城データ

城名:松崎城

別名:松ケ崎城、亀形ヶ鼻城

標高:20m

比高:15m

築城年:不明

城主:小森氏、進下総、河毛備後守

場所:鳥取県東伯郡湯梨浜町松崎(桜小学校内)

北緯:東経:35.476579/133.904029

松崎城はここ

 

 

攻城記

看板。

松ヶ崎城址

またの名を亀形ヶ鼻(きぎょうがさき)城といい、羽衣石城主南条氏の与力(侍大将)である小森和泉守方高(まさたか)が、天正年代居城していた。

 

この時代は織田信長が羽柴秀吉に毛利氏を攻めさせていた時代で、この二大勢力にはさまれて土地の武士は複雑な戦いに巻き込まれていた。

 

小森和泉守は、南条方を離れようとして、進ノ下総免之に攻められ、討ち取られたのが天正8年9月(1580)であったと伝えられている。

その後進ノ下総が城主となったが、南条氏が関ヶ原合戦で参加して敗れ、その後は羽衣石城とともに壊されてしまった。

 

当時の石垣に使われた石が、桜小学校の建設の時、沢山出てきたのでその石によって築いてある石垣が、この説明板後方の石垣で、割れ口の一部に、くさびのあとが残っている。

昭和61年7月1日

 

創立30周年記念事業推進委員会

 

山頂からの風景、東郷湖がみえる。

現在は改変されており遺構は残っていない。

唯一の遺構は矢穴のある石垣の残骸。

若干往時を偲ぶことができる。

 

ここも当時は曲輪があったか。

遺構はどうか不明。

松崎城矢竹。

現在は桜小学校になっている。

 

完全に改変されている。

周辺の竹林。

 

余湖図【松崎城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の概要

東郷湖を足下に望む低丘陵頂部に位置し、現在は小学校敷地内となっている。

 

郭の配置等は明確ではないが、南条氏配下の小森和泉守方高の居城と伝えられる。

 

その規模は、推定南北150m、東西200mにもおよぶ。

 

『鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)』より引用。

 

松崎城

松崎城は東郷町松崎の東北の丘陵上にあったが、南条氏の麾下小森和泉守方高の居城であった。

 

天正八年(一五八〇)、南条元続が毛利氏の攻撃を受けて羽衣石城に立て籠もった時、小森方高も共に籠城した。

 

元来、方高は堤城の山田出雲守重直と親交 があったので、前年、重直が主家との不和から討たれて以来、なんとなく心にそまぬものがあった。

 

八橋の尾高城の杉原元盛はこれを察知して小森氏に使者を送り、味方に付くように勧めた。

 

方高もやがて同意し、毛利方に味方する手初めとして小鹿谷の上山を固め、 進下総の陣所に夜討ちをかけて功労をたてようとはかった。

 

ところが、方高の 部下に進下総と親交のある者がいて、この密計を下総に注進した。

 

このことは やがて羽衣石城にも上申され、内談は一決し南条方も下総に加勢することにな った。

 

謀が漏れたとはつゆ知らず、方高は九月二十日の夜、二百余の軍兵を率い て攻撃しようとした時、進下総が逆に急襲してきたので、寄せ手はさんざんに 討たれ、百余人が討死した。

 

和高も、別所谷の知行所で討ち取られた。

 

その後、当城は進氏が守っていたが、慶長五年(一六〇〇)の関ケ原の戦のの ちに南条氏が滅亡した時、当城も羽衣石城と共に破却された。

 

『日本城郭大系』14より引用。

 

松崎城跡 東郷町松崎

松崎の北方、現在桜小学校がある台地上に所在したと される。

 

「伯耆民談記」によれば、南条氏の家臣小森和泉 守方高が居住したという。

 

天正九年(一五八一)五月一五日 の南条元続安堵状(山田家文書)に「自松崎敵罷出候」とみえ、羽衣石城主南条氏救援のため兵糧を搬入しようとす る上勢(織田信長勢)に対し、当地から出撃した毛利勢が攻撃している。

 

天正末年、進下総守が城主になり、慶長五 年(一六〇〇)まで居城したという。「伯耆民談記」には「天正の末東郷山公事ありしに、守護進ノ下総免之と書き たる裁許状、今に到つて伝はれり」とみえる。

 

慶長六年 中村忠一(一忠)の一族河毛備後守が当城に拠ったといい、 宝暦三年(一七五三)頃の河村郡村々明細帳(近藤家文書)の松崎町の項にも古城の城主として同人の名がみえる。

 

元和 (一六一五~二四)の一国一城令により廃されたとみられる。

 

城の歴史

天正年間(1573~93):このころ小森和泉守方高が居住する。

 

天正8年(1580):南条元続が毛利に叛き羽衣石城に立て籠もった時、小森方高も共に籠城する。

しかし、この頃、毛利に寝返ろうとして南条氏に討たれる。城主は進下総になる。

 

天正9年(1581):秀吉が御冠山に陣取った当時の松崎城主は小森木工允に変わっている。「陰徳太平記」

 

慶長5年(1600):関ケ原の戦いで進氏(小森氏)が改易し代わりに中村氏の家臣である河毛備後守が当城に拠る。

 

元和年間(1615~24):一国一城令にて廃城される。

 

所感

●現在は旧桜小学校になっており往時の姿は想像できない。

 

●唯一、城の石垣の一部が残っており、矢穴などから往時が偲ばれる。

 

●東郷湖に突き出た丘陵地に築城されており、見張りの役割もしていたのかもしれない。

 

関連URL

【鳥取県】羽衣石城【東伯郡湯梨浜町大字羽衣石 】

主家である南条氏の城。

 

参考URL

城郭放浪記(伯耆松崎城)

西国の山城(松崎城)

【伯耆】 松崎城|伯耆古城図録|しろ凸たん ~伯耆国古城 …

山城攻城日記(松崎城)

 

小森氏について参考URL

東郷町誌(毛利氏の東伯耆支配と南条氏)

ある戦国武将の生き様から因伯の戦国時代をみる(第12回)

 

参考文献

『鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)』

『日本城郭大系』14

『鳥取県の地名』

『鳥取県地名大辞典』

公開日2021/12/18

 

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