城データ

城名:丸子山城

標高:51m

比高:51m

築城年:南北朝時代か

城主:倉橋多賀谷氏

場所:広島県呉市倉橋町本浦

北緯東経:34.108234/132.507151

丸子山城はここ

 

 

攻城記

 

城の西側

登り口が無くうろうろする。

城の東側、こちらも登り口無し。

城の北側にある矢竹。

とにかく藪化しておりどこからも登れない状態。

強引に直登したが、最終的にこのような状態にて断念。

 

open-hinataより【丸子山城】

 

余湖図【丸子山城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

諦めて別の所にむかう。

多賀谷氏の菩提寺西蓮寺

多賀谷氏の菩提寺であった西蓮寺。

石垣が立派なお寺。

本堂。

本堂の奥に墓所がありそこに五輪塔がある。

多賀谷氏の墓である。

 

多賀谷氏の八幡神社桂浜神社

 

城の概要

城跡は,南に延びる丘陵を掘り切って独立させ,そこに郭を階段状に並べただけの構造である。

1郭は20m×30mの規模で,周囲は急斜面となっている。

2郭は1郭の10m南下にあり,そこから尾根上に六つの郭が続く。

東西の斜面上には帯郭も見られる。

城主は倉橋多賀谷氏である。

広島県中世城館遺跡総合調査報告書より引用

 

倉橋島は、古くは長門島と呼ばれ、天平八年(七三六)に遣新羅使大石華長門島に寄泊して詠んだ歌が『万葉集』に載っている。

 

この島の本浦は、古く から瀬戸内海交通の要港として知られている。

丸子山城は本浦の北、標高五〇・ 六mの尾根の南端を掘り切って築かれている。

 

この城は、伊予国周桑郡の地頭であった多賀谷氏によって築かれたと思われ るが、その時期はよくわからない。

 

ただ、同族が観応二年(正平六、一三五一) に隣の下蒲刈島に所領を得ており、康応元年(正中六、一三八九)『 苑院殿厳島詣記』にも蒲刈多賀谷氏の名が見えている。

 

このことから、南北朝 争乱期の十四世紀半ばに同族と共に北上し、倉橋島に本拠を置いたのものと考 えられる。

 

倉橋島本浦の桂浜神社には、文明十二年(一四八〇)に多賀谷氏が社殿を再建 とを示す棟札と、多賀谷氏が享徳二年(一四五三)に同社へ奉納 「箱裏墨書銘」大般若経を伝えている。

 

この大般若経は、大内品 である永上山興隆寺で書写されたものであり、大内氏と多賀谷氏の関係を知る 資料である。

 

また、倉橋町尾立の八剣神社にも、多賀谷氏が社殿を再建した旨 の文明十二年の棟札が伝えられている。

 

このように多賀谷興重に始まる倉橋多賀谷氏も、弘治元年(一五五五)の興頼・興基の時、陶方に属していたため、厳島の合戦の直後、毛利元就の軍勢によっ て攻められて城は落ち、倉橋多賀谷氏も滅亡した。

 

城の南東にある西蓮寺は多 賀谷氏の菩提寺で、興頼の墓と伝えられる五輪塔が残っている。

 

現在、城跡はほとんど畑地となっているので旧状はよくわからないが、山頂 を置いて、南の海の方へ数段の郭を持っていたものと思われる。 麓に「城ヶ岸」「馬場」の地名が伝えられている。

 

『日本城郭大系13』から引用。

 

 

倉橋多賀谷氏について

倉橋多賀谷氏の成立

室町・戦国時代、倉橋島の領主として君臨していたのは丸子山城を居城とする多賀谷氏である。

多賀谷氏 は、もともと武蔵国埼玉郡多賀谷(現在の埼玉県北埼玉郡崎西町内田ヶ谷・外田ヶ谷)を本貫とする武蔵七党に属する東国武士である。

 

源平争乱では源氏に属して活躍し、有賀平太頼基の三男小三郎光基が多賀谷を名乗 り、頼朝の随兵として側近く仕え、多賀谷地頭職を与えられた。

 

多賀谷氏惣領家は武蔵国の有力な国人領主として成長し、豊臣政権下では結城氏重臣として常陸国下妻六万国を領した。

 

