城データ

城名:新城山城

別名:桐原城(とげじょう)

標高:126m

比高:34m

築城年:鎌倉時代か

城主:熊谷氏及びその子孫である桐原氏

場所:広島県広島市安佐北区可部町桐原

北緯:東経:34.528858/132.534167

新城山城はここ

 

 

攻城記

本丸から北東の曲輪。

周辺。

竪堀がある。

本丸北の曲輪。

本丸に向かう。

本丸部分:非常にきれいな状態であった。

付近の曲輪。

本丸から東へ下りたところの曲輪。

下を望む。

広さもある。

周辺付近。

本丸から南を望む、土橋と堀切がきれい。

新城山城の特徴は竪堀が多いこと。

堀が綺麗に残っている。

そのまま降りていくと、広い削平地があった。

石の残骸、何かしらのものに利用さえていたと思われる。

 

位置関係

 

open-hinataより【新城山城】

 

余湖図【新城山城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

『芸藩通志』新城山城

 

城の概要

背後に櫓台をもつ郭と、その東側に二つの郭がある。

背後には堀切と北西に向かって延びる1条の竪堀、東に向かって三条の竪堀群があり、この部分は土塁に囲まれた遺構にみえる。

北側斜面にも三条の竪堀群がある。

 

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用

 

 

熊谷氏入部後は主として同氏の庶子家の 支配下に置かれた。その拠点となった城が新城山城(桐原城)で、戦国時代末頃の熊谷高直自筆同家先祖書(熊谷家文 祐直) 書)に「直祐新城始」とあり、熊谷氏系図(同文書)の祐直 の項にも「新庄熊谷桐原之城是也」と記す。

 

「芸藩通志」 には「桐原備前所居」とみえるが、戦国時代になると熊谷氏庶子家も惣領家と合一して、高松城へ移ったと推察 され、その後に熊谷氏の家臣で在地土豪であった桐原氏 が入城したのであろう。

 

『広島県の地名』より引用。

 

城の歴史

熊谷氏の中でもかなり早い段階に分かれた新庄熊谷家、途中までは熊谷氏を名乗っていたが本家熊谷家に攻められ降伏。

子孫は熊谷氏から桐原氏を名乗った。

 

城主家系図

 

桐原氏の家系図は

『萩藩諸家系譜』
熊谷氏家系図(ウッキペディア)

熊谷氏(桐原氏)家系図

を参考に作成。

 

歴史

文暦元年(1234年)、母の吉見尼の計らいによって、兄・直時の所領であった西熊谷郷と三入荘の1/3を、幕府の命令によって譲られた。

これは母の吉見尼の強い思いでもあり、亡き父・直国の意向とされる。この一件で、安芸の熊谷氏は本庄系熊谷氏、新庄系熊谷氏の二派への分派が決定的となった(熊谷家文書第15号)。

 

祐直は早速三入荘に下向し、桐原に新山城を築いて居城とした。

 

嘉禎元年(1235年)に、鎌倉幕府の命により、安芸の厳島神主家当主・藤原親実が熊谷氏の所領を調査して、「安芸三入庄地頭得文田畠等配分注文」を幕府に提出し、六波羅探題の北条時房と北条泰時の連署承認がなされたが、この書類が非常に雑なものであったため、この兄弟の所領争いを激化させた。

 

争いはその後も続き、最終的に文永元年(1264年)まで、所領の論争は続くこととなった。

 

また、本庄系と新庄系の熊谷氏に分かれたことは、同族で所領争いを繰り返す原因となり、熊谷氏の勢力に歯止めがかかる遠因ともなった。この後、南北朝時代の争乱では新庄熊谷氏の熊谷蓮覚が本庄系熊谷氏と対立する。そして熊谷氏が再び一本化されるのは、大きく時代が下った熊谷膳直の時代である。

熊谷祐直(ウッキペディア)より

 

 

