Pocket

城データ

城名:国留城

別名:無し

標高:400m

比高:10m

築城年:築城年代は定かではないが応仁・文明年間(1467〜87)頃に渡辺信濃守元家によって築かれたと云われる。

城主:渡辺信濃守元家,長谷部飛騨守元政

場所:広島県府中市上下町国留

北緯:東経:34.692522/133.108892

Google マップ (Google Maps) で緯度経度を指定して場所を見つける方法

※C. フォーマット「度(DD)」の場合を参照。

攻城記

余湖図【国留城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の概要

1郭から南東向きに郭が広がる。

 

1郭西側には土塁が延びており,その外側に幅約1mの通路状の遺構が1郭北側まで巡る。

 

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用

 

国留城は上下町の町並みから低丘陵を隔てて約一㎞の丘陵尾根先端上に位置しており、周囲は谷水田によってよく開かれている。

 

城主渡辺氏は、もと福山市草戸町の中山城に居城して山名氏に属していたが、 元兼の代に同市熊野町の一乗山城に本拠を移している。

 

元家の時に山名宗全に 属して軍功があり、当地と南隣の矢野とを与えられ、当地には国留城、矢野には矢野城を築いたといわれるが『西備名区』、その後は明らかではない。

 

当城は西北からの小丘陵先端を利用して背後を空堀で切断し、比高差約一〇mを測り、周囲は水田に囲まれており、城の規模および立地・形態からみて土居に近い状態を示している。

 

すなわち背後に当たる部分には高さ四・五mの土 塁を設け、西側に一~二mで続いている。

 

城跡が畑地となっていたこともあっ て東側の土塁は現存しないが、おそらく東側にも高さ二m程度で続いていたものとみられる。

 

城域は北側の三三m×二六mの三角形状を呈する平坦地と、その北西側の約 一ヵ高い二〇m×一一mの平坦地および南側の四五m×一五mで北側から若干 下る平坦地で構成されるほか、東隅に約七m下って小郭がある。

 

『日本城郭大系』13より引用。

 

国留城⋯国留村にあり城主渡辺信濃守家は山名宗全に属し、軍功によって国留、矢野の両村を賜って領した。

 

和智和泉守入道長元は足利尊氏に従って延文年間(1356)和智からここに移って築城したが、ホトトギ スが鳴いたことから不吉の兆といって千代丸という所に移って 城を築いた。

 

『廣島郷土史談』より引用。

 

城の歴史

応仁文明年間(1467~87)に渡辺氏によって築城か。

 

後に長谷部氏が城主となるが、翁山に居城を移したらしい。

 

所感

●城主として渡辺氏や和智氏がいるが、渡辺氏は福山市の草戸あたり、和智氏は吉舎町であり地理的に遠方になる。

 

●この地域は大きな勢力がおらず、別の土地の有力者が恩賞として賜った土地の可能性もある。

 

●長谷部氏が国留山城から翁山城へ移動したことからこの地域までは長谷部氏の勢力範囲だったことが相続できる。

 

関連URL

【広島県】千丸松城【府中市上下町国留】

和智和泉守入道長元が国留城から千丸松城へ移った城。

 

参考URL

城郭放浪記(備後国留城)

 

参考文献

『廣島郷土史談』

『日本城郭大系』13

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』

『広島県の地名』

『広島県地名大辞典』

『広島の中世城館を歩く』

『萩藩諸家系譜』

『毛利八箇国御時代分限帳』

『萩藩閥閲録』

公開日2022/09/03

 

ホームに戻る

攻城一覧

 

Copyright © 山城攻城記 All Rights Reserved.