようになった可能性もある、そこで小笠原親次も正確には「小笠原支流の秋山親次」であるが略して「小笠原親次」称していたのではないかと推測される、そして実際は「秋山親次」が正式な名前ではないだろうか、また次世代には「秋山親吉」という人物も出てきており親子かそれに類する近しい

 

6節:古文書にみる秋山氏

【文明五年】1473年

古文書としての初見は文明5年(1473)の神社の永代切売証文である。

 

永代切売宮山之事

所ハ畑杭山八幡宮山不残

一 宮山一ヶ所

所ハ岡山新宮山不残

一 宮山一ヶ所

右両宮山永代売切申所実正也、代銀三〆五百目慥ニ請取、土蔵普請用意致候処、

右山之義ニ付私義ハ不及申子々孫々ニ文至迄一言申分無御座、為其ニ取次人進之丞加印取進上申所依而書物如件 

文明五年巳三月                       三田新庄上村ノ大旦那

                            売主 源之朝臣親次 花押

                           取次人 佐々木進之介 花押

秋山村祢宜  長屋孫之丞殿

             

出典『白木町史』

【大意】

畑杭山八幡宮の宮山一ヶ所

岡山新宮山の宮山一ヶ所

両宮山の永代売切りを行う、代金として3貫500匁を受け取る 土蔵普請(高利貸)の為に用意する。この件に関しては子々孫々に至るまで申し分ない。その為に取次人の(佐々木)進之丞に加印を行って貰う。

 

【解説】

詳細に関しては第2章の第4節 「文献に出てくる秋山氏の初見」に記載しているが代金3貫500匁の価値として戦国時代の1貫がいくら難しいが、1貫=1石と考えれば1石=150キロ、現在では10キロの米で4,000円として150キロで60,000円となる、よって3貫500匁とは約21万円となるが、当時の米の価値が現代の米の価値とは大きく変るため価値としてはもう少し高いのでは無いかと思われる。

秋山親次はこの代金を元でに「土蔵」=現代の高利貸しを行っていた事が確認されている。

 

【永正八年】1511年

1500年代になると秋山氏の行動も活発になり、また毛利氏に忠節を誓い傘下に入るようになる記していく。

秋山親吉起請文

御役銭之事、被仰懸候、於以後も御自身、御在京、御在山口之時者、無御侂言、可致奔走候、仍我等身上之事、雖不珍候、於自今以後者、彌無二可致忠節候、若此偽候者、

日本国中大小神祇、殊厳島兩大明神、八幡大菩薩、可罷蒙御罸者也、仍一筆如件

 

永正八年(1511)辛未十月廿八日

秋山民部少輔

親吉(花押)

謹上 毛利少輔太郎殿

出典『大日本古文書家わけ 毛利家文書』196

【大意】

役銭のことを命じられましたので、毛利興元様が京や山口にいる時は不平不満なく奔走しなければなりません。けれども、私らはより一層の無二の忠節を尽くす所存です。もし、このことに偽りがありましたら、日本国中大小の天と地の神々、殊に厳島の両大明神、八幡大菩薩より罰を受けます。よって、証拠としてこのように一筆書きました。

 

 

 

秋山親吉書状

御役之事、蒙仰候、得其意候、於以後、就御自身京関東御役者、拾貫文調可申候、不可有無沙汰候、恐々謹言

 

永正八年(1511)拾月晦日 

秋山民部少輔

親吉(花押)

坂下総守殿

出典『大日本古文書家わけ 毛利家文書』197

 

【大意】

役銭費用負担の事、これ以後は仰せの通りします、毛利興元様が京関東の役についている時には十貫文を準備します。

 

【解説】

上記の史料で秋山親吉が毛利氏に忠節を誓い、京関東御役の際役銭を納める事を約束する。

同日に井原氏や内藤氏も同じ内容の書状があった為、1511年頃にはこの地域の「中郡衆」が毛利氏に臣従を誓った事を意味する。

当時、毛利興元は大内氏の勢力に付き従っていたが、永正5年(1508)頃から大内義興が足利義稙を奉じて京都に攻め込んでおり、永正8年(1511)8月24日には船岡合戦にて大勝した、しかしこの数年間の在京滞在費捻出には莫大な費用捻出を強いられることとなる、この日付は、興元が京都から戻った直後であるので、中郡衆を引き付けることを意図していたと思われる。又、中郡の地域でも大内氏が東上した留守中に、安芸国内の政情は不安定となり、急激に勢力を増大した山陰の尼子氏の南下や、近隣でも毛利氏と宍戸氏との間に永正4年(1507)からの戦闘で不安定な状態であった為、毛利氏に臣従することにより自家の安定を図ったものとも考えられる。

上記の理由から秋山親吉も毛利氏に臣従する起請文とまた、興元の在京の費用として10貫文の費用を収める書状が残っている。

ちなみにこの永正8年に毛利元就が元服している。

 

【永正十四年】1517年

『陰徳太平記』に毛利と武田の有田合戦の記述があり、武田方の将兵として着陣している。

 

勇気傍テ払ッテ備ヘタレハ戸谷ノ香川景之、秋山、市木ナドハ三百餘騎ニテ、後陣ニ控ヘタリ

出典『陰徳太平記』有田合戦付元繁戦死之事

【解説】

当時すでに毛利氏に忠誠を誓っているので、一族の中でも庶流が武田方として参戦しているのか、若しくは全く違う系等の秋山氏が存在しており、その秋山氏が武田氏の麾下として参戦している可能性もある、または、著者の誤謬の可能性も否定出来ない。

 

【大永四年】1524年

『陰徳太平記』に尼子側として武田氏が籠もる安芸銀山城の救援に向かう記載有り。

 

(前略) 毛利元就、日吉川治部少輔、宍戸、平賀、宮、三吉、小早川、熊谷、香川、三須、遠藤、井原、秋山、三田等ノ備芸の勢四千餘騎ヲ相伴ヒ尼子勢ト一手ニ成リ、七月八日銀山城ヘ発向シ (後略)

出典『陰徳太平記』尼子勢銀山後詰付合戦之事

【解説】

1524年、山口の戦国大名であった大内義興が安芸銀山城に立て籠る武田光和を攻めた、当時、毛利元就は山陰の戦国大名であった尼子経久の傘下におり、同じく武田光和も尼子氏の傘下にいたため、大内軍が銀山城を攻めた時には尼子の命により武田氏の救援に向かうこととなる、1517年の有田中井手の合戦にて光和は父親である武田元繁を元就に討死させられたが、この時は元就の活躍もあって大内勢を撃退している、その中に秋山氏も尼子勢として銀山城を防衛していたことがうかがえる。

 

【享禄五年】1532年

福原広俊以下家臣連署起請文

 

謹言上候、

御家来井手溝等、自然依洪水、年々在所々々相替事多々候、然時者、井手者見合候而、

不論自他之分領、せかせらるへき事可然候、溝者改掘候者、田畠費候ハても不可叶候之

條、みそ料をハ相當可立置事、

 

各召仕候者共、負物に沈、傍輩間へ罷却候而居候へハ、其負物者すたり果候間、

不可然候、他家他門江罷却候ハん事者、無是非候、於御家中如此候ハん儀をハ、

互ニ無御等閑申談候而、有様ニ可有沙汰事、

 

倅被官、小中間、下人ニ至而、其主人々々のよしミを相違候而、傍輩中江

走入々々、構聊尓候儀、口惜子細候間、如此企之時者、本之主人々々に相届、

依其返事、取捨之両篇、可有覚悟事、

 

右条々、自今已後、於違犯輩者、堅可被成御下知事、対各可忝候、若偽候者、

梵天、帝釈、四天王王、惣日本国中六拾余州大小神祇、別而厳嶋大明神、

祇薗牛頭天王、八幡大菩薩、天満大自在天神部類眷属神罰冥罰、於各身上可罷蒙也

仍起請如件

 

享禄五年七月十三日

福原左近允広俊(花押)

志道上野介広良(花押)

桂左衛門尉元澄(花押)

(中略)

南方越前守親州(花押)

内藤中務丞元廉(花押)

秋山信濃守親吉(花押)

三田周防守元実(花押)

井原常陸介元師(花押)

 

粟屋孫次郎殿

出典『大日本古文書家わけ 毛利家文書』396

 

【大意】

謹んで申し上げます。

一  御家来の用水などが、洪水により年々水路が変ることが多くあります。そのような時は、用水の様子をお互いに見分して、誰の領地であっても決壊部分を塞ぎ止めるようにします。溝を改めて掘る場合は、使えなくなる田畠が出てくるのは避けられないので、その相当分の保障料を用意しておかなければなりません。

 

一 各人が召し使っている者たちが、負債が返せなくなり同僚のところへ逃げ込んで居座ってしまうと、その負債は不良債権になってしまうので、そのようなことがあってはなりません。他の家門に逃げ込んだ場合はどうしようもありませんが、御家中の場合にはこのようなことがあったら、互いに腹を割って話し合い、適切な措置をとるようにしなければなりません。

 

一 自分のところの被官・中間・下人などの使用人が、主人と仲違いをして同僚のところに逃げ込むなど、とんでもないことをするのは、口惜しい限りですので、このような企てが成された場合は(逃げ込まれた先の者は)元の主人に通報して、その返事により帰すかそのまま居させるかを決めなければなりません。(註14)

 

以上の事について、今後違反する者があったら、堅く(毛利元就が)罰して下さるようお願い致します。

もしこのことに偽りがあれば、梵天、帝釈、四天王王、惣日本国中六拾余州大小神祇、とくに厳嶋大明神、祇薗牛頭天王、八幡大菩薩、天満大自在天神の部類・一族の神罰・冥罰(みょうばつ)を、各々の身上に受けることになります。よって、起請すること(神仏に誓いをたてること)かくのごとしです。

享禄五年七月十三日

 

福原左近允広俊(花押)

志道上野介広良(花押)

桂左衛門尉元澄(花押)

(中略)

南方越前守親州(花押)

内藤中務丞元廉(花押)

秋山信濃守親吉(花押)

三田周防守元実(花押)

井原常陸介元師(花押)

粟屋孫次郎殿

【解説】

秋山氏やその他「中郡衆」の内藤氏、三田氏、井原氏と共に毛利氏に利害関係の調停を要請した家臣団の連署起請文に加わる。

これら起請文に連なる人物は福原・坂などの一族や粟屋・赤川ら譜代家人、井上、秋山・井原、内藤、三田などの近隣国人領主など、出自を異にする面々である。

彼らと元就の関係は、彼らの用水管理や、従者の負債や逃亡への対応など、共同で処理しなければならない問題を抱えていたが、それらは基本的に互いの間で解決することとし、元就には違反者の処分だけを依頼している。この文章は元就に対する起請文という体裁をとっているが、中味からすれば「傍輩」間の一揆契状であり、元就は保証人的立場に過ぎなかったともいえる。彼らは、毛利「家中」としてまとまりは強めつつも個々の自立性が強く、主人への忠節よりも相互の一揆的関係で秩序維持を図っていた。元就からすれば統制しにくい厄介な存在でもあったのである(註15)

そのような毛利家中において秋山氏が存在していたことは見逃せない。

 

【天文九年】1540年

『陰徳太平記』に尼子氏が吉田郡山城を攻めた時に毛利氏と共に戦った記載有り。

 

(前略)湯原モ、サル剛ノ者ナレバ敵勢重ナリ、二千余リニ成リタリト雖ドモ少シモ臆セズ、一時カ間ニ切リ崩シテント進ム所ニ城中ヨリ赤川右京亮、南方小輔、秋山隼人、羽二藤兵衛、中村豊後守、波多野源兵衛、井上源五郎、同源三郎、同右衛門太夫、同與三右衛門、山縣ノ一族、一手に成テ、三百余リ助ケ来リ後ロヨリ切テカカル、(後略)

出典『陰徳太平記』太郎丸並池内合戦付湯原彌次郎討死之事

 

【解説】

大永4年(1524)の安芸銀山城の戦いでは尼子傘下として戦った毛利氏であったが、元就の家督相続問題に尼子氏が介入して関係が悪化、翌大永5年(1525)には大内氏の傘下となった。

しかし、絶対的な反尼子の立場ではなく、享禄3年(1530)に発生した尼子経久とその三男である塩冶興久の内紛の影響で一時的に大内氏と尼子氏が和睦すると、その影響で毛利元就も享禄4年(1531)には尼子晴久(当時は尼子詮久)と義兄弟の契りを結ぶなど関係改善もあった。

しかし、天文6年(1537)に尼子晴久が家督相続すると、元就は長男の毛利隆元を大内義隆に人質に出し、その立場を明確にし、この事が契機で尼子氏が天文9年(1540)に吉田郡山城を攻めたとされる。

『隠匿太平記』の記載には秋山隼人とあるが、同年代の古文書等には隼人の記載のあるものは発見できていない、しかも、同時期に三次市甲奴町太郎丸に秋山隼人という人物があり、白木町秋山を勢力範囲とした秋山氏はなく、太郎丸を勢力範囲とした秋山氏の可能性もある。

しかし、1540年当時まだ小国人領主であった毛利氏の配下に三次市太郎丸の秋山がいる可能性は低く、また、この秋山隼人は1527年生まれで、1540年当時数え歳でもまだ14才と若い。

恐らく『陰徳太平記』の著者が混同した可能性が高いものと思われる、当時秋山親吉や元継という人物が白木町秋山にいたことは分かっている為、この人物との混同かもしくは、庶流に秋山隼人がいたのではないかと考えられるが、しかし『古文書』の秋山隼人(秋山朝仲)の来歴には天文8年から毛利元就に従うと記載されているので、全く否定できるものでもない。

註:この秋山隼人(秋山朝仲)は後年厳島の合戦や第二次月山富田城の戦いに参加しており軍功を立てている書状がある。

 

 

【天文十二年】1543年

『吉田物語』に第一次月山富田城の戦いとして秋山氏の記載がある。

 

一同月下旬義隆元就公を呼んで備芸石の国衆八幡山に陣取居候城兵定て彼等陣へ働べし敵動くに於ては可有御押旨被仰候依之一千余の御人数にて八幡山宮の尾と申所へ御陣を替られ候然處に富田川の向に河本彌兵衛と申侍の明退たる屋敷あり此屋敷に南方出羽守 秋山信濃守の者共能折柄と存大西十兵衛、本田豊前、立原備前など申合彼川屋敷へ押よせ攻之南方秋山手強に防ぎけれ共多勢の敵なれば不相叶両人討死に相極り候處に元就公是等の体御覧被成御救可被成と被思召し川端へ御馬を出され候刻田子兵庫頭参り以之外の洪水に付必川を御渡し被成候儀は御無用之通再三御異見申候へ共無御承引真先に御馬を川水に御打入被成川を御渡候て富田衆を突立られ候城中より此様子を見て味方うたすなとておもいおもいにかけ出る大内勢も元就打すなとて諸勢一時に打おろし川を越けるを見て城兵悉く引退く元就公の御鉾先を以南方秋山死をのかれ候也如件

