城データ

城名:亀崎城

別名:亀嵜城

標高:83m(削平される前)現在は51m

比高:65m(削平される前)現在は33m

築城年:室町後期から戦国時代

城主:井尻氏

場所:広島県広島市安佐北区亀崎4丁目(亀崎中学校)

北緯:東経:34.484926/132.528003

亀崎城はここ

 

攻城記

現在は亀崎中学校になっている。

1981年開校

 

約20m削平されており当時の遺構は全くない。

周辺を確認、普通の山である。

麓からの比高は約30m(当時は約50m)なので典型的な山城。

東には亀崎神社があり、当時ここも城域だったと考えられる。

毛利氏とも関りがある。

※永正2年(1505)12月13日付の毛利弘元下知状があり久都内氏に奉幣及び注連役を先例に任せて勤めることを命じている。

神社裏側から麓を臨む。

麓まで降りてみる。

城にはお決まりの川。

天然の堀の役目を有しているか。

山は急勾配であり、攻めにくそうな感じをうける。

東に目を向けると院内城がみえる。

位置関係

 

open-hinataより【亀崎城】

現在は亀崎中学校が造成されており遺構は消滅している、東側に亀崎神社がありこの部分も往時は曲輪だった可能性もある。

 

余湖図【亀崎城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

『芸藩通志』【亀崎城】

 

1960年代の航空写真。

 

城の概要

本城跡は、西流する三篠川を阻止する形で突出した亀崎神社後方の丘陵上に位置している。

 

高陽ニュータウン建設に伴い、発掘調査が実地された。

 

最高所の1郭を取り囲むように、四つの郭を設け、さらに六本の竪堀を放射状に配置し、堀切を1郭の西側に設けている。

 

なお、亀崎神社が位置する場所も城跡の一部と考えられる。

 

城跡は、1郭が少なくとも二回の修築を受けていることが知られている。

 

城主は井尻又兵衛和重の名が見える。

 

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用

 

亀崎城は、三篠川が太田川と合流する直前の北に大きく迂回する地点に、ちょうど川の左岸の交通を遮断するように飛び出した形で延びた丘陵の先端部に位置し、東と北の眺望がすこぶるよい。

 

現在、先端部にはトンネルが設けられて芸備線が通っている。

 

『芸藩通志』に井尻又兵衛和重が居所としたとあるのみで、他に文献はみあたらない。

 

井尻氏については、『毛利家文書』によると、大永年間(一五二一~二 八)、大内氏に帰属した毛利元就のもとで深川の地を知行していたことがうかがえる。

 

しかし、天文二十一年(一五五二)には、毛利氏のもとで三吉氏が深川下分を知行しており、その後の井尻氏の動向は不明である。

 

「高陽ニュークウン計画」に伴い、広島県教育委員会の手で昭和五十一年四月 から八月にかけて発掘調査が行なわれ、調査後、先端の亀崎神社がある箇所を除いては削平され城跡は消滅した。

 

城は、北東に延びる丘陵の先端部を切断して設けられており、 周囲は急峻である。

 

頂部の郭 (一郭)の前後を半円形の郭(二・ 三郭)で固め、その下約八mの ラインでさらに二つの郭(五・ 八郭)で帯状に囲い、前後に空堀を設けていた。

 

また帯郭は、 西側で三か所、東側で四か所の 竪堀をもって断ち切っていた。

 

城の後背部はだらだら坂であるが、空堀より約一四〇mの地点 に両側の谷が狭まり鞍部になっ ている箇所があり、このあたり で防備を固めたものと思われる。

 

城の前面にも鞍部があり、その 先は削平されて神社となってい た。

 

地形上からみて、これも城 郭の一部であったと思われる。

 

一郭は幅一二m×長さ一八m で、そのすぐ西下の二郭は幅二〇m×長さ一二mの大きさであ るが、この二つの郭には複雑な 加工痕が認められ、長い時期に わたって修復・整地されていることがわかった。

 

多数の柱穴が あることから、小規模ではあるが、掘立柱の建物がいくつかの時期にわたって存在したことは確実である。

 

