城データ

城名:久地城

別名:世宇武城、勝負城、古城跡

標高:230m

比高:140m

築城年:不明

城主:麻生右衛門鎮里

場所:広島県広島市安佐北区安佐町久地

北緯:東経:34.517234/132.399800

久地城はここ

 

 

攻城記

久地城全景。

民家の奥から行くので一言声をかけてから行く。

比高100mであるが整備されていないので直登をすることになる。

道が無いのが厳しい。

城までは結構急である。

岩場もあり気を付けていく。

石垣(本丸の東側面がこのような感じになっている)

この上が本丸になるが急峻。

本丸から見下ろす。

本丸、そこその削平地がある。

別の方向から。

本丸土塁。

堀切を降りる。

別の小曲輪。

 

open-hinataより【久地城】

 

 

余湖図【久地城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

『芸藩通志』久地城

 

『芸藩通志』では古城と記載されている。

 

城の概要

城跡のある尾根は、南北両側に深く谷が侵入し、西を除く三方は急斜面となっている。

こうした地形のためか、郭の構成は簡素で、1郭の南と西側に小郭を配したのみである。

なお、西側の郭の背後に堀切が、1郭の一部に土塁や石垣が設けられている。

堀切以西の尾根上にも数か所の平坦面があって郭とも考えられるが、断定はできない。

城跡の東裾あたりには「城下」の地名が残っている。

城主は麻生右衛門鎮里の名が伝えられている。

 

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用

 

城の歴史(伝承)

久地が本郷地区に銅山があった、戦国時代には武田氏が銅山の開発を進めていたが戦国時代になり群雄割拠で近隣の土豪による争いも激しくなった。

そこで、この銅山を守るために、城を築いた。

 

その1つが、この久地城で別名勝負ヶ城と呼ばれる、城から監視してまた守る為にの役割を担っていた、因みに南にも清水ヶ城という古城がある。

この2つで銅山を他の土豪から守っていたのではないか?

 

城主が麻生右衛門鎮里であったが、麻生氏は大内氏の家臣であり、仮に城主が麻生氏であればそれは、武田家がほろんだ1541年以降に城代として入ったものと考えられる。

 

この地方は仙村と呼ばれており、本来は厳島神主領であったが、応永4年(1397)に仙村の大塚、久知(久地)を 武田伴遠江五郎 が押領しており、武田家が滅びるまでは伴氏の支配下だったと考えられる。

 

1541年までの城主(城代)は伴氏と考えたい。

 

所感

●城主が麻生右衛門鎮里とあるが、麻生鎮里は大内方の家臣でありもし彼が城主ということであればそれば武田氏が滅んだ1541年以降のことであると推測される。
※麻生鎮里は水晶ヶ城や安芸武田氏が滅んだ後に城代として銀山城に入っている。

 

●武田氏滅亡以前は、この地方は伴氏の所領と考えられる。

 

※伴氏は山県郡の穴というところまで所領であったらしいのでこの久地も伴氏の所領であった可能性が高い。

 

●この久地の付近は銅が多く採掘出来る場所であり、この銅鉱石は大きな収入源になっていた(当時銅は中国に輸出されていた)

 

●付近にはもう一つ清水ヶ城というのがあり久地城と共同で銅山を掌握していたと思われる。

 

●地元の方の話では、山の麓の車道が昔は川であったがいつの間にか現在の川の地形になってしまった

 

関連URL

【広島県】伴東城・伴城【広島市安佐南区伴町】

久地を治めていた領主である伴氏。

 

参考URL

久地城(広島市)

麻生鎮里(ウッキペディア)

open-hinata

 

参考文献

『芸藩通志』

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』

『広島県の地名』

『広島県地名大辞典』

公開日2021/05/02

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