城データ
城名:国重城
別名:無し
標高:71m
比高:20m
築城年:15世紀後半か。
城主:国重氏
場所:広島県広島市安佐南区伴東
北緯:東経:34.465158/132.420206
攻城記
現在は大幅に削平されている。
側面(比高あり)
往時は城の周辺に川があり堀の役割をしていたのかもしれない。
この墓の辺りが城の中腹であった。
墓部分。
前方に墓所がある。
その墓所からみた国重城跡。
麓には墓所の稲荷神社がある。
薬師如来ということは神仏習合時代があったか。
墓所には五輪塔の残欠が祀られている。
位置関係
銀山城の北西を担っていた。
同じ武田一族である、伴氏とも近距離。
現在の国重城跡。
1960年代当時の国重城跡。
open-hinataより【国重城】
現在は造成されており消滅している。
余湖図【国重城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【国重城】
国重古城として記載。
城の概要
城跡は,宅地造成に伴い発掘調査が実施されている。
最高所の1郭の東には5郭・2郭を配し,南から西にかけてはL字型に3郭を置いている。
4郭は三条の竪堀によって三つの小郭に区分している。
3郭南には堀切があり,尾根を切断している。
郭内からは,1郭の西及び3郭から柵列と考えられる柱穴列が検出され,二〜三段積みで長さ 1.5m程度の石垣状遺構と建物の礎石が検出された。
礎石建物は火災を受けたと考えられる。陶磁器,土師質土器,鉄釘等が出土した。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
国重城跡について
国重城跡は,芸落通志に「伴村にあり,武田氏の族,国重といへる人,所居といふ。」とあるとおり(注1)、武田氏の一族の城跡と考えられる。
国重氏は,安芸国守護武田信賢の次男信恒の代に伴の国重に居住し,その子信正のときに地名をとって国重氏と称するようになったという(注2)。
武田信賢が15世紀中頃の安芸国守護として存在している(注3)ことから考えて,国重城跡は,15世紀中頃から後半にかけて築かれた山城であろうと推測できる。
国重氏は,信正の代の永正1・12年(1514〜5頃に武田元繁に叛き毛利氏に従っている(注4)。
この時期は,厳島神主職の跡目争いの最中にあたり、武田氏が大内氏・毛利氏等から攻撃を受け、その勢力が衰退していく時期に当る。
さらに大永14年(1517)には武田元繁が有田合戦で戦死し、武田氏の勢力はいよいよ衰微し,結局天文10年(1541)武田氏が滅びる。
その後,毛利氏が広島湾頭の統一を進める過程で,国重氏は毛利方として活躍している。
さて、武田氏滅亡前の武田氏の勢力の及ぶ範囲は山城の分布である程度維測できる(第1図)。武田氏は銀山城を本拠としていたが,銀山城は,芸藩通志によれば武田信宗のときに築城したとされており(注5)
これは鎌倉時代末期に当っている。銀山城の北西側には,武田氏の一族である伴氏の伴城,国重氏の国重城が位置している。
伴城の築城年代については不明であるが,伴氏の名が「安芸国国人連署契状」の中にみえることから,14世紀から15世紀初頭には伴の地を支配していたと考えられよう。
また,伴から北の安佐町久地を結ぶ道路の西の山頂には,芸落通志に「武田弾正拠守す。」とある獄城が位置する(注6)。
武田弾正の出自については不明であるが,武田の姓をもっており,武田氏との関係が考えられる。
銀山城の東方には,太田川を隔てて戸坂城がある。
城主は芸落通志によると戸坂入道道海とあり,武田の家臣とされている(注7)
南には己斐氏の己斐新城が存在する。己斐氏は,芸藩通志に己斐豊後守の名がみえ(注8),また、陰徳太平記有田合戦の項で武田氏に従った者の中にその名がみえることから武田氏の家臣と考えられる。
これら山城を結ぶ線の内側が武田氏の最も勢力の及ぶ範囲であったろうと考えられる。
国重城跡は,この武田氏の勢力範囲のうちでも武田山の北西直下にあり最も枢要な地域の一つに位置していたことになる。