出土遺物には、土師質土器(糸切底の皿)、備前焼(甕・擂鉢)、常滑焼(壺)、 瀬户焼(壺、卸し皿、香炉、天目茶碗)、中国製青磁(碗·皿)、中国製白磁(皿)、 火舎、土錘(約五百六十個)、砥石、硯、滑石製石鍋、石臼、鉄釘、小刀、小札、 鎌、鋤先、古銭(宋銭八枚、唐銭二枚)などがみられ、そのほか、弥生式土器片が少量みられた。

 

備前焼は数百片を数えたが、常滑焼はわずか一片のみである。

 

遺物の大半は一・二郭から出土しており、農具・漁具など、ふだんの生活用具もみられることなどから、平時にも生活の場としてある程度利用されていたのではないかと推定された。

 

なお、多量の土錘は竪堀の一つからまとまって出土している。

 

国産の陶器は室町後半期のものが主で、中国産のものは明代のもの が多い。

 

この城の存続期間は、遺物の上からは室町後期から戦国期と推定されるが、 文献が乏しいため城主井尻氏の動向は不明である。

 

ただ、交通の要所に立地したこの城は中心部の郭が幾度も修復されており、そのことは、大内氏・尼子氏 の二大勢力のもとでの武田氏の衰退、毛利氏の伸長、また辺りの国人衆との鎬の削り合いなどといった当時の城主の置かれた不安定な歴史的背景を如実に物語っているのではなかろうか。

 

『日本城郭大系』13より引用。

 

城の歴史

室町後期から戦国期に存在したと推定されるが、これ以上のことは不明。

 

井尻氏について

『芸藩通志』によれば「亀崎山 下深川村、中深川村との界にあり、井尻又兵衛 一に民部 和重、所守、」とあり、城主は井尻又兵衛和重であったことが分かる。

 

『戸坂村史』78頁によると「金山落城後、毛利氏は広島湾頭への進出を果たす。大永5年(1525)、尼子方から大内方に寝返った時点で、すでに元就は大内義興から可部・深川上下(現在の上深川と下深川)・温科(現在の温品)・玖村の1370貫を約束されていたが、天文10年(1541)の武田氏滅時に、(大内)義隆は可部・温科を熊谷氏や戸坂氏に与え、その代わりに佐東郡のうち緑井・温井(現在の川内)・原郷内(今の西原、東原)・矢賀・中山の1000貫を元就に預け、元就の子隆元も、佐東郡のうち大牛田・小牛田を得た。

とある。

 

実際に『毛利家文書』251に記載がある。

 

大永年間には大内氏から毛利氏に深川の地の知行を許されていたが、当時はまだこの地域は武田氏の勢力範囲であり、実際には1541年銀山城が落城して、この地が本当に毛利氏のものとなったのはこれ以降だと考えられる。

 

天文21年(1552)に毛利元就親子が大内義長に知行注文を行っている。

『毛利家文書』261

ここで、深川下分については三吉氏の知行となっている。

 

実際に永禄元年(1558)には三吉隆亮が中深川にある正明院薬師の本堂の修理を行っている。

 

武田氏の支配地域におりその臣下だったことは間違いないとおもわれるが、毛利氏や三吉氏の配下になったか、若しくは離反したかは不明。

 

所感

●現在は中学校になっており、その面影は無いが、隣の亀崎神社も曲輪跡と考えれば城域も広かったと思われる。

 

●文献が無く、詳細不明、この地域が三吉氏の所領だったとして家臣となったとしても、関ケ原以降は帰農したと思われる。

 

●吉川家臣に井尻又右衛門氏がいるが、同一人物や同族なのかは不明。

 

●近隣に井尻姓は数軒あり、興味深いことに、三吉氏の本拠であった三次市に約5軒おり関連があれば面白い。

 

関連URL

広島県【院内城】広島市安佐北区深川町

三篠川をはさんだ城。

 

参考URL

城郭放浪記(亀崎城)

ひろしま昔探検ネット(亀崎城)

open-hinata

 

参考文献

『日本城郭大系』13

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』

『広島県の地名』

『広島県地名大辞典』

『広島の中世城館を歩く』

『萩藩諸家系譜』

『毛利八箇国御時代分限帳』

『萩藩閥閲録』

公開日2023/03/26

 

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