城データ

城名:神辺城

別名:村尾城、黄葉山城、紅葉山城、楓山城、神辺道上城

標高:133m

比高:115m

築城年:建武2年(1335)朝山次郎左衛門景連によって築かれたと云われる。

城主:朝山氏、山名氏、杉原氏、毛利氏、福島氏、福島正澄、水野勝成

場所:広島県福山市神辺町大字川北

北緯:東経:34.538038/133.384916

神辺城はここ

 

攻城記

 

神辺城は「道上ノ城」とも呼ばれ、元弘の乱(南北朝争乱)で戦功をあげた朝山景連が備後国守護職に任じられ、建武二年(1335年)築城したと伝えられています。

 

以来神辺城は備後国の守護職の居城として使われ、仁木義長・細川頼春・高師康・上杉顕能・渋川義兼・山名時義が守護となり一時期を除いて山名氏の備後支配がつづきそれぞれ守護代が居城しています。

 

戦国時代には杉原理興・平賀隆宗・杉原盛重・藤井皓玄・毛利元康が、江戸時代には福島正澄(丹波)・水野勝成が入城し、この間幾度も改築が行われ福島時代に完成をみています。

 

元和五年(1619年)の水野氏が福山城築城の際には、神辺城の櫓桜や門などが取り壊され移築されたといわれてます。実に二百八十数年もの間、神辺城は備後国の中心的役割を果たしてきた城です。

 

攻城開始。

神辺平野が良く見える。

三番櫓跡。

二番櫓跡。

乾櫓跡。

二の丸跡。

神辺城跡

神辺平野を一望することができる場所に築かれた神辺城は、室町時代初めごろに築かれた山城で、山頂や尾根を削って平坦にした郭が約25カ所確認されています。

郭には建物や土塀が建てられ、城を守るために造られた石垣や空堀・井戸の跡も残っています。

 

山城は戦の時に立てこもる施設で、城主は日常は麓の平地に館を造って住んでいました。

 

現在の広島県立神辺高等学校のあたりは古屋と呼ばれ、城主の館を中心に武士の屋敷があったと考えられています。

 

以後、江戸時代のはじめまで約300年間にわたって、備後地方南部の拠点として威光を誇っていました。

 

神辺町観光協会

本丸跡。

井戸跡。

荒布櫓跡。

鬼門櫓跡。

 

open-hinataより【神辺城】

 

余湖図【神辺城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の概要

公園建設に伴い一部発掘調査が実施され、その成果により公園化計画が変更されて現状保存されている。

 

園路建設などにより一部破壊されているが、現状はほぼ把握できる。山頂部の郭群と北尾根・北東尾根の郭群からなる。

 

山頂郭群は最高所から西及び北に延びる尾根上に郭を階段状に置き、西端の斜面に畝状空堀群を配する構造である。

 

最高所の主郭とその北下の郭の発掘調査の結果、礎石建物跡6、溝4、石垣2、石組1などが見つかっている。

 

北郭群は6段の郭からなり、中ほどの郭の両端には、自然破壊や土取りの可能性もあるが、土塁状の遺構が残っている。

 

北東郭群は2段の郭と畝状空堀群からなる。

 

南北朝初期の備後国守護朝山氏によって築城され、以後守護所であったといわれているが、確かな事は不明である。

 

上に示した中世史料によれば、次のようなことが知られる。

 

1543(天文12)年出雲の大名尼子方になった城主山名理興は、周防の大名大内方の攻撃を受け、城下における激戦を経て1549年9月に敗走した。

 

城を奪取した大内氏は城督として青景隆著を置いたが、大内氏滅亡後は備後南部の国人領主である杉原盛重が在城した。

 

盛重没後の内訌を契機として、1584(天正12)年から毛利氏直臣層が在番するようになる。

 

1591年からは毛利元康が入城し、杉原氏が出雲国へ知行替えされた。

 

