城データ

城名:鍋谷城

別名:鍋谷山城

標高:312m

比高:150m

築城年:不明

城主:井原氏

場所:広島県広島市安佐北区白木町大字井原

北緯:東経:34.569002/132.677780

鍋谷城はここ

 

 

攻城記

井原氏居館跡。

石垣が立派。

後世のものかもしれない。

攻城開始。

馬場の壇

前方は土塁か。

躍の壇。

かなり広い。

城下の人々の集合場所だったらしい。

肥入れずの田。

馬稽古場。

涼み堂で墓地であったらしい。

竪堀。

こちらも竪堀。

第一郭三の段。

ため池もある、おそらく井戸の役割であった。

第一郭二の段。

第一郭一の段。

矢竹群。

土塁。

切岸。

石組跡。

戦国前期で大きな石垣ではない。

 

★井原氏について

井原氏の祖は、藤原鎌足十代の末、丹後の守、藤原保昌から出ている。

 

代々源氏の重臣として仕え、十五代惟真のとき、高姓を称し、室町(足利)幕府では執事となり、特に二十二代高師直、師泰、師茂、師久(のち師重)の四兄弟が、室町幕府(京都)を樹立した足利尊氏の軍事の右腕、左腕として功があった。

 

末弟師久の子高次郎氏教が、尊氏より安芸の国井原の庄をもらい、1336年頃、この地に地頭として来住した。

 

はじめ井原高氏教と名乗ったが、のち井原を姓とした。

 

これが井原氏の始祖である。

 

当時は、やはり地頭として西国吉田へ移住してきた毛利氏とは対等であったが、やがて毛利氏の幕下に入り、井原六代目元師に、毛利元就の妹竹子が室(妻)となり、一層緊密となり、当時、内陸部と瀬戸内を結ぶ重要な往還(中郡道)の固めの役割を果たした。

 

井原十代の元尚は、毛利家中随一の強弓の使い手で、各地の戦いで功を挙げ、その強大な弓と鏃は、厳島神社に奉納され、今も宝物として保存されている。

 

元尚は毛利の広島への転移のとき、輝元の命により広島城築城に腕を振るった。

 

また関ヶ原の戦い(1600年)の後、毛利氏の長州移封に従い、井原をあとに長州の「三丘」へ移った。

 

第二郭。

ふんばり石。

井原元尚がこの石でふんばり弓の稽古をしていたらしい。

山頂か臨む田園風景。

第三郭。

第四郭は井戸郭。

くり抜いている感じ。

鍋谷城全景。

 

open-hinataより【鍋谷城】

 

 

余湖図【鍋谷城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

『芸藩通志』【鍋谷城】

鍋谷山古城跡とある。

 

城の概要

L字型の1郭から西へ向けて大小四つの郭を階段状に並べている。

 

郭の随所に石垣がみられるほか、石組による井戸跡、建物を築いたと考えられる巨石群もある。

 

また、搦め手に当たる1郭の東側には、二か所の小郭と三条の堀切を配置している。

 

なお、「国郡志下調高田郡辻書出帳」に本城跡の縄張りについての記載があるのは注目される。

 

城主は、井原小四郎元尚と伝えられている。

 

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用

 

鍋谷城 鍋谷城跡安佐北区白木町井原

三篠川左岸、江地の鍋谷山にあり、「高田郡中聞書」に 「此城主井原小四郎と申し候、強弓引、此故に今に至而厳 島御宝蔵の宝物に御座候由、此山の麓土居と申屋敷跡御 座候」とある。

 

「城の高さ二丁四十間、面二丁五間」(高田 郡中聞書)と記され、平壇八つ、石壁などが今に残る。

 

山 腰に見張壇という所があり、ここに踊場とよぶ地三畝ほどがある。

 

城主の納涼所であったといわれ涼堂といっている。

 

また同所に観音を祀る小字や、井原小四郎の墓とされる古墓もある。

 

長さおよそ四〇間の調馬場や古井戸も残る。

 

城主井原氏は初め高氏を称したが、師重(初め師久)の時、井原村に下り鍋谷城を築いて移り住み、在地名によ って井原姓も用いるようになり、以後代々毛利氏の麾下に属した。

 

井原元師(少輔次郎、常陸介)の妻が毛利弘元の末女であったため毛利氏とは一層親密になった。

 

その子元造は鍋谷城を継いだが、三男某(兵部少輔)は近くの樋爪城に移った。

 

樋爪城は「日詰城」とも記し、「高田郡村々覚 書」に高さ一丁三〇間・周り一丁三八間とある。

 

樋爪城の近く般若谷は毛利元就と武田氏との合戦のあった地で、  武田氏の墓と伝える古墓がある。

 

字小曲の北田城は、城主は不詳であるが、井原一族のものであろう。同覚書に高さ十八間・周り二丁二〇間とある。

 

『広島県の地名』より引用。

 

城の歴史

●城が戦に使用されたかは不明であるが、戦国時代初期には毛利氏との婚姻関係もあり、「中郡衆」の中では頭1つ秀でたと思われる。

 

●廃城は関ケ原の戦い後だと思われる。

 

 

城主家系図

 

毛利家とも親戚である。

元良のあとは元以が継ぐ(元尚は毛利家の命令で周防国三尾に転封され苗字を三尾氏とする)

 

広島城築城当時井原氏の居住地

 

城主石高

井原大学(元以) 905.208石

【内訳】

704.836  備後 世良

100.016  備後 恵蘇

100.177  石見 邑知

 

井原彦右衛門(元良) 332.839石

【内訳】

208.184  周防  熊毛

100075   石見  邑知

16.080    安芸  高田

8500    安芸  山県

 

他に井原大六が200石 井原小六が200石の所領を賜っている。

 

所感

●中世国衆としてある程度の勢力を持っていたと思われる、毛利家との婚姻関係が飛躍につながったとも考えられる。

 

●城の造りもよく、立派で井戸は見ごたえがある。

 

●地元の郷土史家の方が精力的に活動しており、城の整備も行き届いている。

 

関連URL

【広島県】北田城【広島市安佐北区白木町大字井原】

【広島県】日詰城【広島市安佐北区白木町大字井原】

【広島県】戸石城【広島市安佐北区白木町大字井原】

井原氏ゆかりの城。

 

参考URL

城郭放浪記(安芸鍋谷城)

ひろしま探検ネット(鍋谷城)

安芸 鍋谷城跡(よしだっちの城跡探訪記) – 登山日記

井原元造(ウッキペディア)

井原元良(ウッキペディア)

井原元以(ウッキペディア)

open-hinata

 

参考文献

『白木町史』

『日本城郭大系』13

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』

『広島県の地名』

『広島県地名大辞典』

『安芸の城館』

『広島の中世城館を歩く』

『萩藩諸家系譜』

『毛利八箇国御時代分限帳』

『萩藩閥閲録』

公開日2022/01/29

 

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