城データ
城名:尾高城
別名:小鷹城、泉山城
標高:46m
比高:20m
築城年:鎌倉時代には館が成立していたか
城主:行松氏、吉田氏、杉原氏。
場所:鳥取県米子市尾高
北緯:東経:35.421722/133.410976
攻城記
「シャトー・おだか」のある場所が「天神丸」であった。
戦国時代以前の五輪塔。
ここが当初から館があった場所か。
土塁で固められた空間。
堀で切られている。
中の丸。
土塁。
ここに山中鹿介が幽閉されていたが、腹痛を偽って逃げたのは有名な話。
麓を除いてみる。
一番最初の区画(南大首郭)が堀切の向こうに見える。
米子市指定史跡
尾高城跡
ここは、中世の東西交通路をおさえる西伯耆の軍事上の中心地であった。
城郭は、鎌倉時代から築かれたようであり、室町時代山名氏支配下では、城主は行松氏が、尼子氏が進出すると城主は、吉田氏が、16世紀後半になって毛利氏支配下時代には、杉原盛重が城主であった。
江戸時代初期、米子城築城によってこの城は廃城となった。
城跡は、北から二の丸・本丸・中の丸・天神丸・後方の館跡など8つの郭があって、堀や土塁で守られ、平常の生活を営む館と城とが繋がっている中世の城郭遺跡である。
尼子回復戦のおり、尼子の勇将山中鹿助が囚われ、この城にいたとき、腹痛といつわって汲み取り口から脱出したという物語は有名である。
米子市
再度元の場所に一旦戻る。
本丸に進んでいく。
この上が本丸。
登り口を探す。
本丸に到着。
本丸土塁。
本丸部分は長大でしっかりと削平されている。
麓は急峻になっている。
二の丸。
石垣が見受けられる。
土塁。
先端部分。
戻る。
これも当時石垣の一部であったのであろうか。
余湖図【尾高城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
西及び北側は比高20mの崖段を利用し、大山山麓に続く東側は堀と土塁で防備を固めて居住域と戦闘拠点が一体化しており、北から二の丸、本丸、中の丸、天神丸、背後に越の前、城主館、南大首などの郭を配している。
各郭は堀切、土塁によって区画・独立している。
城主館は土塁で囲まれた方形館跡である。
南に接する南大首地区には発掘調査で掘立柱建物跡が確認され、在地領主の館跡と推定される。
西伯者の代表的な中世城館。
13世紀中に築城され、米子城完成後の慶長6(1601)年に廃城したと伝える。
昭和52年市指定史跡。
『鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)』より引用。
尾高城
西伯者の交通上の要地にあった尾高城は、 早くから有力な勢力が拠点としていた。
すな わち、戦国時代には豪族行松正盛が居城としていたが、大永四年(一五二四)五月の尼子経久の伯耆侵攻、いわゆる「大永の五月崩れ」により当城も尼子氏の手に帰し、 行松氏は逃れて毛利元就に属した。
そして、当城は尼子方の吉田光倫が在番するところとなった。
ついで永禄五年(一五六二)、毛利元就が尼子氏の支城である白鹿城を攻撃し た時、行松氏はこれに従って尾高城を回復した。
流浪三八年目のことである。
しかし、同七年、行松正盛が病死したため、毛利氏は杉原播磨守盛重を伯耆経略の重責を与えて尾高城に配した。
毛利軍の包囲の中で追いつめられた尼子勢の決死の反攻は、この頃活発となり、現在残っている遺構も、この頃のものが 大部分を占めていると推定されている。
永禄九年、尼子義久が降伏し尼子氏は没落したが、戦いは天正九年(一五八一)、杉原盛重が八橋城で病死するまで続けられた。
重盛亡きあとの尾高城は盛重の長子の元盛が継いだが、同十一年、弟の景盛との内紛がもとで元盛は暗殺され、景盛も翌年自刃を命ぜられ、二十年間続いた杉原氏時代は終わった。
その後、毛利氏の重臣吉川元春が居城したが、慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原 の戦で豊臣方に属して敗北したため、その後は米子城主中村伯蓄守一忠の領地 となった。
中村一忠は、米子城が前城主吉川広家により構築の途中であったため、米子城が完成するまで、一時、当城にいたといわれている。米子城完成と 同時に中村一忠は米子に移り、尾高城下の町人も強制的に米子城下に移転させられた。
尾高城の石垣もこの時に取り壊されたといわれる。
なお、『伯耆民談記』『伯耆志』や『中村記』などには、米子城は尾高城を移 築したものとある。すなわち、『伯耆民談記』の巻七には「或説に、当城は小鷹の城を転じて此地へ移すと言ひ、又、倉吉打吹山の城を此地へ引移せるなり と言ふ。久米の城と名つくるは其故なりと云々」とあるが、中村一忠が米子城 完成まで一時的に当城にいたとすることから考えると、尾高城の米子移転説には疑義が生じるといえよう。
『日本城郭大系』14より一部引用。
尾高城 米子市尾高
東伯耆と日野郡・出雲国方面をつなぐ西伯者の交通の 要地に位置する当城は、一四世紀以後山名氏の砦となっ たと思われる。
当城には有力被官の行松(幸松)氏が配されていた。明応(一四九二~一五〇一)初め頃の状況を記した とみられる「大館常興書札抄」には、守護山名尚之の被官伯州衆の一人として幸松八郎・同五郎二郎の名がみえる。
