城データ

城名:江美城

別名:江尾城、

標高:180m

比高:40m

築城年:文明年間(1469~87)

城主:蜂塚氏により築城、後に毛利氏,矢野正倫

場所:鳥取県日野郡江府町江尾字城の上

北緯:東経:35.282194/133.486698

江美城はここ

 

 

攻城記

JR江尾駅から登ってくると最初にこの辺りに到着する。

きっとここも曲輪であったと思われる。

屋敷もあったかもしれない。

まずは模擬天守を確認。

施錠されており中には入れない。

史蹟江美城趾

 

城本丸、二の丸、西の丸、東福、八幅丸、人研、 西門坂、馬場、抜ヶ穴、水穴、犬走り、乾堀

 

伯蓄国江美城は、蜂塚氏初代の城主、安房守によって開創 され、文明十六年(一四八四)と伝えている。

 

江美城は、自来、二代三河守、三代丹波守、四代右衛門尉と、 八十有余年にわたって、つづく動乱の時世に処し堅固な要害と、有力な武力を保有し殊に城下領民を育て、鉄山と 技術を家業とする、和戦兼備の特色ある蜂塚氏一門の居城で あった。

 

尼子毛利の攻防つづく中で毛利の軍議は、江美城蜂塚氏一 門の鉄の技術集団攻略を先発するに決し毛利の副将吉川元春は、軍勢三千に鉄砲隊を差し向け、その来配を杉原盛重に命じた。

 

この日あるをかねて覚悟の城主蜂塚右衛門尉は、この大軍 をむかえ討ち、奮戦敢斗死力をつくすも衆寡敵せず、遂に自 ら城間炎上を命じ、割腹して城と運命をともにしたのであっ た。

 

城主の壮烈な自刃のさまを見て、家臣郎党ことごとく城主の後を追い、江美城は、ここに落城したのであった。

 

時に永禄八年(一五六五)八月六日、朝まだき刻であった。 「弱キヲ捨テ、強キニ附カンコト、禽獣ノ心トヤ云ウベシ」 と断じ、吾れと吾が一門の安泰をかなぐり捨て、武人の友情と節に殉じた、稀代の武将であつた。

 

里人たちは、この哀しき宿命に果てた城主や家臣の霊を弔 い、又、江美城中で催されて来た盆の十七夜踊りの思い出を 秘めて、くる年も、くる年も踊り伝えて五百年の歳月は流れた。

 

哀しくもゆかしい物語りが、今も尚、江尾十七夜としてつ づいている。

 

この踊りは無形文化財として指定をうけ伝承されている。

 

江府町教育委員会

 

ここら辺も曲輪の跡か。

江尾駅が見える。

本丸。

中心部には石垣がある。

蜂塚時代のものであろうか。

かなり古い墓がある。

墓の大きさや形態から蜂塚氏縁の墓石か。

それにしてもこの広さは凄い。

大山が見える。

江美神社があるところも曲輪であった。

 

余湖図【江美城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の概要

本丸は西に伸びる丘陵先端部を深さ18mに及ぶ大規模な掘切で切断し、堀切には土橋を設けている。

 

堀切に面して土塁・櫓台を築いている。

 

発掘調査により石垣・石段・礎石等が発見され、金箔鯱瓦を載せた瓦葺の建物が想定されている。

 

城の大手は西側で、堀切を隔てた西の丸、八幡丸が続き、南側斜面には腰郭が見られる。

 

さらに西の丸北側には枡形土塁が保存状態良く残っている。

 

本丸郭の北側斜面部は居館跡と推定される。

 

江美城本丸郭周囲の現状は、戦国末期に毛利氏支配のもとに整備された姿を留めているものと思われる。

 

南側に南谷川の谷を挟んで兎丸、奥市川の谷を挟んで城ノ尾丸、北側に船谷川を挟んで銀杏ノ段丸があったといわれ出城と思われるが、銀杏段丸の試掘調査により土塁、堀を確認している。

 

文明16(1484)年に築城、慶長16(1601)年に廃城したと伝える。

 

『鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)』より引用

 

江尾城跡 金江府町江尾

JR伯備線江尾駅東方の舌状台地末端にある平山城跡。

 

北流する日野川に西流する船谷川が合流する南東に位置した。

 

出雲の尼子氏にくみした伯者の国人蜂塚氏の居城とされる。

 

江美域とも記す(「陰徳太平記」など)。

 

「伯者志」 は「尼子氏の草創なり」とし、「伯耆民談記」は「雲州富 田の城主尼子家より取立てし域にして、蜂塚右衛門尉累 年居城す」と記す。

 

以上から、大永四年(一五二四)の尼子経久の伯耆進攻(大永の五月崩れ)前後に築城されたと考えられるが、江美神社の社記(日野郡史)には江尾の初代領主 は文明年中(一四六九~八七)の蜂塚安房守で、蜂塚右衛門 尉は蜂塚氏四代にあたるとみえるが定かではない。

 

