城データ

城名:桜尾城

標高:31m

比高:29m

築城年:鎌倉時代

城主:吉見氏?、藤原氏、友田氏興藤、桂元澄、穂井田元清

場所:広島県廿日市市桜尾本町

北緯:東経:34.357642/132.342122

桜尾城はここ

 

 

攻城記

 

現在は桂公園になっている。

桜尾城主であった桂元澄の子孫である内閣総理大臣の桂太郎がこの城址を買い取り廿日市市に寄付したのが由来。

 

比高はこのくらい。

 

登っていく。

 

本丸。

昭和40年代に埋め立てのため土砂をここから採掘した為消滅。

 

本丸からみた風景

篠尾城が見える。

こちらは岩尾城方面。

当時この方面は海であった。

 

 

 

 

 

 

廿日市町指定史跡
桜尾城

当城の地は鎌倉より厳島社家たりし藤原氏の拠る所にして、厳島神領の中心なり。

 

城は直ちに海に望みて内湾を振りし、東に岩戸尾、西に藤掛尾など七尾の諸城を従え、誠に要害の地なり。

 

下りて、戦国の世、神領は東に武田、西に大内の狭間にあり、天文10年藤原興友、戦に敗れ、城に火をかけ、三百年の神主家ここに滅ぶ、のち大内、陶、毛利と相ついで城番を置くも、毛利の移封と共に廃城と化す。

 

この間、折敷畑、厳島の合戦には毛利氏の拠点として世に知られしも、時移り山容改まり、往年の城姿を失う。

 

廿日市町教育委員会

 

当時は麓まで海であった。

この上が二の丸であった。

今は建物が建っている。

妙見社。

若干削平地か

 

洞雲寺

 

本堂。

 

友田興藤の墓。

 

陶晴賢の墓。

厳島の戦いで討死、首実験はこの寺で行われた。

桂元澄夫婦の墓。

穂井田元清の墓。

 

余湖図【桜尾城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

『芸藩通志』【桜尾城】

 

海のあった時代の画像

桜尾城(いにしえのロマンの郷 はつかいち)より引用。

船中発策より画像引用。

 

中世海岸線の推定図

 

戦後すぐの航空写真

 

城の概要

桜尾城跡 廿日市町桜尾本町

 

廿日市東端に位置する小丘桜尾山にあった中世の城跡。

 

桜尾山は単に桜尾ともいわれ、篠尾などとともに七尾と総称された。

 

「国郡志下調書出帳」に「右高倉院ノ別当斎 院ノ次官親能/長男周防前司親実、鎌倉右大将頼朝公之 時代承久弐年始めて厳島神主之号を給り御当国へ下向、 当所桜尾に在城、夫より代々居住ス」とあり、厳島神社 神主職藤原氏が代々居城した。

 

年未詳であるが八月二八 日付の毛利元就書状(大願寺文書)に「桜尾」の名がみえる が、それより以前の大永三年(一五二三)閏三月二〇日付の 陶興房書状(「譜録」所収山中八郎兵衛家文書)に「東山御城被 ひがしやま 相調候」とあり、東山城ともよばれた。

 

藤原氏は戦国期に入ると銀山城(現広島市安佐南区)の武田 氏と勢力を競い、嘉吉元年(一四四一)から康正三年(一四五七)にかけて神領争いとよばれる攻防戦があった(陰徳太平記)。

 

永正五年(一五〇八)からは神主職継承の争いが起こり、小方加賀守勢が西方の藤掛尾を拠点としたのに対し、 友田(藤原)興藤勢は東方の桜尾城に拠った。

 

しかし同一五 年大内氏が継承争いに干渉して神主を定めず神領を直轄とし、その臣島田越中守・大藤加賀守・毛利下野守らが 桜尾城番を勤めた。

 

大永三年友田興藤が神主職の自立を 図り大内氏の城番を追下して入城し、神主となったが、 以後翌年一〇月まで大内勢との攻防戦が続いた。

 

「房顕覚書」は、(大永四年) 七月廿四日桜尾ノ二重迄陶衆切入合戦在、(中略)桜尾城内高名衆野坂藤三、糸賀中務丞、舎弟平左衛門尉、 福田治部丞、三井右衛門尉、其外各武取高名ス、然処ニ防州衆車ヤクラヲコシラへ北下リニ懸寄処ニ、 城ヨリ笛大にてハヤス、城内弥手ツヨケレハ吉見 ノ三河守頼興和談ノ為調法と記し、そして同年一〇月に興藤は桜尾城を開城した。

 

天文一〇年(五四一)正月再び興藤は大内氏に反して桜尾と記し、そして同年一〇月に興藤は桜尾城を開城した。

 

天文一〇年(一五四一)正月再び興藤は大内氏に反して桜尾 城へ入ったが、同年四月五日大内義隆勢により落城し、 厳島社神主藤原家は断絶した。

 

