城データ

城名:伊勢が坪城

別名:塩が坪城

標高:130m

比高:36m

築城年:鎌倉時代

城主:熊谷氏

場所:広島県広島市安佐北区可部町大林

北緯:東経:34.551672/132.546162

伊勢が坪城はここ

 

 

攻城記

麓の看板

広島県史跡 熊谷氏の遺跡 伊勢が坪城跡

承久の変(1221年)で討死した熊谷直国の功績が鎌倉幕府に認められその子直時は安芸国三入荘の地頭に任ぜられた。

 

武蔵国熊谷郷(現在の埼玉県熊谷市)からこの地に赴任した直時は三入荘北部の比高30mばかりのこの小高い山に伊勢が坪城を築いた。この城は東側の山との連なりを空掘で断ち切り一応独立した山城の性格を持っている。

 

また東端の山頂を削平して本丸とし、更に西に向って四つの曲輪を配置していたことが、今日の遺構から判断できる。

三入荘での地歩を固めた熊谷氏は、その勢力の拡大をはかって戦略的により優れた高松山にやがて本拠を移すことになる。

 

その時期は室町期に入ってからと思われる。なお高松山へ遷城後の伊勢が坪城はしばらくの間は隠居所として利用されていたといわれる。

昭和53年3月1日    広島市教育委員会

 

 

縄張図。

最初の曲輪。

何かしらの意図でこの場所に持ってこられた石。

本丸跡。

別の角度からの本丸。

本丸から眼下を見る。

二の丸を望む。

別の曲輪。

周辺の城域。

降りたところから本丸を望む。

堀切。

曲輪。

下から望む。

麓には川が流れており、天然の堀になっている。

伊勢が坪城の矢竹。

隣接している大林八幡宮。

 

位置関係

 

open-hinataより【伊勢ヶ坪城】

 

 

余湖図【伊勢ヶ坪城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

『芸藩通志』伊勢が坪城

 

 

城の概要

本城跡は,根ノ谷川の東岸にある。

1郭から南西に延びる尾根に沿って四つの郭と北側に一つの郭を配している。

 

西側には3本の堀切を置き,1郭東側は東から延びてくる尾根を2本の堀切で断ち切っている。

 

現在道路となっている部分も堀切の可能性がある。西側は,根ノ谷川を天然の外堀として利用している。

 

1郭の東北端には井戸の跡があり,1郭南西下の郭には長さ20m,高さ1.1m〜1.5mの石垣がみられる。

 

本城跡は,三入本庄の最奥部に位置しており,熊谷氏が関東から移住して最初に築いた城といわれている。

 

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用

 

伊勢ヶ坪城跡 安佐北区可部町大林

根谷川の東、大林八幡神社東方の小高い丘にあり、県 指定史跡「熊谷氏の遺跡」の一部。

 

武蔵国熊谷郷(現埼玉県熊谷市)から三入庄へ入部した熊谷氏惣領家が最初に拠った城で、塩ヶ坪城ともいう。

 

熊谷高直自筆同家先祖書(熊谷家文書)に「直時本城始、直祐新城始」とみえる。

 

本城とは伊勢ヶ坪城、新城は祐直 が築いた新庄熊谷氏の桐原城である。伊勢ヶ坪城は、信直が惣領家の本拠を高松城へ移すまで続いた。

 

伊勢ヶ坪 の名称を直接に記す史料は比較的遅く、元亀三年(一五七 二)四月日付の熊谷信直書置状(同文書)で、直経の時、伊勢ヶ坪城が火災に遭ったが、焼失を免れた宝刀の奇瑞を 述べている。

 

城跡は上の段・中の段・下の段・後の段な どからなり、上の段には井戸跡がある。

 

土居様式の初期山城で、武士であるとともに農業経営者としての性格を ていた時代のものと考えられる。

 

城の北側には 熊谷氏の菩提所の一である蓮華院跡がある。

 

熊谷氏が長門に去ってから同寺は下中野村へ移った(芸藩通志)。

 

『広島県の地名』より引用。

 

