城データ
城名:越峠尾城(コヒトウオ城)
別名:無し
標高:21m(現在の推定値)
比高:17m
築城年:戦国時代か
城主:不明、一時期この付近に大内義興や義隆が陣を構えていた。
場所:広島県廿日市市新宮2丁目、串戸3丁目
北緯:東経:34.352289/132.326170
攻城記
道路が貫通している。
比高さあり。
現在は団地となって跡形もない。
ただし、高低差は確認できる。
JRの線路よりも北側から。
位置関係
戦後すぐの航空写真
余湖図【在りし日の越峠尾城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【越峠尾城】
城の概要
二越峠尾城
越峠尾城は、山陽本線嶺高陸橋東南の部分である。
昭和五七年三月頃迄は、都市計画道路の掘削で一部破壊されていたが、大半の郭が残っており、平良方面 から眺めると山城の面影が残っていた。
しかし昭和五七年三月頃宅地造成のために、詳しい調査もされずに 破壊されてしまった。
折敷畑山から連らなる長尾の峯々を横ぎる主要な場所で、交通の要地を固めるために築城されたものであろう。
七尾城(芸藩通志にいう)の一つである越峠尾城は 中世の文書には見当らない。
文政二年(一八一九)の国郡志御用に付郡辻書出帳以降に出てくるが、誰が居城していたのか不明である。
越峠尾城と藤掛尾城は同一の尾根続きにあり、藤掛尾城を堀切で独立させ、残りの越峠尾城側 の尾根は相当の広さであった。
現在の山陽本線から電車線路附近が当時の海岸線であり、越峠尾城は海、陸共に便利のよい地であった。
天文一〇年(一五四一)三月一九日の桜尾城山見の際の戦闘について、房顕覚書に 「七尾」大内義隆感状に「藤懸陣」内藤家 系譜に「藤掛山」と記されており、又、別 の記事で房顕覚書に「藤カケ七尾より」とある。
藤掛尾城と七尾の両所は遠く離れてな く、大内義隆が約二ヶ月滞在した七尾は越峠尾城一帯であろう。
『桜尾城とその時代』より引用。
城の歴史
詳細不明であるが大内氏の桜尾城攻撃の時に七尾と言う場所に陣取ったのでこの城も使用されたと思われる。
天文10年(1541)3月23日
義隆、陣を七尾に進む
同(天文一〇)三月廿三日、七尾へ御陣ヲ寄セラル、櫻尾ヲ取リツメラル、
『棚守房顕覚書付解説』より引用
所感
●現在は何もない、ただし比高さを確認したり、藤掛尾城との距離を実際歩くと当時の肌感覚が分かる。
●七尾城というものは存在しなく、尾根に七つの城(砦)が連続でつらなった場所を七尾と呼んでいたものと思われる。
●開発する前に発掘調査が出来ればよかったが、当時はそのような認識もなかったのだと思われる。
関連URL
参考URL
参考文献
『棚守房顕覚書付解説』
『桜尾城とその時代』
『廿日市町史』
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2024/03/02