さて、光基の孫家政の次男次郎入道は伊予国周敷郡北条郷の地頭職を獲得し、一三世紀前半には現地に下向 し、河野氏やその庶家重見氏との結びつきを強め、伊予衆に融合していった。

 

正平六(一三五一)年、南朝側 の三戸頼顕が懐良親王から「多賀谷孫次郎跡」下蒲刈島を兵粮料所として預け置かれていることからみて多賀谷氏は南北朝初期にはすでに蒲刈島を領有し、動乱初期には幕府側に立ち、一時地 蒲刈島を奪い取られていたことがわかる。

 

多賀谷氏による倉橋・蒲刈両島の領有は、鎌倉末〜南北朝初期における伊予衆の 北上運動の一部を成すものであった。

 

伊予衆北上の契機の一つは、元応元(一三一九)年にはじまる忽那島への海上警固番役にあったのではなかろうか。

 

河野氏を惣領と仰ぐ伊予衆は、海の武士団であった。伊予衆は忽那島での海上警固番役を口実に安芸 に出没し、現地の公文クラスの荘官・荘民らの反本所・反地頭的運動を助勢しながら勢力た ではなかろうか。

 

それは、本所・地頭からみれば「海賊」である。

 

もう一つの契機は、鎌倉幕府倒壊による混乱と讃岐守護となって下向した細川氏の伊予侵入によって、伊予 衆の多くが、細川氏の軍勢によって本貫から追い出されたことである。

 

追い出された伊予衆は、伊予島嶼部か ら安芸沿岸島嶼部に北上し、つぎつぎに定着していった。

 

周防大内氏に臣従

康応元年(一三八九)年三月、足利義満は厳島参詣を名目に、大船団を仕立てて周防大内氏や島津氏に対して示威を加えた。

 

このとき随行した九州探題今川了俊の紀行「鹿想院騒戦鳥齢認」には、三月十日、 義満の船団が音戸瀬戸にさしかかったとき、多賀谷某が来て、大内義弘建参の由を伝えたことを記している。

 

倉橋・蒲刈どちらの多賀谷氏かはわからないが、いずれにしても倉橋・蒲刈に本拠を置いた多賀谷氏は、南北朝末期には、周防大内氏に臣従していたことがわかる。

 

南北朝期に入って、防長二国の守護大名大内氏は安芸に進出し、大内氏は西条鏡山城を拠点に安芸東西条を直接支配下におさめ、安芸国人層への影響力を強めていった。

 

大水三(一五二三)年八月十日安芸東西条所々知行注文(『平賀家文書』)によると、東西条は、西条盆地から黒瀬川流域、広消から三津湾に至る沿 広大な領域であり、大内氏は鏡山城に東西条代官を置き、近隣国人層を被官人として知行地を預け置いていた。

 

その中に倉橋島 三百貫の記載がある。

 

また、一五世紀前半、倉橋島で周防大内氏と安芸分郡守護武田氏の合戦があった。

 

「益田宗兼代々軍忠条々」によれば 、石見の国人益田宗兼の祖父兼堯は、大内軍の芸州矢野・倉橋方面への出兵に出陣して手柄をたてたという。

 

この益田兼堯が矢野・倉橋方面での合戦で手柄を立てたのは、文安四年(1447)の大内・武田両軍の合戦のさいのもの ではないかと推察される。

 

武田軍は、安南郡を南下し周防と東西条の分断をはかり、大内勢力下の野間氏の矢野城と倉橋多賀谷氏の丸子山城を攻撃したのであろう。

 

大内氏は防長石の軍勢を動員して野間・倉橋多賀谷氏を救援し、芸南方面からの武田勢力を駆逐することに成功したのである。

 



 

応仁の乱と倉橋多賀谷氏

室町戦国期、呉・能美蒲刈倉橋の「三ヶ島衆」は、大内直属海賊衆として各地に転戦した 。

 

とりわけ瀬戸内西部の制海権確保や九州・四国への渡海攻略、さらには海路上洛において、重要な役割を果たした。

 

応仁元(一四六七)年、応仁の乱に際して山名宗全の西軍に応じた大内政弘は、五月十日、山口を出 防・長門・筑前・筑後・安芸・豊前・石見・伊予八ヶ国の軍勢を率いて上洛した。