城の歴史

伊勢が坪城は、高松城の北約三.七㎞に位置し、根の谷川左岸の低丘陵上に所在する土居形式の山城である。

 

武蔵国熊谷郷の熊谷氏は、承久の変に際して直国が討死するが、その功によ って子の直時には安芸国三入荘(広島市可部町)の地頭職が与えられた。

 

直時は、本貫地を完全に離れたわけではないが、その後、この地に移り、荘の北部に城 を築いたという『熊谷家文書』。

 

この伊勢が坪城に拠った熊谷氏はしだいに勢 力を拡大し、戦国期の初めには元直の子信直が高松山に拠点を移したが、伊勢 が坪城は、その後も隠居所などに使用されている。

 

当城は、東より延びる丘陵の猪首部を掘り切って設けられている。東端の頂 部から大きな郭を階段状に三郭設け、その北と西に小さな郭を配置していた。

 

上の段は幅一二m×長さ三九mの大きさで、北端部には井戸を持つ小郭を配置していた。

 

中の段は幅一一m×長さ二二mを測り、上の段の西下に向かって帯状の通路が設けられ、その先端には幅一四m×長さ一〇mの小さな 郭を配置していた。

 

中の段の西下約一五mには幅八m×長さ三一mの下の段がありそのしたには丘陵の尾根を断ち切る形で空堀を二つ設けていた。

 

上の段の後輩部の切込みは深く、現在は道路が通っていて破壊が著しいが、さらにその背後に二つ程度の堀切を設けていたものと思われる。

 

城の後背部には薬師堂があり、東下に土居跡・蓮華寺跡・長福寺跡が存在する。

 

『日本城郭大系』13より

 

 

城主家系図

熊谷氏について

以下(ウッキペディア)から抜粋。

熊谷直時時代

 

承久3年(1221年):父の直国が承久の乱における宇治川の戦いで討死した、その戦功を賞されて、同年9月に執権・北条義時により、安芸国三入荘を与えられる。

 

貞応元年(1222年):三入荘に入部し、所領の北端に近い場所に伊勢ヶ坪城を築いて本拠と定める。

 

文暦元年(1234年):直時兄弟を養育してきた吉見尼の計らいによって、直時の所領であった西熊谷郷と三入荘の1/3を幕府の命令によって、弟で熊谷直勝の養子となっていた祐直に譲る事態となった。この事件で、安芸の熊谷氏は本庄系熊谷氏、新庄系熊谷氏の二派に別れるに至った(熊谷家文書第15号)。

『熊谷家文書』15より

 

また、熊谷祐直は早速三入荘に下向し、桐原に新山城を築いて居城とした。嘉禎元年(1235年)に、鎌倉幕府の命により、安芸の厳島神主家当主・藤原親実が熊谷氏の所領を調査して、「安芸三入庄地頭得文田畠等配分注文」を幕府に提出し、六波羅探題の北条時房と北条泰時の連署承認がなされたが、この書類が非常に雑なものであったため、この兄弟の所領争いを激化させた。争いはその後も続き、最終的に文永元年(1264年)まで、所領の論争は続くこととなった。

 

弘安3年(1280年):武蔵国熊谷郷にて病死した。享年73。法名は西忍。

 

熊谷直高時代

 

宝治元年(1247年):熊谷郷で生まれる。

 

文永11年(1274年)に熊谷郷の木田見長家所領の半分が直高の所領となった(熊谷家文書第21号)。

 

しかしこの時期は元軍の襲来が行われた時期で、西国・九州防衛の観点から、多くの東国武士団が本拠を西国に移しており、この元寇をきっかけに熊谷氏宗家も熊谷郷から三入庄へ本拠を移すこととなった。

 

同年10月頃に武田信時らも安芸国へと下向しており、直高も同時期10月頃には下向したと思われる。

 

 

建治元年(1275年):三入庄に新野頼章の一族が一部地頭として入部してきた。頼章の嫡子・新野頼俊(直高妹婿)と直高は所領を巡って争う。

 

