城データ
城名:観音寺山城
別名:観音城
標高:201m
比高:144m
築城年:戦国時代か
城主:熊谷氏縁の人物
場所:広島県広島市安佐北区可部町下町屋
北緯:東経:34.537102/132.516094
攻城記
尾根先端から登っていく。
前方には高松山城が見える。
なんか人工的な感じがする。
尾根の先端部に到着。
左の山(高松山城)
前の川(横川)
この辺りで武田光和と熊谷信直が戦った(横川の合戦)
途中の中継所を進んでいく。
更に進む。
本丸の下辺りに到着。
曲輪跡。
本丸。
本丸部分がメインで他の曲輪は不明確。
高松山城。
麓の街並み。
北に進む。
堀切?
本丸方向。
更に進むが平坦な尾根が続く。
位置関係
open-hinataより【観音寺山城】
余湖図【観音寺山城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【観音寺山城】
城の概要
1郭の北に二つの郭を配し、各郭間は堀切で断ち切っている。
最北端の郭から北東へは土橋を架けて小郭を設けている。
小郭は宇袮能城跡に続く尾根上にあり、宇袮能城跡との連絡用の郭であったと考えられる。
本城跡は、熊谷氏の菩堤所観音寺跡の裏山に位置し、また、石州街道及び、三入地域が一望できる要衝にある。
観音寺跡も高さ3m、長さ108mにわたって、巨石を用いて石垣を築いているなど、寺院城郭として構築されたと考えられ、この観音寺山城跡を詰め城と考えることも可能である。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
城の歴史
詳細不明
『芸藩通志』には「観音寺山 宇禰能上 雨乞山 山根 門田山 王子城 並に同村にあり、共に主名を傳へず、おもふに、皆熊谷氏の属城なるべし、以下城名のみ挙るは、主名を失ふなり、」とある。
この辺りでの合戦といえば『陰徳太平記』の中に「横川の合戦」がある。
天文2年(1533)に熊谷氏が毛利に寝返った為に、武田光和が熊谷氏の居城である、高松山城を攻めた戦い。
高松山城の対面にあった観音寺山城もこの戦いの時に何かしらの役割を持っていたと思われる。
所感
●しっかりとした遺構は本丸とその下段の曲輪が確認出来る。
●高松山城の対面になり、尾根筋の宇祢能城などと連携を取っていたと考えられる。
●見張り砦としての立地として眺望もきき良い。
関連URL
参考URL
参考文献
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2024/04/20