後醍醐天皇:元徳3年、元弘元年/光厳天皇:元徳3年(1331年)から始まる元弘の乱で活躍した。

 

後醍醐天皇:元弘3年/光厳天皇:正慶2年(1333年)、後醍醐天皇が隠岐から伯耆国船上山に帰還し、全国の諸侯に参陣を呼びかけた。

 

大塔宮護良親王の令旨が千種忠顕より本庄系の熊谷直経に届けられた。しかし直経は直前の千早城の戦いにおいて重傷を負っていたため、代理として新庄系熊谷氏当主の直清を出陣させた。

 

直清は叔父の直宗や、弟の直重とともに、5月、丹波国熊野郡へ侵攻。二階堂因幡入道を攻め、浦富保地頭の城郭を攻め落とし、丹羽郡内の松田平内左衛門入道らを撃破して、鎌倉幕府側の11ヶ所の拠点を落とした。

 

この時、直清の叔父・直能は鎌倉の戦いの新田軍の陣中におり、田島経政に所属して戦ったが、5月20日に討死した。

 

同年6月、後醍醐天皇の建武政権は直清の功を熊谷氏の一番とし、本庄系直経の所領を半減させ、直清に与えた。直清は惣領であった本庄系の代理であったが、直経の反論は容れられなかった。

 

これによって、新庄系熊谷氏の勢力は拡大したが、結果的に新庄系熊谷氏の増長を招き、また、本庄系熊谷氏からの恨みを買うことになった。

直清の後、曾孫の直房の代に新庄系熊谷氏は本庄系熊谷氏の討伐を受けて敗北。その家臣団に組み込まれることとなった。

 

熊谷直清(ウッキペディア)より

 

 

新庄方として熊谷八郎左衛門尉があり、文和五年三月武田氏信から可部庄東方内辰原を兵狼料所として預けられ、延文四年(一三五九)四月守護人の注申により足利義詮から安芸における戦功を褒せられている。『熊谷家文書』237

 

 

15世紀後半

当時の熊谷氏は所領を一族で分割しており、必然的に惣領を中心とした惣領制にするために苦心を重ねていた。

 

熊谷膳直は、自身の治世時に分家筋である新庄熊谷氏を滅ぼして、分割されていた熊谷氏の勢力を一本化させ、来たるべき戦国時代へ備えている。

 

なお、この時に滅ぼした新庄熊谷氏の熊谷直房とその嫡子、熊谷直重は赦されて、名字を熊谷から桐原に変え、家臣として仕えた。

 

熊谷膳直(ウッキペディア)より

新庄熊谷氏の消滅と桐原氏の発生。

 

桐原氏について

桐原氏は熊谷直国の次男である、熊谷祐直を素とする、一族は新庄熊谷家として存続していたが、その勢力が増大してしまったことから本家をしのぐ勢いになった、それに危惧した熊谷膳直の時代に征伐されて、熊谷氏から桐原氏になった。

 

桐原與四郎(與七郎)

『陰徳太平記』の中に記載。主君である熊谷元直が討死した時に、同じく討死する。

『萩藩諸家系譜』では與七郎と記載されている。

 

桐原右京亮・桐原記三郎・桐原彦三郎

(天正3年)1575:備中国手要要害合戦頸注文『毛利家文書375』の中に記載されている。

 

桐原九郎五郎・桐原土佐守

天正14年(1586):野坂家文書の中に桐原九郎五郎・桐原土佐守として出てくる。

 

この野坂文書によれば、天正十四年の時点で熊谷氏所領内にある 厳島社の神田六筆の抱え主は、三入の物申、桐原九郎五郎・末田左近大夫、岸添十兵衛などであったことが判るが、ここに抱え主と記された者たちは、耕作権の所持者と考えられるのである。

また、桐原土佐守の名前もある。

 

桐原惣右衛門

文禄2年(1593):熊谷家の目録に関して熊谷家の重臣である、水落甲斐守・細迫三衛門・桐原惣右衛門に託している。

『萩藩閥閲録』巻27‐151 熊谷帯刀

『熊谷文書』 172

 