弘安7年(1284年):三入上村で戦闘に及び、直高は無念の討死を遂げる。

 

熊谷直満時代

 

若くして父が討死したこと等により、本庄系熊谷氏の勢力は地に落ち、この頃には新庄系熊谷氏が勢力を振るい、三入庄の支配権を握っていた。

※新庄熊谷氏を駆逐するのは熊谷膳直の時代まで待つこととなる。

 

1298年(永仁6年):4月頃には、領地を他へ譲り渡すこととなり、またもや所領を減らす。

 

1300年(正安2年):熊谷直実の頃から熊谷郷を巡って争っていた久下氏の当主・久下光直と和解に至った。

 

同じ年に熊谷郷西方の年貢を滞納していた熊谷氏出身の女性と見られる明法(発智二郎後家)を鎌倉幕府に訴え出た際、直満が自分がこの地の惣領であることを主張したところ、明法の代官から「熊谷直実の家の惣領は二郎左衛門尉直忠であり納付の義務があるとしても納付先は直忠ではないか」と反論された。

 

審理の結果、直満は年貢の滞納については勝訴したものの、それは所領内の他の熊谷一族が直満に年貢を納付していることと明法が直忠に納付した証拠が出せなかったことによるもので、「熊谷氏の惣領は熊谷二郎左衛門尉直忠である」とする代官の主張自体が否定されたものではなかった(『熊谷家文書』26号・正安2年閏7月27日付関東下知状)

 

1319年(元応元年):病死し、跡を子の熊谷直継が継ぐ。

 

熊谷直経時代

 

延慶元年(1308年):父の直満から、兄の直継と所領を二分割して与えられる。

 

元亨2年(1322年):異母兄の直継も死去、直経が家督を相続する。

 

この相続に不満を持った直継の母は偽の書状を使って、既に亡くなって存在しない直継の子があたかも生きているかのようにでっち上げ所領の横領を企んだが、直経は父・直満が生前に孫(直継の子)が亡くなったことを嘆いた書状を示したために失敗に終わる。

 

直経は熊谷氏宗家であったが、この頃までに熊谷氏は分裂し、その勢力は各分家に分散していた。そのため、直経も宗家であっても、一族の惣領と言える立場でもなかった。ただし武蔵国熊谷郷の知行の一部は所有していた。

 

なお、本庄熊谷氏が根拠地を武蔵国熊谷郷から安芸に移したのは直経であったとする説もある。これは同じ安芸の武士である小早川氏を母に持った庶子である直経は、嫡男として熊谷郷を継承していて安芸には代官を派遣していた直満や直継と異なって宗家継承以前から安芸に拠点を持っていたからと考えられている。

 

また、元弘年間に直経がまだ武蔵国熊谷郷に本拠地を持っていたことを示唆する文書の存在を指摘して本拠地の移転を南北朝の争乱に求める見解もあるが、この説によっても武蔵から安芸に本拠地を移したのは直経の時代ということになる。

 

なお、安芸熊谷氏の歴代当主の名乗り(仮名)も、直経以降にそれまでの熊谷直実由来の次郎(二郎)系統から、直経の小四郎に由来する四郎系統に変更されており、こちらの面でも直経の時代が熊谷氏の大きな転換点であったことを示唆している。

 

この頃、安芸在住の熊谷氏の中で最も勢力があったのが新庄熊谷氏であった。

 

元弘の乱と直経

元弘2年/正慶元年(1332年):楠木正成が挙兵し、千早城に籠もった。

9月に幕府の命を受けた直経は、厚東武実、大内弘幸ら他の西国の武士と同様に千早城攻めに加わることとなる。

 

元弘3年/正慶2年(1333年):2には、最前線での戦闘に二度に渡って参戦する。

 

この時の直経の戦いぶりは凄まじく、千早城の大手門に一族郎党と突撃し、大きな傷だけでも4ヶ所、小さい傷を合わせると22ヶ所を負傷する重傷を負いながらも大手門付近の敵兵をなぎ倒した。

 

しかしこの奮闘にも関わらず戦況は不利で、結局千早城攻撃軍は瓦解することとなった。

 