 

出典『吉田物語』元就公南方秋山を救給事

 

【解説】

天文9年(1540)から天文10年(1541)に尼子氏が吉田郡山城を攻めたが、毛利氏の反撃及び大内氏の援軍により撃退された、この遠征失敗により安芸国と備後国の国衆達は尼子氏から大内氏に着くものが続出した、更に安芸・備後・出雲・石見の主要国人衆から、尼子氏退治を求める連署状が大内氏に出されたことを受け、陶隆房を初めとする武断派は出雲遠征を主張。相良武任や冷泉隆豊ら文治派が反対するが、最終的に大内義隆は、出雲出兵に踏み切ることになった。

上記の『吉田物語』では1543年2月下旬に敵方の河本弥兵衛の館を秋山信濃守(秋山親吉)が南方出羽守と共に占拠していたが、富田川が増水して、尼子軍の大西氏、本田氏、立原氏などの攻撃を受け危機に陥るも、元就自ら救援して死地を脱した事が記載されている。

秋山信濃守は秋山親吉であるが1511年の起請文にも出ている為、1543年当時は老境の域にさしかかっていると思われるが、息子と思われる秋山掃部助元継が感状を元就、隆元から頂いている為、親子で出陣もしくは、『吉田物語』に記載されている「信濃守」は「掃部助」の誤謬の可能性も否定できない。

このような、命がけの戦で忠勤に励むことにより、「中郡衆」として毛利家中を支えていったことは明らかである。

 

 

【天文十二年】1543年

月山富田城での手柄を賞され元就、隆元から感状を頂く

四月十二日於雲州富田要害塩谷口合戦之時、太刀打御高名、無比類候、感悦無極候、彌可被抽忠節之状如件

天文十二

四月十二日

元就

隆元

秋山掃部((元継))助殿

出典『大日本古文書家わけ 毛利家文書』283

【大意】

4月12日出雲国の月山富田城塩谷口の合戦時において活躍したことは、比類なき事であり、悦ばしい事である、よってその忠節を賞する。

 

元就

隆元

秋山掃部助元継殿へ

【解説】

第一次月山富田城の戦いにおいて秋山元継が活躍して元就、隆元から感状を頂いたものである、感状を頂いたのが4月12日であるが、4月末には大内氏に寝返っていた山陰の国衆が再度尼子方についた事により形勢が逆転する。因みに毛利軍による塩谷口の攻城は失敗に終わっている。

5月以降に大内軍は撤退し始めるが、毛利軍も敗走しており大きな犠牲の上に帰城を果たしていることから、秋山元継も危険にさらされながらの撤退だと考えられる。

 

 

【天文十九年】1550年

秋山元継が元就の上意に従うことなどを誓約した家臣団の連署起請文に加わる。

 

福原貞俊以下家臣連署起請文

言上条々

一井上者共、連々軽 上意、大小事恣ニ振舞ニ付、被遂誅伐候、尤ニ奉存候、依之、於各聊不可存表裏別心候事、

一自今以後者、御家中之儀、有様之可為御成敗之由、至各も本望ニ存候、然上者、諸事可被仰付趣、一切不可存無沙汰之事、

一御傍輩中喧嘩之儀、殿様御下知御裁判、不可違背申事、

 付、閣本人、於合力仕之者者、 従 殿様可被仰付候、左様之者、親類縁者贔屓之者共、兎角不可申之事、

付、御家来之喧嘩ニ、具足にて見所より走集候儀、向後停止之事、

一御弓矢ニ付而、弥如前々、各可抽忠節之事、

一仁不肖共ニ傍輩をそねみ、けんあらそいあるへき者は、

上様よりも、傍輩中よりも、是をいましめ候はん事、

一於傍輩之間、當座々々何たる雖子細候、於 公儀者、参相、談合等、其外御客来以下之時、可調申之事、

一喧嘩之儀、仕出候者、致注進、其内は堪忍仕候而、可任

御下知之事、

一人沙汰之事、

男女共ニ

一牛馬之儀 作をくい候共、返し可申候、但三度共はなし候てくい候者、其牛馬可取之事、

一山之事、往古より入候山をは、其分ニ御いれあるへき事、

一河は流より次第之事

一鹿は、里落はたをれ次第、射候鹿は、追越候者可取之事、

一井手溝道は 上様之也、

従上様弓矢ニ付而条々、

一具足数之事、

付、御動ニ具足不着ものの所領御没収之事、

一弓之事、

付、感之事、

一可有御褒美所を、上様ニ於無御感者、年寄中として可被申上之事、

一内々御動之用意候て、被仰懸候者、即可罷出之事、

一御使之時、同前之事、

 以上

右条々、自今以後、於違犯輩者、堅可被成御下知事、封各可忝候、若此旨偽候者、

梵天、帝釈、四大天王、惣日本国中六十余州大小神祇、別而厳島両大明神、祇園牛頭天王、八幡大菩薩、天満大自在天神部類眷属神罰冥罰、於各身上可罷蒙也、仍

起請如件

天文十九年七月廿日

 

福原左近丞貞俊(花押)

志道太郎三郎元保(花押)

坂式部太輔元保(花押)

                         (中略)

南方式部丞元次(花押)

内藤少輔九郎元種(花押)

秋山掃部助元継(花押)

三田少輔七郎元親(花押)

井原中務少輔元造(花押)

(後略)

出典『大日本古文書家わけ 毛利家文書』401

 

 

【大意】

一井上の者達は上様の意向を軽々しく思い、無礼な振る舞いも多かった為誅殺されました、当たり前の事だと思います、我々は裏表の別心などございません。

一今後、家中のことについては今まで通りに運営されるとのこと、皆本望に思っております。今後は毛利家中でも各々君命に従います

一仲間と喧嘩をした場合は上様の下知に従います、また各々協力して上様に従います、親類縁者を贔屓にはしません。

一家臣の喧嘩に具足までつけて馳せ参じることは致しません。

一合戦の時には、しっかりと各々忠節を尽します。

一どんな人間であっても仲間を嫉み、権力をめぐって争うことをしないようにします。もしこのようなことがあった場合、仲間内からも上様からも訓戒をくわえましょう。

一人沙汰のことは男女ともに従います

(人沙汰の解釈が不明)

一牛馬のこと、作物を食べてしまったとしても、(牛馬は)持ち主に返しなさい。

※もしかしたら作物を弁償しなさいという意味か

ただし、3回も牛馬が作物を食べてしまった場合その牛馬は作物の持ち主のものとします。

一山のこと 昔から決められた入会山を(今においても入会山として)ご容認ください

一河は流れの次第で決めます(河の変更があればそれを基準とします)

一鹿は里に下りてきた場合、斃れた場所の人々のものとする。既に射られた鹿だった場合、鹿を追ってきた者の所有となります。

一井手溝などは上様のものですので上様に従います。

一合戦の時に具足の準備が出来なければ所領を没収されても構いません。

一弓のことですが、しっかりと働きます

(おそらく「弓之事」の条項には記述がないためか)

一本来褒美があるべきにもかかわらず、上様から褒美が無ければ、年寄(家中の有力者)から申し上げます。

一(毛利氏が)隠密裏に軍事活動の準備をして(我々に)命令を出された場合、すぐ出発します。

一使者を仰せつけられた場合も同前です。

以上の条項について、今後仲間のうちで破ったものがいれば必ず御下知をなさってください。

もし破ったら、梵天 帝釈 四大天王 日本中の神様 厳島大明神 祇園牛頭天王 八幡大菩薩 天満様 天神様 などの天罰を受けても構いません。

 

天文十九年(1550)七月二十日

 

 

【解説】

この起請文は井上一族誅伐の直後、元就が家臣二百三十八名に、主家に対する忠誠を再認識させるために提出させたものである。

誅殺した日付は7月12日から7月13日にかけてで井上氏粛清により、元兼をはじめとして、井上就兼、井上就澄、井上元有など安芸井上氏の一族30余名が誅殺された。

井上氏は、吉田が属する高田郡の西隣の山県郡に本拠を持つ国人領主であるとともに、毛利氏の足元の安芸吉田で駒足銭という通行税を徴収する中世的な権益を持っていたことが知られている。吉田の地は出雲街道の要衝にあり、石見銀山、石見・安芸の国境地帯に広がる当時我が国最大の一大製鉄地帯に往来する商人達が往来し、駒足銭の徴収権は、井上氏にとって重要な経済的権益だった。

井上氏はその経済的権益を保持するため、吉田をおさえる毛利氏と協力関係を持たざるをえなかったのである。そのことが、井上氏と毛利氏との姻戚関係をもたらし、両者の力関係から井上氏は毛利同族連合に徐々に組み込まれていく結果となった。

しかし、依然として井上氏は、毛利氏に属するだけでなく、石見・安芸の山間部に強大な勢力を持つ高橋氏にも両属する立場にあり、半独立的な性格を維持していた。加えて、元就が毛利氏の家督を継いだころ、井上党の軍事力は、毛利氏の軍事力の三分の一を占めていた。

毛利氏が戦国大名へ脱皮するころの井上一族の惣領は光兼で、光兼は井上一族の元盛が元就から押領した多治比三百貫の返還に尽力したことが知られる。光兼のあとを継いだのが元兼で、元兼は元就が毛利総領家を相続する際に井上党をまとめて元就の相続を支援している。

このように井上氏は毛利氏と協調関係にあったが、毛利氏が国人連合から脱皮して戦国大名へ発展しようとするとき、井上氏の存在は厄介以外の何物でもなくなっていった。いいかえれば、井上氏の勢力は毛利氏の存在を揺るがす可能性もあったのである。毛利元就が戦国大名に成長する過程で、井上氏は早晩、粛正される運命にあったともいえよう。

そのような状況にあって、元就は元兼の傍若無人な振るまいを奇貨として、井上一族を一気に誅殺という挙に出たのである。井上党三十数名をほぼ皆殺しにするという元就の過激な処置によって、毛利氏は大きく飛躍することができたのである。(註16)

この件で福原貞俊以下238名の家臣が連署起請文を提出し、今回の措置を「尤もに存じ候」と承認するとともに、今後、毛利氏が「家中」を支配することは「本望」であり、命令には一切背かずきちんと実行すると誓った。これにより毛利氏は「家中」統制権を獲得することができたのである。(註17)

享禄五年(1532)の福原広俊以下家臣連署起請文では秋山氏もまだ独立した国人領主の側面を持ち合わせていたと思われるが、18年後の天文十九年(1550)には完全に譜代家臣化している。

その中でも秋山掃部助元継は238名中34番目に記載されている、上位者は毛利一門および初期からの家臣が連なっており、その次に「中郡衆」である内藤 秋山 三田 井原が記載されているため毛利家中における「中郡衆」の地位の高さが伺える。

 

【天文二十二年】1553年10月頃

桂元澄以下四十名が具足の注文をする。

 

桂元澄外四十名具足注文(一部略)

六十両 桂能登((元澄))守

七両  福原善五郎

六両  中村新右衛門尉

二両  中村源兵衛尉

十両  中村内蔵大夫

二両  中村四郎左衛門尉

廿二両 井上靏法士

廿一両 赤川左京亮

廿両  秋山掃部助

十両  飯田與三次郎

 

出典『大日本古文書家わけ 毛利家文書』624

 

 

【解説】

毛利氏家中の軍役数の確定については若干の手掛りがある。天文二十二年(1553)の初めごろ隆元は自分の手勢である馬廻衆の強化のため、家中の有能な者を選抜したいと元就に述べ、軍事組織の再編成をすることを明らかにした『毛利家文書』713・732号。

そしてこの年の十月に家中の「具足さらへ」を行っている「佐藤文書」。「具足さらへ」とは家臣が出陣のとき率いていくべき武装人員を調査し、確定することであり、その結果として福原貞俊を中心とする家臣集団(具足数337領)、桂元澄を中心とする家臣集団(具足数363領)と近習衆のうち赤川元秀・国司元相を中心とする集団(具足数131領)、粟屋元通・元真を中心とする集団(具足数155領)そのほか志道元保を中心とする家臣たち(具足数72領)の具足数注文がつくられている。『毛利家文書』623~626号。

この具足注文に記されているのは、毛利家当主の隆元が直接に指揮しうる吉田とその周辺の家臣だけであって。元就家臣などは含まれておらず。また具足数確定が円滑にいかなかったため注文に記載されなかった家臣も存在するようである。具足人数は家臣の知行高に対応させるという方針がとられていたと考えられ、福原貞俊は知行高650貫に対し具足140領と記されている同上627号。

この福原貞俊の場合、知行高4.64貫に具足1人という基準になるが、この基準が他の家臣にも適用されたかどうか明らかでない。(註18)

 

以上のことで分かることは。

  • 秋山掃部助は桂元澄を中心とする家臣集団に所属していた。
  • この家臣集団は隆元が直接指揮する家臣集団であった。
  • 家臣の間での基準が統一されていないと思われるが、福原貞俊が650貫に対して140領から秋山掃部助の場合は約90貫~100貫の知行高が与えられていたのではないかと推測される。また隆元の直属奉行人筆頭となった赤川左京亮(元保)が廿一両のため同格の所領を得ていた可能性もある。
  • 毛利家文書623~626から総具足数は1058両 具足登録者数は169人が判明、そのなかで20両以上の具足数は14人しかおらず大半は4両以下であることから本人と3人以下の具足数で出陣が大半の中で、秋山氏は20両という大部隊で出陣していたことが分かる。

【弘治三年】1557年4月

厳島合戦の後、元就は大内氏の領国である周防、長門に攻め入ったが秋山氏もその戦闘に参加している。

 

(前略)中郡四人衆の内三田能登守儀は佐東金山の城番として山口より被差上せ候三人井原、内藤、秋山其外同国の楢崎、長、古志、有地、木梨、弘田房、芸州にては熊谷、阿曽沼、三須、遠藤、右の衆中御付被成都合人数四千人余にて被差向候(後略)

 

出典『吉田物語』元就公山口御打入之事

【解説】

この侵攻を防長計略といい、天文24年(1555)から弘治3年(1557)までの期間にて大内氏の領内に進攻している。

天文24年の厳島の戦いにより、元就は陶晴賢軍を攻め滅ぼし自刃に追い込み戦力を大いに削ぐ、その勢いをもって周防・長門両国の侵攻を計画した。まずは蓮華山城を攻略したが、調略で城主である椙杜隆康は降伏、次に鞍掛山城の攻略を行ったが、こちらも城主の杉隆泰が降伏した。

弘治2年(1556)の年明けまでに玖珂郡の地侍らの多くは毛利氏に服属したが一部の地侍は反抗しており順次平定していった、2月18日には三瀬川(岩国市周東町あたり)で大内義長軍を撃退している。