 

陸路上洛軍は豊田・杉率い る周防勢と石見衆、海路上洛軍は総大将大内政弘のもと、山名小弼・陶弘房・杉・内藤ら率いる周防勢に安芸・九州衆、河野率いる伊予衆と長門衆の総勢五〇〇隻の大船団であり、この海路上洛軍の先導を勤めたのが、 能美・倉橋・呉・警固屋の海賊衆すなわち「三ヶ島衆」であった(『経覚私要抄』)。

 

海路上洛軍は七月二十日、 兵庫に上陸し、二十三日入京した。このように「三ヶ島衆」は、大内氏が軍勢・物資を海上輸送するとき、つ を勤めていたのであろう。大内氏にとって「三ヶ島衆」がいかに重要な地位を占めていたかがうかがわれる。

 

在京中の大内政弘は、文明六(一四七四)年ごろ、東西条鏡山城を守備する安富弘範に増援軍を率いて上洛をするよう命じたが、そのとき安富に具体的な指示を伝えた使者は「多賀谷筑前守」であった。

 

『芸州倉橋浦風 土記』(古事談門)所載の多賀谷氏系図は、弘治元(一五五五)年多 賀谷氏滅亡時の当主興頼の息興基の官途を「筑前守」としている。

 

当時の武士の官途は相承されることが多く、この「多賀谷筑前」も倉橋多賀谷氏とみてよい。

 

彼こそ、文明十二年、桂浜神社を再興した「弘重」である。

 

先陣海賊衆の一人として上洛したのは筑前守弘重であり、彼は在京中の大内政弘の側近に仕え、政弘と周防・安芸との連 絡の使者として活動したのである。

 

連絡が海路をとって行われたから 得賊衆が使者として遣わされたのである。

 

海賊衆同士では海路の安全は保障されれる。

呉警固屋・能美・蒲刈の海賊衆も、倉橋多賀 俅、京と安芸・周防間の連絡を命じられていたことであろう。

 

もちろん、伝令としてだけではなく、合戦にも参加した。文明九年十月、大内政弘は、防・長・筑・豊四ヶ国の守護職と東西条などを安堵されて帰国した。

 

倉橋多賀谷弘重ら「三ヶ島 衆」は、政弘帰国の先導も勤めたであろう。

 

文明十(一四七八)年十月、筑前から少弐氏の勢力を駆逐した大内軍は、三日、麻生家延の籠もる豊前花尾城を、問田弘衡・内藤弘矩らに攻略させたが、花尾城詰口から攻撃した内藤軍のなかに「呉・蒲刈・能美三ヶ島衆」がいた(『正任記』)。

 

呉衆警固屋掃部助忠秀はこのとき筑前国穂波郡吉隈十石地・嘉摩郡末房八町五反 地・同郡薦田村金丸十石地」を新恩地として給与された。

 

呉衆山本氏が知行する「豊前国中津郡貞末内参石五 斗地」(『閥閲録』巻一六八)もこの時期給与されたものであろう。大内氏の筑前侵攻で「三ヶ島衆」が大いに 活躍したことがうかがわれる。

 

同年十月二十六日、伊予河野氏の内紛において、通秋と戦っていた通春から援軍派遣を要請された政弘は、 豊前花尾城在陣中の「三ヶ島呉・能美・蒲刈船衆」を派遣できるかと、重臣たちに下問したところ、派遣可能 と答えたので、政弘は「三ヶ島衆」を通春支援のために伊予に渡海させるよう命じた。政弘は、とくにねんごろに下文を与えた(『正任記』)。

 

倉橋多賀谷氏も、当然「三ヶ島衆」として行動し、山本氏・警固屋氏などの ように新恩地を与えられたであろう。

倉橋多賀谷氏の全盛期は、この応仁・文明年間である。 

 

尼子氏の安芸侵攻

永正10年(1513)年頃から尼子経久が勢力拡大し安芸国まで支配下に治めていた。

 

尼子軍の南下を機に矢野の野間氏は積極的に尼子方につき、一気に呉地方を支配下におさめた。

 

本拠の呉・警固屋を奪われた「呉衆」は、尼子方に降伏することなく大内方にとどまった。

 

 

