城データ

城名:観音寺城

別名:佐々木城、観音城

標高:432m

比高:325m

築城年:応仁文明年間(1467~87)

城主:佐々木六角氏

場所:滋賀県近江八幡市安土町桑実寺

北緯:東経:35.149075/136.159366

観音寺城はここ

 

 

攻城記

観音正寺。

お墓か。

ここから城に向かう。

城に向かう途中の風景。

最初の石垣。

どんどん進んでいく。

段々城っぽくなってきた。

本丸に到着。

本丸はだだっ広い。

周辺石垣。

周辺部。

この石の意味するものが不明、石垣のようなそうじゃないような。

このような石垣が点在する。

観音寺城で有名な場所。

平井氏屋敷跡手前の石垣。

伝平井氏屋敷跡

屋敷跡は広い。

周辺部。

安土城よりも前にこのような石垣があったことが驚き。

伝落合氏屋敷跡。

 

観音寺城石垣コレクション

位置関係

 

余湖図【観音寺城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の概要

 

滋賀県文化財学習シート(観音寺城)より

 

観音寺城跡 勇安土町石寺・桑実寺など、神崎郡五個荘町川並など

織山(四三二・七メートル)山上にある。近江守護六角氏の 居城。

 

徹山南麓は中世東海道が通り、交通の要衝にあたる。国指定史跡。

 

「日本名僧伝」には京都東福寺開山弁円 が仁治三年(一二四二)宋より帰朝した際、「観音城東嶺」 に住する近江守護佐々木信綱に扁額を贈った旨が記され ている。

 

しかし、同書は永正元年(一五〇四)の成立であ り、この記述をもって一三世紀に当地に城郭が構えられ ていたと確定することはできない。

 

(当城をめぐる攻防)

「太平記」巻一五(奥州勢著坂本事)に よれば南朝方北畠顕家の上洛に呼応蜂起した新田氏一族 の大館幸氏は建武三年(三三六)一月、幼少の六角氏頼 (北朝方)が「楯籠リタル観音寺/城郭」を攻め落し、また 観応の擾乱では氏頼弟の直綱が「佐々木城」に引籠っているが(「園太暦」観応二年九月一一日条)、この佐々木城は当城のこととされるなど、南北朝期には当地に城が築かれていたと思われる。

 

しかし、この頃、六角氏の主城は金剛寺城(現近江八幡市)であったと考えられ、同城に代わっ て六角氏主城となったのは応仁―文明期(一四六七ー八七) 以降のことと推定される。

 

応仁・文明の乱では六角当主高頼(亀寿丸)は西軍、京極持清・勝秀父子や先に六角家惣領の地位を追われた六角政尭が東軍にくみし、当城においても攻防が繰広げられ た。

 

応仁二年四月、京極勝秀は当城を囲み今(「碧山日録」同 月一日条)、四月末には高頼勢は城を出て長光寺城(現近江八幡市)の政尭を攻めて敗走させている(同日録同月二六日 条)。

 

同年一一月、守山城を落した持清・政尭連合軍の攻勢に当城は落城、国人は皆「太守四郎政尭」にくみするようになった(同日録一一月一六日条)。

 

しかし、文明元年五月には高頼勢が当城を奪還(江濃記)。

 

京極方の多賀高忠らの軍勢が再び攻勢をしかける。

 

「江濃記」は高頼勢 がこの攻撃を退けたとするが、同年八月四日の足利義政御内書(片岡文書)によると落城している。

 

その後も攻防が 続き、同七年九月七日には当城下で幕府(東軍)奉公衆・ 京極政経(勝秀弟)らと六角勢の合戦となり、六角側は捕虜数百人、首級一〇〇をとられる大敗を喫した「長興宿禰記」同月一〇日条など)。

 

しかし、翌一〇月末には反撃に転じている(同書一一月三日条など)。

 

その後、城主六角高頼は長享(一四八七―八九)から明応(一四九二―一五〇二)初年の二 度にわたった六角征伐では甲賀に、文亀二年(一五〇二)の 第一次伊庭の乱では音羽城(現日野町)にと、たびたび当城 を捨て敗走した。

 

一六世紀に入ると城地南麓石寺には家臣団や職人たちが集住し、城下町が形成されたのであろうか、天文一八年(一五四九)一二月一一日の六角氏奉行人 連署奉書案(今堀日吉神社文書)には「石寺新市」とみえる。

 