大永四年五月尼子経久の伯耆侵入により城主行松正盛は敗走したといい、尼子方の将吉田筑後守が城主とな ったとされる(伯耆民談記)。
その後永禄年間(一五五八~七 〇)にかけて当城の確保をめぐって、尼子氏と伯耆への侵出を謀る毛利氏との間で合戦が繰返された。
永禄五年三 月一日には尼子方の赤穴久清に対し、国が無事の時は泉山普請は知行分で行うべきだが、合戦の際は尼子氏よりも援助を与えると申渡されており、当時城は尼子方に属していたことになる(「尼子義久袖判同氏奉行人連署書状」閥閲録)。
だが同年毛利氏の力添えにより旧城主行松正盛が奪回したともいわれる(森脇覚書)。
翌年にも泉表では毛利氏と尼子方の合戦があり(七月二一日「毛利元就書状」関閣録)、 七月頃には当城と河岡城一帯に尼子方が迫ったため、毛利氏は泉・河岡両城を失うと伯耆すべてを失うとして援軍を命じている(七月二三日「毛利元就書状」同書)。
永禄七年には行松正盛が死亡し、当城には杉原盛重が 入った(陰徳太平記)。
杉原氏は元来備後神辺城(現広島県神辺町)城主で、盛重は毛利元就・吉川元春に属して永禄五年頃から伯耆各地で尼子方の軍勢と戦った。
天正一〇年 (一五八二)まで盛重・元盛の二代にわたって在番として当城に拠った。
盛重は永禄一〇年三月二二日日下瑞仙寺に 対し寺領安堵の寄進状(瑞仙寺文書)を与えていることなどから、西伯耆の支配を毛利・吉川両氏からゆだねられて いたと推定される。
なお杉原氏在城の間、当城の名はしだいに尾高(小鷹)と呼ばれるようになったとみられる。
元亀二年(一五七二)二月七日、尼子勝久・山中幸盛方に属 する平野久基が東方の浄満原に夜討をかけ、城下に火を放った。
杉原勢七〇〇騎は城を出て戦い、尾高城を死守したという(陰徳太平記)。
同年七月八日吉川元春は「尾 高」に在陣したのち八橋城(現東伯町)へと向かっており (七月一一日「吉川元春書状」閥閱録)、同年八月伯耆は吉川氏 の支配下に入った。
吉川氏の因幡進出の間の天正七年には毛利方に通じた大田垣輝延の息勘次郎が当城に預けられている(同年七月二七日「吉川元春外四名連署状案」吉川家文 書)。
天正九年一二月盛重は八橋城で没し、元盛が家督を継いだ。だが同一〇年家督をめぐる対立から元盛は弟景盛に殺害され、同年佐陀城(現淀江町)に拠ったとみられる景盛は毛利方に攻略されて斬られたため、尾高城主杉原 氏の西伯耆支配は終わった。
当城にはその後吉川元春の部将吉田肥前守が在番した(「陰徳太平記」など)。
天正二〇年朝鮮への出陣を前に毛利輝元は、守りを固めるべき吉川氏留守居の城として「小田加」などをあげており、依然として西伯耆軍事上の要地であった(同年正月一 利輝元条々写」武田金三氏所蔵文書)。
慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の合戦後、伯耆一国を与え られた中村忠一(一忠)は、居城と定めた米子城が完成するまでの約一年間当城に在城したという。
米子城完成後 尾高城は放棄され、城下の人々の一部は米子城下へ移った。
城の歴史
鎌倉時代:この頃城館ができたと思われる。
大永4年(1524):尼子経久による伯耆国侵攻(大永の五月崩れ)にて落城、城主の行松正盛は城を捨てて毛利を頼り国外に逃げる。
尼子方は城番として吉田光倫を置く。
永禄5年(1562):毛利氏が侵攻して攻略する、尾高城は元の城主であった行盛政盛が返り咲く。
永禄7年(1564):城主の行松正盛が病没して、毛利家家臣の杉原盛重が城主となる。
※この時正盛の妻を娶り、子どもも養育したとある。
永禄9年(1566):尼子氏滅亡する。
永禄12年(1569):尼子氏再興軍の山中幸盛により一時的に城を奪われる。
元亀2年(1571):2月尼子氏残党が当城を攻めるが、杉原盛重により反撃され敗走する。
6月吉川元春の捕虜となった山中幸盛が当城に監禁されるが、赤痢を偽り番兵を偽り逃亡する。
天正9年(1581):杉原盛重が八橋城にて病没する、家督が長男の元盛へ譲られる。
天正10年(1582):杉原元盛の弟である景盛が兄を毒殺して城主になる、しかし、毛利氏に攻められ自刃する。
※城主は鴫原盛重の娘婿である吉田元重が城番となる。
慶長6年(1601):関ケ原の戦いで毛利氏は転封し代わりになかむら一忠が入部する、米子城がまで完成していなかったので尾高城に居住する。
城主家系図
杉原盛重の子ども等は母親が不明。
行松正盛が亡くなった時に妻が杉原盛重の後妻となり遺児も面倒みたとある、そうなると、その後の城主は行松正盛の子どもや婿らが城主となったこととなる。
城主石高
杉原景盛時代に7000貫あったと伝わる。
所感
●城域は広いが、若干の比高がある程度の土地で、守るには難しい場所かもしれない。
●山中幸盛の伝承も一時的にこの城を支配下にしており城の内部構造をしっかり把握しているから出来たと思う。
●城内には石垣がほとんどなかったが、米子城に移転したとあればうなづける。
関連URL
杉原盛重ゆかりの城。
参考URL
尾高城 -伯耆の城ー
【伯耆】 尾高城|伯耆古城図録|しろ凸たん ~伯耆国古城 …
参考文献
『鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)』
『日本城郭大系』14
『鳥取県の地名』
『鳥取県地名大辞典』
公開日2021/12/19