その後は足利高氏側に加わり、護良親王の使者四条隆貞からの指令を受けている。

 

そして高氏は5月7日に六波羅探題を攻め滅ぼし、5月22日には新田義貞らによって鎌倉が落とされ、鎌倉幕府は滅亡する。

 

建武の新政と新庄熊谷氏との戦い

建武の新政が始まったが、武士はまた公家の犬として扱われ、不公平な立場に置かれることとなった。直経の所領も、反逆者の所領として没収されかったが、訴訟により半分だけは奪回した。

 

武士の同様な不満が日本国中に満ちあふれ、ついに建武2年(1335年)、足利尊氏が鎌倉において挙兵する。

 

安芸守護武田信武も、尊氏に同調し、同年12月に挙兵する。

 

同様に後醍醐天皇が指導する朝廷への不満から、毛利元春や吉川実経等をはじめとする安芸国の有力な豪族が尊氏方に参加。

 

傷の癒えた直経は足利方に加わり、京都へ向かって進撃を開始する。

 

しかし直経の分家筋であった熊谷蓮覚とその子直村、甥の直統らは南朝方に味方し、足利軍の東上を阻むべく矢野城に立て篭もった。

 

そして武田信武率いる足利勢との間に同年12月23日、矢野城攻防戦が開始された。

 

少数とはいえ天然の要害を利用した堅城であった矢野城に立てこもった蓮覚は、多勢の武田軍を相手に奮戦奮闘し、寄せ手の吉川師平が討死、多くの将兵が負傷、死亡した。しかし4日間の籠城戦の後、矢野城は落城。熊谷蓮覚ら一族は討死した。

 

 

本庄熊谷氏と新庄熊谷氏との関係図。

熊谷蓮覚は新庄熊谷氏の更に分家筋にあたる。

 

新田義貞の追討

蓮覚一族を滅ぼした足利軍は東上して尊氏率いる本隊と合流、翌、南朝:延元元年/北朝:建武3年(1336年)1月には京都の守備についた。

 

しかし翌月、陸奥国から南下してきた北畠顕家により足利軍は敗走を余儀なくされる。

 

九州で勢力を回復した尊氏は再度京都への侵攻を開始。同年4月には湊川の戦いで楠木正成と新田義貞を撃破、6月には入京を果たした。直経もこの一連の足利軍の戦いに参加している。

熊谷氏の惣領として復権

その後帰国した直経は、南朝:正平2年/北朝:貞和3年(1347年)に、可部の街を見下ろす要衝の高松山に三入高松城を築城し、新たな居城とした。

 

そして分割された所領を幕府の権威等を巧みに使い、宗家に統合。これにより、戦国時代に熊谷氏が雄飛する基礎が完成することとなった。

 

熊谷直明時代

 

明徳2年/元中8年(1391年):3月、直明の本庄系熊谷氏と庶流の新庄系熊谷氏が一揆契約を結び、今後は力を併せることを約束した。

 

この際、新庄系熊谷氏からは熊谷重直、直忠らがこの一揆契約に加わった。

 

応永6年(1399年):この時発生した応永の乱では、3代将軍足利義満の命に従い、大内義弘討伐に加わった。

 

しかし、安芸国内での大内氏の勢力が衰退することにより、日本全国に多数の所領を持つ熊谷氏の勢力が目障りとなった義満は直明を挑発して挙兵させた。

 

応永10年(1403年)、直明は南朝に降り、三入高松城に籠城するが、毛利光房、吉川経見、宍戸家秀、小早川義春、平賀貞宗、阿曽沼光郷、香川遠景等安芸国人衆らの連合軍の攻撃により降伏した。

 

これにより直明は全所領を失い、失意の後に病死した。

 

熊谷在直時代

応永10年(1403年):2月、家督を相続。
応永14年(1407年):守護の安芸武田氏から安芸国矢賀村を預けられた。

 

熊谷信直時代

官途名は美濃守。

永享2年(1430年):父の死去に伴い家督を相続する。

 

