城データ
城名:大別当城
別名:大見丈城
標高:587m
比高:230m
築城年:不明
城主:有元氏
場所:岡山県勝田郡奈義町高円
北緯:東経:35.150142/134.195045
攻城記
散策できるようになっており歩きやすい。
道も整備されている。
少曲輪。
尾根を歩いていく。
南の展望台に到着。
大別当城跡
大別当城跡は、大別当山の尾根伝いに残る中世の山城跡です。
南北に細長い山頂部に曲輪(くるわ)がいくつも並ぶ速邦式(れんかくしき)と呼ば れる構造で、堀切(ほりきり)も確認できます。
東西は急校な斜面で、自然の地形を巧 みに利用しています。
展望台からは、町内に残る山城をはじめ、津山市、美作市の山城も遠望でき、群護剤 拠の緊張感を偲ばせる遺構です。
また、俺のイムラ遺跡(高円構)は、城主、家臣団の暮らした跡と伝わっています。
この部分も曲輪跡。
麓の風景。
位置関係
余湖図【大別当城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
大別当城
立地
淀川左岸にあたる那岐山塊から南方向に細長く延びる山頂端部に立地し、同城から北東約400m には八巻城跡が位置する。
概要
縄張りは細長く延びる尾根部に沿って複数の曲輪と堀切・竪堀・土塁などを備えた連郭式の山城である。
曲輪は尾根部の 2 か所で見られる鞍部が仕切りの役目を果たし、斜面部の築かれた腰曲輪を含めた 4 つの曲輪群で構成されている。
曲輪群Ⅰには、北端に土塁と比高差約 4m を測る急峻な切岸が伴う曲輪を中心として、その周囲に1 ~ 2 面の腰曲輪・帯曲輪が配置されている。
このうち北側の曲輪では比高差約 6m の急峻な切岸を造作して防御性を高めており、竪堀も 2 か所確認できる。曲輪群Ⅱには北端に土塁をもつ細長い曲輪を中心として、その北東端にやや広い曲輪と東側に細長い曲輪が伴う。
また、曲輪群Ⅰとの間にある鞍部を利用して、切岸を造作して堀切を配置している。
全体的に曲輪群Ⅰと比べて曲輪面の削平度は低く、自然地形を残す。
曲輪群Ⅲには北端に土塁をもつ曲輪が配置されており、南西側では約 2m 低い鍵手状の段差が認められる。
曲輪面の状況は南西側の削平度が高いが、北東側は低く、自然地形を多く残す。北東側曲輪の南端には「鬼子母神」の石碑がある。
南西側曲輪の南端では那岐山麓を始め、勝北・吉野郡域までが一望でき、説明看板や東屋を備えた展望台が整備されている。
曲輪面の削平度も高く、一辺約 5~ 6m の石積み基壇や階段の痕跡が見られることから、これ以前に何らかの施設が存在した可能性がある。
主郭はこの曲輪群Ⅲが相当すると思われるが、判然としない。ここから比高差約 3m を測る急峻な切岸の下方には、腰曲輪が 1 面築かれている。なお、曲輪群Ⅱと曲輪群Ⅲとの間にある鞍部にも堀切が存在しているが、曲輪群Ⅰと曲輪群Ⅱの鞍部の設けられた堀切と比較して造作があまい。
曲輪群Ⅲから比高差約 9m、約 40m 離れた南側斜面部には、約 1 ~ 2m の段差を設けた大小 4 面の腰曲輪で構成される曲輪群Ⅳが築かれている。この曲輪群Ⅳには土塁や堀切は伴わず、全体的に曲輪面の削平度は低く、自然地形も多く残す。築造場所の違いが大きいが、尾根頂部に造られた曲輪群Ⅰ~Ⅲとは構造や機能が異なっていると思われる。
なお、最下段にあたる腰曲輪の南側には、大形の露岩が重なり合った状態で確認できることから、ここまでがこの城の南端と見ることができる。
文献・伝承
『東作誌』には勝北郡高円村の「大見丈城」・「大別当城」として、それぞれの城主を有元佐顕、有元右衛門大夫佐国とし、両城は一山とする。
ただし、大見丈を鉢巻山の西方に位置する「能仙」とする里民の説も紹介しており、混乱している。
また、『太平記』には康安元年(1361)7 月、山名時氏の美作国侵攻にあたり降参した 6 か城のうちに「菅家ノ一族大見丈ノ城」が見える。
『岡山県中世城館跡総合調査報告書 美作編』
大別当城
大別当城は、美作地方の代表的な山として知られる那較山(標高一三四〇m)から派生した半独立的な支脈である大別当山に所在する。
城跡の北側は国道五 三号線から分岐した林道が天然記念物大銀杏樹で有名な浄土宗の古刹菩提寺に至っている。
この城は標高五八〇mの半独立状の山塊に立地する。
西斜面下は蛇淵の滝か らの清流を集めた小河川が流れ、南と東は急峻な斜面と谷で隔てられている。