次に.国重城跡の構成,機能等について考えてみたい。
本城跡からは,既に述べたとおり,4つの郭と3つの縦堀,1つの空堀を確認し,さらに,1つの郭と2つの縦堀が想定できた。
郭内からは,柵列2力所,石垣1カ所,礎石建物跡1軒分を検出した。
本城跡の郭配置は,主郭と考えられる第1郭の南半分を第5郭,第2郭,第3郭が囲むように配置されており,さらに第3邦の西には第4郭を配している。
第3郭の南に尾根を断ち切る空堀がある。第1郭北半は急傾斜になっており,郭は認められない。北東側には第5郭に連結する小径がみられた。
また、北東側は、安川の後背地に水田面が広がり,北面側は隣接する尾根が国重城跡前方まで延び,視野をさえぎっている。加えて旧山陽道が安川の対岸を通っており。中世の主要道もほぼ同じ場所を通っていたと考えられる。
以上のことから,本城跡が北東側を意識して築城されたものであることがわかる。
第1郭は,他の郭に比して非常に広く、それに伴なう防御施設として、西側に柵列を検出したのみであった。
第5郭・第2郡・第3郭は,ほとんど同一レベルで連絡されており,帯郭的に使用され,既に述べたとおり、第3郭北側で第1郭と連絡していたと考えられる。
しかし,第3郭南側の三角形のプランを呈す部分について考えてみると,この部分は本城跡の搦手に当り扇の要ともいえる重要な部分であるが、この部分の防御能力が低いという観は否めない。
このため,第5郭から第3郭までの間の防御施設としては,第5郭と第2郭の間を武者走り様に狭い通路とし,第2郭・第3郭は,縦堀5によって切断し、さらに,第3郭に柵列を設けてこの一連の郭の防御能力を高めている。
第4郭は,縦堀で3つの小郭に区画されているが,各小郭の面積は狭小であり、第3郭との連絡施設も認められないことなど,実質的機能をどれほど果したかは疑問である。
このように見てくると.本城跡を実戦的な山城と言うことは難しいと考えられる。
さらに,後世耕作が行われ第1郭から多量の石材が持ち去られている。(注9)
これらの石材は,第2郭に礎石建物があることから礎石とも考えることができる。
以上のように本城跡は,実戦的な山城ではなく,第1郭が余りに広く,礎石の存在をうかがわせるなど居館城の色彩が濃い。
また,付近に土居屋敷の存在をうかがわせる地名・地形がみあたらないこともその傍証となろう。
さて、本城跡の築城年代について概観してみると,本城跡出土遺物のうち年代を推定し得るものは,第2郭・第3郭及び空堀から出士した備前焼の4点に留まる。
これらはいわゆる玉縁を呈し,その形態から15世紀乃至16世紀のものと考えられ(住10),前述の文献からの推定による築城年代と符合すると考えられる。
なお,国重城跡の使用時期の下限については,毛利氏の萩転封に伴って国重氏が萩へ移住する頃に求められよう。
注1.芸藩通志卷四十八。
注2 沼田町史広島市市史編纂室編。昭和55年
注3.吉川家文書による。
注4.注2に同じ。
注5.注11に同じ。
注6.注11に同じ。
注7.芸藩通志卷四十二。
注8.芸藩通志卷五十五。
注9.聞き取り調査による。
注10。安西高等学校教諭加藤光臣氏の教示による。
「国重城跡発掘調査報告」より一部引用。
城の歴史
武田信賢の次男信恒を祖としてその息子の信正が国重氏を名乗る。
しかし、永正年間に武田氏から離反して毛利興元に従う、当時武田氏の勢力がまだあった頃に何故毛利氏に従ったか不明。
1541年以降毛利元就がこの地域を支配した後に国重氏がどこに所領があったかも不明。
最終的には関ケ原以降、萩に移る。
城主家系図
城主(一族)石高
所感
●現在は宅地工事などで削平されて面影はない、しかし、丘陵部を下から確認すると比高もある。
●武田氏がまだ勢力のあった頃に毛利氏に従うというのは何か一族の間であったのか?
●近隣の墓地に五輪塔の残欠もあり、歴史を感じさせる。
関連URL
参考URL
参考文献
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2023/02/19