1600(慶長5)年安芸・備後に入部した福島正則は、備後東部の押さえとして福島正澄を在城させたが、1619(元和5)年に備後国十万石に封ぜられた水野勝成が福山城の完成まで在城した後、1622年廃城となった

 

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用

 

神辺城跡 神辺町川北・川南

川南の境を形成する古城山(紅葉山)にあり、村尾城・深津城などともよばれ、「陰徳太平記」には神辺道上城、「西備名区」に楓山城、「福山志料」に紅葉山城とある。

 

標高約一二〇メートル、麓からの比高約一一〇メ ートルで神辺平野を一望できる要所に位置する。

 

〔城の変遷〕

備後守護となった朝山景連が建武二年(一三三五)守護所を神辺におき、同年築城したのが始まりとさ れる(備後古城記、福山志料)。

 

以後山名氏・杉原氏らが城主として在城。

 

「備後古城記」に「山名近江入道文休嘉吉三 年八月四日城ヲ再築ク」とあり、山名氏の一族で守護代 をつとめた大橋満泰により嘉吉三年(一四四三)再築された ようである。

 

天文七年(五三八)大内義隆は銀山城(跡地は現福山市)城主杉原理興に尼子方の山名忠勝のいる当城を攻撃させ、 代わって理興を城主にした(三備史略)。

 

ここに備後生え抜きの在地領主杉原氏が当城に拠って大内氏と結んで備後南部を支配することとなる(「閣閣録」所収杉原与三右衛門家文書)。

 

理興は山名氏を名乗り「福山志料」(所載吉備津神社鐘銘)、城の修築をし、古市・七日市を含めた城下町を形成 したと考えられる。

 

天文一二年理興は尼子方に寝返り、 以後同一八年城を脱出するまで、大内氏(毛利氏)による神辺城攻めが行われる。

 

天文一三年三月(同月一三日付「毛利元就同隆元感状案」毛利家文書)、天文一七年六月(同年一二月 一〇日付(「大内義隆感状」吉川家文書)などの攻防が知られるが、とくに後者は激戦で、持ちこたえた当城の堅固さがうかがわれる。

 

尼子方に身を寄せていた理興は、天文二〇年の陶晴賢 の謀反、同二三年の毛利氏と陶氏との断交を機に元就にわびを入れ、弘治元年(一五五五)神辺城に帰り、再び杉原を名乗る。

 

理興没後城主となった杉原盛重(銀山城主、理興 の家老)は、永禄一一、二年(一五六八、九)の毛利氏北九州出兵に従軍、その留守に反毛利氏の藤井能登守入道皓玄・ 大江田隼人祐らが蜂起し、城を一時占領した。

 

同一二年 八月盛重の子元盛・景盛らによって神辺城は奪回されたが、この戦いでは「去七日神辺陣表敵罷出時、退口江付 送之、以鉄炮敵数人被討伏候」(「閣閱録」所収三戸平左衛門 家文書)と鉄砲が使用されている。

 

天正一〇年(一五八二)盛重・景盛の内粉を機に城は毛利氏の直轄となり、以後毛氏譜代家臣が城番を勤めた(毛利家文書ほか)。

 

関ヶ原戦後、毛利氏が防長へ移封すると、神辺城は福島正則の家老福島正澄(成代)の支配下に入る。

 

元和五年 (一六一九)正則改易後水野勝成も当城に入り一時在城したが、のち福山城建築に当城の建物の一部を利用したとい われる。

 

また明治初年天別豊姫神社の境内整備の時に城の石垣が利用されたと伝える。

 

『広島県の地名』より一部引用。

 

神辺城

神辺城は、南北朝初期以来、約三百年にわたり備後国守護所の置かれていた城で、天文年間(一五三二~五五)における神辺城合戦をはじめとして関係史料も多く、城郭の遺構も保存状態が良好で、部分的には発掘調査も行なわれ、礎石建物や石垣の確認、さらには多数の瓦や土師質土器なども採集されており、 文献だけではなく、考古学的にも注目されている城である。

 