その後大内氏の家臣鷲頭治部少輔が城番となったが、 同二〇年陶晴賢の義隆弑逆に伴い陶方の江良賢宣・毛利与三・己斐豊後守・新里若狭守が当城に置かれた。

 

同二三年毛利元就は桜尾城を接収し、同年の陶方との折敷畑合戦、翌弘治元年(一五五五)の厳島合戦には毛利軍の本陣 となった。

 

戦後は毛利氏の重臣桂元澄が城番を勤め、永 禄一二年(一五六九)七月頃からは毛利元就の子穂田元清が 城主となった。

 

慶長五年(六〇〇)毛利氏の防長移封以後、廃城となった。現在は桂公園と官庁用地とされ、旧状をとどめない。

 

『広島県の地名』より引用

 

 

桜尾城

桜尾城は、廿日市町の平地にそびえる標高三一mの独立丘陵上に構築された 山城であるが、昭和四十二年頃から城跡が海岸埋め立て地の土砂採取場となり、その後も周囲の削平が行なわれ、現在宅地化されているために往時の様相をうかがうことはできない。

 

本城の構築時期、あるいは城主などについては詳らかでない点が多いが、 『芸藩通志』によれば、「もと蒲範頼の後、吉見氏の所築とす」とみえている。

 

一方、厳島神社の神主職についた周防前司(藤原)親実が嘉禎元年(一二三五)、 安芸国の守護となり、さらには『神主職根本之次第』によると、親実はそれ以 前の承久三年(一二二一)に厳島神社の神主となっているところから、彼がすで に本城を根拠地としていた可能性も考えられ、その後、三百二十年余にわたってその子孫が本城を中心にして活動していたものであろう。

 

しかしながら、室町期の終わり頃から周防の大内氏・山陰の尼子氏・安芸の 武田氏らの間で攻防が繰り広げられるに及んで、桜尾城もこの争乱の中に組み 込まれていくようになった。

 

『陰徳太平記』によれば、永享十二年(一四四〇)、安芸銀山城主武田大膳太夫信賢は、足利幕府から厳島の神領であった佐伯郡(当時は佐西郡)を賜わったとして翌年の嘉吉元年(一四四一)に武田勢がこの地に侵入するが、厳島神社の宜佐自左近将監影剤をはじめとする厳島の社官や神領衆たちが桜尾城に立て籠り、武田勢の侵入を防いだ。

 

それから十六年後の康正三年(一四五七)には将軍足利義政から佐伯郡を再度 賜わった武田氏が、義政の命によって加勢した備後・安家の御家人たちと共に 包囲して攻めたが、周防の大内左京大夫数弘が大軍を率いて 方したため、武田軍は敗退した。

 

永正五年(一五〇八)十二月には、大内義興の上洛に従った厳島神主家の興親 が亡くなったため神主家は断絶してしまい、興親に従っていた小方加賀守・友 田上野介興藤との間に神主家の相統をめぐって対立状態が続くようになり、地 元では東軍の友田興藤に味方した宍戸治部少輔は桜尾城に立て籠もり、それに 対して西軍の小方加賀守方の新里若狭守は藤掛尾(串戸)城に籠もって相当の長 期にわたって戦った。

 

しかしながら、大内義興が帰国してこの神領地を直接支配するために、桜尾 城には新たに島田越中守を城番として置き、のちには大藤加賀守・毛利下野守 が入った。

 

ところが、この処置に不満であった友田興藤は、安芸銀山城主武田光和と手を結び、大永三年(一五二三)閨四月、大内氏に対して叛旗を翻して佐伯郡内の 諸城を攻め落とし、桜尾城に拠った。

 

これに対して大内方は同年八月、陶興房、弘中武長を大将として桜尾城を攻略し、翌年七月二十四日には大内方が本城の 二の丸まで攻め込み、城方でもこれに猛反撃を加えて多数の死傷者を出した。

 

さらに、大内方は車権を造り、北側から攻め込む作戦をとったが、依然として 戦いは膠着状態が続いた。そのため大内氏の家臣である吉見頼興が仲介に入り、 同年十月、友田上野介が大内氏に臣従することで講和が成立した。

 

その後は比較的平穏であったが、天文十年(一五四一)一月になると、山陰の尼子氏が吉田郡山城の攻撃を開始したのに呼応して、友田興藤も大内氏に対し て叛旗を翻した。

 

大内氏は、同年正月から桜尾城の攻撃に移り、同年四月五日 の夜半には城方の主要な家臣たちが逃亡したため、落城し、上野介は切腹して果てた。

 

そうして本城には大内氏の一族である鷲頭氏が城番として入 が、財明獣が大内義隆を殺害するに及んで、鷲頭氏は本城を明け渡し、代わり に新里式部・毛利与三が入って来た。

 

しかしながら、毛利氏は陶氏と断交するに及んで、厳島合戦の前年 十三年五月、本城を占拠して桂能登守元澄を入れ、西方への抑えとした。

 

