城データ

城名:院内城

別名:牛尾城、牛尾古城

標高:164m

比高:140m

築城年:不明

城主:牛尾幸清

場所:広島県広島市安佐北区深川町

北緯:東経:34.485271/132.540400

院内城はここ

 

攻城記

院内城全景。

三篠川が天然の堀の役目をしている。

牛尾山の山号がある。

明光寺の山の裏が城域になる。

仁王像がお出迎え。

明光寺。

明光寺の墓。

古い宝篋印塔。

當山開基元秀墓とある、戦国時代の墓だと思われる。

明光寺薬師堂

室町時代の建物らしい。

寺の北側に天神社がある。

天神社から登っていく道がある。

道なりに進むと最初の曲輪がある。

人工的な石列。

尾根の先端分の削平地。

石が散乱している。

出丸としては広さもある。

帯曲輪。

堀切。

堀の底からみたら結構深い。

中腹にある削平地。

本丸に向かう道も整っており歩きやすい。

尾根からみると実は急斜面である。

山頂部分、曲輪跡か。

本丸。

現在は鉄塔が建っている。

眺望。

本丸の北部分になる曲輪。

土橋か。

本丸北側の曲輪も一見の価値あり。

本丸部分を見上げる。

切岸。

 

位置関係

 

open-hinataより【院内城】

 

 

余湖図【院内城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

『芸藩通志』【院内城】

城の概要

本城跡は三篠川の北岸、鬼ヶ城山山系から延びる丘陵上にある。

 

城跡は三つの郭群から成る。

 

最高所にある郭群はT字状に並ぶ五か所の郭と三条の堀切で構成されている。

 

中腹の郭は山頂郭群から60mほど下方にあり、大型の郭1カ所を配している。

 

丘陵の先端部の郭群は、尾根の主軸に沿って大小七つの郭を階段状に配置し、一条の堀切が認められる。

 

城主としては、牛尾遠江守幸清の名が伝えられている。

 

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用

城の歴史

不明であるが、牛尾幸清は永禄8年(1565)に毛利に降伏しているため、それ以降に城主となったと思われる。

 

ただし、近隣の狩留家村にある薬師堂について「芸藩通志」には享徳二年 牛尾範光 建立といふ とある、享徳二年は1453年であり、牛尾幸清が毛利に降伏する前に別の牛尾氏がこの地域にすでに在地勢力としていた可能性も否定できない。

 

牛尾範光が1453年に建立されたとされる薬師堂。

 

「芸藩通志」では院内は、牛尾遠江幸清といふ、幸清は、毛利氏に属し、九州にて戦死せし人なり とある。

 

城主家系図

「芸藩通志」に以下の記載あり。

中深川村牛尾氏 先祖、牛尾遠江幸清、同子義次、俱に毛利に従ひ、九州の役に死す、次子幸助、農となりて、此村に居る、今文右衛門まで、八世。

 

所感

●城の造りとしては山頂部の曲輪、中頃にある曲輪、尾根先にある曲輪の三か所に分かれている。

 

●曲輪は広さもあり造りもしっかりしている。

 

●城主が牛尾幸清とあるが、そうなると1565年以降であり、深川は戦乱に晒されない地域の為、城がこの時に築かれたかは不明。

 

●「芸藩通志」には牛尾幸清の子どもとして「義次」とあるが、久信という子どもが実際に秀吉の九州平定時(1586)に豊前にて討死している。

 

関連URL

【島根県】三笠城【尼子十旗5城目】

 

参考URL

城郭放浪記(院内城)

ひろしま昔探検ネット(院内城)

武家家伝_牛尾氏

牛尾幸清(ウッキペディア)

open-hinata

 

参考文献

『日本城郭大系』13

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』

『広島県の地名』

『広島県地名大辞典』

『広島の中世城館を歩く』

『萩藩諸家系譜』

『毛利八箇国御時代分限帳』

『萩藩閥閲録』

公開日2023/03/14

 

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