城データ

城名:亀井山城

別名:生山城

標高:470m

比高:180m

築城年:不明

城主:日野山名氏、久代宮氏(日野氏)

場所:鳥取県日野郡日南町生山

北緯:東経:35.165838/133.325599

亀井山城はここ

 

 

攻城記

亀井山全景。

このような山に道も無いのによく行くと思う。

麓に看板があるのみ。

登城口などない。

ちょっと入ってみたがこの有様。

このような状態で山頂まで行くと思うと気が滅入る。

諦めずにく直登する。

苦しいがこのような場所をひたすら直登する。

しかし、山頂に近づくとこのような石垣が数多くあり感動を覚える。

来た甲斐があるお城。

これを見れば疲れも吹っ飛ぶ。

たまらない石垣。

曲輪はこのような感じ。

石垣の崩落も見受けられる。

算木積みのような印象をうける。

城域は広くしかも平坦。

高いところでは3m位の高さの石垣になっている。

これは石垣かどうか不明。

川が天然の堀の役割をしている。

 

余湖図【亀井山城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

城の概要

頂部に構えた主郭は周囲を石垣で囲む。

 

南側は狭長な郭が二段みられ、それぞれの間を堀切で区画する。

 

主郭の北、東西側に取り付く腰郭も主郭と同様、石垣状の遺構が見られる。

 

東側の郭群は狭長な尾根筋に沿って東側の尾根にいったん展開し、やや間隔を開け、尾根の形状に沿って郭を連綿と築く。

 

『鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)』より引用。

 

亀井山城

亀井山城は日南町生山の「城根」の、西に日野川、南に石見川を見下ろす山上にあった。

 

北東を大手とし、山頂には「長十七間(約三一m)、横十二間(約二二m) 」と「長二十六間(約四七m)、横八間(約一四m)」などの平地が山の稜線に沿って十か所あり、南側には堀切の跡もみられる。

 

亀井山城の創建の年代ははっきりしない。『伯耆志』は、里人の口碑では天正年間(一五七三~九二)に吉川広家が在城ののち山名和泉守景行が在城したと いうが、同じく天正の頃、久志路和泉守景行が在城していたとしている。

 

その論拠としては、『伯者民談記』に「久志路和泉守景行」の名がみられ、久代(久志路)氏は備後国西条の城主宮氏の別称で、宮氏は天文年間(一五三二~五五)。 毛利氏に従って日野郡多里宿に来住していたことを挙げている。

 

しかし、『萩藩閥間録』には「日野郡生山城主山名藤幸」の名がみられ、また『日野郡史』にも、日南町宮内の神宮寺は「生山城主山名和泉守数行か宮重寺・真台寺・海蔵寺を併合して、天正六年、新に金光山不動院神官寺を再建し て、寺領弐百石を寄進した」とある。

 

後、慶長五年(一六〇〇)、伯者一国は米子城主中村一忠の所領となったが、同十四年、中村氏は断絶し、 十五年、伊勢亀山の城主関長門守一 政が日野郡など五 万石の領主となっ て鏡山城(日野町 黒坂)に入部した。

 

しかし、鏡山城完成の同十九年まで、関一政は当城 に拠ったといわ れ、鏡山城完成の のち当城は廃城となった。

 

『日本城郭大系』14より引用。

 

 

生山城跡 現日南町生山

日野川右岸の亀井山(四七〇メートル)山頂にあった城。

 

西に日野川、南に石見川を見下ろす要衝の地に位置し、 亀井山城ともいう。

 

「伯耆志」は里人の伝承により、天正年中(一五七三~九二)吉川広家が在城、のち山名和泉守景清(伯耆民談記」は久志路大和守景清とする)の居城となったとするが、伯耆国守護山名氏の嫡流日野山名氏の居城であったと考えられる。

 

永禄二年(一五五九)と推定される冬には山名藤幸が毛利氏に人質を差出しているが(一一月二 日「毛利元就書状」閥閣録)、これは尼子氏に通じているのではないかとの疑いを晴らすためと思われる。

 

同五年と推定される六月一八日の毛利元就・同隆元連署書状(同 書)によると、尼子氏の手に落ちていた「日野本城」を藤幸の働きで毛利方が奪還したが、これは当城のことであろう。

 

同六年尼子氏による河岡・尾高両城(現米子市)への攻撃に対し元就は藤幸に両城近辺への出陣を要請し、手薄となる日野郡へは上原豊将を派遣するよう小早川隆元 に命じている(七月二三日「毛利元就書状」同書)。