その後、弘治3年(1557)には須々万沼城の攻略を目指し苦労の末落城させた、元就は一旦岩国に帰陣したのち再度侵攻を開始、その後、右田ヶ岳城の右田隆量や野田長房らは元就の勧告に応じて降伏している。ちなみに右田ヶ城の城主はその後、南方就正となったが就正の父もしくは祖父が南方出羽守と思われ、1543年の第一次月山富田城の戦いの時に秋山信濃守と一緒に戦った人物だと推測される。

その後、大内義長は且山城(勝山城)にて籠城したが最終的には義長が自刃してここに大内氏は滅亡する。

ここでも「中郡衆」として秋山氏が活躍していることが散見できる、年代から秋山掃部助元継と推測される。

 

【弘治三年】1557年12月

秋山掃部助が軍勢狼藉禁止令に従うことを誓約した毛利氏家臣団の連署起請文に加わる。

 

福原貞俊以下家臣連署起請文

 

被仰出趣、存其旨、各言上事、

一御家中軍勢狼藉之事、雖被成御下知、無停止候、然間、於向後者、狼藉仕候者事、誰々内者候共、則時可被討果事、

一向後陳払被仰付間敷候、於背此旨輩者、是又右同前可被仰付事肝要候為自今以後之、以連署言上候、

右言上之趣、八幡大菩薩、厳島大明神可有御照覧候、仍誓文如件、

弘治三年十二月二日

福原左近((貞俊))允

志道大蔵少輔

(中略)

南方又次郎

内藤才松

秋山掃部助

三田周防守

井原中務少輔

桂能登((元澄))守

出典『大日本古文書家わけ 毛利家文書』402

【解説】

防長経略により大内氏を滅ぼした元就は吉田に帰った、しかし、その後大内氏の遺臣たちが義隆の遺児を擁立し籠城した為に、再度大内氏遺臣達の残党を打ち破るべく長府へ出発した、その後元就らが富田(周南市)に着陣した11月末頃までに反乱はほぼ一掃されており元就らも12月には吉田へと帰った。

この起請文は12月2日の日付であり、軍の規律を厳しく統制することが伺える、その中で秋山掃部助は241名中238番目に記載されている

 

【永禄六年】1563年

第二次月山富田城の合戦にて米子市の弓ヶ浜が戦場となる、その合戦で秋山氏が参加。

 

一永禄六年十月富田よりの手遣いに付但馬因幡の国士共より矢并兵粮を富田へ送り申候此段国中に御付置被成物聞承り届け申上に付児玉内蔵丞に被仰聞一所衆同前に外海乗廻り警固仕候陸よりは福原殿一手に飛落七郎右衛門組共鉄砲二百挺被差添候吉川殿よりは森脇小坂両人小早川殿よりは浦兵部豊島市之丞被遣候左候所に如案但馬因幡両国より警固船数十艘雲伯の堺弓の浜へ盪入兵具兵粮の浜へ上げ富田よりの迎の人数を待居申候富田よりも人数三千計罷越兵具粮米を運送可仕と致手遣候節海上よりは児玉内蔵丞数艘の兵船を押掛敵船を追払陸へ取上り切て掛る陸よりは福原殿一手并に両川殿衆突て掛りせり合御座候終に富田衆負て引退く児玉内蔵丞自分一所衆共に手柄成働仕候就中大多和惣兵衛、山縣善右衛門抜出手柄仕候福原殿自身突てかかり富田衆を追立手柄被仕候一所衆の内長屋小次郎、福原惣右衛門、末国十郎、志道源蔵、門田宮内、波多野源兵衛、并に備後中郡四人衆の内秋山、内藤、手柄仕候児玉内蔵丞宰判にて兵具をば本船へ取込粮米をば焼草を掛焼捨申候事

 

出典『吉田物語』伯州弓之浜合戦之事

註:「備後」中郡衆とあるが「安芸」中郡衆の誤り。

 

【解説】

防長経略の後に大内氏を滅ぼした後に、いよいよ尼子氏との対立することとなる、特に石見銀山を巡っては尼子晴久と数回戦を交えたが敗れていた、しかし、永禄3年(1561)に晴久が亡くなると、晴久の嫡子である義久と和議を結んだが再度石見銀山に進攻し、毛利氏の勢力範囲に収めた。

その後、着実に尼子氏の勢力圏に進攻して、永禄6年には出雲国と伯耆国の国境にて戦が始まったがそれが弓ヶ浜の戦いといわれる

このころ、尼子氏の本城富田城への兵糧は、因幡・但馬方面から海路を通り、伯耆弓浜を経由して輸送されていた。この報告を得た毛利方は、海上より警戒に当たった。

永禄6年11月、因幡・但馬両国の兵船十艘が西に向かったと伝えられ、瀬戸内の川内水軍に出勤が命ぜられた。毛利方の児玉就方・飯田義武・山縣就知・大多和就重らの率いる警固船は、出雲美保関から伯耆の弓浜に至る海上を警固し、別に福原貞俊を主将に将兵を派遣し、毛利方の上陸に備えた。これに対抗するために、尼子義久は将兵2000余を派遣し、福原の諸隊を攻撃、兵糧の揚陸に備えた。海上にあった児玉就方の軍は応援のために上陸、尼子党を破った。(註19)

結果的に尼子兵が捨て置いた兵粮米を奪取した、この戦で陸の武将として秋山の名が見られ活躍が見られる。

 

【永禄十一年】1568年

毛利氏の伊予出兵に秋山民部丞も参加している。

 

注文

福嶋右京亮

熊野宮内允

同右京進

同修理進

井上次郎左衛門尉

福嶋孫四郎

(中略)

同八郎太郎

山縣采女允

打明善三郎

秋山民部丞

粟屋新四郎

品川紀三郎

来廿一日雖辛労之至候、來嶋合力付而警固出候、一入馳走可為祝着候、万々頼入候、尚山縣左衛門大夫・三吉九郎右衛門尉□申聞候

卯月((永禄十一))十九日

各中□

元就 御判

出典『萩藩閥閲禄』巻133「山縣四郎三郎」6

 

【大意】

来る21日辛労の至りではあるが、来島氏に協力して警護をしてほしい、皆励んでいる事は誠に喜ばしいことで頼み入る、尚、山縣左衛門と三吉九郎衛門に申し聞いてほしい。

 

【解説】

毛利氏は永禄十一年(1568)、伊予大州の宇都宮氏や土佐一条氏の侵攻に悩まされている河野氏を助けるために、伊予へ水軍を派遣するが、武田家遺臣の山県氏は「来島合力について警固いだし候」と配下二十五名を、同じ遺臣の福井氏も佐東五ヶ村内の警固衆や水夫をひきいて参加した。この両氏は守護武田家の遺臣であったが、主家滅亡後、毛利氏に服属し厳島合戦では、毛利氏の近臣児玉氏の指揮する川内警固衆に編成されて、いくどかの海上戦に手柄をたて、毛利氏から土地をあたえられた。

武田家・大内家遺臣の警固衆は、やがて毛利氏の譜代家臣児玉氏の指揮する毛利水軍の構成員となったが、まさに永禄十一年の伊予渡海の水軍編成はその事実を明示している。

(註20)

この書状は当時来島氏に協力して警固を行ったことに対する文書であり、瀬戸内海を隔てた伊予国まで出陣していた事が分かる資料である。

その中に秋山民部丞が記載されているが、民部丞という受領名が白木町秋山の秋山氏のなかに見当たらない(当時は秋山掃部助元継)このことから、庶流が派遣された可能性も否定できないが、また白木町秋山ではない別の秋山氏とも考えられるし、若しくは秋山氏が安芸国に下向した直後に分かれた秋山氏とも推測できる。

 

【天正十二年】1584年4月

神辺の城を城番するために秋山氏がその城番衆に入っている。

神辺表 吉((吉) 少(原))・秋((秋) 兵(山))・熊((熊谷) 玄(就真))在番候条、御方之儀早々御舛((昇))候而、萬端可被申談候、恐々謹言 

卯月((天正十))十九日                          右馬

                               輝元 御判

井原小四郎殿 御宿所

出典『萩藩閥閲禄』巻40「井原藤兵衛」51

【大意】

神辺城 吉原少輔七郎 秋山兵部少輔 熊谷玄蕃はすでに在番をしている、井原殿には早々に登城をして欲しい。

【解説】

杉原景盛討伐に向けての準備を行っている段階の書状で4月には井原元尚に神辺城の城番が命じられている、この段階ですでに秋山元信が城番として入城していることが分かる。

 

 

 

【天正十二年】1584年8月1日

杉原景盛討伐について輝元から井原氏 熊谷氏 秋山氏らに書状が届けられている。

 

就景盛身上之儀、相含此者差上候、所原肥後守被申談之其表堅固之才覚肝要候、番衆中其外国々旁至境目、狼藉等無之様可有気遣候、猶趣重々可申候、万端任口上候、怖々謹言

 

八月一日                                輝元御判

 

井原小四郎((元尚))殿

熊谷玄蕃頭((就真))殿

秋山少輔五郎((元信))殿

熊谷少輔九郎((広真))殿

 

出典『萩藩閥閲禄』巻40「井原藤兵衛師勝」25

 

【大意】

杉原景盛の身上については使者に言い含めてあるのでよく聞くように、所原肥後守と申し合わせ固く守ることが肝要である、城番中は国の境目に至るまで狼藉など無いように気を遣う事、重々認識して万端で任務を全うして欲しい。

輝元

天正8年8月1日

井原元尚殿

熊谷就真殿

秋山元信殿

熊谷広真殿

 

一 八月一日 天正十年か 就景盛杉原 身上の儀相含 此者 差上候 所原肥後守と申談之 其表以国の才覚肝要候 言 先年 言 録上

 

出典『譜禄』「井原藤兵衛師勝」

 

※所原肥後守は杉原氏の家老であり、後に景盛誅殺後には尾高城の城代になった。

 

 

【天正十二年】1584年8月12日

8月12日にも同様に輝元から書状が届いており、書状の中には井原元尚、熊谷就真、熊谷広真、秋山元信の連署として尾高城の件について述べられている。

 

其表之儀弥相静候由干要之儀候、乃旁之儀此節可有帰宅之由

承知候、乍去今少之儀可有逗留候、替之儀可申付候、此間差

上せ候衆中余茂無人之事候之条、申入儀候、猶國((国司)右(元武))児((児玉)小次(元兼))

可申候、恐々謹言、

(天正十二年)      右馬頭

八月十二日       輝元御判

井原小四郎((元尚))殿

熊谷玄蕃((就真))允殿

熊谷少輔九郎((広真))殿

秋山兵部((元信))少輔殿 

御陣所

出典『譜禄』「井原藤兵衛師勝」

 

【大意】

尾高城の事、(伯耆在陣衆が)静謐を維持するのが肝要である。

色々な事情によって近々(熊谷・秋山らが)帰宅するとのことだが、それは(輝元が)承知した、しかしながらもうしばらくは残ってほしい。これは、(熊谷・秋山らが帰宅すると)派遣している人数が少なくなってしまうことを懸念したので、(輝元が)申し付けるのである。なお、詳細は国司元武と児玉元兼が述べるであろう。かしこ。

 

 

一 八月十二日 天正十年か 其表 伯州泉山か の儀   弥御静候由 千要の儀候 云此度 云禄上

出典『譜禄』「井原藤兵衛師勝」

 

 

 

【解説】

神辺城は、戦国時代中期には山名理興が城主であったが、弘治3年(1557)に理興が死去すると家老の杉原重盛が城主となった、山陰の尼子攻めなどで活躍し、永禄7年(1564)には重盛が伯耆国の尾高城の城主になる。

杉原盛重は天正9年12月25日、八橋城で卒したので、嫡子弥八郎元盛が家督を継いだ。翌10年、備中高松城を中心に羽柴秀吉と毛利軍が相対峙している時、元盛とともに伯耆にいた弟又次郎景盛は兄元盛を秀吉方に寝返らせ、織田勝利の時は本領の得、毛利勝利の時は不忠を唱えて元盛を討ち、家督を奪おうと考え、元盛に秀吉に付くことを勧めたが、元盛はこれを聞かなかった。そのうちに6月始め、織田と毛利は講話をしたので、景盛は事の現れない内に元盛を討ち果たそうと、計をもって尾高城内でこれを殺害し、吉川元春には、元盛が羽柴秀吉に一味したためと報告した。

ついで佐陀村(西伯郡淀江町)に城を築いて移った。やがて事の真相を知った毛利は伯耆国久米郡小土産(さつと)山(倉吉市小田、今は里山という)に城を築くと揚言して、香川春継・粟屋彦右衛門就光(源次郎)ら八千余騎を派遣して、8月3日、佐陀城に押し寄せたので、景盛は降り、8月16日平田(大山町)で斬られた。そして、景盛の七千貫の地を没収したので、西伯耆の尾高における杉原氏は滅亡した。

しかし、盛重の勲功に免じて、景盛の弟小輔五郎に三千貫の地を他に与え、尾高城は吉田肥後守に守らせた(『陰徳太平記』・『伯耆志』・『伯耆民談記』)。(註21)

このような杉原氏の内証には、長男元盛は備後国衆、次男景盛は伯耆衆の支援を受けたことによる勢力争いや羽柴秀吉の謀略による兄弟間の争いを誘発したことも考えられる。

なお、景盛の後には後に杉原将右衛門が1400石を賜っており庶流が石高を減らされて家名を繋いでいると思われる。

杉原景盛誅伐における毛利氏の行動

  • 毛利氏の行動として天正12年(1584)に、まず、熊谷就真に3月15日までに神辺城の城番として入るように命じている。

『萩藩閥閲禄』巻127「熊谷彦衛門」34

  • 就真が急すぎると返事をするが、必ず入り、少しも油断してはならないと厳命している。『萩藩閥閲禄』巻127「熊谷彦衛門」31
  • その後4月19日には井原元尚に対して城番の命令を下すが、その時にはすでに吉原元種(後の神村元種)、秋山元信、熊谷就真らが城番として入っていた。

『萩藩閥閲禄』40巻「井原藤兵衛」51

  • 7月3日には元就から井原元尚、熊谷就真に書状が送られ伯耆で景盛が亡くなったという噂が流れているが油断しないようにとの書状が送られており、周辺にも慌ただしくなっていることが伺える。

『萩藩閥閲禄』40巻「井原藤兵衛」21

  • さらに8月1日には輝元が伯耆国において景盛を討伐することを知らせる書状を送っており、その中に井原元尚、熊谷就真、秋山元信、熊谷広真らがみられる。

『萩藩閥閲禄』40巻「井原藤兵衛」25

  • 最終8月12日において、秋山元信は井原元尚、熊谷就真、熊谷広真らとともに景盛を討伐することとなり、この後、景盛は攻め滅ぼされることとなる。

『譜禄』「井原藤兵衛師勝」

残存書状から井原元尚と熊谷就真が神辺城の城番として代表的な役割を行っており、その傘下として、秋山元信、吉原元種、熊谷広真らがいたと想像できる。

天正年間以前は「中郡衆」として、内藤、井原、秋山、三田らと行動を共にしていたが、これ以降の秋山氏は井原氏との行動が増えてきていると想像できる、理由として「井原元尚」の妹が「秋山元信」に嫁いでおり義弟となっていることが原因としてあるとも推測される、毛利家譜代家臣として井原氏が活躍する場が広がっていくのと同時に秋山氏の処遇も変わってきたのではないかと思われる。

