城データ
城名:雲雀城(ひばりじょう)
別名:本照寺山城
標高:210m
比高:120m
築城年:嘉吉3年(1443年)土倉対馬守夏平によって築かれたのが始まりと云われる。
城主:土倉夏平,池上氏
場所:広島県尾道市御調町市
北緯:東経:34.508122/133.145162
攻城記
天神社から登っていく。
看板に沿って進む。
空堀らしいがよく分からない。
墓地のあたりに削平地もあるが曲輪跡なのかもしれない。
最初の曲輪に到着。
神社がある。
神社から更に上がっていくが、ここからが大変。
急すぎて虎ロープもある。
削平地がところどころにある。
本丸手前の曲輪(広い)
この上が本丸になる。
加工されている。
石積み跡。
本丸到着。
櫓台もある。
雲雀城址
御調町域で成立の古い山城は、大塔の撰場城(千羽ヶ城)で、仁野の善福寺の過去帳に、嘉吉2年(1442)に大道庄官藤原時実が築城したとある。
ついで嘉吉3年(1443)には、小早川氏の一族の土倉夏平が、交通の要衝で、この地の経済的中心地である市(いち)を眼下に望むこの雲雀山に築城している。
しかし、この時点での小早川氏の支配はあまり長く続かず、退去したようである。
この雲雀城に本格的に入ってきたのは、三吉氏の家臣の池上氏である。三吉氏は、近江国から双三郡八次村(現三次市)に来住した地頭で、鎌倉・室町時代を通じて勢力を伸張し、明応年間(1492~1501)に南下して世羅・御調に勢力を扶植し、有力家臣を各地に配置していった。
御調町域関係では、市の雲雀(山)城の池上氏、大町の牛皮城の森光(守光)氏、丸門田の丸山城の上里氏がそれである。
雲雀(山)城は、市の町並みの南西にそびえるこの雲雀山(227m)の山頂を中心に築かれて、御調町域の主要通路を含む地域を見渡すことができる。
山頂の削平地に、本丸があり、その南に深さ約20m、幅約3mの堀切(空堀)があり、北側に二の丸やその帯曲輪、東に出丸や井戸曲輪があり、土塁の跡や堀切・竪堀などが見られる。
城主は平素は山麓の居館にいたが、それは市頭に近いところにあったと推測され、麓の本照寺付近の可能性が大きいと考えられる。
当城には明応2年(1493)に三吉氏の家臣池上丹羽守が城主として入り、この地を統治した。
のちに池上氏は、尼子晴久の勢力下にあった天文13年(1544)、旧主であった三吉広隆攻撃に牛皮城主森光(守光)氏や、丸山城主上里氏とともに参加している。
櫓台から本丸方向を臨む。
街並みを見下ろす。
大堀切でその先にも曲輪があるみたいだ。
本丸全体。
二の丸。
井戸跡。
本照寺【池上氏菩提寺】
雲雀城と本照寺
御調町市の小盆地を圧してそびえる雲雀山は、この町を訪れる 人々の眼に非常に印象的で戦国争覇の非願をかけたつわものどもの夢の跡ともいうべき山城です。
備後の多くの弱小豪族がその去就に明け暮れた戦国時代.嘉吉三年(一四四三)沼四本郷高山城小早 川一族である土倉対馬守夏平の手によって築城されたといわれています。
その後約五十年後の明応二年(一四九三)三次盆地から南下してきた三吉氏 の勢力に抗しきれず城は奪われて三吉氏の武将池上丹波守が入城し付近一帯の城山は総て三吉氏一統におさえられてしまいました。
このころから天下は麻のごとく乱れ備後地方に君臨していた山名氏沼田高山城の小早川氏木梨の椙原氏更に山陰より前下してきた尼子氏などが入り乱れての争乱は平和であったこの山里を血溯に色どって明けくれ 雲雀城下も兵馬の巷と化してついに毛利氏の統一下においては池上氏も家臣の列に加わって各地に転戦したようです。
照源寺を石原谷に再興したのも池上因幡守と伝え、さらに城の下になべかむり、日親上人を開基として永正元年(1504)に本照寺を建立している。
諸書によってその説を異にし、天正11年池上丹後守菩提所となすとか、文安元年日親開基、天正13年池上因幡再建などとまちまちであるが、江戸時代焼けたことは間違いなく、その時に古文書を焼失して資料を失っている。
現在の建物はその後に建立されたもので、大イチョウのみが昔の面影を伝えている。
寺の背後に池上氏代々の墓地というのがあるが、これは雲雀城二の丸にあったものを境内に移したものだという。
室町時代の特色をもついかにも城主のものとしてうなづける。
大形の五輪石塔を中心に10数基の苔むした墓石は、兵乱の昔を物語っています。
昭和56年11月
御調町教育委員会
御調町文化財保護委員会
伝雲雀城主墓石群
所在地大字市
所有者 本照寺
御調町史跡(平成二年十月十五日 指定)
雲雀城は雲雀山(ニニ七メートル)の山頂を中心に築かれ御調町域の主要通路を眼下に見渡すこと ができ本丸を中心に南に堀切(空掘北に二之丸、 帯曲輪東に出丸・井戸曲輪を持つ山城です。
嘉吉三年(一四四三)に小早川氏の一族の土倉夏平 が築城し、その後双三郡八次村の地頭三吉氏の下臣池上氏が入城しました。