位置的には、芦田川とその支流高屋川によって形成された沖積平野である神辺平野の東端を画す竹田の丘陵地から西に派生する小支丘陵の先端に立地し、 標高一二〇m、麓からの比高約一一〇mを測る。

 

山頂からは神辺平野のほぼ全 域を見渡すことができ、特に西方については、遠く備後府中の八ツ尾城までをもみることができ、神辺平野だけでなく、西方の府中へ抜ける旧山陽道と海岸沿いを通る新山陽道との分岐点の押さえとして、あるいは富裕な水田をもつ神辺平野の経営拠点として、さらには備後守護所の所在地として、備後の中心を なす重要な位置を占めている。

 

神辺城の歴史については、建武二年に備後の守護に任ぜられた朝山次郎左衛門景連が城を築き、守護所を置いたのが始まりとされているが、その後については、しばらくの間、記録がなく、観応の乱などを経て、延文元年(正平十一、 一三五六)に山名氏が備後守護となり、以後、天文七年までの約百六十年間、 代々守護職を継いだとされている。

 

しかし、この間、神辺城に直接関係する記 事としては、嘉吉三年(一四四三)に一族で守護代をつとめた山名(大橋)近江入道丈休(満泰)が神辺城を再築城したということしかない。

 

また、天文七年には元来大内氏に近かった山名氏が、尼子氏と結んだ山名忠勝により、神辺城を占拠されたことから、大内義隆は山手銀山城主杉原理興に命じてこれを落とさせたため、約百六十年間続いた山名氏の支配はこれで終わり、ついで杉原理興が神辺城主となって山名氏を名のり、大内氏を背景として 周辺の在地の武士を従えて、勢力を拡大していった。

 

この頃、神辺城 も、いっそう要害堅団に修築が進められ、城下には古市・七日市などの市場を 引き寄せて城下町の形成がなされ始めたとされている。

 

ところが、天文十一年、大内氏が尼子氏の出雲富田月山城攻めに失敗すると、 山名理興も、他の国人武士と共に尼子氏に寝返り、翌天文十二年には尼子方として安芸国に侵入するに至っている。

 

これに対して、大内義隆は弘中隆兼・毛利元就らに神辺城を包囲させ、ここに史上名高い神辺城合戦が始まるが、要害堅固な神辺城は容易に落城せず、持久戦となった。

 

天文十六年、大内氏の神辺城攻撃は本格化し、翌十七年には、尼子方の宮次郎左衛門の籠もる天神山城を落とし、同十八年には大内方の平賀隆宗が神辺城北方に秋丸砦を築いて神辺城に対峙して攻撃を続けたため、ついに理興は尼子氏の富田城に逃走し、城は七年ぶりに大内氏の手に帰することになった。

 

大内氏は神辺城を重臣青景隆著に守備させ、家臣吉原弥七を番手として派遣している。

 

出雲へ脱した理興は、その後、弘治元年(一五五五)、大内義隆の死を機に毛利元就に詫びを入れ、再度、神辺城に戻り、再び杉原氏を名のって毛利氏の先陣として活躍することになるが、同三年には没し、その後は銀山城主杉原盛重 (理興の家老)が継いでいる。

 

盛重は毛利氏のもとで周辺の横山氏・鼓氏・馬屋原氏など備南の有力豪族を家臣団として組み込み、勢力を伸ばしたが、永禄六年(一五六三)には勢力の拡大に伴って伯者国泉山城主を兼ねるように神辺城には子の元盛・景盛を置いた。

 

しかし、天正十年(一五八二)には兄弟間で 争いが起こり、それを機に城は毛利氏の直轄となり、国司右京亮・桂就信とい った譜代の家臣が交替で神辺城番をつとめている。

 

また同十九年には、毛利元就の八男元康が出雲国城代から移って神辺城主となっている。

 

その後、慶長五年(一六〇〇)には、関ケ原の合戦に敗れた毛利氏に代わって 福島正則が芸備四十九万石の領主として入封するが、そのさい、神辺城には三 万石の城主として家老福島丹波守正澄を置いた。

