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城データ

城名:三原城

別名:浮城,玉壺城

標高:15m

比高:15m

築城年:開始:永禄10年(1567)頃 完成:慶長元年(1596)頃

城主:小早川氏、福島氏城代、浅野氏城代

場所:広島県三原市館町

北緯:東経:34.401279,133.082584

Google マップ (Google Maps) で緯度経度を指定して場所を見つける方法

※C. フォーマット「度(DD)」の場合を参照。

 

攻城記

 

駅構内からの石垣、前方の山にも詰城があった。

堂々の石垣。

小早川時代のものと考えられる。

素晴らしい石垣。

古い時代でまだ積み方が粗い。

 

天主台石垣 (館町)

 

日本一の規模を持つこの天主台は広島城の 天守閣なら六つも入るという広さを持つ。

 

三 原城が造られた一五六七年より約十年後に信 長によって安土城が造られ、初めて天主台に 天守閣が聳えるようになり、以後全国に流行 しました。

 

然しこの三原城築城の時はまだ天 守閣を造る思想のない時代だったと考えられ ます。

 

山城から平城に移行する時代のごく初 期の城築です。 この裾を引いた扇の勾配の美しい姿は群を 抜きます。

 

しかも余人は真似るべきではない と言われた「アブリ積み」という特殊の工法 は、古式の石積形式を四百年経た今日まで立 派に伝えております。

 

一七〇七年の大地震では、城内を役夫二万 五千人を動員して修理した。

 

しかし破損箇所は・・・「元のごとく成りがたかりしを、伝右門(竹原市下市)をして築がしめられけるに、 遂に築きおさめければ⋯」とあるが、これは 東北陵面のことと推測します。

 

算木積みがまだ細い。

綺麗な天守台。

ベストポジション。

昔の堀の跡か。

 

国史跡 小早川氏城跡三原城跡

昭和三十二年十二月十一日指定

所在三原市館町・本町・城町

三原城は、瀬戸内海の水軍を掌握していた小早川隆景 が、永禄十年(一五六七)沼田川河口の三原湾に浮かぶ大島・ 小島をつないで、天正十年(一五八二)前後と、慶長元年(一五九六)のころ偉容を整えたといわれる。

 

城は、海に向かって船入りを開き、城郭兼軍港として の機能をそなえた名城で、満潮時にはあたかも海に浮か んだように見えるところから浮城とも呼ばれた。

 

小早川氏のあと福島氏、浅野氏の支城となり、明治維新後、一時海軍鎮守府用地となったが、沼田川の堆積作用などを理由に変更され、建物・樹木などが競売に付さ れた。

 

その後、鉄道が本丸を貫き、明治二十七年(一八九四) 六月には、三原駅が開業した。

 

今では、市街化がすすみ、天主台とそれをめくる湊、 船入跡、船入橋跡及び本丸中門跡を残すのみである。

 

三原市教育委員会

鉄道が引かれてしまったのは残念。

駅構内から天守台に行くことが可能。

看板綺麗にしたほうがいいと思う。

公園化されている。

天守台からみた風景。

本当に綺麗な石垣になっている。

周辺部を散策するといたるところにまだ残っている。

 

本丸中門跡。

三原城臨海一番櫓址。

天守台以外ではこの辺りが見どころ。

余湖図【三原城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

『正保絵図』備後国之内三原城所絵図

城の概要

城の遺構は,埋立てや掘削によって,天守台の南側や,本丸・二の丸・三の丸の大部分がJR三原駅と駅前商店街になっている。

 

天守台北側の石垣やそれを巡る堀跡,本丸中門跡,船入り跡,船入櫓跡等が点在して原状を留めている。原状を推定復元すれば,東西が和久原川から恵下谷川までの範囲で,北側は桜山の麓にまで達する台形をしている。

 

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用

 

 

三原城跡

三原市城町・館町・港町.本町

 

小早川隆景が三原湾に浮ぶ大島・小島をつないで築城 たまつぼ した海城。浮城・玉壺城ともいう。

 

国指定史跡。東西約 一・一キロ、南北約七二〇メートル。小早川家系図に水禄 一〇年(一五六七)二月三原城を築くとある。天文二二年( 一五五三)三月一五日付で毛利隆元から隆景のもとに三原要 害在番として八幡原元直が遣わされており「関閣鉄」所収 志賀茂右衛門家文書)、この三原要害が三原城築城の土台となった。

 

近世以前における三原城の規模は明らかでないが、降景によって修増築が行われ、慶長元年(一五九六)にいちおう完成したとみられる。

 

天正五年(一五七七)石山合戦に備えて隆景が笠岡(現闘山県笠闘市)に在陣したとき、三原城 は毛利輝元の本営となり、次いで織田方との全面戦争に 突入すると、同八年七月、毛利氏の宿老粟屋元通が在番 して、城の切搦などを堅固に造るなど修築を行っている (「閣閣録」所収粟屋縫殿家文書)。

