城データ

城名:草津城

別名:田方城

標高:44m

比高:36m

築城年:不明であるが室町中期には築城されていたと思われる。

城主:新里氏、羽仁氏、児玉氏

場所:広島県広島市西区田方

北緯:東経:34.380920/132.399805

草津城はここ

 

攻城記

草津城全景。

登城口があるので分かりやすい。

ひたすら階段を上る。

眺望は良い、当時目の前は海であった。

曲輪跡。

本丸には石碑が建っている。

草津城址と児玉周防守就方の墓

草津城跡(城山)は山陽本線(1899年)と宮島線電車(1923年)の開通により三分された。

 

戦国時代には西は海老山、厳島、南は能美島、江田島、東は五箇荘(広島)、江波山、海田市も見渡せる重要な所であった。

 

草津城がいつごろできたかはっきりしないが、1456年(室町時代)武田信賢が草津城を攻め落とし、改築して城としての形が整ったといわれている。

 

その後、新里式部少輔(大内氏)→羽仁有繁(陶氏)→児玉周防守就方(毛利氏)→児玉就英→児玉元昌と城主が変わった。

 

関ヶ原の戦の後、毛利氏は長州に移り、福島正則が広島城主となると、正則は草津城下の山陽道に大門をつくり、広島の西の関所とし、草津城をこわしたといわれている。

草津城主であった児玉周防守就方の墓は小泉家の墓所にある。

 

苔むした古い墓(五輪塔)と後世に建てられたと思われる大きい墓が二つあるが、莵山にあった慈光寺の境内にあったものは古い墓ではないかと思われる。

 

児玉周防守就方は毛利氏の家来で船方奉行ともいわれ、また毛利水軍の将であったともいわれている。

 

就方は、厳島の戦(毛利元就と陶晴賢の戦)で毛利の船大将として手柄をたてて草津城主となった。

 

その後織田信長が石山本願寺を攻めたとき、毛利氏の水軍の将として就方の長男就英が軍船数百艘で、多量の兵糧米を石山本願寺(後の大阪城)にとどけたことで知られている。

 

就方は天正14年(1586年)74才で死亡し、その子「就英」が児玉家第二代の草津城主となった。

 

草津まちづくりの会

 

城内。

後年改変されているかもしれない。

思ったよりも城域は広い。

児玉就方の墓。

当時の墓と同じ形態をしている。

立派な墓である。

こちらは後世建立された墓。

 

城はJR山陽線と広電宮島線で区切られている。。

この線路はJR山陽線。

線路を敷設する為に山を崩す。

線路の向こう側も本来は城域。

 

 

草津八幡宮

歴代城主もこの草津八幡宮に参詣していたと思われる。

 

 

余湖図【草津城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

『芸藩通志』【草津城】

 

 

現代航空写真

線路で分割されているし、バイパスは通っているし、マンションまで建っている。

 

戦後航空写真

広電宮島線の南にも小山があることが分かる。

このことから、現在の城域は半分現存していないことが分かる。

 

 

城の概要

草津と田方にまたがる海を見渡す低い丘陵の上に築かれた山城。

 

城は尾根に沿って南北に3つの郭群から成り立っている。

 

瀬戸内海は古くからいろいろな荷物を積んだ船が行きかい、草津港は主要な港として栄えていた。

 

草津城は海上交通の要所や船を守る水軍の城だと考えられている。

 

今では周辺はすっかり埋め立てられているが、当時は城のすぐ下まで海が入り込んでいて、船着場があった。

 

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用

 

草津城 西区草津本町・田方一丁目

草津市街地の北部を占める標高五〇メートル余の小丘 にある。

 

旧山陽道を押え、広島湾の西部湾頭を扼する枢要の地にあたる。

 

築城年代は不詳。

 

羽仁家家譜(「閥閱録」 所収羽仁右衛門家文書)に「羽仁越前守有繁始右衛門尉、右安芸 国佐伯郡之内草津・己菱此近辺領知、草津居城仕候」 とあり、初め厳島社神領衆羽仁氏が居城した。

 

天文二三 年(一五五四)六月二八日付の毛利元就宛行状今閣閱録」所収 児玉惣兵衛家文書)に「草津要害」、同二四年正月七日付の 大内義長感状(お茶の水図書館蔵白井文書)に「草津城」、「芸 藩通志」に「田方城」と記される。

 

大永四年(一五二四)六月七日付の大内氏奉行人連署書状 (山口県文書館蔵)に「去年大永三以来令随逐弘中々務丞、於草津于今在城誠神妙之旨」とあり、同三年以前から城の あったことがわかる。

 

この頃大内氏の勢力がこの地に伸張し、在来勢力である友田興藤・武田光和の勢力と争った。

 