 

【天正十九年】1591年頃

毛利八箇国御時代分限帳に秋山九郎兵衛の所領の記載がある。

 

430.240石   秋山九郎兵衛  

内訳

344.232    安芸 高田

 35.270    安芸 山県

 50.738    備後 三吉

 

出典『毛利八箇国御時代分限帳』750

 

また、出雲にも秋山弥次郎の所領の記載がある。

 

18.930石   秋山弥次郎 出雲 仁田

出典『毛利八箇国御時代分限帳』183

 

【解説】

秋山九郎兵衛が430石の所領を賜っているが、領内の検地を行い、家臣の知行地の大幅変更を行い、領国内の支配強化を行った、井原元尚などは輝元の命令で「芸州井原」の地から「防州三尾」の地への移動を命じられ苗字も井原から三尾へ改姓している(のちに復姓)その他大多数の家臣が大幅な所領替えにあっている中で、秋山九郎兵衛は所領の8割を高田郡内に維持していた。また1619年当時の秋山村の村高が489石から7割以上が秋山村にあったことが分かる。

秋山弥次郎に関しては、出雲の仁田に約19石の所領を得ていた事がわかる、秋山村本郷には藤綛城があって、伝承によると、その城主は出雲の副という村で秋山善神と称する神に祀られているということで、庶流の秋山氏が出雲に転封になった可能性も否定できない。

この弥次郎が秋山村の秋山氏庶流であったと仮定して、この分限帳が作成された当時すでに、毛利氏と直接家臣の主従関係を結んでおり、秋山氏の陪臣の立場ではないということが確認できる。

毛利八箇国御時代分限帳を確認しても、かなりの人物が記載されており、また有力国衆と同姓の苗字も散見される、本来であれば、これらの人物はその国衆の家臣であり、毛利氏からすれば陪臣の立場になるが、毛利氏と直接主従関係になっていることは、有力国衆からその力を分散させるかを念頭においた方法だとも見て取れる。

井原氏や三田氏が庶流を排出しているのにも関わらず、秋山氏に関しては関ヶ原前には家名断絶しており、庶流等も確認できていない。

【文禄四年】1595年頃

 

【解説】

1595年当時の広島城城下町家臣団の絵図である。

現在の広島拘置所当たりに屋敷を与えられていた。秋山氏は石高430石であるが、同敷地内いた井上彦衛門は229石、田房は田総元好のことであり500石、佐波は善内と思われ500石である、このように4家臣で敷地が割り当てられていた。

【慶長二年】1597年

秋山元信の所領を養子である井原元尚の次男である元応に継がせる。

 

秋山九((元)郎(信))兵衛事、今度高麗役不相成付而、彼一跡四百三拾石之地、封其方次男((元応))令附与之由聞屈候、全知行候而諸役不可有油断候、猶安国寺((恵瓊))・福((福原) 式(広俊))可被申候也

慶長二

  卯月卅日                          輝元公御印形

   三尾四郎((井原元尚))兵衛とのへ

出典『萩藩閥閲禄』巻73「井原助之進」11

 

【大意】

秋山九郎兵衛が、このたびの朝鮮出兵の軍役を勤仕できない状態となったため、所領である430石は井原元尚の次男である元応に継がせる、諸役油断なきように果たすこと、詳細は安国寺恵瓊と福原広俊に申し付けてある。

輝元

井原元尚殿へ

 

【解説】

豊臣秀吉によって2回目の朝鮮出兵が慶長2年(1597)に行われる、本来であればこの戦役に秋山九郎兵衛は参加するのだが、それが難しい状態の為に九郎兵衛の所領430石を井原元尚の次男元応に与えたことを毛利輝元が認めた判持である、軍役が勤仕できないというのは、戦争続きの時代であり、大名も家臣も借金財政で動いており、手元に金銭が無いことは当たり前のことで、この秋山九郎兵衛の家もそのような状態になったことは十分に考えられる。九郎兵衛の妻は元尚の妹であり、更にこの2人の間にできた女子を元尚の次男である元応と婚姻させることにより、家を継がせることを図ったものだとも考えられる。

確かに戦国時代で借金をしながらの軍役を強いられているのは分かるが、どこの国衆も同じ条件であり、特別秋山氏が大きな借金をしていたとは思われない、また仮にその為に家督を娘婿に相続させても苗字の変更まで輝元の命でするとうことは、何かしら大きな問題を内包していたものが、発覚してこのような事態に進んでいったとも考えられる。

その後秋山九郎兵衛元信は秋山姓で婿養子の元応は井原姓で行動することとなる、しかも3年後には関ヶ原の戦いも起こり環境の変化が大きな時期であった。

古文書の中に安国寺恵瓊と福原広俊が出てくるが安国寺恵瓊は毛利家外交僧であり、またトップのブレーンであった、福原広俊は毛利家家中の筆頭家老の家であり、この2名が直接この問題について関与しているということは、この件についての重大さもわかるのではないか。

【寛永八年】1631年

秋山家最後の当主であった秋山元信が亡くなる。

 

『萩藩閥閲禄』巻73「井原助之進」の末尾に以下のことが記載されてある。

私高祖父井原掃部助元応儀者、井原四郎兵衛元尚次男に□、秋山九郎兵衛元信養子罷成、秋山之家続仕候處、輝元公被成御意、実方之称井原相改申候、秋山之先祖備後国ニ罷居、

元就公御時代属御幕下、御軍役相勤、御冠状等被下置之由申伝候得共致紛失、於只今者所持不仕候、尤奥州表並大阪御陣之時分、従輝元公元応江御聞合之御書所持仕候付指出申候、

本地((知))八百石之内三百石、同名四郎((信顕))左衛門家江分知仕候。

 

秋山九郎兵衛元信

寛永八年三月十三日死

 

井原掃部助元応 始孫三 吉兵衛

実井原四郎兵衛元尚次男

寛永廿年十月廿七日死

 

井原九郎兵衛就次 始孫三 吉兵衛

寛文六年八月三日死

 

井原九郎兵衛就吉 始権兵衛

元禄六年四月廿二日死

 

井原吉兵衛師義

 

井原助之進師平

実日野七兵衛就幸四男、師義為養子

 

【大意】

私の高祖父は井原元応です、井原元応は元尚次男で、秋山元信の養子になり秋山の家を継ぎました、輝元様のお考えで実家の井原の名前に復姓しました。秋山の先祖は備後国に住んでおりました。元就公の時代にその幕下に属して、軍役を務めました。感状は紛失しており現在持っておりません。尤奥州に行った時や大阪城を攻めた時のものは持っております。

本知行800石の内300石は弟の四郎左衛門へ分知しました。

秋山九郎兵衛元信 寛永8年(1631)に亡くなっています。

『譜禄』「井原助之進」には以下の記載がある。

 

井原掃部助元應  孫三  吉兵衛  大也

元應養父秋山九郎兵衛元信、初吉兵衛又掃部頭與申候者、清和帝苗裔秋山太郎光朝之末流、先祖美濃國岩村之城主拾貮萬石領知仕之由ニ候得共、子孫藝州中郡ニ在居仕、天文年中    元就公屬  御幕下、三千五◽︎(百或ハ拾カ)石被下置、度々御軍役相勤四寸之御感狀被下置候通申傳候得共、先年土蔵火難之節系圖等一同ニ焼失ニ付、至只今所持不仕候、元信請役目所勤之段不相知候事

 

一、文禄五  六月朔日    輝元公ヨリ元之御字被下候、御判物三尾孫三江當ル  寫先年差出之

一、慶長貮  卯月卅日    秋山九郎兵衛元信知行四百三拾石元應江附與之段達、    輝元公御軍實父三尾四郎兵衛江對シ御黒印賜之  寫先年差出之

一、慶長六  正月七日    秀就公御判物、孫三改吉兵衛尉  寫先年差出之

 

【大意】

井原掃部助元應  孫三  吉兵衛  大也

元應の養父秋山九郎兵衛元信、初め吉兵衛、また掃部頭と申す者は、清和帝苗裔秋山太郎光朝之末流、先祖は美濃國岩村の城主にて拾貮萬石を領知していたそうであるが、子孫藝州中郡に在居し、天文年中  元就公の御幕下に属し、三千五百(百或ハ拾カ)石を下され、度々御軍役を勤め四寸之御感狀を下され、この通り申し伝えているが、先年土蔵火難の節、系圖等一同に焼失したので、只今に至っては所持していない、元信が役目を請け勤務していた事柄は知らない(詳しくわからない)

 

一、文禄五  六月朔日    輝元公より「元」の御字を下さり、御判物が三尾孫三へ当て(て書かれた)  その写しは先年に差出した

一、慶長貮  卯月卅日    秋山九郎兵衛元信、知行四百三拾石を元應へ附与する旨を通達、輝元公の御軍にて實父三尾四郎兵衛に対し御黒印を賜る、その写しは先年に差出した

一、慶長六  正月七日    秀就公の御判物(あり)、孫三改め吉兵衛尉(と名乗る)、その写しは先年に差出した

 

【解説】

この文章で先祖が美濃国岩村城主で12万石の領地があった事や、元就公に属した時に3500石を下され等、一部嘘も交じっているが、慶長2年に秋山元信から養子の元応に430石を付与する旨などは合致している。

7節:時系列 秋山氏の変遷

建長5年(1253)秋山弥五郎朝秀が秋山村の地頭職を仰せつかる

出典『黒木家文書』

建武3年(1336)秋山兵部丞光重が足利尊氏に従い合戦で忠勤を励む

出典『黒木家文書』

応永6年(1399)秋山雅楽頭光持が大内義弘の泉州泉合戦にて討死、息子は小原村へ隠遁

出典『黒木家文書』

不明       秋山大膳太夫が畑杭山八幡宮を建立

神社伝承

文明5年(1473)秋山親次が秋山村祢宜の長屋氏に神社を売る

出典『白木町史』

永正8年(1511)秋山信濃守親吉が毛利氏に忠誠を誓う

出典『大日本古文書家わけ 毛利家文書』196

永正14年(1517)有田合戦にて秋山の記載がある

出典『隠匿太平記』有田合戦付元繁戦死之事

大永4年(1524)秋山某が武田氏救援の為金山城を救援

出典『陰徳太平記』尼子勢銀山後詰付合戦之事

享禄5年(1532)秋山信濃守親吉が毛利家臣団の署名に加わる

出典『大日本古文書家わけ 毛利家文書』396

天文9年(1540)秋山隼人が吉田郡山城の戦いにて防戦

出典『陰徳太平記』太郎丸並池内合戦付湯原彌次郎討死之事

天文12年(1543)秋山信濃守が毛利元就に助けられる

出典『吉田物語』元就公南方秋山を救給事

天文12年(1543)秋山掃部助元継が月山富田城での活躍を賞される

出典『大日本古文書家わけ 毛利家文書』283

天文19年(1550)秋山掃部助元継が毛利家臣団で誓約

出典『大日本古文書家わけ 毛利家文書』401

弘治3年(1557)秋山某が防州へ攻め入る

出典『吉田物語』元就公山口御打入之事

弘治3年(1557)秋山掃部助元継が毛利家臣団にて署名

出典『大日本古文書家わけ 毛利家文書』401

永禄6年(1563)秋山某が第二次月山富田城合戦に参戦

出典『吉田物語』伯州弓之浜合戦之事

永禄10年頃(1567)秋山掃部助 注文

出典『大日本古文書家わけ 毛利家文書』624

永禄11年(1568)秋山民部丞が伊予に攻める

出典『萩藩閥閲禄』巻133「山縣四郎三郎」6

天正10年(1582)秋山兵部少輔元信が神辺城の在番を行う。

出典『萩藩閥閲禄』巻40「井原藤兵衛」51

天正10年(1582)秋山小輔五郎元信が杉原景盛攻めに関わる

出典『萩藩閥閲禄』巻40「井原藤兵衛」25

天正19年頃(1591)秋山九郎兵衛元信の所領が430石となる

出典『毛利八箇国御時代分限帳』750

慶長2年(1597)秋山九郎兵衛元信は朝鮮出兵の勤め果たせずに所領を養子元応に譲る

出典『萩藩閥閲禄』巻73「井原助之進」11

寛永8年(1631)秋山九郎兵衛元信死去                           

出典『萩藩閥閲禄』巻73「井原助之進」末尾

以上のことから、戦国時代以前と戦国時代に分けられる。

戦国期以前としては『黒木家文書』の記載を信じれば、鎌倉時代には甲斐国から下向したこととなる。

鎌倉時代は北条氏に室町時代前期は足利尊氏に随身しており、中期以降は大内氏に付き従ったと思われる、その時々に討死などもあったが、その家系を後世につなげた。

戦国時代の秋山氏は4世代に区分される。

古文書としての初見は15世紀後期でまだ毛利氏の家臣となっていない頃、厳島神主家の藤原氏傘下、若しくは安芸国守護の武田氏傘下として行動していたのではないかと思われる時代。

次の世代として1510~1540年頃には秋山親吉が、毛利氏の勢力拡大に伴って家臣となって譜代化していった時代。

さらに1540~1570年頃には秋山元継が、毛利家支配地域が吉田荘から一躍中国地方まで拡大した時期に元就と行動を共にした時代。

そして最後に輝元の時代の1580年以降に天下が統一されていく過程で毛利氏も家臣団の掌握を行い組織化されていき、秋山元信もその組織に組み込まれていった時代。

激動の戦国時代の中でほとんどの氏族が淘汰していったなか、秋山氏は早くから毛利氏に付き従い、幾多の戦闘に参加していった。一族郎党、また庶流の中には怪我や命を落とすものもあったと思われる、しかし間もなく戦国時代が終わるというところで、輝元から家督を娘婿の井原元応に継ぎ、なおかつ秋山氏から井原氏になったといことはどのように思っていたのであろうか。

しかし、秋山の血脈は元信の娘と元応のとの間に確実に残されており、息子と娘に引き継がれていく事となる。彼らを通じて現代でも彼らの子孫が残っており、言い換えれば秋山の血統を残しているとも考えられる。

 

8節:戦国期以降の秋山氏人物

秋山親次

別名:不明 【源朝臣を名乗っている】

推定生没年(1440頃~1500頃)

文明5年(1473)に畑杭八幡宮を長屋氏に譲っていることが古文書に残っており、また「国郡志下調書出帳」によれば文明7年(1475)三月二日源朝臣小笠原親次棟札に再造立したとある。

なお「小笠原」とは世系が小笠原流という意味合いで実名は「秋山」である。

15世紀前半に生まれていると考えば、その父か祖父あたりの時期にこの地域に勢力を扶植したのでないかと思われる、秋山大膳太夫が畑杭山八幡宮を建立との伝承があることから、親次の父か祖父が大膳太夫の可能性もあるが詳細は不明。

