城データ

城名:二ツ山城

標高:531m

比高:180m

築城年:貞応2年(1223)富永朝助(出羽朝祐)によって築城。

城主:出羽氏、髙橋氏

場所:島根県邑智郡邑南町鱒渕字永明寺

北緯:東経:34.865906/132.518077

二ツ山城はここ

 

 

攻城記

 

二ツ山城跡の概要

出羽氏の居城である二ツ山城は、県内有数の規模を持つ山城で、尾根筋を切断した連続堀切から谷底まで続く大規模な竪堀群は、他の山城を圧倒するものがある。

 

連続堀切より外側の尾根筋には、やや古い様相を持つ廓群が延々と続くが、枡形虎口を取り入れた主郭部の堅固な縄張りは、近世城郭に通ずるものがあり、戦国時代末期に大規模な改修が行われたことを示している。

 

毛利元就の六男・元俱が養子として二ツ山城に入城した永禄年間(1565年頃)に現在の姿に改修されたものであろう。

 

 

案内板が多く分かりやすい。

車でかなり上まで行けるので安心で攻城出来る。

天神丸付近(天満天神を祀ったという)

泉水の段(水の手があったのだろう)

お蔵の段(蔵があって貯蔵庫の役割をしていたのだろう)

西の丸(二つ山の一番高い場所)

周辺部。

西の段から見た下部分

そのまま明神丸に行く前の大堀切。

舞殿の段(日本城郭体系ではここは天神丸になっている)

日本城郭体系ではここは伊勢丸になっている。

馬場(細長くいかにも馬場であったと思われる)

本丸(広さは一番ある、日本城郭体系では東の丸となっている)

二ツ山城の由来

二ツ山城の創始は、貞応2年(1223)富永祐純(出羽氏を称す)の子・朝祐が、出羽郷久永荘の地頭として、石見守護・佐々木定綱の庇護のもとに勢力を拡大するにおよび、その拠点として築いたのにはじまり、益田の七尾城についで石見国第2番の古い山城である。

 

正平16年(13579月、出羽実祐の時、阿須那の藤掛城主・高橋貞光によって攻略され、やむなく本拠を君谷の地頭所に移さねばならなかった。

 

高橋氏はやがて本城を築いて、芸備石の間に当地方最強の勢力となった。

 

明徳3年(1392)、南北朝統一によって、出羽祐直は、高橋氏より出羽700貫地のうち、250貫地を得て、宇山に住むことになった。

 

享禄3年(1530)、高橋氏が毛利元就によって滅ぼされると、出羽祐盛は元就より出羽全域を与えられて、そのよき配下となった。

 

天正19年(1591)、出羽元実は、出雲の頓原由岐に移封となってこの地を去った。かくて、本城についで二ツ山城も廃墟となって歴史の中に埋もれてしまった。

 

瑞穂町文化財愛護協会

 

本丸からの田園風景。

駄屋の段(ここに荷物が運ばれていたのであろうか)

二つ山城の矢竹。

 

位置関係

 

余湖図【二ツ山城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の概要

出羽氏、高橋氏の城として知られる。

 

出羽氏には毛利元就の六男元倶が養子となっている。

 

石積や堀切・竪堀。土塁の見られる城の中心部分は、出羽氏が毛利氏に従い養子を迎えてから出雲の頓原に移転させられるまでの1570年代あるいは80年代に一応完成したものかもしれない。

 

城の遺構は中心部分よりさらに南北に広がるが、未踏査・縄張図未作成の部分が残っている。

 

島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引用

 

 

ニッ山城跡 瑞穂町鱒淵

出羽川の北岸、瑞穂盆地を一望に見下ろすことのできる標高五三〇・八メートルの字二ッ山・字永明寺などに築かれた山城。

 

出羽城ともいう。平地との比高は二〇〇メ ートル。

 

貞応二年(一二二三)に富永(出羽)朝輔が築いたと 伝え、同氏はここを拠点に邑智郡・選馨郡「安濃郡などに勢力を広げた。

 

康安元年(一三六一)実祐の時に南朝方の 高橋師光に敗れてから高橋氏の居城となった(一一月二四日「治部少輔遵行状」閥閱録)。

 

高橋氏は下田所に築いた本城と当城などを中心に勢力をもったが、享禄三年(一五三〇) 毛利氏に滅ぼされた。

 

翌四年高橋氏が領した出羽四五〇 貫が出羽氏に返付されている(同年一二月一二日「毛利元就起 請文」閥閲録)。

 