 

天正九年末からの輝元の在 陣を契機に再び修築が進められ、隆景の家臣礒兼景道、 輝元から遣わされた妙寿寺周泉により、木梨衆に夫役を 負担させて行われた(同書所収磁兼求馬家文書)。

 

同年六月四日の高松城(現岡山県岡山市)攻めの講和のあと帰城した降 景は、六月二〇日から諸村の者を動員して昼夜兼行で堀普請をすすめ(同文書)、翌年にかけて城下町を建設し(同書 所収飯田平右衛門家文書)、この頃城下周辺の山麓に沼田地方(現豊田郡本郷町一帯)から多くの寺院を移した。隆景が新高山城(現同町)から当城に本拠を移したのはこの頃と考え られる。

 

天正一五年三月二六日付の豊臣秀吉朱印状(小早川家文 書)によると、九州出兵の秀吉が三月一三、一四、一五日 に三原に滞在したときにも、入念に普請して迎えている。

 

隆景は四国・九州に転封しても三原城を本拠城とし、文 禄四年(一五九五)一一月、隠居して九州から三原城に帰っ た。帰城にあたってまず居所の完成を急がせ、翌慶長元 ⋯一月から一二月に大規模な再建工事を行い、八幡衆などを動員、溜所を設け、城の東門を建造している(「閥閲録遺漏」所叹国貞平左衛門家文書)。

 

仏通禅寺住持記(「三原市 史」所収)の貼紙によると、このとき新高山城の石垣を取りこわし、大石を残らず三原に運んだとある。

 

「増補三原 志稿」所収の慶長年間のものという記録に「本丸 東西 六十四間南北十三間九一門」「丸東百 八十五間南北九十間櫓七」「三丸 本丸より長に当り 尺難知三」「東大手曲輪尺難知五」「西大手 曲輪 東西百八十間南北九十二間櫓八」とあり、櫓 数三二(うち平槽一)、門数一四(うち櫓門一)で、堀について は「本丸西北堀陌十六間深一丈二尺」「大手堀陌七 間乃至十三間深五尺乃至尺」「三丸东堀陌十三 深八九尺」と記す。

 

『広島県の地名』より抜粋。

 

三原城

三原城は、沼田川河口の三原浦に浮かぶ大島・小島を基盤として築城された海城であった。

 

現在、ほとんど埋め立てられて市街地となっているが、往時、満潮 の雄姿は、まさに「浮城」の別名にふさわしい眺めであったろう。

 

創建者小早川隆景は竹原小早川家から惣領家沼田小早川家を継いでまもない 天文二十一年(一五五二)六月、高山城から沼田川を隔てた対岸に新高山城を修築して本拠地とした。

 

彼は次兄吉川元春が山陰を支配下に置いたのに対し、因 島村上氏をはじめとする瀬戸内海上勢力の統御や、情報収集の必要から、三原浦に前進中継基地として要害を設けた。

 

『萩落閥閱録』には、同二十二年三月、 八幡六郎右衛門尉が三原要害の在番を申し付けられているのがみえる。

 

その後、 織田信長の内海地域西進による戦闘の激化に伴い、三原要害は一段と重要性を 増し、三原城として発展・整備されていくことになる。

 

『日本城郭大系』13より抜粋。

 

城の歴史

永禄10年(1567):小早川隆景が三原湾に浮かず大島・小島を繋いで整え始める。

天正8年(1580):新高山城から石垣や部材を移動し始め本格的に築城し始める。

慶長元年(1596):このころ完成。

慶長2年(1597):小早川隆景死去。

慶長5年(1600):関ケ原の戦いで毛利氏から福島氏になり福島正之が城代となる。

元和5年(1619):福島氏から浅野氏に代わり家老の浅野忠吉が城代になる。

 

城代関係図

城代福島正之関係図。

三原城城代浅野家関係図。

 

城主石高

浅野時代は3万石であった。

 

所感

●かなり立派な石垣から豊臣政権の中で5大老だった当時の威信が感じられる。

●明治維新後の急激な開発で現在は海はかなり先になってしまったが、当時は浮城の名にふさわしい城であった。

●天守台まわりだけでなく、周辺にもまだ遺構が残っているので散策するのが良い。

●正面の山は桜山城といって詰城だったらしい。

 

関連URL

【広島県】広島城【広島市中区基町】

主家の城である広島城。

 

参考URL

三原城(三原市)

三原城(ウッキペディア)

城郭放浪記(備後三原城)

福島正之(ウッキペディア)

浅野忠吉(ウッキペディア)

 

参考文献

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』

『日本城郭大系』13

『広島県の地名』

『広島県地名大辞典』

公開日2021/05/23

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