文正元年(1466)の秋山八幡神社新宮社殿造立棟札に「秋山村長右衛門之丞」の名が記載されており、親次の通称が「長右衛門」だった可能性もある。

長屋氏に宮山を売り、金3貫500匁を捻出し、高利貸し業を国人小領主自ら生業としてやっていくなど逞しい姿が見て取れる。

なお、親次の「親」は厳島神主家の当主であった藤原教親若しくは宗親からの偏諱と思われる。

 

秋山親吉

別名:民部少輔 信濃守

推定生没年(1490頃~1550頃)

「親」という字から前代の「親次」と強い関係性が想像できる、父、祖父関係かそれに類する関係と思われる。

毛利家執権である志道広良(1467~1557)の娘が秋山某に嫁いでおり年代的には親吉の可能性が高いと思われる。

永正8年(1511)に毛利氏に臣従している古文書があり、『陰徳太平記』には大永4年(1524)秋山某が武田氏救援の為、毛利氏と共に佐東銀山城の救援に向かっているがこの秋山某が親吉とも考えられる、また享禄5年(1532)には毛利家臣団の署名に加わっており、毛利氏家中で譜代化していった。

天文12年(1543)には第一次月山富田城の合戦にて尼子攻めの時に敵方の河本弥兵衛の館を南方氏と共に占拠していたが、川が増水して、尼子軍の攻撃を受け危機に陥ったが、元就自ら救援して死地を脱した事が『吉田物語』や『陰徳太平記』に記載されている。

また、古文書でもその当時の活躍を賞される感状があり、毛利家が拡大する段階で初期から付き従って重要な役割を果たした国衆としてみることができる。

その後、史料に出てこない事からこの頃に隠居か亡くなったものと考えられる。

なお、親吉の「親」は厳島神主家の当主であった藤原宗親若しくは興親からの偏諱と思われまだ毛利家よりも厳島神主家との関わり合いが強かったころのに偏諱をうけたものと思われる。

 

秋山元継

別名:掃部助

推定生没年(1520頃~1580頃)

天文12年(1543)に第一次月山富田城攻めで手柄を賞され元就、隆元から感状を頂く、その時に親吉も同じ月山富田城攻めに参加していたことから、親子の可能性が強いと思われる、天文19年(1550)元継も毛利家臣団で誓約しており完全譜代化していることが分かる。

弘治3年(1557)秋山某が防州へ攻め入ると『吉田物語』では記載されているが、同年に毛利家臣団にて署名している古文書があることから某は元継と思われる、永禄6年(1563)秋山某が第二次月山富田合戦に参戦と『吉田物語』や『陰徳太平記』に記載されているがこれも元継だと思われる。第一次、第二次共に月山富田城の合戦に参加している事となる。天文22年(1553)に「秋山掃部助」で武具の注文をしている。

永禄11年(1568)に秋山民部丞が伊予に攻めているが、この民部丞に関しては不明であるが年代からして元継の兄弟にあたる人物か若しくは古文書の誤謬で実際は「民部丞」ではなく「掃部助」と考えられる事も出来るが全く別の系統の可能性もある。

元継の「元」は元就の「元」からの偏諱の可能性もある。

 

秋山元信

別名:兵部少輔 小輔五郎 九郎衛門

推定生没年(1550頃~1631)

元継の嫡子と思われる、妻は「中郡衆」であった井原元良(?~1602)の娘であり、井原元尚は義兄に当たる、また養子としてこの元尚の次男である元応を自分の娘の婿養子として秋山家を継がしている。

元信が活躍した頃には元就もすでに亡く、孫の輝元の時代であった、天正10年(1582)の杉原氏の討伐をしている頃には本能寺の変で織田信長が横死、豊臣秀吉の統一の時期であった。

義兄である井原元尚の勢力拡大に準じて秋山氏の地位も向上していったのではないか、所領は430石を賜っている。

しかし、慶長2年(1597)の第二次朝鮮出兵時に務めを果たせずに娘婿の元応に所領を譲り渡すように輝元から言い渡される。

また、元応にも輝元から秋山姓から井原姓へ苗字を復姓する旨も伝えられている。

娘婿の元応は井原元応として、養父である元信は隠居してから残り30年余りを秋山元信として過ごしたこととなる。

 

但し親子関係は証明できないため世代として図に示している

赤字の年代は凡その生存していた期間

志道広良の娘は秋山某に嫁いでいるが世代的に秋山親吉と推測

 

9節:その他地域の秋山氏

秋山村の秋山氏とは関係性を示せられないが、何かしらの縁があるのではないかと思われる秋山氏を紹介する。

 

三次市甲奴町太郎丸の秋山氏について

三次市甲奴町太郎丸に中世に秋山氏が国人領主として存在していたが、その先祖は安芸国秋山村の地頭であると記載されている。

 

太郎丸城址古屋城址秋山家の事

秋山家は鎌倉時代安芸国秋山村地頭として赴任、爾来此の地に居住降って戦国時代に至っては朝氏左衛門尉氏永正年間をへて朝仲氏大永年間(従五位下秋山伯耆守)は毛利元就の四天王として赫々たる武勲に輝き数次に亘って元就より恩賞を受け後德川時代に及びて、北備の大庄屋として歴代地方行政を司り明治時代に於いては、十四代秋山一内は戸長並初代村長として在職四十年に及び

(中略)

秋山家のことについて調べているうちに太郎丸城に住みし秋山五郎入道和時(1350年観応年中)-同伊豆守高寅-同隼人正信-伊賀守等を経て-秋山朝氏-朝仲(伯耆守)-朝忠氏等太郎丸と近在に住み永年に亘り住民を守護すると共に要職にあって支配されたことが伺われる。

また近郷近在に其の縁故者の多いことも事実である。例えば太郎丸を中心に田総、三良坂、福山、神石、比婆、上下、本郷、有田等に縁故者があり先祖として供養されているようである。(註22)

出典『甲奴町郷土誌 第二集 上川地区編』

 

【解説】

『閥閲禄』の「井原助之進」には「秋山の先祖備後国に罷在、元就公御代御幕下に属し」

とある、この文言を信じると、この太郎丸にいた秋山一族の庶流が白木町秋山に土着したと考えられるが、そもそもこの太郎丸の秋山氏自体が秋山村から土着したとある。

秋山村から太郎丸村に土着した秋山氏の庶流が再度秋山村に土着したとも考えられるが、太郎丸にはもう一系統の秋山氏がいることが考えられる、そのもう一系統とは1350年頃に太郎丸村に存在していた秋山五郎入道和時という秋山氏である。

『西備名区』という書物に記載しているものを引用すれば、「秋山者、加賀美次郎遠光嫡男、太郎光朝男、小太郎光重末葉成 観応三年(1352)に秋山五郎入道和時、太郎丸村居住」とある。この秋山五郎入道和時の庶流が安芸国白木町秋山に土着したと考えれば年代的にも整合性もあり、全く否定できるものではない。今となってはそれを証明するのは限りなく困難であるが、1つの仮説としては成り立つのではないか。

 

天野家臣の秋山氏について

秋山村の隣の志和にいた国衆の天野氏の家臣に「秋山氏」がいることが判明している。

 

大永七年(1527)二月十日

天野興定合戦分捕手負注文 

 

芸州阿南郡熊野要害切落時大永七、二之九  興定郎徒并僕従分捕手負人數注文

分捕

(前略)

頸一 秋山彦六討捕之

(後略)

 

註:天野興定から陶晴賢への注文書

大内方の配下として尼子氏の支配下にあった熊野要害の切り崩しに成功した時のものか

 

出典『広島県史』「古代中世資料編V」天野毛利文書19

 

 

【解説】

天野興定は生城山天野氏であり、毛利元就と同格の国人領主であった、代々大内氏に属していたが、尼子氏に属して大内氏に攻められる、後に元就の仲介により和睦降伏しており、両者の間に密接な関係が生まれる、その後、天文9年(1540)の尼子氏が吉田郡山城を囲んだ時には毛利方として戦い、また天文10年(1541)には佐東銀山城を元就と一緒に攻めている。

時代が下り当時の当主である元定には嗣子がいなく元就の七男元政を婿養子として迎えている、後に天野氏から毛利氏に復姓している(右田毛利氏)。

このような中で当時、天野氏が大内氏に属していた頃にその家臣である、秋山彦六という者が熊野要害にて活躍したことが見てとれる、秋山村と天野氏が拠った志芳庄は近隣であり、秋山氏の庶流がこの地で天野氏の家臣になったことは十分にありえる。

関ケ原の後元政は現在の山口県防府市の右田に13,000石の所領を得て右田毛利家となる、秋山彦六の子孫も一緒に右田に行った可能性がある、現在でも防府市には秋山氏が20軒程度存在している。

 

 

牛田村地頭の秋山氏

『芸藩通志』に秋山彦次郎入道(光氏)が建武年間(1334~38)に牛田の地頭と記載

『芸藩通志』巻42

 

 

【解説】

1274年にモンゴルの来襲に供えて武田信時は幕府から安芸国下向を命じられており、武田、逸見、一条、南古など多くの一族、庶流がともに下向してきている、秋山氏も同じように下向してきたものが、牛田村の地頭になってもおかしくはない。武田氏の居館があった祇園付近と牛田は目と鼻の先であり一族を地頭として派遣しても不思議ではない。

 

3章 秋山氏に関する史跡、伝承等

1節:菩提寺である無蓮寺

中世の武士たちは、城館、菩提寺、先祖墓、氏神などを領内に設置していた。

秋山氏の菩提寺は無蓮寺(むれんじ)である、江戸時代の秋山村小字として「無連子」があり、寺の名前が地名に転嫁されている。現在でも小字として「無蓮寺」として残っている。

場所は、秋山氏の居城があった朝日山の山麓に位置しており、この近隣に居宅もあったと思われるが比定は出来ていない、しかし、この近隣にあった事は間違いないと思われる。

寺の跡は現在、住宅の裏山にて藪化しているが、下段付近には石積みの跡もあり、平削地が小面積ながら数段にわたって加工されている。

寺の跡を確認すると、平削地の一か所には五輪塔の残欠が若干残っている、平削地の面積から推測するに往時はこの部分に歴代の秋山氏および一族郎党、眷属の墓が祀られていたと思われる。

現在宅地になっている部分に本堂があったのではないか、そして、近隣に居館があったとしてもおかしくはない。

現在、近隣に散在していた、五輪塔や宝篋印塔は地元の方が整理しており当時の姿を見ることができる。

お墓の形としては大半が五輪塔であるが2つ宝篋印塔の笠の部分が残っている。大きさや形から典型的な中世のものである。

 

 

 

2節:八幡神社である畑杭山八幡宮

武士達は現世利益および武運長久を願い八幡宮を領内に設置している。

秋山村にも八幡宮があり畑杭山八幡宮もしくは、秋山八幡宮と呼ばれている、創建は秋山大膳太夫と呼ばれているが、詳細な年代は不明、15世紀には古文書等に出てくる為、少なくとも15世紀中頃には創建されていたのではないかと思われる。

また神社の伝承としては神亀4年(727)豊前国宇佐八幡から22番目の勧請とも伝わっている。御田(三田)郷の中心部に位置し、総社として勧請されたといわれているが詳細は不明。

文明5年(1473)に畑杭八幡宮を秋山親次が宮司の長屋孫之丞に譲っている証文があり、また文明7年(1475)には朝日山城主「源朝臣小笠原親次」として再建。小笠原親次再建の棟札は明治時代まで存在していた。

御神体は玉殿(三間社)にて

中央社の真ん中に「応神天皇」

向かって右に「神功皇后」

向かって左に「天照大神」

向かって右の社に「神功皇后」

向かって左の社に「神武天皇」が祭られている。

本殿に向かって右手に小さな社殿が二つあるが、上にあるのは馬の安全を祈願して建立された。昔はここに馬場があり、調教や乗馬訓練をしていたとの伝承がある。

また、八幡宮の左手には大きな削平部分があり土塁もあることから、戦国時代には八幡宮としての宗教施設のみならず、戦を想定して何らかの加工が施されていた可能性もある。

 

 

3節:城跡である朝日山城と藤綛(ふじかせ)(藤加勢)城

秋山氏の城跡としては2つの城が存在していることが確認されており1つは朝日山城、もう一つは藤綛城と呼ばれている。

 

朝日山城

『国郡志下調書出帳』の秋山村には「古城一ヶ所当村真中に有之候御建中山嶺上是を朝日か城と申伝候城主秋山兵衛と申来り候」とある。

また『白木町史』には「高さ四町十間、廻り五十七間、壇数四、但し井あり深さ二間礎形あり、城主秋山兵部」と記載されている。

菩提寺である無蓮寺の北西に位置しており、秋山氏の本城と思われるが加工度は低い、

城主「秋山兵部」から「秋山兵部少輔元信=秋山元信」が推測される。

 

 

 

朝日山城は主郭若しくは主要な曲輪に石垣の跡は見られない、もう少し下がった場所に僅かばかりの石積みの跡があるがこれが遺構かどうかは不明である、また水が溜まっている部分があるが、井戸跡(溜池)の様にも見受けられる。

 

藤綛(かせ)(藤加勢)城

『国郡志下調書出帳』では「同一ヶ所本郷東北之側藤綛之城と申候城主之名は相しれ不申候右城主雲州副と申村にて神に祭り秋山善神と称し候由当村にて出立之様子雲州にて戦死之次第に申伝候得共俗説之空言故難奏上」とある。

朝日山城の三篠川を挟んだ東側の山に位置しており、山頂ではなく中腹に位置している。

城としての加工度は朝日山城よりも高く、随所に土塁もみられる、また石垣は朝日山城にはあまりなかったが、藤綛城には多く使用されており、主郭の周りを囲っている。

後方には大きな堀切もあり敵の侵攻を食い止める為にしっかりとした造りになっている、主郭の下段にある曲輪には大きな窪みもあり、井戸跡(溜池)の様なものも確認できる、側面の小曲輪も丁寧な造りになっており、この辺りから前方を見ると、朝日山城をしっかりと確認することができる。また曲輪の一部には宮の跡らしきものもある、

これらは本郷付近に庶家がいてその居城だった可能性もある、『陰徳太平記』では1517年の秋山某による有田中土井の合戦や1540年の郡山合戦での秋山隼人の活躍などが散見されており、彼らの所領および居城がここにあったのかもしれない、城主が雲州(島根県)にて戦死とあるがこれに関しては後述する。

 

 

 

山麓から藤綛城に登っていくと、最初の平削地に社跡がある、戦国時代にはこの部分も曲輪の跡ではなかったと推測できる、社の出入口には若干ではあるが石を加工している部分もある、またこの土の部分は人工的に加工されており、人一人しか出入りできなく、まるで虎口のようにも見受けられる。

 

 