 

しかし、元和五年(一六一九) には福島氏も改易となり、水野勝成が備後十万石の領主として入って来たが、 同年中には福山城の構築にとりかかって移っていった。

 

そのさい、神辺城は廃 城となり、城の多数の建物は福山城へ移築されたとされている。

 

このように神辺城は建武二年の築城以来、嘉吉三年の再築城、さらには天文年間の杉原理興の入城・修築・城下の形成から神辺城合戦と 続き、天正年間(一五七三~九二)には毛利氏の直轄、以後福島氏・水野氏と、約三百年間にわたり幾多の城主の変遷が知られ、そのたびに城自体も修築が行なわれたらしい。

 

現在残る城の遺構は、いつのものか明らかではないが なくとも天文年間以降のものと考えられ、最終的には切石に 石垣の構築、瓦の出土などからみて、福島氏以降 も含まれていることがわかる。

 

以下、それらの遺構について 図に基づき概述したい。 城郭の遺横は西方に延びる丘陵先端部を、背後の空堀によって晒し、城域としたもので、尾根頂部に連なる中央部郭群、 北側支尾根上にある北部郭群と背後の谷、さらに北側山麓の 熊跡・堀からなる。

 

中央部郭群は最高所にある一郭を中心に西・北の二方に盛 上・削平により階段状に連なるが、各郭とも長さ二〇m以上 と大きく、特に東西方向の郭群については長大かつ堅固で、 その南北両斜面には細い帯郭も配している。

 

各郭間はは 高く、傾斜も急で、構築に当たっては削平と盛土を基本としており、一部の自然の急斜面あるいは下端部にみられる補強用の石垣を除いては石垣はみられない。

 

なおこれら郭群のうち、一郭・九郭については一部発掘調査がなされている。

 

それによると、一郭では、ほぼ南北に方向をそろえた礎石建物が三城 たことが確認されており、それらにともなって一部には溝もあり、切石による石垣、あるいは石組みなど、建物以外にも多くの施設をもった中心的郭であったことが明らかにされている。

 

また九郭は、一郭の北側に隣接する郭で、一郭 との比高二mを測り、斜面を削り取ることによって傾斜を急にしている。

 

斜面 の下端には郭を画し、斜面を補強するため、一段以上の石垣がみられ、郭内には東側に礎石建物一 棟、西側には直角に 折れ曲がる溝、また 南側には井戸も備え ている。

 

なお、発掘調査に伴って、一郭からは多数の瓦・土師質土 器皿·陶磁器類.古銭などが出土しているが、これらはいず れも戦国期以降の特色を示すものであり、 少なくともそれらと ともに検出された礎 石建物については、 戦国期以降のものと することができるが、 その下には確実にも う一時期古い包含層 があることが確かめられており、記録にみられるように幾度となく城の修築が 行なわれたものと考えられる。

 

つぎに山麓部の遺構についてみると、まず北部郭群は、北側の低い支尾根上 にあるもので、四段からなる。 この支尾根は、東側に平坦面をなす谷を挾んで東にさらにもう一本あり、両 者が一体となって搦手の谷、あるいは城背後の守りとなったものと考えられ、 支尾根に挾まれた谷についても、城防衛のためのなんらかの施設があったこと が考えられる。

 

また、館跡については、北麓の天別豊姫神社境内が広大な面積をもち、他と は一段高くなって「杉原屋敷」と呼ばれていることから、この位置であった可能性が強く、それは城下の市とは濠で画された位置に当たっている。

 

濠は北方約五〇〇mを流れる高屋川を利用したものと考えられるが、その他、 城下には街路に沿って溝が穿たれており、それが内濠の役目を果たしたものと思われる。

 

ちなみに古市・七日市などの地は、この溝と高屋川との間に位置している。

 