大別当城は大見丈城とも呼ばれる。
『美作古城史』などの諸書には、この城と大見丈城は別であると記しているが、文明九年(一四七七)記の皆木保実の『白 玉拾』には、菩提寺付近の城は能仙・大見丈(大別当トモ云)・奈木城(那城) の三城が挿画入りで明記されているので筆者はこれに従う。
この城は美作菅家の本拠地にある。
美作菅家の祖は嘉保年間(一〇九四~九六)に配流されてきた菅原道真から十二代目に当たる菅原知頼だといわれる。
その曾孫の仲頼が大見丈城主であったといわれ、その三男満佐が三穂太郎と称して奈木山城主であった。
この満佐の七人の 子が美作菅家七流の祖 として、有元・広戸・ 福光・植月・原田・鷹取・江見と称した。
その有元忠勝が奈木山城主、広戸佐友が矢櫃城主、植月公興が宮山城主、原田忠門が稲荷山城主であった。
有元忠勝の孫佐高は西坪城に移っていたようであるが、また、その孫にあたる佐顕は当初小房城主であった。
延元元年(一三三六)四月に新田義貞が足利氏に対して兵を挙げた際、有元氏ら美作菅家一族は、赤松氏に従って足利氏側についた。
そのため美作に侵攻した新田義貞の部将である江田兵部大輔は大見丈城・菩提寺城を攻略したのであるが、江田氏の退去後、有元氏は再び城に入った。
その時、有元佐顕が大見丈城に入ったものと思われる。
また佐顕の子佐久は、その頃、倉掛城主であったが、康安元年(正平十六、一三六一)に山名時氏が南朝方に帰順して美作に侵攻した時、倉掛城は菩提寺城・大別当城と共に落城した。
有元佐久の子佐国は大別当城主であり、またその子佐氏は河内山城主であり、のち、西坪城主になった。
佐氏の孫佐則は大別当城主となり、十二か村 を領有したが、天正六年(一五七八)に毛利氏のために没した。
その後、同七年 (一五七九)に、有元一族は後藤勝元の三星城に援軍を送ったりした記録がある。
佐則の孫佐政はその後、美作に入った宇喜多氏に仕え、慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の合戦では軍功があったといい、同八年(一六〇三)に美作に入っ た森忠政から五十人扶持をもらって大庄屋になったという。
城の縄張りは、大別当山の南北に延びる尾根を利用した南北二六〇mに達す る狭長な連郭式の山城である。
東西の両端を一段低くして独立の小郭を備え、 幅一〇mばかりの尾根線に、堀切・土塁を巧みに取り込んで、多くの小郭を設けている。
本丸は北寄りの二段築成の東西幅の広い郭と推定される。
この部分 は北と西に幅二m・高さ一mばかりの土塁を「L」の字状に築き、土塁内の郭 は南北一六m×東西最大幅一二mである。
そして南側は一段低い段差をなして 南北二六m×東西五mの細長い郭に続く。
土塁を越して北側には土橋を残した 堀切を設け、つぎの郭に続くが、一方では堀切を通じて本丸を固める東の郭に 至る。
この郭と本丸との比高は七mばかりである。井戸の所在などは不明である。
なお、能仙城は、この城の北東峰続きの標高六四〇mに立地している。
また 奈木城(那岐城)は、西方に七〇〇m隔たった標高五五〇mの尾根上に立地して いる。
能仙城と大別当城との距離は五〇〇mばかりしかなく、菩提寺をも含めて一 つの城郭とみなすこともできるだろう。
『日本城郭大系』13より引用
城の歴史
延元元年(1336):新田義貞が足利氏に対して兵を挙げた際、有元氏ら美作菅家一族は、赤松氏に従って足利氏側につく。
この時に新田義貞の部将である江田兵部大輔が大別当城を攻略するが、江田氏の退去後、有元氏は再び城に入った。
康安元年(1361):山名時氏が南朝方に帰順して美作に侵攻した時、大別当城を攻めて落城した。
天正6年(1578):有元佐則が毛利に攻められ、没落する。
天正7年(1579):有元一族が後藤勝元の三星城に援軍を送っている。
いつ頃から宇喜多氏に仕える。
慶長5年(1600):関ケ原の合戦にて軍功がある。
慶長8年(1603):美作に入った森忠政から五十人扶持をもらって大庄屋になる。
城主家系図
青字は確実に大別当城の城主。
所感
●城域は長大で尾根筋が曲輪となっている。
●途中に2か所大きな堀切があり敵の侵入を防ぐ。
●南の曲輪からの眺望はよく、眼下の動きもしっかり把握できる。
関連URL
近隣の菩提寺城で城主が有元氏と伝わる。
参考URL
参考文献
『日本城郭大系』13
『岡山県の地名』
『岡山県地名大辞典』
公開日2021/11/28