朝日山城は秋山氏の総領家の居城だと思われるが、曲輪の数や加工度が藤綛城よりも低いと感じられる、しかし、石積みらしき遺構や井戸跡の様なもの確認できており、山全体について詳細な調査を行えば、新しい遺構の発見も期待できる。

また、山頂から南に下がっており、妙国寺付近にある複数の小山からは三田方面が非常に分かり易く確認できることから、この場所に見張り台の様なものがあっても不思議ではない。

藤綛城については、加工度も高く、戦国時代で戦の危機に直面していた当時の緊迫した感じをうける。

 

 

 

4節:藤綛(ふじかせ)(藤加勢)城主の秋山善神について

『国郡志下調書出帳』によれば、藤綛城の城主で雲州の副という村にて秋山善神として祭られていると記載されている。そこで、奥出雲教育委員会にご教示頂き奥出雲町横田の横田八幡宮に合祀されていることが判明した。

以下はご教示して頂いた内容である。

秋山神社の由来と難波さん

横田八幡宮は、平氏三所比丘尼妙音(北条時頼の後室)が弘安4年(1281)に八川から移した格式ある神社として知られ、創建時からの棟札や獅子頭が島根県指定文化財になるなど、格式と歴史があります。

さて、この八幡宮の境内に秋山神社という戦国時代に討ち取られた武将を祀る神社があります。この神社にまつわる言い伝えです。

天文9年(1540)尼子晴久は芸州吉田城主毛利元就を討つべく大挙して攻め入りました。しかし毛利氏の軍勢に大敗して、出雲へ引きあげました。その時、藤ヶ瀬城主の三沢為幸は手勢をもって踏みとどまり奮戦しましたが討ち死にしてしまいました。為幸の嫡男の為清は、その後しばしば高野山蔀山城主須藤氏を攻め、ついに攻め落とし、高野11ヶ村、比和5ヶ村を領地としました。しかし、秋山光茂は、家臣の難波氏を引き連れて、機を見て再び三沢氏を攻めようと考え横田に忍び込み、横田八幡宮の神職田中氏に1夜の宿を頼みました。

三沢氏より、事前に秋山光茂がやってきたら直ちに知らせるようにとの通達があったといいます。神職田中氏は快く宿を提供するかにみせかけて、手はず通りひそかに三沢氏に通報したといいます。

その夜は、丁重に酒を持ってもてなし、秋山光茂が酔いつぶれたところを見計らって、秋山氏らの刀をこっそりと持ち出し、庭石の平石にあてて刃を痛め、切れなくして鞘に戻し収めました。またこっそりと秋山氏の馬を出して藁沓の間に小石を入れ、走られないようにしておきました。

神主は、一番鳥が鳴く頃に秋山氏をおこして「明けぬうちに」といい、「難波殿は先発して様子を見られよ」と手筈どおり事を運びました。

それとは知らず、難波氏は岩屋寺越しして、亀嵩の道別れ(亀嵩と横田の境)で、伏兵にあい打ち取られてしまいました。

その後、この道別れの場所を武将難波氏が打ち取られたところであるので、「難波さん」と呼ぶようになったといい、昔は討ち取られたところに大きな黒松があって「難波さんの松」と呼ばれていたそうですが、枯れてしまいました。

一方、後から出発した秋山氏の馬は横田八幡宮横手の細道を通り、少しいったところで動かなくなりました。不思議に思って、馬から降りて確かめると足を痛めていて、よく見ると藁沓の間に小石がありました。「しまった、策略にかかった」とわかった瞬間、三沢氏の伏兵70人余りがあらわれて秋山光茂を取り囲み、斬りかかりました。秋山氏は元来の豪勇と知られ、欠けた刃にもかかわらず応戦して三沢の伏兵40人余りを切り倒しましたが、奮闘かなわず刀は鍔元より折れ、ついに力尽き斬り倒されました。その時、八幡宮の方をかっと睨みつけ「はかられた、倒れるとも私の魂は長く神官に祟り、恨みをはらす」と言い残し息絶えたといいます。

その後、神官田中家は病人が続き、7年もたたないうちに絶えてしまったといいます。

地元では、田中家が絶えてしまったことや近年しばしば周辺で不幸なことがあるのも秋山光茂の祟りであるともっぱらの評判になりました。そこで、村人は相談のすえ横田八幡宮境内に「秋山善神」という神社を建立し、秋山氏の霊を弔うこととしたそうです。すると、奇怪なことは嘘のように無くなったと言います。

なお、秋山光茂氏と難波氏の刀の刃を痛めるために使ったという庭石も、秋山神社の傍らに祀られています。

この石には無数の刀傷らしき痕かついています。その当時、神官がこの石で刃を痛めた傷痕と言い伝えられ、現在も秋山神社とその石は、神主の木山家が他の社とともに大切に祀っておられます。

また、無念にも謀られて討ち死にした秋山氏の霊を弔うために追悼のお墓が、岩屋寺入り口の左手100メートルの道路脇にひっそりと佇んでいます。

現在も八幡宮には秋山神社があり、神主の木山家が他の社とともに大切に祀っておられます。

この話には、本筋は同じですが次のような説話もあります。

弘治元年(1555)、毛利元就は尼子氏を攻めるため、能義郡比田を経て布部の山中に陣をとり、尼子方の山中鹿之助は布部の上り原に山城を構えて迎え撃ちました。毛利方は地の利に勝る尼子方に敗れて、安芸国に退いたといいます。その時、毛利の家臣であった秋山光茂は山中で二昼夜身を隠した後、比田を通って横田にたどりつきました。横田八幡宮の宮山が欝蒼と木が生い茂っており、身を隠すのに適していると再び身を潜めました。そこに、神官の田中和泉守がやってきて、どうしたのか訳を聞かれたので、問われるがままにことの次第のすべて話しました。神官は、同情したように見せかけて、今動くのは危ないので時期を待つことを薦めたそうです。

しかし、三沢氏より「尼子氏の尋ねが入るときく、きたら報告せよ。多額の報酬を出す。逃せば処罰する」とのお触れが下っていたので、神官は三沢氏に密告してしまいました。

そして「来る何日の未明に能義方面に逃し、林ヶ峠より鹿谷の山路を経て西比田に向かわせるよう案内せよ。また、難波を先発させるように。」と手筈を整えていました。

神官は手筈どおり「人が知ったようだ。将来がある身、山の後の山道を越えて西比田方面へ明朝に逃げられよ。」といいました。秋山氏等は、神官の策略とは知らず親切さにほだされて、別れを惜しむがごとく酒をすすめられるまま飲み干し、ついに酔いしれて熟睡してしまいました。これを見計らって、秋山、難波両氏の刀を庭石にあてて歯を痛め、切れなくして鞘に収め、床の間にこっそりと戻しました。また、馬を出して藁沓の間に小石を入れておきました。

一番鳥が鳴く頃に秋山氏をおこして「明けぬうちに」といい、「難波殿は先発して様子を見られよ」と手筈どおり事を運びました。

難波は言われるとおり林ヶ峠を越え鹿谷を越えようとしたところ、馬が動かなくなりました。不思議に思って、馬から降りて確かめると足を痛めていて、よく見ると藁沓の間に小石がありました。「しまった、策略にかかった」とわかった瞬間、数名の三沢氏の伏兵が林の間から現れました。

刀を抜いたが、夜のうちに切れなくされていたので役にたたず、家臣の難波氏は打ち取られてしましました。ここが、松の大木がそびえていた鹿谷越で、これ以後「難波さんの松」と呼ぶようになったそうです。

一方、秋山氏はそれとは知らず後から出発し、同じく伏兵にあって討たれてしまいました。その時、八幡宮の方をかっと睨み付け「はかられた、倒れるとも私の魂は長く神官に祟り、2~3年後には神官家を絶えさせ、家は廃り蓬原(家がなくなること)にせん」と言い残し息絶えました。それから3年のうちに神官家の家族7人は次々と死に絶えてしまったそうです。

その後、神官を継ぐものも現れましたが、病人が絶えなかったといいます。

村人は、「秋山氏の祟りだ」ともっぱらの話となり、相談の末、社内に「秋山善神」という神社を建立し、秋山氏を祀ったところ、奇怪なことは無くなったと言います。

以上のように、三沢氏が毛利方についている説と尼子方についている説に分かれていますが、本筋はだいたい同じ説話になっています。

いずれも時代考証が一部合致しませんが、この秋山、難波なるものが馬場八幡宮の神職となんらかの関わりをもったことは事実のようです。実際に、田中家が7年にして絶えて、村人が祟りであると恐れ秋山神社を建立したことは事実ので、地元の寄進によって建立され、追悼墓も建立されています。

この追悼墓には、「天正十壬午年討死同十六戊子年善神与祀 奉寄進秋山善神御廟所石塔一宇 享保十三戌申年 神主木山右衛門定清建之」と刻まれています。

このことが事実であるとすると、尼子氏は既に滅亡しており、中国地方の大部分は毛利氏に従っています。

このことを類推して、高橋一郎氏は、秋山氏は備後の山内首藤氏の分家である高野山城主の多賀山首藤氏に関わる武士ではないかと指摘しています。(詳しくは、機関誌奥出雲参照)

 

《参考》参考資料 詳説 横田村歴史、若月家古代大成記、雲陽誌、機関紙奥出雲

 

 

 

『若月家古代大成記』一巻に秋山が記載されているがその中には「秋山隼人光茂」とあり毛利氏の吉田郡山城が尼子に攻められた時に活躍した秋山隼人との関連も示唆される。

また、享保2年(1717)に作成された『雲陽誌』巻之五 仁多郡には以下の記載がある。

秋山善神 芸州の武夫秋山氏 某の一男子を刺殺出奔してきたり、山林の陰鬱なるをもって八幡の宮中に寄生す 時に縣主三澤氏探出て害す、是において悉祟ありて村人災多し、故に祠を建祭敬す、本社一間ばかり、天正年中堀尾氏再建の旨札あり。

古老傳に曰く、備後国山内の城主右近太夫の息子金谷信濃守、後秋山と改号するか

 

【解説】

以上のことから推測するに数点の仮説が成り立つ。

仮説1

上記伝承では天文9年(1540)に尼子氏の月山富田城を攻城したとあるが、実際は天文11年(1542)のことである、天文9年の吉田郡山城の戦いにおいて、尼子氏に臣従していた三沢為幸が討死し嫡男の為清は尼子氏から大内氏に臣従した、この月山富田城攻めでは大内側の諸将として参戦していたが、再度尼子氏に従った為大内軍は大敗を喫し壊滅状態となった、毛利軍も同様に殿を務めながらの退却で被害も甚大であった、この退却戦の時に吉田郡山城に参戦していた秋山隼人が三沢氏に領内にて討死したことが後世に伝承として残った。伝承での秋山隼人光茂と『陰徳太平記』で毛利家臣として参戦した秋山隼人、時代の整合性もある、また月山富田城から横田までも40キロ強の道のりであり、月山富田城攻めに失敗して逃れるルートに比田から横田が入ったとあるのでおかしくはない。

 

仮説2

『国郡志下調書出帳』には「雲州副と申村にて神に祭り秋山善神と称されている」とある、副という村は現在存在していながい「福頼村」が近世には存在しており現在の奥出雲町横田に福頼という地名が存在する、秋山隼人の所領がこの地にあり、三沢氏もしくはその家臣との間に争いが発生して謀殺された可能性もある。

『毛利氏八箇国御時代分限帳』によると天正19年(1591)出雲国仁多郡に秋山弥次郎が18.930石の所領を得ている、伝承により謀殺された秋山隼人光茂との関係性は不明ではあるが興味深い内容である。

 

仮説3

秋山の追悼墓には、「天正十壬午年討死同十六戊子年善神与祀 奉寄進秋山善神御廟所石塔一宇 享保十三戌申年 神主木山右衛門定清建之」とある、つまり天正10年(1582)に秋山氏が討死したことになる。

この天正10年討死ということが正しいと仮定して推測してみると、天正10年当時この山陰地方はすでに毛利氏の支配下に置かれており尼子氏は滅亡している、当時このあたりは尾高城主である杉原盛重の管轄地域であった、盛重は天正9年(1581)に亡くなり嫡子の元盛が家督を継いだ、しかしこの元盛も弟の景盛に謀殺されるということがあり、不安定な頃であった、そのような中で秋山隼人守も何かしらの災難に巻き込まれて命を落としたとも考えられる。

 

上記の事から秋山善神について

以上のことからわかることは、秋山隼人光茂と呼ばれる芸州出身の武士が横田地方に所領を得ていたが、尼子氏の月山富田城への攻城に惨敗の途中に三沢氏によって謀殺したか、単に所領内での争いで謀殺された、または、杉原氏の内証に巻込まれて亡くなった可能性もある。

どちらにしても命を落とした秋山氏の亡霊が村民に対して祟りを起こした為に、供養墓を造ったら祟りも治まった、これが秋山善神の始まりであり、秋山隼人に関しては『陰徳太平記』の中で吉田郡山城を守った秋山隼人の可能性も否定できない、そして、彼は藤綛城の城主で庶流の秋山氏だったのかもしれない。

また、別の伝承として多賀山内氏の家臣で金谷信濃守通重が秋山を名乗って討死したとも伝わるが詳細は不明であり、この場合は芸州秋山村に伝わった伝承自体が成り立たなくなる、しかしこの伝承は元文4年(1739)に秋山善神語伝記に初めて載った伝承であり、それ以前に金谷氏についての記載は確認できていない。

 

 

余談

余談ではあるが天正12年(1584)に杉原景盛が討伐されて本流の杉原氏は滅亡した、しかしながら、庶流の杉原家が存続を許されている、理由は、天正15年(1587)6月、吉川元長から経言(広家)への家督相続に際して、経言への忠誠を誓う起請文に署名した人物の一人に、杉原彌五郎廣亮の名があり、吉川家の家臣として家名を存続させている。出典『大日本古文書家わけ 吉川家文書』202

この杉原広亮が天正19年(1591)に毛利輝元から仁多郡横田に1409.528石所領を与えられている。出典『毛利氏八箇国御時代分限帳』403

時を同じくして同領内に秋山弥次郎が18.930石の所領を得ていることにも歴史の縁を感じる。

 

5節:その他の伝承 史跡

うわ上天

『国郡志下調書出帳』「秋山村」に古戦場之事として「うわ上天」が記載されている。

一古戦場之儀当村南野山之内うわ上天と申所に大将之墓諸卒之墓等多相見申候是は秋山殿三田どの土地争論之合戦之由申伝候得共外に由来一向相しれ申さず候近年其辺にて撨童雁股之箭頭杯拾い候由相聞申候

 

【解説】

秋山村の内、うわ上天と称する所は戦国時代に秋山氏と三田氏との境界を争った古戦場で、大将の墓、士卒の墓があり、また雁股の矢の根を拾うことがあると記載されている。

合戦の原因を境界争いと伝えたことは興味深く、近世の秋山村と三田村との境界はこうして決定されたのであろうか。(註23)