雄大な規模の城になったのは毛利元就の六 男元倶が出羽氏の養子として入城した後であろう。

 

天正 一九年(一五九二)出羽元実の代に出雲国に移封となり廃城となった。

 

輪ノ内・小丸・東ノ丸・西ノ丸・舞殿の殿・神楽ノ段・天神丸・馬場・神明空堀・南出丸・小戦場などの地名が残る。

 

城の縄張りは東西二つの高まりとなっている丘陵の頂 部をはじめ、尾根筋・丘陵斜面を加工して郭・土塁・堀 切・竪堀を築いている。

 

郭は西から順にこの城の最高所 を五〇ー三〇メートルの広さに削平した西一郭をはじめ 東下方に向かって五段ばかりの郭が続く。

 

次いで一段と 高い広さ六五メ二五メートルの東一郭となり、その下方 にも大小の郭がある。西一郭の南側斜面に三段の郭がある。

 

東一郭の南にある出丸には腰郭・竪掘などがある。 四方の尾根筋には堀切群があり、その端は合流する。範 囲はおよそ東西五〇〇メートル・南北四〇〇メートルで ある。 )である。

 

『島根県の地名』より引用。

 

二ツ山城

田所・出羽方面からみる比高二三〇mの二ツ山城跡は、北方の 天を限ってそびえている。

 

東・西の二つの最高所は東の丸、西の 丸と呼ばれ、その中間の西寄りにやや低い伊勢ケ丸(皇大神宮を 祀ったという)と天神ケ丸(天満天神を祀ったという)があり、天 神ケ丸と東の丸との間に馬場がある。

 

そのほか、厩の段・水仙ケ丸と、空堀数条、竪堀数条を確認できる。

 

二ツ山の麓、永明寺部落を囲続 している前面の丘陵は、中央を福城谷によって切断され下田所部落に通じている。

 

福城谷の「福城」とは「副城」の変じたもので、この丘陵地帯にも 小削平地がかなりあり、「前土居」「庵ケ迫」などの地名が残っている。

 

永明寺部落は「わのうち」(郭内)と称されており、「寺屋敷」「坊がつま」はともに永明寺(二ツ山落城後、高橋氏から吉見氏へ嫁した女性の発願で津和野に再興されたと伝えられている)のあった場所といわれ、土居がその地域に隣接してあ ったものと推定されている。

 

西側のみずめ峠を境として隣接する「本城」は、 二ツ山落城ののち高橋氏の築いたものである。

 

また北麓には馬の原川に三方を囲まれた「四ツ土居」(屋号)があるが、二ツ山城に関係のある土居の一つと思 われる。東方には、指呼の間に宇山城跡群の毛城・赤城が見渡される。

 

ニッ山 の前方、出羽川を嘱てて横たわる丘陵には、出羽氏が尊崇した八幡宮があり、 さらに祈禱所として地蔵院があったが、二ツ山落城の際ともに焼亡した。

 

なお、菩提所は出羽八日市がしらの净林寺(浄土宗)と推定されている。

 

二ツ山城の築城は二代出羽朝輔の代の貞応二年(一二二三)で、記録でみるかぎりでは、益田七尾城(建久四年=一一九三築城)についで石見国では二番目に古い城である。

 

当城の特色は、鎌倉時代前期の武家政治を象徴するかのように、 その政治的域容を民衆に誇示する目的をもっていたように見受けられる。

 

出羽氏はこの城を拠点として邑智郡邑智町君谷,沢谷、太田市富山、選摩郡温泉津町周辺にまで勢力を拡大し、南北朝時代に入ってからは終始北朝方として各地 に転戦していたが、康安元年(正平十六、一三六一)、北九州より石見に来住した足利直冬の後援を得て、邑智郡羽須美村阿須那の藤掛城主高橋師光が来攻するに及び、石見全域にわたる諸豪族を動員しての合戦となった。

 

ついにニッ山城主出羽実祐は敗れ、後嗣の祐忠が守っていた邑智郡邑智町の地頭所城が以後かなりの期間、出羽氏の拠点となった。

 

勝利を得た高橋氏はみずめ峠を境と して二ツ山城に相対する本城を築き、やがて安芸国高田・山県郡や備後国にま で勢力を伸ばすこととなった。

 

しかし、明徳三年(一三九二)の南北朝合体に際 して、大内義弘の調停で高橋氏が領有していた旧出羽領七百貫地のうち二百五十貫を出羽氏に返還して和睦し、それ以後、出羽氏は宇山部落周辺を固めて宇山の地に住することとなった。

 