明応二年(一四九三)には 池上丹波守が城主として入りこの地を統治しました。
のちに池上氏は小早川隆景の支配下に入 りました。
その後天正一八年(一五九〇)頃には毛利氏 の勢力下にあり関ヶ原の戦(一六〇〇)のあと毛利氏に従って防長へ移ったとされるが定かではありません。
木照寺は天上二年(一五八三)池上氏の菩提 寺となり過去帳には池上少輔・久太郎・因幡の 三代の名があります。
墓は、池上氏代々の墓で、 雲雀城二之丸にあつたものを移したものです。
御調町教育委員会
御調町文化財保護委員会
open-hinataより【雲雀城】
余湖図【雲雀城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【雲雀城】
拡大図。
城の概要
最高所の郭は背後(南西側)に櫓台,堀切,堅堀を置いている。
櫓台から堀切の底までの深さは約頂上部の郭群は主に北から東を意識して郭を配置している。
丘陵先端部の神社・墓地となっており,郭は改変されているものと思われる。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
雲雀城跡 御調町市
御調川南岸、市の中心地の南西にそびえる雲雀山(三一 四メートル)の山頂に築かれた山城。本照寺山城とも称する。
北は御調川流域を俯瞰し、東側山麓の谷を石見路(赤名越、現国道一八四号)が南北に通じる。
最高部に本丸、その南に深さ約二〇メートル・幅約三メートルの空堀があり、北側に二の丸、二の丸の東側に帯曲輪、その東に出丸、出丸の北端に井戸曲輪があり、部分的に土塀も残る。
所伝によると、沼田庄地頭小早川春平の弟土倉対馬守夏平によって嘉吉三年(一四四三)に築城された。
明応年間 (一四九二~一五〇一)には三次から三吉氏が南下、当城には明応二年に三吉氏の家臣池上丹波守が城主として入り、 この地域を支配した。
「芸藩通志」は池上氏の菩提寺本照寺の過去帳に池上少輔・久太郎・因幡の三世の名がみえると記す。
天正一九年(一五九一)頃の毛利氏八箇国御配置絵図(山口県文書館蔵)の御調郡に、池上七右衛門が三二七・ 九六六八石の給地を有していることがみえるから、池上 氏は毛利氏の勢力下にぁって、市村付近を宛行われたと考えられる。
毛利氏の防長移封後は当城も廃城となった。
『広島県の地名』より引用。
雲雀城
雲雀城は、御調川によって開析された比較的広い沖積地を望む南岸の山頂部を利用して構築された山城で、その東側には甲山・尾道を結ぶ街道が眼下を通り、また、北側には府中・三原を結ぶ街道を望むことができる。
本城は、嘉吉三年、沼田本郷の高山城主で小早川氏の一族である土倉対馬守夏平が築城したと伝えられている。
築城から五十余年後の明応(一四九二~一五〇一)頃になると、この地域が三次市より南下してきた三吉氏によって抑えられ、本城には三吉氏の部将である 池上丹波守が入城した。
その後、池上佐渡守・同久太郎・同因幡守らの名が菩提所の本照寺の過去帳にあると『芸藩通志』にみえている。
その後、毛利氏の防長移封に伴い、廃城となった。
雲雀城の最高所にあたる本丸は、南端部分にあたり、その南に深さ二〇m、 幅三mの堀切が構築されている。
また、本丸の北側には二の丸が設けられ、北 端部分に土塁が築かれている。
その東側にも二段の郭があり、さらに井戸が設けられた郭がある。
『日本城郭大系』13より引用
城の歴史
嘉吉3年(1443):沼田庄地頭小早川春平の弟土倉対馬守夏平によって築城。
明応2年(1493):三吉氏の家臣池上丹羽守が城主として入り、この地を統治する。
天文13年(1544):旧主であった三吉広隆攻撃に牛皮城主森光(守光)氏や、丸山城主上里氏とともに尼子側として参加。
天正19年(1591):この頃毛利氏から池上七郎右衛門が約327石を賜っており、毛利家臣の1人となっている。
慶長5年(1600):関ケ原の戦いにて萩に転封し廃城となる。
城主家系図
土倉夏平は1代限り。
池上氏は家系的には不明であるが、上記のような世代と推測する。
城主(一族)石高
池上七郎右衛門
327.966.8石 備後 御調
雲雀城主だとは思われるが誰に該当するか不明。
所感
●城の遺構もしっかりと残っており見どころある、特に本丸からの景色は素晴らしい。
●池上氏が三吉氏の家臣として1493年この地にきたがどのように土倉氏を排除したのか疑問。
●本照寺の古墓が以前二の丸にあったということだが、城の中に墓があるということは、戦国時代には二の丸がどのように使用されていたのであろうか?
関連URL
近隣の山城。
参考URL
参考文献
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2022/05/01