地元の方に確認したところ場所は向瀬戸にある古刀玉神社の南300mに位置する上天山である、古刀玉神社裏から谷筋を登っていき尾根に行き、着いたら尾根筋を上がっていくと、標高300mの場所に平坦な場所があり一部岩肌が露出している、草木が無ければこの場所からは秋山村方向、三田村方向と双方が確認できる好立地であり、この場所で争った可能性は十分に考えられる、「うわ上天」であるが地元の伝承では「うわ」は「うら」が訛ったとのことで本来は「裏上天」との事である、そうなってくると、上天山の裏に位置する事になる。上天山の裏側(三田側)の少し下がったところには谷筋の水を利用した田もあり戦後すぐまで作っていたとのこと、三田の鳥井原には三田氏の城があり、そこから山を伝っていけばすぐに「うわ上天」にたどり着けることから、重要な地であったと思われる。

なお大将や士卒の墓は現状確認出来なかった。

 

 

現在では人の手も入っておらず、雑木林になっているが、当時は下草も刈られており、山道を通れば近道で鳥井原から横路まで行けたと思われる、うわ上天の鳥井原側に少し下がったところにも人為的な石積みや石列などがあることからも、時代は不明であるがこの付近まで何らかの為に人が行動していたことが想像できる、また、1つであるが人工的に加工された石物もあり、非常に興味深い場所であり、さらに深く調査を行えば、新しい発見があると考えられる。

 

三田新城付近での秋山氏、三田氏の合戦

また三田に勝負が尻の古戦場があった、これは記録でなく、付近の古老の口伝えである。

勝負が尻は新城の前面、弥谷大泓の上にある湿地であった、かつて三田氏が攻撃を受けた際、陣城、三田新城及び鳥井原の萩原城の三ヵ所に兵を伏せて、敵を挟撃して勝負が尻の湿地に追い落し、敵将を討ち破って勝利を得た。付近に敵将を葬った塚や五輪塔があったという話であるが、近年の開発で跡形を無くした。

二つの合戦が同時期に起こったのであれば、秋山三田両氏は境界を争って攻防を続けていたのであった。近世の村境は天正検地で定まったので、中世の境界は不明であるが、狭い所でいづれにしても大きな出入があったのではない。

近隣に毛利氏が勃興すると、脚下で小さな争をしている場合ではなくなり、互いに一家の興亡を賭けて団結したのであったろう、或いは毛利氏の得意な外交手段で「中郡衆」と持ち上げ十把一絡げに纏めて帰属させたのであろう、とにかく秋山氏、三田氏ともに「中郡衆」の一隊となって毛利氏の中国制覇の戦に従ったのであった。(註24)

 

 

『国郡志下調書出帳』「秋山村」寺院之事に「真宗妙国寺」及び「周林山坊周寺」が記載されている。

真宗妙国寺

本堂(梁三間 桁三間)茅葺寺内畝数凡四畝

庫裏(梁行四間 桁行九間)

鐘突堂(梁二間 桁二間)

但し尤開祖之儀者法名覚正慶長三年と申伝へに御座候得共委敷義者相しれ不申候

 

【解説】

文亀3年(1503)僧円諦開祖し、慶長3年(1598)覚西のとき改宗した。また永正19年(註:永正は17年(1520)までしか存在しない)僧教春の開基ともいわれる。

和尚の話では開基当時は真言宗であったという、当時秋山氏の菩提寺は無蓮寺があり、祈願寺として開基されたのかもしれない。

その後、慶長3年(1598)に改宗しているが慶長2年(1597)に秋山元信から娘婿の元応に家督相続を実施、更に毛利輝元の命にて姓を秋山氏から井原氏に復姓しており、秋山氏の援助が受けられなくなったため改宗した可能性もある。

妙国寺の裏には山道があり畑杭山八幡宮へ繋がっている、戦国当時、秋山氏が朝日山城の麓に居住していたのであれば、この道を通って妙国寺に行き来していたとしても不思議では無い。

境内には無数の五輪塔や宝篋印塔が一ヵ所に纏められているが、これらは小越地区にあったものを檀家の依頼で寺に移した経緯があり、妙国寺が開基した当時からあったものでは無い、墓は戦国時代の典型的な五輪塔や宝篋印塔である。

お寺の石垣に関しては開山当時そのままで貴重な石垣となっている。

妙国寺の五輪塔や宝篋印塔は数多くあるが、戦国時代この地の小領主の一族が戦で多く亡くなっていることが分かる遺跡である、小越村も昔は秋山村の一部であったとの伝承もあることから、秋山氏に縁のあった人物の墓とも考えられるが詳細は不明

 

周林山坊正寺

『国郡志下調書出帳』「秋山村」に以下の様に記載されている。

観音堂 一宇 但し二間四面建立之儀者相しれ不申候

本尊千手観音延宝元年再建立又宝暦四年只今の(虫くい)

 

 

【解説】

現在お堂として残っている、本尊千手観音は延宝元年(1673)に再建されている、外の銀杏の木は樹齢300年以上と伝えられており、開基の時に植えられたとも考えられる、本堂内部には本尊の千手観音と古仏像があり、特に古仏像はかなり古いものではないかと思われる、集会所が隣接しており、その隣には八王子神が鎮座している、八王子神は、以前は山手の方にあったが、戦後にこの場所に移動された、また、境内には古い五輪石がありその形態から戦国時代以前のものと考えられる。

この地域は小字を坊地といい、境目の土地であった(関川の北は小越である)近隣には朝城神社や藤綛城もある事から、秋山氏庶流がこの地を治めその領内に自家の寺として勧請した可能性もある、境内の五輪石に関しては、その形態から戦国時代のものと思われることからもこの地に戦国時代には寺が存在していた事を物語っている。

 

 

 

房照寺

『国郡志下調書出帳』に廃寺跡としてとりあげられているが房照寺=坊正寺と同一のものである、『芸藩通志』では絵図にて房照寺と記載されている、この国郡志下調帳作成当時(文政年中)に無住職で荒廃していた為、廃寺と記載されたものでは無いかとも考えられる。

光明寺

高田郡村々覚書に記載されているのみで詳細は不明。

一 光明寺と申寺跡御座候何宗開起((ママ))何之御時代に大破仕候も知不申候此所に古墓御座候古之領主墓之由伝も名字又者戒名にても不在候

 

【解説】

『芸藩通志』の絵図に小明寺という記載してあり、この場所が比定される。

城としての藤綛城、宮としての新宮、寺としての小明寺と本郷内で整えられる事となる。

但し、秋山氏に関係しているかどうかは疑問が残る。

寺の跡とされる場所は「本郷枡が谷の冷泉」付近でかなり広い空間が削平地として存在している、また平削地は段状になっており、往時は大きな寺院が建っていたと推測される。

この場所の一ヵ所に五輪塔及び宝篋印塔の石塔がひとつに纏められているところがある、宝篋印塔、五輪塔ともその形態からして南北朝後期から室町前期まで遡る可能性がある石塔である、そうなってくると、秋山氏関連では無くさらに遡り、南北朝時代から室町時代初等にかけてこの地域を支配していた人物に縁のある寺院だった可能性も否定出来ない。

 

 

画像の宝篋印塔では、反花はややふっくら、格狭間の枠幅は違っており、花頭曲線はややのびやか、ふくらみは少しと観たので、南北朝後期から室町初頭と時代判別をする.

 

成福寺

三田村国郡志書出帳に以下の記載がある。

「廃成福寺 字吉永堂山にあり 山脚三四畝の地薬師堂を存す 地名己に堂山にして 其傍又寺田老僧町花立町等の田圃の名あり 本は必ず大寺なりしならんが 其濫觴来歴は詳ならず慶長年間に至るまでは小庵あり 番僧も居りしが福島検地の時寺田は固より番僧の給米もなきに至り 退転の際本尊並に什物等もたらし去りたりと言う。本尊は広島正楽寺にありと言う 正楽寺は広島になし 或は比治山の正楽寺(今は廃す)か本堂小庵とも漸く破壊したれば里人相謀りて建立し 他の本尊をもたらし来りて安置せりと言う 堂山に南面には五輪塔多くありしが村童の悪戯に因り山下に転落し 終に残滅し 今は往々田圃に堀出すこともあり固より何人の物たることは知る可からず。

 

【解説】

西川ゴム工業の白木工場内に堂山がありそこには成福寺跡がある、この場所は現在白木町三田の吉永という場所になる為、厳密には秋山ではないが、しかし、中世の上村(秋山村範囲)が三日市までだったとあることから、この場所も中世には上村の可能性があるため記載した。

元は大きな寺があり慶長年間(1596~1614)当時は小さな庵があったとの記載から、この場所にそれなりの寺があったと推測できる、場所からこの地域を支配していた氏族が関与していたとは思われるが詳細が伝わっておらず不明である、なおこの場所には五輪塔が多くある。

五輪塔は以前この地域に散在していたが、西川ゴムの工場が出来た時に一緒にされて合塔されている。

形態から室町前期から後期に遡れる可能性のある五輪塔もあり、当時からこの場所に寺院があったとの伝承を裏付ける微証となり得る。

 

中央正面の五輪塔は、水輪、地輪は当初のものでは無いが、空輪、風輪、火輪が当初のものとして、時代を判定する、空輪を見ると、先が尖り、宝珠の形が崩れ、なつめ形とな

っており、室町以降と判定出来る、風輪は、空輪よりも少し高さが低く空輪を請けた形をしており、室町前期と判定出来る、火輪は、軒の下は水平でなく少し反りがあり、屋根の勾配はやや力が抜け、軒の端が厚く反っている、軒に反りがあるので室町前期とみる。

 

朝城神社(新宮大明神)

『国郡志下調書出帳』には本郷の宮として本郷平野山新宮大明神が記載されている。

本郷には藤綛城や光明寺(小明寺)もあり、中世に宮として新宮大明神があったとも考えられる、宮には万治四年(1661)の棟札があると記載されている。

この地域には後に出雲国にて秋山善神になったと思われる、秋山家庶流がいたと推測されるため、この庶流が自家の為の八幡宮として勧請したとも考えられるが詳細は不明である。

 

本郷平野山                           神主

新宮大明神 一社                         同断

祭神速玉男命棟札に万治四年と御座候社間数之義は左之通に御座候

御神殿(梁行二間半 桁行九尺)とち葺社下畝数凡六反八畝

同拝殿(梁行四間 桁行二間)茅葺に御座候

出典『国郡志下調書出帳』(秋山村)

 

 

 

4章 秋山氏に縁のある氏族

1節:中郡衆井原氏

井原氏は高氏の庶流である。高氏は藤原鎌足十代の後胤陸奥守致忠の二男丹後守保昌よりでる。その末裔高師重の子氏教は、尊氏より安芸国高田郡井原村を賜り建武の頃に下向し、鍋谷城を築いて居住した。従って在名により井原と号し、井原・高の両姓を用いるようになった。

その後毛利氏の麾下に属したが、井原・高元師の妻が毛利弘元の末女であったことから、井原氏と毛利氏は一層親密な関係となった。(註25)

元師の孫四郎兵衛元尚は周防国熊毛郡三尾に転封となり、三尾と称したが息子元直の代に復姓している。

1591年当時の所領として元尚は三尾姓を名乗っているが2,235石 父の元良は332石 弟の元以は905石、他に井原大六200石、井原小六200石を賜っており合計で約3,872石と毛利家の中でも重要な位置を占める譜代の臣になっていることが見てとれる。

秋山氏との関係は元尚の妹が秋山元信に嫁ぎ、また次男の元応が元信の娘と婚姻している、元応は結果的に秋山氏から井原氏への復姓の為、その所領430石も井原氏になる。

秋山元信は井原元尚の妹婿の間柄であり、井原氏の勢力拡大に伴い秋山氏もその地位を向上していったものと思われる、また、毛利氏から命じられた様々な指示に対しても協力していったと想像できる。

井原氏年表

 

 

2節:中郡衆三田氏

中世か三田新庄と呼ばれたこの地域は上村が現在の秋山で下村が現在の三田に該当するとされている。この下村を所領したのが永井氏で、藤原姓である。初めて東国から三田新庄に来たのが永井庄七郎と伝えられているが出自は不明である。

広島県史や高田郡誌など過去に発行された地方史には永井氏は大江姓としているが家譜は藤原姓としている。その他にもこれを証する史料があって、藤原姓であることが確かめられる。在名によって三田氏を称した。

建武新政下で毛利元春は吉田庄地頭職を取り上げられ無足となった際、母方の祖父三田入道に頼ったといわれるので、この頃すでに三田氏を称していた。(註26)

永正のころ(1504~1520)三田少輔七郎元実が萩原城に拠り、三田375貫を領した。元実は大内義興に従って京摂の合戦に戦功があった。元実の長子能登守元吉および元吉の二男五郎左衛門元親は、三田新城に居住し毛利氏に属した。

1591年当時の所領として三田少輔七郎元実が1220石を賜っている、息子の三田五郎右衛門も53石を賜っている。

秋山氏とは所領が隣接している為に「うわ上天」といわれる場所が存在していた、この場所は秋山氏と三田氏とが境界を争った古戦場で、大将や士卒の墓があり、また雁股の矢の根を拾う事があると『国郡志下調書出帳』や『芸藩通志』に記載されている。

記載内容に「古戦場之儀当村南野山之内うわ上天と申所」や「秋山村野山の内にあり」とある向瀬戸の南山に上天山という場所があり、うわ上天に比定されている。

時に秋山氏と争い、時に毛利家臣として共に戦いながら戦国の世を乗り切りながら関ケ原以降は萩に行く者、地元に残り庄屋になる者に分かれた。

三田氏年表

 

 

 

3節:中郡衆内藤氏

内藤氏は藤原鎌足九代孫時長の長子利仁から出るという、しかし、この内藤氏は内藤康弘の孫、為弘が一時佐伯氏を称したことから、厳島神社神主佐伯景弘の一族とも見られる。

佐伯氏は安芸国の国造の末裔で古くから土着の豪族である。この内藤氏が所領とする高田郡妻保垣、高田原、西別府、長田郷は厳島神社の神領であり、内藤氏はその荘官であった。内藤氏が佐伯氏を称したのは、その一族であるか、または佐伯氏の苗字を仮冒したのであろう。平家没落後には為弘はすすんで鎌倉御家人となり、健保4年(1216)に幕府から正式に妻保垣、高田原、西別府、長田郷の地頭職に補された。この内藤氏を長田内藤氏と通称する。戦国時代、元泰の長子元康(少輔九郎)の妻は福原出羽守貞俊の妹で毛利元就ともつながる家系に当たる。毛利氏の麾下に属したのはこの頃だと思われる。(註27)

永禄九年(1566)尼子義久、倫久、秀久ら三兄弟が月山富田城を下りて元就に降伏したとき、この三兄弟を安芸に護送し、この内藤元泰に預けたので、長田禅宗円明寺に収容し警固の任に当った。1591年当時の所領として内藤中務少輔元泰が984石を賜っている、息子の内藤五郎兵衛広泰も21石を賜っている、また内藤元種と井原元尚は親戚関係であり

