城データ
城名:日詰城
別名:樋爪城,樋詰城
標高:270m
比高:108m
築城年:不明
城主:樋爪氏
場所:広島県広島市安佐北区白木町大字井原
北緯:東経:34.588980/132.672328
攻城記
日詰城全景。
光福寺跡。
麓を臨む。
登っていく。
斜面は急ではない。
犬塚
日詰城のあたりは当時草山であり、いつも城主の樋爪殿が可愛がっていた犬をつれて散策されていました。
堂ケ尾とよばれていた所でしばしお休みになられていたところ、突然大口縄(大蛇)が現れ樋爪殿に飛びかかろうとしました。
愛犬はこれを見るなり殿の危機とばかり殿の体を飛び越えてこの大口縄を殺そうとしました。
ところが、殿は愛犬が自分を襲ってきたと思い、この愛犬を切り殺してしまいました。
しかし、襲ってきた大口縄から愛犬が自分を救おうとしていたことに気がつき、深く悲しみ墓をたて僧を招いてその霊をなぐさめたといわ
れています。
そして墓とともに一本の松が植えられました。その後、この場所を犬塚といって長く伝えられてきました。
参考文献「国郡志御用二付下志ら遍帳」
尾根に到着。
本丸。
本丸周辺部。
城主樋爪氏は早くから井原に居城を持った小領主で、鍋谷城主井原元帥の子兵部小輔四郎兵衛が養子となり毛利・尼子の郡山合戦で郡山城下大田口で討死(1540)し絶えたといわれる。
鎌倉時代(文永年間)に新宮神社の社殿を再建したと伝えられる。
本城址は三篠川と栄堂川の合流点を見下ろす丘陵上に位置し、郭は二段に造られた主郭から東に延びる尾根上に一つ、南へ延びる尾根上に三つの郭を置き、南東斜面側に二つの小郭を配置している。
また主郭背部は堀切を隔てて大小4つの郭を置いている。
参考文献「山城」「日本城郭体系」
生憎の霧で麓は分からず。
天正九年と読める。
土塁。
竪堀。
よく分からない石碑
位置関係
open-hinataより【日詰城】
余湖図【日詰城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【日詰城】
城の概要
本城跡は、三篠川と栄堂川の合流点を見下ろす丘陵上に位置する。
郭は、二段に造られた1郭から東へ延びる尾根上に一つ、南へ延びる尾根上に三つの郭を置き、南東斜面側に二つの小郭を配置している。
また、1郭背部は、堀切を隔てて大小四つの郭を置いている。
城主については樋爪氏と伝えられている。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
城の歴史
文安年間(1444~49):この頃井原村の新宮神社(高山八幡宮)を井原村の城主樋爪氏が再建するとある。
16世紀初め:井原元師の三男である井原四郎兵衛が樋爪氏の養子となる。
天文9年(1540):毛利、尼子の郡山合戦にて城主の樋詰兵部少輔四郎兵衛が討死して樋爪氏が断絶する。
城主家系図
井原元師の三男が樋爪氏に養子に行く。
義理の叔父が毛利元就になる。
樋爪氏
樋爪氏
天年九月十二日郡山城外大田口の合戦で井原の樋爪が討死した。
兵部少輔とも四郎兵衛ともある (井原村)が実名は不詳である。
井原元師の三男であった。 樋爪氏は徳受の新宮明神を深く信仰していて、鎌倉時代の文永の頃社殿を再建したといわれるから、その真偽は別にしても、早くより井原村に居城を持っていた小領主であろう。
城跡を日詰城といい、山城の高さ三町、周 で、壇数三と国郡志郡辻書出帳に見えている。
樋爪氏が亡びて明き城になっていたのに井原氏の子弟が入って樋爪氏を称したのか、樋爪氏と井原で 縁組が成立して井原氏の子弟が樋爪を嗣いだのか不明であるが、樋爪氏は兵部少輔に始ったのではないようである。
しかし樋爪氏は兵部少輔の討死によって絶えた。
『白木町史』より引用。
所感
●井原村には井原氏だけでなく、樋爪氏もおり中世の村落には複数の土豪がひしめき合っていたことが分かる。
●城の造りは戦国時代初期の様相を呈している。
●山頂には石碑が建っていたが、天文九年と彫ってあり、後世に設置されたものだと分かるが、地元に方にも認知されていた証拠になる。
関連URL
井原氏ゆかりの城。
参考URL
参考文献
『白木町史』
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『安芸の城館』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2022/01/29