大内氏の反撃

その後、大内氏は大永4年(1524)、ようやく佐西郡廿日市桜尾城の厳島神主家と神領衆を従属させ、本格的反撃の準備を進めた。

 

小早川弘平は、6月5日、神領方面に派遣していた賢勝に対し、賢勝指揮下の警固衆を増強するために「倉橋右馬助」・「能美兵庫助」「長浜」「桧垣大四郎・神兵衛両人」に各1艘、自ら乗船して出陣させ、小早川からも1艘出陣させた(県史V)。

 

「倉橋右馬助」は倉橋多賀谷興重であると思われ、ここでも多賀谷・能美・呉衆檜垣氏(広の長浜を名字とす武士も呉衆の一員であろう)の「三ヶ島衆」が統一行動をとっている。

 

『広島県史』古代中世資料変Ⅴ

小早川弘平書狀(切紙)

尚々各々辛勞之儀候へ共、此節肝心候間馳走賴入候由、能々可被仰聞候、

神領面時宜如何ニ候哉、御、所、候ハん由候間待申候処、于今無其儀候、無御心元候、珍敷子細候て急度可承候、仍而近日南上野介申付下候する心中と、其方けいと(警固)之事、以廻文申候、此分其事も堅可被仰与候、然者倉橋右馬助一艘 能美兵 庫助一艘 長濱一艘 檜垣大四郎神兵衞兩人一艘乘候て罷出候 へと申付候、此方か一艘可下候間、以上五艘ニてあるへしと 其分御心得肝要候、一兩日中たるへく候、無油斷用意候て罷 出候へと可被仰与候、吳々下候時者切々可承候、恐々謹言、

六月五日 弘平(花押)

乃美備前守殿

 

大永5年(1525)3月に安芸国人衆の中心、毛利元就を帰服させることに成功した大内義興は、尼子方に対し全面攻勢に転じ、大内軍司令官陶興房は、尼子方国人衆攻略のため、各地に転戦する。

 

4月5日・6日両日、陶軍は廿日市の本陣から渡海し、矢野の野間氏を攻撃した。

 

同じ日、の作戦に呼応して瀬戸城の賢勝率いる小早川警固衆・呉衆らは呉方面から野間方を攻撃するため呉千束に上陸して「呉千束要害」(海上自衛隊呉地方総監部の掘切をはさんだ城山)を前進基地とし、集落(呉教育隊、市民公園=練兵場。近世の呉町)に火を放ちこの方面を制圧した(県史V)。

 

この戦いで呉から野間勢を排除した呉衆山本氏・檜垣氏・警固屋氏らは、ようやく旧領を回復した。

 

倉橋多賀谷氏は終始大内方に与していたが、尼子勢力下にいた野間氏と境界を接したこともあり、この戦で尼子氏(野間氏)排除をした。

 

 

倉橋多賀谷氏の滅亡

天文23(1554)年5月、毛利元就は陶晴賢との提携を破棄し、一挙に佐東銀山・己斐・草津・桜尾の諸城及び厳島を占領した。

 

晴賢の石見攻めに瀬戸賢勝の配下として参加していた呉衆・多賀谷氏・能美氏の「三ヶ島衆」は、毛利氏に人質を差し出していたが、吉見攻めの陣中にあった山本四郎賢勝は、7月、人質を見殺しに「呉惣衆中」を率いて陶=大内方に立つ意思を表明した。

 

倉橋・蒲刈両多賀谷氏、能美氏も同調した(県史V)。

 

一方、瀬戸(浦)賢勝は、8月2日の津和野合戦を最後に戦場を去り、瀬戸(音戸町)に帰った(『閥閲録』69)。

 

長い間、ともに戦った浦賢勝と三ヶ島衆は、ここで決別したのである。

 

以後、賢勝は瀬戸城を拠点に、これまで味方として戦ってきた呉衆ら「三ヶ島衆」と、敵として戦うことになる。

 

「三ヶ島衆」の大内=陶方への復帰に対抗して、8月、小早川隆景は、賢勝の帰国を待たずに呉地方を接収して呉・瀬戸に要害を建設した。

 

呉衆は帰るところを失った。

 