永享5年(1433年):武田信繁と武田守広から国衛職を与えられ、実質的に安芸武田氏の配下となる。

 

大和永享の乱では、安芸守護職の武田信繁に従い室町幕府側として参戦。大和国の椋橋や北音羽等を転戦するが、1438年5月10日の北音羽の戦いで重傷を負い、その傷がもとで同年9月頃に死去。

 

熊谷堅直時代

永享10年(1438年):9歳で家督を継ぐ。

しかし、一時期だけ、父・信直の命で姉の「こら」に家督を譲っている。

『熊谷家文書』242号

長禄4年(1461年):9月、武田信賢より、河内国への出陣を要請される。

 

寛正6年(1465年):8月の安芸国国府の戦いに、息子の宗直を引き連れて参戦する。この戦いで大内方は陶弘正が討死している。

 

文明10年(1478年):伊勢ヶ坪城で死去。

 

熊谷宗直時代

 

寛正6年(1465年):8月の安芸国国府の戦いで安芸武田氏が大内氏を打ち破った際に、熊谷宗直も父とともに参陣して、戦功を挙げている。

 

熊谷膳直時代

 

明応8年(1499年):9月に温科国親が武田元信から離反した際にその討伐を行い、恩賞として温科氏の旧領を与えられている。

 

当時の熊谷氏は所領を一族で分割しており、必然的に惣領を中心とした惣領制にするために苦心を重ねていた。

 

熊谷膳直は、自身の治世時に分家筋である新庄熊谷氏を滅ぼして、分割されていた熊谷氏の勢力を一本化させ、来たるべき戦国時代へ備えている。

 

なお、この時に滅ぼした新庄熊谷氏の熊谷直房とその嫡子、熊谷直重は赦されて、名字を熊谷から桐原に変え、家臣として仕えた。

 

永正3年(1506年)に膳直の嫡男・元直が主君の武田元繁より所領を与えられているため、この頃には家督が元直に移行していたと考えられる。

 

永正12年(1515年)5月14日に伊勢ヶ坪城において死去。

 

熊谷元直時代 

永正4年(1504年):大内義興が上洛すると、それに従って元直も安芸国人衆の一人として上洛する。

 

永正8年(1511年):船岡山合戦にも参加して善戦する。その後、武田氏が尼子氏の支援の下、安芸での実権回復を目指し大内氏に反旗を翻すと、武田方に味方した。

 

永正14年(1517年):今田城に拠った武田元繁の呼びかけに応じ、大内方である吉川氏の有田城攻撃に参戦する。しかし来援した大内方の毛利元就・吉川元経との戦闘で先陣を務め、討死した。享年28。嫡男の信直が後を継いだ。

 

熊谷信直時代には本格的に居城を伊勢が坪城から高松山城に移したと考えられる。

熊谷家家系図(妻あり)

熊谷氏には、毛利氏、宍戸氏、温科氏、宮氏、伴氏の血が流れていることになる。

 

所感

●城は鎌倉時代ころに築城されたものと考えられるが、詳細は不明。

 

●数百年の居城として長年かけて改修されていったものと考えられる。

 

●石垣こそないが、堀切、井戸跡などがある。

 

●本丸からの眺望はよく、周囲を見渡せることが出来る。

 

●看板が悪いので新規で綺麗なものを作り直してほしい。

 

関連URL

【広島県】高松山城【広島市安佐北区可部町】

戦国時代以降の熊谷氏居城。

 

新庄熊谷氏の居城。

 

近隣の山城、庶流の城。

参考URL

城郭放浪記(安芸伊勢が坪城)

伊勢が坪城(ウッキペディア)

伊勢が坪城(広島市)

熊谷氏(ウッキペディア)

武家家伝(熊谷氏)

open-hinata

 

参考文献

『芸藩通志』

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』

『日本城郭大系』13

『可部町史』

『萩藩諸家系譜』

『萩藩閥閲録』

『熊谷家文書』

『新裁軍記』

『広島県の地名』

『広島県地名大辞典』

公開日2021/05/11

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