秋山氏とも少なからず縁戚関係がある。

 

 

内藤氏年表

 

内藤家文書の中に秋山氏と座席順に関わることが記載れている。

内藤家之次第覚書

(前略)

一下総方在所、長田(安芸高田郡)と申所也、此次井原・市川・秋山・三田迄ヲ中郡と申而有之、市川・秋山の近所小郷数多候事、扨中郡衆ハ一同ニ正月十二日ニ毎年吉田へ罷出、御年頭被申上御対面被遊候て則御節飯被遣候、左候處ニ正九郎幼少之故名代差出候付、御節飯之時もはるばる下座ニ罷居候、少九郎成人仕ニ付而、初而正月十二日ニ罷出、秋山殿次ニなをり申候、其年ハ少も座敷次第不申候て罷帰申而候、左候て明ル年正月十二日ニ中郡衆一同ニ吉田へ罷出候、御座敷之前廉申様ニ内藤之座敷前々より秋山之次ニなをりたる儀無御座之通申上ニ付而、其段秋山方ヘ御尋被成候へハ、秋山之家内藤次ニ罷居たる事無之通被申上候、夫ニ付而老中へ御尋被成候へハ、平佐伊豆被申様ニ座敷之上下ハ不存候、内藤先代ニ於両度出陣被仰付候而、先様思召ままに退治被仕帰陣被仕候由候、其御褒美ニ井原殿ヘ御理被成、御意、井原殿よりも御理り無御座早々上座被仰付候へと被申ニ付而、内藤上座仕申候、三ヶ年上座候て前々の座敷へ罷居候、井原と内藤とハ客居主居之由承及之通、伊豆被申上候、就夫秋山殿先代之ことく座敷被仕候へいなやと被申候ハハ、今日の座敷へハ無用之通被仰出、不及力前々座敷下総次ニ被罷居候、右之次第ニ付而、内藤と秋山と座敷論仕たると吉田ニ沙汰有之由之事

(後略)

 

【大意】

内藤下総(元泰)のいるところは長田(安芸国高田郡)と申すところである。この次ぎは井原・市川・秋山・三田迄を中郡と申す、市川と秋山の近隣には小郷が多数ある。さて中郡衆は毎年正月十二日に吉田に行き、年頭の挨拶と対面を行いまた食事を頂く、左様のところ正九郎(元泰)がまだ幼少の為名代を使わしていた、食事の時もはるばる下座にいる、少九郎(元泰)も成人になった為初めて正月十二日に(吉田に)行ったが、秋山殿の次ぎの座席になっていた、その年は座席のことは申さず帰ってきた。

次の時の正月十二日に中郡衆一同と吉田に行った、この時の座席も内藤氏の前に秋山氏がいる席順であった、この事を秋山氏に尋ねたが秋山の家は内藤の次ぎの席順ではないと申した。

その事に付老中に尋ねたら平佐伊豆(就之)は座席の上下は無い、「内藤は先代の頃二度出陣を仰せつかって、(毛利が)思うが儘に敵を退治して帰陣したとのことです。その褒美として(毛利氏が)井原殿に(内藤を上座にすることについて)意見を聞こうとされたところ、井原殿も(内藤が上座につくことを)拒絶されることは無く早速(内藤に)上座を仰せつけられたらいかがでしょうか」と仰ったので、内藤は上座に座ることになった。(内藤は)三年間上座にいたが、其の後は以前の座席に戻った。井原と内藤の席次は、(上座は内藤には)一時的な場所、(井原には)本来の場所だということですと平佐伊豆は(老中に)申された。それについて秋山殿は、(内藤の)先代の例に倣って(内藤の本来の)座敷に座るべきだと言ったが、「本日の座敷ではそのような変更は必要ない」という老中の仰せがあったため、(秋山殿は)力及ばず(前々の位置であった?)内藤の次に座っていた。そのような次第で、内藤と秋山が席次争いをしたということが吉田の毛利氏のもとに報告されるという事だ。

 

【解説】

秋山氏の主張は,先代の時には秋山―内藤の順だったので,その通りにするべきだということだが,平佐老中の裁定では,今日の座敷は,内藤-秋山の順でよいということになっている。

先代の時と席次が逆転したのは,内藤氏が二度にわたって戦功をあげたのがきっかけで,その時に,井原氏も飛び越して,内藤氏が三氏の中の最上位になったのかもしれない。

(そもそも井原氏が最上位であったかどうかは確かではなく,その位置付けが不明)

 

以下は,推測であるが

先代の時は,井原秋山内藤という席次だったのが,内藤氏が戦功をあげたことによって,内藤井原秋山という席次になり,その3年後には,井原内藤秋山という席次になった。

その後,内藤下総は,幼少時には名代を遣わしていたので,井原秋山内藤名代という席次だったのが,下総が成人したことによって,井原内藤秋山という席次に戻すべきだと主張した。

一方秋山氏は,先代の時には,井原秋山内藤という席次だったので,その通りにするべきだと主張した。

 

席次は重要なことで、座席争いを端的に示した文書である、天文19年(1550)の井上衆誅伐の時に『毛利家文書399』の中にも「座敷之事」とあり「行事の時の着座順を乱して上座に座ろうとする」とある、このように少しでも上座に座ろうとする風潮が当時あったことを示している。

また、十二日に郡山城に行くとあるが、「正月佳例書」の中に行く順番が記載されている、

順番としては元日には、郡山城を囲む吉田・多治比などの衆、および中間・小者・馬屋方など、文字通り毛利氏の膝下で御用を勤めているような、譜代の家臣たちが登城。二日には福原氏などの親類衆、五日に外様衆、六日に郡山の麓廻りの寺家衆、八日には惣郷の寺家衆、九日に佐東衆、十日毛利氏と同じ安芸の有力者であった国衆の使者 十一日に連歌 十三日に宍戸・中郡衆とあり13日に中郡衆が吉田に行くようになっており、毛利家の細やかな配慮がある反面、まだ権力基盤が脆弱であり、これら毛利氏と縁のあるものしっかりと絆を強めながら運営をしていると思われる。

 

 

4節:毛利氏執権志道氏

志道氏は大江姓にして毛利親衡の二男宮内少輔匡時の孫、坂下総守広秋の四男大蔵少輔元良より出る。元良は、はじめ毛利を称していたが、安芸国高田郡志道村に居住し在名によって志道と称した。

毛利氏が早くから惣領制を確立し、元就から数代前に分立した庶支流は「親類衆」として家臣団の最上位に編成されていた。志道氏が毛利家家臣団にあったことは、元就の家督相続に関する重臣十五名連署の中に上野介広良の名があったことから窺い知れる。

毛利氏が中国に覇をとなえ得たのは、この惣領制の確立にあったといっても過言ではない。(註28)

志道氏は広良(1467~1557)が元就確立の中心的立場をとり、執権役としてもっぱら政務に当たったが、孫上野介元保、その子大蔵少輔元規も毛利氏の重臣として功績があった。

その広良の娘に秋山某に嫁いだものがいる、広良の年齢から娘は1500年頃に生まれたと思われる、この時代に合致する秋山氏と云えば秋山親吉が該当するため、秋山某は秋山親吉の可能性が強い、この頃から毛利氏の中郡衆に対する縁戚関係の強化がみてとれる、中郡衆の中で内藤氏には毛利氏筆頭家老の福原広俊の娘が嫁ぎ、井原氏には毛利元就の妹が嫁いでいる、このよう状況で秋山氏も毛利氏執権である志道広良の娘を娶ることにより、強固な関係を築いていくことが見てとれる。

1591年当時の所領として志道太郎三郎元幸が1,324石を息子の太郎右衛門が296石を賜っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

おわりに

今回、中世初期の鎌倉時代から近世の幕が開かれようとする関ケ原の戦い前までの「秋山村」及び「秋山氏」についてを纏めたが、中世初期には秋山村との呼称は無く「三田新庄上村」と呼ばれていた。この上村の呼称は中世でもかなり遅くまで言われていたのではないかと思われる。

秋山村の初見が天正16年(1588)であり、また中世初期頃の当時に秋山村に該当する場所にも「須澤村」、「波多食原村」、「加津見村」、「堀越村」と個別の村があったことから、秋山氏が在地勢力として拡大していく中で、「秋山氏の所領がある村」から「秋山村」となったと想像を膨らませることは出来ないであろうか。

この地域は16世紀の初めに毛利氏の家臣団となった「中郡衆」と呼ばれた国人領主達が治めていた土地で、秋山氏も内藤氏、井原氏、三田氏と共に毛利家中では譜代家臣に類するような地位を得ていた、恐らくは毛利氏の勢力拡大に貢献したいったものだとは想像に難くない。

秋山氏に関しては、1500年代を通じて秋山親次、秋山親吉、秋山元継、秋山元信と世代を繋いでいった、毛利氏執権の志道氏や近隣国衆の井原氏との婚姻関係を結びながら、成長していったものと考えられ、元就時代には「中郡衆」としてその集団の中で戦をしていたものが、輝元の時代になると、毛利家と姻戚関係を持っていた井原氏と共に戦闘に参加する機会が増えていったものだと考えられる。

しかし、順風に思えた秋山氏も慶長2年における朝鮮出兵に関して勤めを果たすことが難しくなり、井原氏から来た婿養子の元応にその所領430石を家督相続させた。しかも、元応自身が秋山氏から井原氏へ復姓をしたこともありここに長年続いた「秋山村」の「秋山氏」は終焉を迎えることになる、しかし、その家系は井原氏、またはその娘の系統によって連綿と続いていると信じたい。

城跡からの集落の風景や菩提寺跡の無蓮寺、また畑杭山八幡宮などに佇むと、往時の情景が想像される。

また、この度の調査で古文書等から、過去に存在していた寺や古戦場なども新しく発見した、これらの場所に関してはまだ調査しきれていない部分も多くあり、研究課題として残ったものも多くある。

地元の方には郷土を知ることにより、興味を持ちそれが、郷土愛に繋がっていくことを期待したい、今回の調査でも、地元の方からの情報により判明したことも多く、それらを集合させていけば、まだまだ、様々なことが判明できるのではないかと期待も大きい。

 

脚註

(1)『白木町史』44項

(2)『白木町史』61項

(3)『白木町史』66項

(4)参考URL http://syurihanndoku.hatenablog.com/entry/2017/10/22/071611

(5)『広島県史』「中世」270項

(6)『白木町史』89項

(7)『白木町史』90項

(8)引用元URL http://www.pref.tottori.lg.jp/195731.htm

(9)『鳥取地域史研究』「第7号」毛利氏の兵糧政策と西伯耆国人村上氏15頁

(10)参考URL  http://www2.harimaya.com/sengoku/html/akiyam_k.html

(11)『安芸武田氏』23頁

(12)『安芸武田氏』54頁

(13)『白木町史』68項

(14)『知将 毛利元就』49頁

(15)『知将 毛利元就』51頁

(16)参考URL  http://www2.harimaya.com/sengoku/html/a_inoue.html

(17)『知将 毛利元就』73頁

(18)『広島県史』「中世」659項

(19)『新修米子市史』「第一巻 通史編 原始・古代・中世」731頁

(20)『毛利元就のすべて』118頁

(21)『鳥取県史』「第2巻 中世」494頁

(22)『甲奴町郷土誌 第二集 上川地区編』237頁

(23)『白木町史』69項

(24)『美多6号』4頁

(25)『萩藩諸家系譜』488頁

(26)『白木町史』69項

(27)『萩藩諸家系譜』684頁

(28)『萩藩諸家系譜』1044頁

 

参考文献

広島市『白木町史』広島市役所編 昭和55年

広島県『広島県史』「中世 通史Ⅱ」広島県編 昭和59年

広島県『広島県史』「古代中世資料編Ⅳ」広島県編 昭和53年

広島県『広島県史』「古代中世資料編Ⅴ」広島県編 昭和55年

河村昭一『安芸武田氏』戎光祥出版 平成22年

岡部忠夫『萩藩諸家家系譜』マツノ書店 平成11年

国書刊行会『芸藩通志』昭和56年

田村哲夫 校訂『毛利元就軍記考証新裁軍記』マツノ書店 平成5年

岸浩 『資料毛利氏八箇国御時代分限帳』マツノ書店 昭和62年

『広島県の地名』平凡社 昭和52年

『山口県の地名』平凡社 昭和50年

『島根県の地名』平凡社 平成7年

『鳥取県の地名』平凡社 平成4年

齋藤慎一『中世武士の城』吉川弘文館 平成18年

広島県教育委員会『広島県中世城館遺跡総合調査報告書第一集』平成5年

山口県文書館『萩藩閥閲禄』マツノ書店 平成7年

東京大学史料編纂書『大日本古文書 家わけ第8覆刻』平成9年

米子市『新修米子市史』「第一巻 通史編 原始・古代・中世」平成15年

鳥取地域史研究会『鳥取地域史研究』「第7号」平成17年

甲奴町郷土誌編さん委員会『甲奴町郷土誌』「第二集 上川地区編」昭和49年

永井彌六 『わがふるさと芸州三田』渓水社 昭和58年

永井彌六 『三田雑記』 平成5年

岸田裕之 『毛利元就と地域社会』中国新聞社 平成19年

岸田裕之 『毛利元就』ミネルヴァ書房 平成26年

岸田裕之 秋山伸隆 『安芸内藤家文書 井原家文書その翻刻と解説』

「広島大学文学部紀要第四九巻特輯号一」平成2年

秋山伸隆 『戦国大名毛利氏の研究』吉川弘文館 平成10年

芸備地方史研究会『芸備地方史研究』「145号」昭和58年

高田郡史編纂委員会 『高田郡史』(上巻) 高田郡町村会 昭和47年

高田郡史編纂委員会 『高田郡史』(資料編) 高田郡町村会 昭和56年

鳥取県 『鳥取県史』第2巻 中世 鳥取県編 昭和48年

蔵橋純海夫 『広島県の古石塔』 平成19年

美多6号 昭和60年

河合正治 『安芸毛利一族』吉川弘文館 昭和59年

池亨 『日本中世の歴史6 戦国大名と一揆』吉川弘文館 平成21年

池亨 『戦国期の地域社会と権力』吉川弘文館 平成22年

池亨 『知将 毛利元就』新日本出版社 平成21年

 

 

参考URL

余湖くんのお城のページ

http://yogokun.my.coocan.jp/

家紋world

http://www.harimaya.com/kamon/

ウィッキペディア

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8

周梨槃特のブログ 史料紹介という修行

http://syurihanndoku.hatenablog.com/archive/2018

国立国会図書館デジタルコレクション

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/772376

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766407

備陽史探訪の会

http://bingo-history.net/archives/12141

東京大学史料編纂所

http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/index-j.html

 

公開日2020/12 /19

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