 

桐原氏の読み方

桐原は現地の地名では「とげ」と読むまた『陰徳太平記』でも「とげ」のルビがある。

しかし、古文書の中では「とげ」ではなく「きりはら」と通常の読みになっている。

 

『熊谷家文書』254より

 

 

桐原氏の存在形態

史料が残存しないために熊谷氏の給人について給地の支配・経営を具体的に示すことができないのは残念であるが、既に述べた天正十四年(一五八六)の厳島御神田坪付の記載によってその一班をうかがうことはできよう。

 

この坪付は ミ入おとうめん 田百三拾目  桐原九郎五郎抱

 

の如き体裁で合計六筆を載せている。

 

この場合、この一筆の田地の所持権は桐原九郎五郎という者にあるこ とを示しており、これら神田の領主としての厳島神社は桐原九郎五郎をこの田地の耕作責任者として、同人 中員を受取る関係にあったのである。

 

一般の給地の場合には、この神田において厳島神社の占める位置を給人が占めるのである。

 

こうしたことを前提として、家臣の存在形態についてさらに追求してみよう。

 

 

右の桐原九郎五郎の関係で 桐原氏の場合についてみると、「郡中国郡志」の桐原村の条に

 

一古城勝 本丸拾間方 二ノ段二畝 三ノ段二畝

     城主桐原備前守殿ノ由、退転年号相知不申候

 

とあるが、これは桐原村の新城山に該当する。

 

ところで先述の厳島御神田坪付案の差出人に大坪出雲守とならんで桐原土佐守があり、家老格の一員と思われるが、恐らく新城山の城主といわれる桐原備前守の直系であろう。

天正三年(一五七五)備中手要害(岡山県川上郡)の合戦で戦功をあげた者の中に桐原の同族に右京亮・紀七郎・彦三郎の三人がいた。

 

桐原村の在名を名のる桐原氏が新城山の城主を頂点にして同苗の形でかなりの同族を擁していた状態が察せられる。

 

そうした同族のうちの一家が先の厳島御神田坪付に田百三拾目の耕作責任者として見える桐原九郎五郎であろう。

 

桐原村ではこうしで桐原氏一族が盤居しており、村の田地の所持権もかなりの部分が同族によって占められていたであろう。

 

しかし、本来桐原村の百姓であった農民の所持する田地も存在したと思われる。

 

桐原氏 は、桐原村で有する給地のうち、本来桐原一族の所持する部分は大部分自家経営を行い、百姓所持部分につ いては百姓から年度を収得するという関係にあったであろう。

 

この後者の場合には桐原氏と百姓とは支配者と被支配者の関係に立つことになるが、百姓は本来の庄園制秩序の下では身分的には桐原氏と対等に近い関 係にあったから、この支配関係は絶えず対立を孕んでいた。

『可部町史』より

 

このように、桐原氏が熊谷一族の家老的な立場として新城山城にて存在していたことは間違いない。

 

 

所感

●一時は本家をしのぐ勢いのあった山城、また本家との摩擦もあった可能性もあるので城の造りも複雑で中世の山城の雰囲気がある。

●地元の方は全く知らなくそこの城があったのかも御存じなかった。

●この城の尾根沿いを上がると高松山城に行く。

 

関連URL

【広島県】伊勢が坪城【広島市安佐北区可部町大林】

熊谷氏初期の居城。

【広島県】高松山城【広島市安佐北区可部町】

熊谷氏戦国時代の居城。

 

近隣の山城、庶流の城。

 

参考URL

新城山城(広島市)

城郭放浪記(安芸新城山城)

熊谷氏(桐原氏)家系図

open-hinata

 

参考文献

『芸藩通志』

『陰徳太平記』

『可部町史』

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』

『毛利家文書』

『萩藩閥閲録』

公開日2021/5/9

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