「陰徳太平記」の「大内勢取囲銀山桜尾両城」の項に 大永四年五月二〇日「多々良義興、同嫡子周防介義隆、 防長豊筑の勢三万余騎を引率して、防州山口を打つて出 で(中略)一手は義興自ら将として、一万余騎、同国草津、 二保島両城を攻め落」と記す。

 

また同六年七月九日付の大内氏奉行人連署奉書(山口県文書館蔵)によれば、同年七月五日にもこの地で戦闘があった。

 

天文二三年毛利氏は無血で城番羽仁氏を追下し、当城を手中にした。

 

前記の 毛利元就宛行状によれば、同年六月二八日付で「草津要害定番」が元就より児玉就方に申付けられており、以後同就英・元昌の三代が居城。児玉氏は毛利氏の水軍川の内衆を統率する将で、当城南にあたる草津湊は広島湾を警固する水軍の基地とされた。

 

慶長六年(一六〇一)毛利氏 の防長移封後廃城となった(佐伯郡誌)。

 

城跡は古江村と草津村にまたがり、草津村の「国郡志下調書出帳」には、草津村分の城跡として「古城跡壱ヶ所 高四拾壱間廻弐百四十二間(中略)此古城跡古江村 古城跡江引続御固メ之場所ニ御座候」と記す。

 

現在は近世以来の干拓によって海浜から隔るが、往時は丘陵が海中へ岬状に突出し、西側は深い入江となって船着場とされていたといわれ、水軍基地としての典型的な姿を示していたと考えられる。

 

城跡は現在国鉄山陽本線と広島電鉄宮島線によって三分される。

 

北にある標高四〇メート ル余の地は本城のあった所で、その主要部分は畑地とな り、南の部分は住宅化している。

 

しかし山陽・宮島両線 に挟まれた標高二〇メートル余の地は、小丸とよばれる望楼の役目をもった郭の遺構が比較的よく原形を保っている。

 

当時の山陽道は本城と小丸の間を横断して通っていたと思われるが、その往来を監視するための大門が設けられた。

 

跡地は草津本町の側の山陽本線の場所と推定され、 「国郡志下調書出帳」は村内小字として「大門」を載せ、 「古城跡麓往還筋地名大門学申、御在城之砌御固之大門御 座候処、慶長年中之頃毛利様長州江被成御座候後右大門 御解崩ニ相成、門臂坪金具類御作事所ニ納申候由」と記す。

 

現在、同町小泉氏宅に大門の扉に用いられたという鉄製の肘壺が保存されている。

 

城の歴史

康正2年(1456):武田信賢によって攻められ落城する。

 

長録元年(1457):大内氏に攻められ落城する。

 

天文22年(1553):毛利元就に攻められ落城する。

 

城主家系図

児玉元昌も3代目の城主となっているが、1589年頃に毛利輝元が児玉就英に草津の明け渡しを要求して承諾しており、転居しているので、厳密には元昌は城主になっているか不明。

 

城主石高

児玉就英(内藤太夫) 257.735石

【内訳】

35.440石    備後 恵蘇

122.295石      備後 神怒

100.000石     石見 邑知

 

児玉元昌(与平次) 100.420石

【内訳】

50.002石      石見 那賀

50.148石       周防 熊毛

 

因みに羽仁就智も毛利家の家臣となって所領を得ている。

羽仁就智(右衛門)  100.855石

【内訳】

26.240石      周防 都濃

64.125石    備後 芦田

10.490石                備後 神石

 

 

所感

●現在は市街地化されている分からないが、当時は海が迫っており岬に突き出した海城であった。

 

●城の比高も高く、攻めにくい印象をうけるが、3回落城している。

 

●もともとは厳島神領衆の一員であった羽仁氏が管理したと思われる。

 

●新里式部少輔の情報がないので不明、新里といえば新里宮内少輔が厳島合戦の頃活躍しており、同一人物か先祖ではないかと思われる。

 

関連URL

【広島県】己斐新城(平原城)【広島市西区己斐中】

【広島県】水晶城【広島市佐伯区五日市町大字石内】

【広島県】桜尾城【廿日市市桜尾本町】

毛利氏が陶氏に叛旗を翻した時に僅かな期間で攻め取った城。

 

参考URL

草津城発掘調査報告(1983年3月) 広島市教育委員会

草津城(ウッキペディア)

城郭放浪記(ウッキペディア)

羽仁有繁(ウッキペディア)

児玉就方(ウッキペディア)

児玉就英(ウッキペディア)

 

参考文献

『日本城郭大系』13

『広島県の地名』

『広島県地名大辞典』

『安芸の城館』

『広島の中世城館を歩く』

『萩藩諸家系譜』

『毛利八箇国御時代分限帳』

『萩藩閥閲録』

公開日2022/01/16

 

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