このように出羽氏は高橋氏の勢力下に辛くも家名を維持していたが、毛利元就が台頭するに及んでは毛利氏に臣従し、享禄三 年(一五三〇)、高橋氏が毛利氏によって滅ばされたのを機会に、再び旧出羽領 の全域を領有するようになった。

 

その後、出羽氏は高橋氏の本城は破却したが、二ツ山城に帰来したかどうかは明らかでない。

 

出羽氏の支族が高原地域に多く残っているところからみて、 宇山の居宅を動かなかったのではないかと思われる。

 

ついで天正十九年(一五九一)、出羽元実の代に出羽氏は出雲国頓原の由岐に移封となったためこの地を去り、二ツ山城・宇山城はともに廃された。

 

『日本城郭大系』14より引用。

 

 

城の歴史

寿永4年(1185):富永祐純が石見国邑智郡久永に流される(平家に味方したため)

 

元久2年(1205):富永祐純が亡くなる(朝祐が家督相続)

 

貞応2年(1223):出羽朝祐二ツ山城築城。

 

寛元2年(1244):出羽朝祐が長門国尼ヶ瀬深谷で討死。

 

元弘3年(1333):隠岐を脱出した後醍醐天皇は伯耆国船上山に遷座、中国地方の諸武士の綸旨を発した、佐波・三隅・土居氏らはこれに応じたが、益田・出羽の両氏は動かなかったようである。

 

南北朝時代 北朝として活躍
康安元年(1361):阿須那を本拠とする高橋氏(南朝方)に攻略され二ツ山城落城(その後出羽氏は宇山に城を築く)

 

明徳2年(1391):南北朝が統一するに至り大内義弘の調停によって、高橋・出羽両氏の地頭職をめぐっての紛争も終わりを告げる。

 

出羽七百貫のうち、高橋氏から二百五十貫を返還させ、出羽氏を出羽の宇山に居城させることで両氏が和睦する。

 

享禄3年(1530):毛利元就の攻略により高橋氏滅ぶ。

 

享禄4年(1531):出羽氏は出羽郷を回復し二ツ山城に復帰(本拠を二つ山城に戻したかは不明)

 

 

『萩藩閥閲録』巻43の1 出羽源八

 

2月12日に毛利元就が高橋氏に押領されていた出羽氏の所領を返却している。

 

天文11年(1542):大内義隆、尼子攻略のため二ツ山城へ入城。石見の諸将、二ツ山城に結集し、出雲に進出する。

 

弘治3年(1557):吉川元春、小笠原氏攻略のため二ツ山城に入城。

 

また、毛利元就の安芸国人十一人との盟約の中に石見国の国人ながら唯一加わっている。

毛利家文書226 毛利元就他十一名契状

 

弘治4年(1558):毛利元就、小笠原氏攻略のため本陣を置く。

 

永禄4年(1561)毛利利元就、福屋氏攻略のため二ツ山城に入城。

 

天正19年(1591):出羽元実の代に出羽氏は出雲国頓原の由岐に移封される(在地性を失う)

 

慶長5年(1600):関ヶ原の戦いに敗れた毛利氏に従い、出羽氏長州萩に移住する。

 

城主家系図

 

 

城主石高

出羽次郎兵衛(元勝)

総石高 1012.069石

内訳 800.570石 備後 品治

211.499石  備後 恵蘇

 

所感

●県下第二の古さの山城。

 

●出羽氏は高橋氏によって二ツ城を落城した時に、島根県美郷町君谷に逃げ延びる、その為苗字を一時期「君谷」にしている。

富永が本姓で、出羽を名乗っていたが、君谷に落ち延びているので君谷を名乗るという複雑な苗字になっている。

 

●城の遺構はよく整備されており草木が少ない。

 

●看板の城図が登城口にあったが色褪せていたのが残念

 

●郭からの麓の田園風景はよく見えておりよかった。

 

●城の拡張整備は毛利元就の六男元倶が養子となって以降

 

 

関連URL

 

参考URL

二ツ山城(ウッキペディア)

城郭放浪記(石見二ツ山城)

島根県邑南町の城跡(二ツ山城)

武家家伝(出羽氏)

出羽祐盛(ウッキペディア)

出羽元祐(ウッキペディア)

出羽元倶(ウッキペディア)

 

参考文献

『島根県中近世城館跡分布調査報告書』

『毛利八箇国御時代分限帳』

『萩藩閥閲録』

『萩藩諸家系譜』

『毛利家文書』

『島根県の地名』

『日本城郭大系』14

『石見の山城』

公開日2021/08/01

 

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