城データ
城名:本城
標高:480m
比高:180m
築城年:康安元年(1361)以降。
城主:髙橋氏、本城氏。
場所:島根県邑智郡邑南町下田所
北緯:東経:34.857228/132.510623
攻城記
下田所にある登口。
直登していく。
下を確認するとこのような感じ。
尾根筋に到着。
本丸に到着。
ズタズタにされている。
土塁。
本丸別の角度から。
本丸降りて二の丸に行く途中に本丸を見上げる。
二ノ丸(こちらもズタズタにされている)
二ノ丸のさらに先端の曲輪。
本城からみた二つ山城。
位置関係
余湖図【本城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
①郭(主郭)は最高所と考えられるが、郭全体が刻み込まれている。
また、②郭も同様に刻み込まれており防御拠点としての使用は不可能なものになっている。
これは破城によるものと推察されるが、ここまで徹底的に破壊された事例は、国内でもほとんど例を見ない。
破壊したのは毛利氏であろうか。高橋(本城)氏の居城として知られている。
島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引用
本城
本城は二ッ山城の西方、標高四八〇メートルの山上に 築かれた山城。
出羽川流域を遠望できる見通しのきく城 で、谷も深く複雑な地形のため二ッ山城より実戦的要害 であったと思われる。
康安元年(一三六一)足利直冬党の高 橋氏が二ッ山城主出羽実祐を攻め、実祐を追った。この 後高橋氏が本城を築いて本拠を移し、本城氏を称し、安芸国高田・山県両郡、備後国作木村(現広島県作木村)辺りまで領地を広げたとされる。
しかし享禄三年(一五三〇)毛 利元就の謀略によって高橋重光・同興光が討たれ、廃城 となった。
削平地・居館跡・空堀、北麓に寺屋敷跡、南麓に多くの墓石が残る。
『島根県の地名』より引用。
本城
二ツ山城跡の西の丸に立って西方を俯瞰すると、山麓のみずめ峠を隔てて本 誠のあった山頂が指呼の間に望まれる。
みずめ峠から本城山頂からの稜線がしだいに魅まってくる丘陵地をしばらく上って行くと、ニュウナン谷頭の居館跡 地とおぼしい区画に達する、ここは秘線を描いて二段の敷地とし、後線の前後に は空が設けられている。
居館跡地の前庭をさらに山頂に向かって進むと二の れる削平地に通じる。
そして、二の丸に開続された形で本丸があ その真側(北方)にも一段低くかなり広い朝平地があり、二段に分かれている校 線上にはそれぞれ三か所空場が設けられている。
頂上の削平地(本丸)は、『邑智かがみ』が「其後二度と武家の屋敷にならぬ様にとて、誠を尽く掘切りにしてこれあり候」と述べているように数条の畦に掘り切られており、掘り起こし た土は二の丸に落としたようで、その広さを測ることはむずかしい。
この山の頂上に立つと、二ツ山より展望が広く、出羽川の流域を東から西へ遠く見通すことができる。
二ツ山城の城塁がほぼ一直線に並んでいるのと比べると、当城 は本丸を中心に城塁が放射状を呈し、谷も深く複雑な地形をなしているので、 より低いが実戦的には数等勝っていたものと思われる。
二ッ山城が永明寺部落を擁して政治的威容を誇示していたのに対して、当城は直接住民の居住地に接していながら実戦的な要害という特色を秘めており、鎌倉時代と南北朝時代との築城に関する考え方の相違を示すものとして興味深い。
康安元年、邑智郡羽須美村阿須那の藤掛城主高橋師光・貞光父子は石見西部 にいた足利直冬(尊氏の子)が江東に移り、石見東部の北朝方の討伐を決意するに至ってその命令を受け、羽須美・瑞穂の境に近い別当城を向城として二ッ山 城主出羽実祐を攻めた。
ここに観応元年(正平五、一三五〇)の青杉ヶ城の戦い についで、石見東部における北朝方・南朝方の決戦が展開された。周布一族の 来原氏の文書より推察すると、石見国を挙げて両陣営が結集して対戦した模様である。
対戦は半年ののち出羽実祐が敗れて終わったが、出羽氏の後嗣祐忠は 邑智町の地頭所城を本拠とし失地回復をはかり、のちの明徳三年(一三九二)の 南北朝合体に際して、大内義弘の調停で旧出羽領七百貫地のうち二百五十貫を 高橋氏から返還されている。
一方、出羽氏を破った高橋氏は本城を築いて藤掛城から本拠を移し、本城氏とも称え、安芸国高田・山県郡や備後国作木・森山 から比婆郡にまで領地を拡大して周辺の地頭から恐れられていた。
しかし、永 正十二年(一五一五)に高橋元光が備後三吉氏の支城を攻めて討死し、その後、毛利元就の策謀に乗ぜられて家運は一挙に衰退し、享禄三年(一五三〇)に高橋 重光・興光が元就の謀略によって討たれると、高橋氏の一族としては尼子氏の 侍大将本城経光を残すのみとなった。
なお、高橋(本城)氏に関する事蹟はあまり明らかではなく、遺跡も本城の北 麓に寺屋敷、南麓に多くの墓石が残っているくらいなものである。
『日本城郭大系』より引用
城の歴史
康安元年(1361):南朝側として北朝の出羽氏を攻めて二つ山城を攻略する。
その後、この二つ山城を本拠とせずに隣の本城を築城してここに拠る。
本家は高橋氏であり本城氏は庶流である
享禄3年(1530):毛利の謀略によって高橋家は滅亡、本城家も尼子を頼って落ち延びる(後に本城常光は出雲高矢櫓城の城主となる)
城主家系図
本城氏は滅亡しているため、この家系が本当かどうかは不明な点が多い。
所感
●高橋氏の庶流が所領である田所の本城に居を構えて本城氏を称したのが始まり。
●高橋氏が阿須那の藤掛城から本拠をここに移したとあるが疑問が残る。
※藤掛城や本城以外にも石見の松尾城、安芸の松尾城などあり、その時々によって城を変えていたのかもしれない。
●特に登城路も整備されていないが田所の集落の東の尾根から登っていく。
※途中笹があり進みにくいが標高410mあたりから尾根上になっていき笹も無くなるので後は楽に進める。
●本丸、二の丸辺りは平削地がズタズタにされて城としての機能を果たせないほどになっている。
関連URL
近隣の出羽氏の居城である二ツ山城で攻めて高橋氏(本城氏)の居城にした。
参考URL
参考文献
『島根県中近世城館跡分布調査報告書』
『佐田町史』
『石見誌』
『島根県の地名』
『日本城郭大系』14
『石見の山城』
公開日2021/08/09