元澄 が永禄十二年(一五六九)七月に死去したのちは、元就の四男穂田元清が城主として入り、慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦で敗戦の毛利氏が防長に転封され るまでは西方の政治的・軍事的な要衝の地であった。

 

本城は、標高三一mの最高所が本丸にあたり、東西三〇m×南北二五皿で、 角形を呈している。

 

この南東は約五mの急崖となって二郭に続き 五m×南北一〇mの規模を測り、さらに幅約一ヵ程度の大走りが東西 設けられ、その西端は約一mの高低差をもって三郭に連なっている。

 

東西一五×南北一〇mを測る郭である。

 

本城の裾部分の南東方向は標高二・五m程度で、往時は海が入り込み、防禦 の一端を担っていたのではなかろうか。これに対して、南西方向は標高一三日 と高く、現在、三郭に続く登山道が作られているところからみて、この方向が 大手であったと思われる。

 

『日本城郭大系』13より引用。

 

城の歴史

鎌倉時代 「芸藩通志」によれば吉見氏により築城とある。

 

室町~戦国時代 厳島神主家の藤原家の居館として320余年にわたって勢力を張る。

 

永享13年(1441):安芸国守護の武田氏が進攻するが厳島神社禰宜である佐伯左近将監親春らが桜尾城に立て籠り進入を防ぐ。

 

康正3年(1457):再度武田氏が進攻するが大内氏の助力により撃退する。(大内氏の傘下に入る)

 

永正5年(1508):大内氏に従っていた藤原興親が亡くなってしまい、友田興藤と小方加賀守が争うようになる。

 

※京都から帰国した大内義隆はこの神領地を直接支配する為に島田越中守、大藤加賀守、毛利下野守などを城代とした。

 

大永3年(1523):大内支配に不服に思った友田興藤が反乱をおこす。

 

大内4年(1524):大内氏二の丸までせめるが講和する

 

天文10年(1541):尼子氏の吉田郡山城攻略に呼応して再度大内に叛旗を翻すが今度は鎮圧され、友田興藤切腹する 鷲頭氏が城代として入る。

 

天文20年(1551):陶晴賢謀反により大内義隆自刃 鷲頭氏は城を明け渡し代わりに 新里式部、毛利与三が入城。

 

天文22年(1553):毛利氏が陶晴賢と断交して桜尾城を攻める 城代として桂元澄が入城。

 

永禄10年(1567):桂元澄が死亡したのち、毛利元就の四男である穂井田元清が城主として入る。

 

天正15年(1587):豊臣秀吉の九州征伐の時には桜尾城に立ち寄り厳島に参詣している。

 

慶長2年(1597):穂井田元清が死去。

 

慶長5年(1600):関が原の戦いにより萩へ移動、このころ廃城か。

 

大正2年(1913):桂元澄の子孫である桂太郎総理大臣が城址を永久的に保存する為に廿日市に寄付。

 

昭和42年(1967):桂太郎総理大臣の願いもむなしく 戦後の開発により城域の土砂を埋め立て用にして阿品の造成をする

 

 

城主家系図

藤原氏・友田氏関係図。

 

桂元澄・穂井田元清関係図。

 

内閣総理大臣桂太郎関係図

 

所感

●城の跡がまったくない山城だが、矢竹は発見。

 

●昔は北、東、南が海であり天然の海城

 

※昭和42年からの埋め立てで山が崩される。

 

●武田との抗争などで何度かは戦火にあう。

 

●己斐氏(己斐城城主)、新里(草津城城主)が第二郭を守っていたところに毛利元就が攻めてきたのですぐに降伏。

※その後、己斐氏と新里氏は毛利側として宮島の宮ノ尾城に入城。

 

関連URL

【広島県】水晶城【広島市佐伯区五日市町大字石内】

【広島県】草津城【広島市西区田方】

【広島県】己斐新城(平原城)【広島市西区己斐中】

毛利氏が陶氏に叛旗を翻した時に僅かな期間で攻め取った城。

【広島県】桂城【安芸高田市吉田町桂】

桂氏の桜尾城以前にいた城。

 

参考URL

桜尾城(ウッキペディア)

城郭放浪記(安芸桜尾城)

桜尾城(いにしえのロマンの郷 はつかいち)

文献からみた桜尾城(いにしえのロマンの郷 はつかいち)

桜尾城関係年表(いにしえのろマンの郷 はつかいち)

桜尾城と厳島神社神主家

厳島神主家(ウッキペディア)

武家家伝(厳島神主家)

藤原教親(戦国日本の津々浦々)

藤原興親(戦国日本の津々浦々)

友田興藤(戦国日本の津々浦々)

友田広就(戦国日本の津々浦々)

桂太郎(ウッキペディア)

 

参考文献

『芸藩通志』

『日本城郭大系』13

『廿日市市史』

『陰徳太平記』

『萩藩諸家系譜』

公開日2021/05/29

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