蜂塚右衛門尉義光(伯耆民談記)は天文(一五三二~五五)頃 からの尼子氏の勢力衰退によって一時毛利氏に下るが、 のち再び尼子方に復帰。

 

そのため毛利一族吉川元春は尾高城(現米子市)城主杉原盛重に江尾城攻めを命じた(陰徳太平記」など)。

 

永禄七年(一五六四)と推定される八月二三 日の毛利元就感状(閥閲録)によると「江尾之城」での羽仁藤兵衛尉の勲功が賞せられており、同年九月一六日の杉原盛重感状(三吉鼓文書)には「於去八月八日伯州日野郡江尾要害敵一人討捕之候」とある。

 

さらに同年と推定され る八月二五日の毛利元就書状(閥閲録)に、「日野衆」の逆 心によって同月八日に「蜂塚城」で合戦があったことが 記されることなどから、杉原盛重による江尾城攻めは永 禄七年のことと考えられる。

 

「陰徳太平記」巻三九(伯州 江美之城没落之事)はこれを同八年のこととして、合戦の状況を記す。八月五日夜半杉原勢は城下の蜂塚館に放火するが、蜂塚勢はすでに籠城しており、翌朝三千余騎によ って総攻撃が開始された。

 

鉄砲を散々に撃ちかけられる などの激しい攻撃を受け、蜂塚右衛門尉は自害して落城、 数百人の首が捕られたという。

 

のち毛利氏の城番が置かれたとも伝えられる。元和三年(一六一七)の吉川広家功臣 (太) 人数帳(吉川家文書)に「江美佐々木四郎大郎」とみえ る。

 

城の縄張りは城,上の本丸を中心に南に兎丸(宇佐木丸)、船谷川の北に銀杏ノ段丸を配し、本丸の西下に出丸と伝える八幡丸があった(江府町史)。

 

因伯古城跡図志(県立博物館蔵)によると、本丸は「長四十間、横三十間ヨリナ 間迄」、兎丸は「長四十間、横三十間ョリ十五間迄」で、 本丸北下の土井,内・上,段付近は二の丸とよばれる侍屋敷地区とされ、現在は江美神社・東祥寺などがある。

 

遺構としては本丸跡東の空堀などが確認されている。

 

昭和五四年(一九七九)八幡丸跡に城を模した江府町歴史民俗資料館が開館。

 

城下には西麓の日野川沿いと北麓の船谷川沿いの往来に沿って町場が形成されていたといわれ、近世の在郷町の基礎となったと思われる。

 

日野川沿いには、南から上東屋敷上,岸・上西屋敷・上東屋敷・中西屋敷・下西屋敷など、その東の船谷川沿いには下東屋敷・新町北屋敷・新町南屋敷などの字名がみられ、これらに戦国期の町場があったと考えられる。

 

現在、日野路の夏祭として知られる八月一六日・一七日の「江尾十七夜」は、蜂塚氏が盆の一七日夜に城内を開放して無礼講で盆踊や相撲大会を行ったのが始まりといわれる。

 

『鳥取県の地名』より引用。

 

城の歴史

文明16年(1484):蜂塚安房守が築城したといわれる。

 

大永4年(1524):大永の五月崩れの時に尼子側に属したと伝わる。

 

永禄5年(1562):毛利軍が出雲に侵攻し伯耆国の国衆も尼子から離反、尼子氏の有力家臣である本城常光が寝返ると、蜂塚義光も尼子から毛利に離反する。

しかし、本城常光が殺害されると蜂塚義光も再度尼子氏に寝返る。

 

永禄7年(1564):毛利氏の吉川元春が江美城を攻撃する、蜂塚義光は一族とともに自刃する。

 

永禄~天正年間(1564~1592):この頃近世城郭として整備される。

城主として佐々木四郎太郎の名前がある。

 

慶長5年(1600):関ケ原の戦いで毛利氏が転封し代わりに中村氏が入部する。

 

慶長6年(1601):城代として林文太夫や矢野正倫がなる。

 

城主家系図

4代目は『伯耆民諺記』では「義光」と記している。

 

所感

●城域は広く、おそらく多くの家臣がいたと考えらえる、おそらく古くからの土豪だったと思われる。

 

●本丸部分がかなり広いのが特徴、一部石垣があるが吉川氏が支配していた時に改修したものだと思われる。

 

●本丸から北の部分の寺がありそこには大きな五輪塔があったが、このクラスの五輪塔は有力者のものと考えられる。

※蜂塚氏かそれとも吉川時代のものか。

 

関連URL

【鳥取県】尾高城【米子市尾高】

江美城を攻めた杉原盛重の城。

 

参考URL

江美城(ウッキペディア)

城郭放浪記(伯耆江美城)

江美城 -伯耆の城ー

江美城 / 江尾城 / 江見城 – しろ凸たん

西国の山城(江美城)

山城攻略日記(江美城)

蜂塚氏(ウッキペディア

蜂塚右衛門尉(ウッキペディア)

 

参考文献

『鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)』

『日本城郭大系』14

『鳥取県の地名』

『鳥取県地名大辞典』

公開日2021/12/19

 

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