城データ

城名:菩提寺城

標高:605m

比高:25m(麓の道路から)

築城年:不明

城主:有元民部大夫入道もしくは小原孫次郎入道

場所:岡山県勝田郡奈義町高円

北緯:東経:35.156114/134.203189

菩提寺城はここ

 

攻城記

この菩提寺の大イチョウが有名。

 

位置関係

 

余湖図【菩提寺城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の概要

菩提寺城

立地

那岐山の南東中腹の標高約 600 mあたりに立地する。

 

比高は約 300 mである。菩提寺城跡は浄土宗の古刹菩提寺の境内周辺にあり、南面の眺望に優れる。

 

周辺には西約 500 mに八巻城跡、南東 1.0㎞に鎌倉山城跡、南西 1.0㎞に大別当城跡、北西 1.3㎞に名木ノ城跡が密に分布している。

 

菩提寺は浄土宗の開祖、法然上人が幼年期に修行したことが伝えられ、かつては七堂伽藍三十六坊を誇ったとされる。

 

概要

菩提寺は堂宇がある平坦面を中心に、その南面にも2~3面の平坦面が東西に連続するほか、「菩提寺の大イチョウ」の北側にも小規模な平坦面が認められる。

 

現状で確認できる範囲は東西 120m、南北 80 mに及ぶが、後世の地形改変が著しく、旧那岐山青少年研修センター周辺の平坦面も伽
藍に含まれる可能性も考えられる。

 

全体的に防御施設は認められず、多くの平坦面が伽藍の造成によるものと考えられ、菩提寺城は菩提寺の境内を二次的に利用していることが想定される。

 

昭和 58 年度に那岐山青少年研修センター建設に伴う確認調査が実施されており、柱穴群が検出され、備前焼、勝間田焼が出土した(岡山県教育委員会「菩提寺境内確認調査」『岡山県埋蔵文化財報告』1984)。

 

検出された柱穴群は掘立柱建物の一部とみられ、戦国時代の城館跡を構成するものと推察されている。

 

文献・伝承

『太平記』には、有元民部大夫入道が菩提寺の城に籠もったことが記されている。『古城之覚』は小原孫次郎入道を城主と伝える。

 

『岡山県中世城館跡総合調査報告書 美作編』より引用。

 

菩提寺 奈義町高円

那岐山の中腹、大別当城跡の北東にある。

 

浄土宗。高貴山と号し、本尊観音菩薩、行基の開基と伝える。

 

菩提寺古今録(美作高円史)によると開基から延暦二四年(八〇 五)まで法相宗、承安四年(一七四)まで天台宗、寛文五年 (一六六五)まで浄土宗、明治六年(一八七三)までは真言宗であったという。

 

開基の頃は三六坊があり繁栄していたと伝える。

 

「法然上人行状絵図」や「元亨釈書」などによれ ば、久米郡稲岡庄(現久米南町)に生れた法然は幼少の頃、 当寺の院主で伯父の観覚の弟子となっていた。

 

「太平記」巻一六(西国蜂起官軍進発事)によれば、菅家・ 江見氏らが「【奈義能山】菩提寺ノ城」を築き、美作国中を掠領しているという。

 

菩提寺城は当寺一帯にあった城 であろう。

 

康安元年(一三六一)七月には同城の有元氏が南朝方の山名氏に降参している(同書巻三六)。

 

応仁元年(一四六七)一〇月三日には山名氏の兵が赤松氏側の中村氏勢を同城などで防戦している(応仁記)。

 

また天文二年(一五三三)尼子氏勢の美作侵入の時にも灰燼に帰している(前掲古今録)。

 

なお文明一六年(一四八四)四月五日の勝達坊売券(米良文書)に「みまさかの旦那一円、先達者ほたい寺一円」とあり、先達職を有していた。

「美作風土略」によると岩間山と号し、開基は役行で、鑑真再興とある。

 

「東作誌」によると諾山(ほかに光北山・光木山)と号し、本尊は行基作という十一面観音。本堂・鎮守堂・観音堂・鐘撞堂・通堂・不動堂などがあった。

 

文政元年(一八一八)本堂を再建し天保(一八三〇~四四)頃山号を高貴山に改めている(前掲古今録)。

 

境内に根元の周囲約一二メートル、高さ約四二・五メートルの大イチョウ(国指定天然記然物)がある。

 

法然の刺した杖が生長したといわれ、幹・枝から乳柱が垂れていることから擂木銀杏とよぶという(東作誌)。

 

『岡山県の地名』より引用。

 

太平記にある有元氏

太平記の巻第三六の302に以下の記載がある。

 

302 山名伊豆守落美作城事付菊池軍事

斯る処に、七月十二日山名伊豆守時氏・嫡子右衛門佐師義・次男中務大輔、出雲・伯耆・因播、三箇国の勢三千余騎を卒して美作へ発向す。当国の守護赤松筑前入道世貞、播州に在て未戦前に、広戸掃部助が、名木杣二箇処城、飯田の一族が篭たる篠向の城、菅家の一族の大見丈の城、有元民部大夫入道が菩提寺の城、小原孫次郎入道が小原の城、大野の一族が篭りたる大野城、六箇所の城は、一矢をも不射降参す。(後略)

 

 

城の歴史

康安元年(1361):菩提寺は伯耆守護の山名時氏によって焼打ちされ、灰燼に帰した、この時城主の有元氏は山名氏に降伏する。

 

応仁元年(1467):山名氏の兵が赤松氏側の中村氏勢を同城などで防戦する。

 

天文2年(1533):尼子氏勢の美作侵入の時にも菩提寺が灰燼に帰している。

 

所感

●車でたまたま通りかかったら標識があり吸い込まれるように立ち寄った。

 

●城域は菩提寺だと思われるが目立った遺構は無い。

 

●銀杏の木が有名で巨木の銀杏の木がそびえたっていた。

 

関連URL

【岡山県】大別当城【勝田郡奈義町高円】

有元氏の居城である大別当城。

 

参考URL

城郭放浪記(美作菩提寺城)

山城攻略日記(菩提寺城)

太平記巻第三十六

 

参考文献

『日本城郭大系』13

『岡山県の地名』

『岡山県地名大辞典』

公開日2021/11/28

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