 

この場合の上原豊将派遣は当城への入城を意図したものと考えら れる。

 

同七年八月には毛利方の杉原盛重が尼子方の江尾城(現江府町)の城主蜂塚氏を滅ぼしたが(同年九月一六日「杉原盛重感状」三吉鼓文書など)、同年と推測される毛利元就書 状(閥閲録)などによると、山名藤幸は毛利方に背いた日野衆として蜂塚氏を助勢したが、その養子景幸の実父で毛利氏家臣の宮景盛に討たれた。

 

そのため景幸は山名氏を 継いで当城主となり、相続後に姓を日野と改めている。

 

慶長一五年(一六一〇)関一政が伊勢亀山(現三重県亀山市)から当地に五万石で移封され、同一九年の黒坂鏡山城(現日野町)築城までの五年間当城を居城としたが(今伯州黒坂開 元記」山上家文書など)、以後廃城となったとされる。

 

享保 一一年(一七二六)の「因伯地理志」によると、城は西面 し、本丸は南北八間・東西四四間、古井戸の水は涸れて おらず、二の丸は東西六間・南北四〇間、本丸・二の丸 の周囲一一町四〇間。同一九年の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」には、城に高さ八尺のモノヨヒ岩という大岩があ ったと記される。

 

付近にはかつての城下をしのばせる地 名として後藤屋敷・毛嶋屋敷・戦屋敷・築地ノ内などがある。

 

『鳥取県の地名』

 

城の歴史

天正年間(1573~92):この頃に吉川広家が在城とあるが、その支配下で城代は別の人物だと思われる。

 

永禄2年(1559):山名藤幸が毛利に人質を出すとあるので、当時尼子から毛利についていたものと考えられる。

 

永禄5年(1562):尼子の手に落ちていた「日野本城」を藤幸の働きで毛利方が奪還した。

日野本城は亀井山城のことだと思われる。

 

永禄6年(1563):尼子氏のいる河岡・尾高両城への攻撃に対し元就は藤幸に両城近辺への出陣を要請する。

手薄となる日野郡へは上原豊将を派遣するよう小早川隆元 に命じているが上原豊将派遣は当城への入城を意図したものと考えら れる。

 

永禄7年(1564):日野衆の1人であった蜂塚氏が毛利から尼子に離反した時に山名氏も蜂塚氏に味方し養子である景幸の実父である宮景盛るに討たれる。

後に宮景幸は山名氏を継いで山名景幸となるが在地名をとって日野景幸となる。

 

慶長5年(1600):関ケ原の戦いで毛利氏が転封し代わりに中村一忠が伯耆国に入部する。

 

慶長14年(1609):中村一忠死去し改易となる。

 

慶長15年(1610):関一政が統治に5万石で入部する、黒坂鏡山城の築城に着手するが築城までの5年間が当城を居城とし以後廃城となる。

 

 

城主家系図

 

宮景幸は近隣だから山名藤幸の養子となったというよちも、自分の祖母が山名出身だったため、親族として養子になった可能性もある。

 

実父の宮景盛と山名藤幸は従兄弟の関係ではなかったか。

 

城主石高

日野景幸時代:1,000.163石

関一政時代:5万石。

 

所感

●この地域でこのレベルの石垣のある城は珍しい、関一政が鏡山城を築城するのと同時にこの亀井山城も整備していたのかもしれない。

 

●現在登り口がなく、山頂まで行くのは困難であるが、行った時の感動は素晴らしいものがある。

 

●日野山名氏は本来であれば山名師義の長男であり伯耆山名氏を継ぐはずであったが、なぜか日野山名氏になった。

 

 

関連URL

【鳥取県】鏡山城【日野郡日野町黒坂】

関一政が亀井山城の後に移った居城。

【鳥取県】尾高城【米子市尾高】

永禄6年(1563)に山名氏は尼子氏がいた尾高城を攻めている。

 

参考URL

生山城(ウッキペディア)

城郭放浪記(伯耆亀井山城)

山城攻城日記(亀井山城)

山名藤幸(ウッキペディア)

日野景幸(ウッキペディア)

 

参考文献

『鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)』

『日本城郭大系』14

『鳥取県の地名』

『鳥取県地名大辞典』

『毛利八箇国御時代分限帳』

『萩藩諸家家系譜』

公開日2021/12/19

 

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