なお城下については、城の北方約一㎞に古城山城があり、この周辺が古市と 呼ばれ、古くから開けていたことがわかるが、杉原理興の代に開いたという七 日市は館跡の正面、すなわちやや西方に寄っており、さらにその西に胡神社・ 三日市・十日市などの地名がみられることから、当初、東方に小さく集まって いたものが、城と共に西方へ拡大していったものと考えられよう。

 

菩提寺は城 の背後、北東部山麓の支谷にある「龍泉寺」とされている。

 

『日本城郭大系』13より引用。

 

城の歴史

建武2年(1335):朝山次郎左衛門景連が守護になり城を築いたと云われる。

 

延文元年(1356):山名氏が備後守護となる。

 

嘉吉三年(1443):山名(大橋)近江入道丈休(満泰)が神辺城を再築城する。

 

天文7年(1538):守護の山名忠勝が尼子氏にと結び、大内氏から叛旗を翻すが、大内義隆が近隣の杉原理興に命じてこれを落とさせる、苗字も杉原から山名に改名する。

 

天正11年(1542):山名理興が尼子氏に寝返る。

 

天文12年(1543):山名理興が尼子方として安芸国に侵入する。

 

天文16年(1547):大内毛利連合軍が神辺城の攻撃を本格化する。

 

天文18年(1549):山名理興が神辺城を蜂起して尼子氏の富田城に逃走する。

 

弘治元年(1555):大内義隆が亡くなった後に毛利元就に詫びを入れ、再度、神辺城に戻り、再び杉原氏を名乗る。

 

弘治3年(1557):山名理興死去、家臣の杉原盛重が城を引き継ぐ。

 

永禄6年(1563):盛重が伯者国泉山城主を兼ねるように神辺城には子の元盛・景盛を置く。

 

天正9年(1582):盛重死去。

 

天正10年(1583):盛重の子どもである元盛・景盛の兄弟間で争いがおこる(景盛が兄の元盛を殺すが元就に攻められ自刃する)

 

その後は、毛利氏の直轄となり、国司右京亮・桂就信とい った譜代の家臣が交替で神辺城番をつとめるようになる。

 

天正19年(1592):毛利元就の八男元康が出雲国城代から移って神辺城主となる。

 

慶長5年(1600):関ケ原の合戦に敗れた毛利氏に代わって 福島正則が芸備四十九万石の領主として入封するが、そのさい、神辺城には三 万石の城主として家老福島丹波守正澄を置く。

 

元和5年(1619):福島氏が改易となり、水野勝成が備後十万石の領主として入部して神辺城を本拠とするが数年後に福山城に移る。

 

備後山名氏

当主自身は惣領家である但馬山名氏であり備後国にはいなかった。

 

実際に備後国にいた山名氏。

 

伯耆国守護である山名家。

 

所感

●城は数百年かけて改修されており、強固な城で、大内毛利連合軍でも7年間耐えた。

 

●山名理興も尼子に寝返りそのまま、富田城に逃亡したが、その後に毛利氏に帰順しそれを許されるという事自体が驚き。

 

●櫓の一部は福山城に移築されたみたいだが空襲で焼けたか。

 

関連URL

【広島県】福山城【福山市丸の内】

神辺城の後に本城となった福山城。

【鳥取県】尾高城【米子市尾高】

杉原盛重が神辺城から次の城に移った尾高城。

 

参考URL

神辺城(ウッキペディア)

城郭放浪記(備後神辺城)

西国の山城(神辺城)

山名理興(ウッキペディア)

神辺城と山名丈休(朝山景連と古城山の謎)

八尾山城と山名氏(4)

武将列伝帖 山名豊後守理興

 

参考文献

『日本城郭大系』13

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』

『広島県の地名』

『広島県地名大辞典』

『広島の中世城館を歩く』

『萩藩諸家系譜』

『毛利八箇国御時代分限帳』

『萩藩閥閲録』

公開日2022/05/08

 

ホームに戻る

攻城一覧

 

Copyright © 山城攻城記 All Rights Reserved.