城データ

城名:三刀屋じゃ山城

別名:石丸城

標高:242m

比高:120m

築城年:室町時代か

城主:三刀屋氏

場所:島根県雲南市三刀屋町大字古城

北緯:東経:35.298346/132.859507

三刀屋じゃ山城はここ

 

攻城記

登り口分からずに直登する。

堀切発見。

周辺部。

削平地発見。

看板を見つけて一安心。

早速二重堀切発見。

往時はかなり深かったと思われる。

もう少しで到着しそう。

曲輪に到着(第三郭)

 

島根県指定文化財
(史跡)三刀屋「じゃ山」城跡 

本城跡は、鎌倉期より室町、戦国時代にかけてこの地を支配した三刀屋氏代々の旧居城である。

 

東西南北に数多くの支城や、物見郭等をめぐらせており、その規模の広壮さと、堅固な要害は山陰地方を代表する典型的な戦国期の山城といえる。

本城跡の根城城郭は、南北約80m、東西約120m、南端に深い空堀をめぐらせた第1郭(詰め丸)、その北東隣接の最大郭である第2郭(主郭)、さらに西に開く馬蹄形の旧尾根を活用して築いた低土塁と、これらに遮断された凹地形に設けられた夭水池、第2郭の北から西にかけて裾野を取り巻くように設けた長い第3郭、その他の小郭群より成り立っている。

 

根城郭への登路は、ほぼ東西南北にそれぞれ認められるが、搦手部は夭水池とそれを取り囲む小郭群あたりと思われる。

なお、現在の城山城跡は、かつて本城跡の支城の一つであったのを、おそらくは戦国末期に移城し、居城として用いたものである。

 

昭和6212月島根県教育委員会

 

3郭から主郭へ行く間の堀切

本丸(完全藪化)

本丸三角点。

主郭から2郭へいく前の堀切。

2郭。

      

周辺部。

麓の風景。

石垣もあるがこれは後世のものか。

土塁跡。

神社の跡、いつ頃のものだろうか。

窪地には池もあり、当時飲料として使用されたのかもしれない。

 

位置関係

 

余湖図【三刀屋じゃ山城】

 

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の概要

大字古城地区のほぼ中央に位置する通称「じゃ山」山頂に築かれた城郭である。

 

急峻な地形にもかかわらず普請は十分である。主郭は最高所の1郭と考えられ、尾根筋に堀切を築いている。

 

堀切の築き方には少なくとも三種類が見られる。

 

一つは城域の南端、東端、北東端に築かれているもので、いずれも二重堀切となっている。

 

次に1郭と2郭間の堀、1郭と3郭間の堀、そして2郭北東の堀で、いずれも一部(それぞれ城外側)を掘り残しているのが特徴である。

 

これは通路として利用したことも考えられるが、主郭南側を中心とした土塁と郭による防御ラインを構成するためのものと見るべきであろう。

 

最後は西側に集かれた二重堀切である。堀底からは、試掘調査の結果、1× 1.5mの穴が4穴づつ確認された。

 

これは障子堀と見られる遺構で、出雲地区では横田町の藤ケ瀬城後方の城塞群等、数例しか確認できていない。

 

この堀切より西側は普請が不十分である。

 

主郭北側の谷には池があり、池の北側には桝形虎口が集かれている。

 

桝形虎口は2郭の西にも築かれている。

 

三刀屋(諏訪部)氏の居城とされるがヽ独自な防御技術、規模等から考えて、毛利軍によって改修強化された可能性がある。

 

島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引用

 

 

城の歴史

承久3年(1221):諏訪部助長が承久の乱の恩賞として三刀屋郷の地頭に補任される。

 

建武2年(1335):足利直義(足利尊氏弟)が諏訪部扶重に対して軍勢催促状を出す。

「可被誅伐新田右衛 門佐義貞也相催一族不日可馳参之如件

建武二年十一月二日 左馬頭(花押)

諏誚部三郎殿

 

 

明徳2年(1391):明徳の乱にて山名満幸が敗退、その後諏訪部氏は山名氏から離れていく。

 

明徳3年(1392):室町幕府から山名氏追討の御教書を発せられる。

 

また出雲守護に京極高詮がなり、諏訪部詮扶は京極高詮から三刀屋郷の安堵される。

 

明徳4年(1393):足利義満から惣領地頭職を認められる。

 

応仁元年(1467):応仁の乱にて守護京極持清の東軍として、出雲の赤穴氏、牛尾氏らと伴に上洛して西軍の斯波義廉の軍と戦う。

 

※三刀屋忠扶は京極持清の子京極勝秀から感状を与えられる。

 

文明16年(1484):京極氏による尼子経久討伐の命にて三刀屋忠扶も富田城を攻撃し尼子氏は城から逃れる。

 

文明18年(1486):尼子経久が富田城を奪還、このころ三刀屋忠扶も尼子氏に帰順する。

 