9月、帰国した賢勝・宗勝父子が率いる小早川警固衆、瀬戸要害・呉要害を基地に、同じ時期に帰国した陶方、白井賢胤・「三ヶ島衆」らが活動拠点とする能美島周辺に出没して敵船を攻撃し、同29日、毛利方阿曽沼軍とともに総攻撃をかけ、能美島を占拠した。

 

このとき能美氏は降服した(『閥閲録』48ほか)。

 

能美島を失った呉衆・多賀谷氏ら陶方警固衆は、10月、弘中新四郎にかわって「警固奉行人」(大内水軍総司令官)に任命された仁保島の白井賢胤の指揮下で活動することになった。

 

翌24年=弘治元年に入ると、白井賢胤率いる陶方警固衆は制海権の回復をめざし広島湾頭で活発活動を展開する。

 

「正月1日佐西郡草津、同佐東川内矢賀·尾長、 同18日佐東浦河口、3月15日呉浦を襲い、呉浦では小早川方船を1艘討ち取っている(県史V)。

 

この頃、矢野の野間隆実が毛利氏にそむき、3月晦白、白井(本拠を失った呉衆も加わっていたであろう)・野間連合軍は仁保・海田で毛利阿曽沼軍と合戦して敗れ、4月11日、隆実は毛利軍に矢野保木城を攻められ降伏した(『陰徳太平記』ほか)。

 

 

5月、小早川隆景・瀬戸(浦)宗勝の命を受けた有田拾次郎が多賀谷氏のもとに降伏をすすめる使者として派遣され、この降伏勧告を受け入れて小早川氏の軍門に降った(『閥閲録』168)。

 

この降伏勧告を拒絶した倉橋多谷氏は、8月、圧倒的な小早川軍の攻撃をうけて丸子山城は落城し、多賀谷興重は城を枕に討ち死にした。

 

落城時の様子

西蓮寺四代住職性添が享保末から元文の頃(一七三〇年代)に著作した『芸州倉橋浦風土記』に、倉橋多賀谷氏の滅亡、居城丸子山城の落城の様子を次のように描いている。

 

芸備雲石の豪族をことごとく従えた毛利元就は、彼に従わない倉橋多賀谷興頼を滅ぼそうと、何度とな く戦いを挑んできた。

弘治元年のある日、元就の軍勢が多賀谷氏の丸子山城に攻めてきた。

城兵は、八幡 宮社司の原宮内・新四郎兄弟を大将に、北は峠山、南は宮の浜の二手に別れて討って出て防戦したが、支 れずに城内に退いた。

毛利軍はすぐに攻め込んで城を包囲し、暗夜を衝いて城の東西の 大を懸けたので、城中は混乱に陥った。

興頼の長子筑前守興基が城を出て奮戦した かに取り囲まれて主従二一人全滅した。

原兄弟は城内で一歩も退かずに戦ったがつい迎え、城を脱出して原の奥の山中に逃れた。

当主興頼は城中で自害して果てた。

多賀谷累代の家臣たちはあるいは戦死しあるいは 自害した。

山中に逃れた興頼の女は剃髪して西連寺の住侶恵慶禅 尼となった。

こうして多年にわたる多賀谷氏の繁栄は一瞬のうちに滅び去った。

「之を聞く人、哀れを催さぬは無し」、「鳴呼哀し かな き哉」。

 

 

毛利統治下の倉橋

山本氏の知行となる

『譜録』(毛利家文庫二三)にみえる長州藩船手組山本藤左衛門直矩家の家伝には、倉橋島の知行 関係を知るうえで興味深い記述がある。

 

それによれば、厳島合戦後、多賀谷氏跡の倉橋島を知行した山本和泉守義長ら「三ヶ島、桧垣・脇・山県・山本之四家」は、野島村上氏に属して毛利氏船手楽として警固役を務めてきたが、それ以前どうだったかははっきりしない。

 

もとは警固衆ではなかったが、武勇を見込 物奉行」を命じられ、何回か乗船するうちに船手衆となった、という。

 

同山本五左右衛門孝伯家の家伝では先祖山本源右衛門信之が倉橋島を知行していたという。

信之は義長の同族であろう。

 

 