永禄六年(一五六三)一〇月六角義弼が重臣後藤賢豊父子三人を殺害したことに端を発し、いわゆる観音寺騒動が 起こる。

 

「長享年後畿内兵乱記」「勢州軍記」などによれ ば、他の六角氏重臣らは後藤父子殺害に抗議して、当地の自分たちの屋敷を焼払って、それぞれの館に退き、義弼は蒲生定秀を頼って中野城(現日野町)に、義弼の父承禎 (教賢)も三雲氏を頼って甲賀郡三雲城(現甲西町)に走って いる。

 

このとき山内の諸寺、城下石寺の家屋三千が焼失 したという。

 

その後、賢豊の子喜三郎が後藤家を継ぐことで君臣和睦がなった。同一〇年四月、六七ヵ条からな る六角氏式目が制定されている。

 

同式目は所領相論・刑 事犯罪・債務関係・訴訟手続等領国内統治全般にわたる 法令を定めた戦国大名法であるが、半数以上の条令で六 角氏の行為・権限を規定・制約している点、承禎・義弼 父子と家臣二〇名の間で取交わされた法令遵守の起請文 が付せられている点などが注目される。

 

永禄一一年九月、 近江に入った織田信長は同月一一日愛知川に野陣をかけ、 翌一二日は、箕作城(現神崎郡五個莊町)および当城を攻撃、 みつくり 箕作城が一日で陥落したことを知った承禎・義弼は甲賀 に逃走、当城は落城した(「言継卿記」同月一四日条など)。

 

(遺構・郭の配置)

当城は中世城郭としては例のない総石垣造の山城として知られ、本丸を中心とした部分と東 端の布施淡路丸を除き、一般にあまり郭の設けられない山腹斜面に多くの郭群が設置されている点が注目される。

 

これらの郭の多くが庭園遺構と伝え、郭名に伊庭・蒲生・池田・平井・鯰江・目賀田・馬淵・木村ら六角氏重臣の名が冠され、また構造等が戦闘より居住に通してい ることから、家臣団の居住する屋敷地であったと考えられる。

 

昭和四四-四五年(一九六九-七〇)に本丸・平井丸・池田丸と通称される郭が発掘調査された。

 

本丸では 六棟の礎石建物と基壊を確認、本丸に南接する平井丸で は礎石建物一棟,庭間濃構、平井丸南方の他田丸で選石 建物七棟・地下石倉一などを横出した。

 

遺物として土 師器の血類をはじめ、輸入・国産の陶磁器が発見された。

 

これらの出土品は城前一乗谷(無福井市)の朝倉氏館跡出土 品の構成内容と簡似していた。

 

天文五年の下倉米銭下用帳(金剛結寺文費)に「御屋形様石垣打申」とあるように、 天文期から石垣を用いていたと考えられるが、通説では 今日伝えられる主要遺構の完成は永禄年間とされ、この点については城郭史のうえからも安当な見解といえよう。

 

なお天文年間の「宗長日記」や「鹿苑日録」にはしばしば当城に関する記載があり、「屋形二階」で宴席、「座敷は二階」などとあって二階建の居館の存在がうかがえる。

 

『滋賀県の地名』より引用。

 

城の歴史

応仁文明期(1467~87):このころ六角氏の居城となる。

 

応仁2年(1468):応仁の乱で六角氏は東軍西軍に分かれて戦う、このころ観音寺城でも攻防が行われ京極勝秀が城を囲む。

11月:守山城を落した持清・政尭連合軍の攻勢に当城は落城する。

 

文明元年:(1469):高頼勢が城を奪還する。

 

長享明応期(1487~1502):城主の六角高頼は二度にわたって当城を捨てて敗走する。

 

永禄11年(1568):織田信長に攻められて落城する。

 

城主家系図

 

 

所感

●山全体が城郭化しており家臣団を各曲輪に住まわせており中央集権的な組織が出来ていたと思われる。

 

●六角氏の組織や支配方法、城づくりなどを織田信長も真似したところは多くあると思われる。

 

●山頂にある石垣群は圧巻で伝平井氏の前の石垣が当時の遺構としては素晴らしい。

 

関連URL

【滋賀県】安土城【近江八幡市安土町下豊浦】

隣にある安土城。

 

参考URL

滋賀県文化財学習シート(観音寺城)

観音寺城(ウッキペディア)

城郭放浪記(近江観音寺城)

六角氏(ウッキペディア)

武家家伝(六角氏)

 

参考文献

『滋賀県の地名』

『日本城郭大系』11

公開日2021/11/21

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