明応9年(1500):三刀屋忠扶が尼子経久から大原郡福武村(木次町西日登)を給恩として与えられる、又熊谷郷を取得する。

 

大永2年(1522):三刀屋頼扶が「三刀屋郷之内所々、尾崎、萱原、熊野上下」を尼子経久から再度安堵される。

 

享禄元年(1528):三刀屋頼扶が家督を三刀屋久扶に譲る。

依所々蒙仰新給進置候、其御一期之後新四郎殿可被渡申候也、恐々謹言

五月一日 経久(花押)

三刀屋対馬守殿

 

 

天文9年(1540):尼子晴久が吉田郡山城に出陣、その時三刀屋久扶も尼子軍として従軍。

 

天文10年(1541):このころ尼子氏から大内氏に帰順。

 

天文12年(1543):大内義隆の出雲侵略失敗により三刀屋久扶持がふたたび尼子氏に帰順。

 

天文24年(1555):尼子晴久から改めて知行安堵される。

「親父対馬守一跡并当知行之事不可有相違候、然者軍役其外諸式 可被相守近年之旨者 也、仍状如件

天文廿四年三月九日

晴久(花押)

三刀屋新四郎殿」

 

 

永禄元年(1558):毛利元就が石見の大森銀山を確保すべく進攻、尼子側として三刀屋久扶も参戦する。

 

永禄3年(1560):尼子晴久が死去するこのころ、三刀屋久扶は三沢為清とともに毛利方に帰順する。

 

永禄5年(1562):毛利勢が出雲へ侵攻する、その時に三刀屋城が補給路となる。

 

尼子氏も三刀屋城の補給時を絶つため攻めるが、宍戸隆家、山内隆通の援軍を得た三刀屋久扶は、八畔峠で熊野入道西阿が指揮する尼子勢を撃退し毛利元就から感状をもらう。

 

今度貴所依無二之御覚悟、其口無異儀候、御入魂之段更難申盡候、猶於弓矢本意者所帯等可申候、一切不可有疎意候、此等之趣隆家隆通可被申候、恐々謹言。

十二月廿七日

元就(花押)

三刀屋弾正忠殿

 

 

永禄6年(1563):再度尼子氏が三刀屋城へ侵攻するが撃退。

 

永禄8年(1565):三刀屋久扶が尼子氏の居城である富田城を攻める。

 

天正2年(1574):このころ尼子再興軍と戦う。

 

天正3年(1575):三刀屋久扶は元春の麾下に属し、毛利輝元への忠誠を誓約する起誓文を提出。

 

天正6年(1578):尼子勝久が上月城にて籠城、上月城攻めに三刀屋久扶も参戦。

 

天正14年(1586):豊臣秀吉の命にて九州征伐が行われる、三刀屋久扶も毛利氏に従って九州に渡り小倉城の戦いに参加。

 

天正16年(1588):毛利輝元が上洛する、この時、三刀屋久扶もこれに同行し徳川家康と面会、しかし、この件が密告されて毛利輝元の疑心を呼び所領を没収する。

 

おそらく戦国時代に三刀屋城に移るので1484年前後に三刀屋じゃ山城から三刀屋城に移ったと思われる

 

城主家系図

 

城主石高

正式には不明、三刀屋頼扶が「三刀屋郷之内所々、尾崎、萱原、熊野上下」を尼子経久から安堵されたとして。

 

1834年当時の石高として

三刀屋村:277石

尾崎村:278石

萱原村:474石

上熊谷村:508石

下熊谷村:640石

西日登村:717石

で合計2894石となる。

 

戦国時代の石高と1834年の石高の違いや外の場所の所領等があるかもしれないので正確な石高ではないが、この程度の石高を有していても違和感は無い。

 

所感

●三刀屋城も大きいが遺構があまりなく感慨にふけれないので、こちらの三刀屋じゃ山城の方がいい(よく造られている)

 

●地元の方が整備されているのだと思うが、できれば主郭部分や2郭なども整備されるといい。

 

●神社の跡があったので、近世はきちんと整備されていたかもしれない。

 

●じゃ山城は城山(じょうやま)が訛ったと思われる。

 

関連URL

【島根県】三刀屋城【尼子十旗3城目】

後の本拠となる城。

 

参考URL

城郭放浪記(出雲三刀屋じゃ山城)

西国の山城(三刀屋じゃ山城1)

西国の山城(三刀屋じゃ山城2)

三刀屋氏(ウッキペディア)

武家家伝(三刀屋氏)

 

参考文献

 

『島根県中近世城館跡分布調査報告書』

『日本城郭大系』14

『島根県の地名』

『島根県地名大辞典』

『出雲の山城』

『萩藩諸家系譜』

『萩藩閥閲録』

『毛利八箇国御時代分限帳』

公開日2022/01/02

 

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