『毛利家文庫二三譜録や一六五』

山本藤左衛門直矩家伝書

山本和泉守義長

一芸州倉橋島領知仕居候処、 元就公厳島御合戦之砌より奉仕地ノ三ヶ島、桧垣・脇・ 山県・山本之四家御船手警固役相勤候通申伝候、野島家之手二付候哉、又者各前支配有之候哉、不分明候、 元来者御船手筋にも無御座候得共、武勇之器量御撰被成、海上物奉行トシテ上乗被仰付数度御用ニ立遂忠節 候、其後隆景公高麗御渡海之節、宮王丸と申御船御預 被成御供仕、御帰陣之時為人質カクセイと申女召連罷 帰を以其子孫罷居候通申伝候、其節御感状等数多被成 下頂戴仕居候処、執之代二粉失仕候哉、只今所持不仕候間、委細不分明候事、

 

『毛利家文庫二三 譜録や一六四』 

山本五左衛門孝伯家伝書

山本源右衛門信之

伝記不審、信之先祖芸州豊島郡倉橋島領知仕居候、其後伏見より出目御打入之節御船頭役ニ而御供申上候由申伝 候、御判物御奉書類紛失仕、時代年月等不相知候、

 

このように倉橋多賀谷氏滅亡の後には山本氏が知行したことが分かる。

 

彼ら一族が丸子山城の城主になったのかもしれない。

 

城主家系図

その他にも、一門として以下の人物がいる。

多賀谷実時:檀那として文明十二年(1480)の桂浜神社の再興に関わる。

多賀谷重勝 多賀谷実代 多賀谷実秀 多賀谷貞吉らが多賀谷興重とともに桂浜神社造営の檀那として名が見える。

多賀谷頼定 多賀谷実吉らが:多賀谷興頼ともに春日神社の檀那として名が見える。

 

 

城主石高

『平賀文書』の中に大永三年(1523)八月十日安芸東西条所々知行注文があり、倉橋島が三百貫であることが記載されている。

 

 

 

 

『芸藩通志』【丸子山城】

 

 

『芸藩通志』に加筆修正。

 

 

近隣史跡

海渡城と海渡土佐守墓

海渡地区にも城があり、また『芸藩通志』には海渡土佐守の墓が記載されている。

 

新宮神社。

この神社の奥の場所に城があったとされる。

特に平削地もないようで、別の場所なのかもしれない。

神社左の道を進んで300m位山のほうへ進んでいく。

 

海越土佐守の墓がある。

別の宝篋印塔。

五輪塔。

墓石は長い間に倒れて積み直しの跡がある。

 

島嶼部でこれだけの宝篋印塔や五輪塔をもつものは少ない、墓の形態からは室町時代後期と推定される。

 

この時期ならば倉橋多賀谷氏との関係もあり、調査研究が進めれば何かしらの発見があるかもしれない。

戦国日本の津々浦々(海越土佐守)

 

所感

●昭和の終わり頃前は城も畑として利用されており本丸も行けたようであるが、今は全く藪化になっており無理だった。

 

●近隣に西蓮寺の多賀谷氏縁の五輪塔、海越土佐守の墓など島嶼部では珍しい立派な墓石であり詳細な調査をすれば分かる事も多い。

 

●子孫は郷長となり繁栄したが、それもつかの間数世代後には凋落したようだ。

 

●現地の墓所に「多賀谷姓」の墓もあり子孫がこの場所にいると思われる。

 

関連URL

呉衆である警固屋氏。

【広島県】警固屋城・小浜山城【呉市警固屋】

呉衆で後に倉橋島に知行を得た山本氏。

【広島県】杉迫城・堀ヵ城【呉市】

呉衆で倉橋氏とも共に戦った檜垣氏。

【広島県】龍王山城【呉市阿賀中央】

 

 

参考URL

城郭放浪記(安芸丸子山城倉橋町)

戦国日本の津々浦々(丸子山城)

戦国日本の津々浦々(多賀谷興重)

戦国日本の津々浦々(多賀谷興頼)

open-hinata

 

参考文献

『倉橋町史』

『倉橋町史 資料編Ⅱ』

『音戸町誌』

『芸藩通志』

『萩藩閥閲録』

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』

『中世の呉』(呉市史編纂委員会編『呉市制100周年記念版 呉の歴史』)

『毛利家文書』

『倉橋多賀谷氏と丸子山城』

公開日2021/01/24

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