城データ

城名:松山城

別名:勝山城,金亀城

標高:132m

比高:100m

築城年:慶長7年(1602)に加藤嘉明によって築城。

城主:加藤嘉明、松平(久松)氏

場所:愛媛県松山市丸ノ内

北緯:東経:33.845495/132.765541

松山城はここ

 

 

攻城記

 

松山城遠景。

日本三大平山城の1つらしい。

 

二の丸の石垣。

歩いて本丸まで登っていく。

脇道にそれて二の丸付近の石垣を堪能する。

二の丸付近の石垣。

藩主は二の丸に居住してらしい。

本丸付近に到着。

高石垣に圧巻。

揚木戸門跡。

青空と高石垣。

天守閣に近づいていく。

天守閣が見える。

筒井門。

しっかりした井戸もある。

天守閣。

松山市内を一望。

現存12天守の1つ。

天守閣近景。

天守閣からの風景。

狭間.

天守閣周辺部石垣。

降りていく。

途中に瓦の残骸があった。

麓の大井戸。

 

open-hinataより【松山城】

 

 

 

余湖図【松山城】

 

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

松山城のGoogleearth

 

 

城の概要

松山城の沿革
松山城の創建者は、加藤嘉明である。嘉明は、永禄6年(1563)に三河国(愛知県)永良郷賀気村に生まれた。

父広明は徳川氏譜代の武士であったが6歳の時に美濃国(岐阜県)で逝去した。孤児となった嘉明は諸国を流浪し、やがて羽柴秀吉に見出されてその家臣となった。

 

20歳の時賤ヶ岳の合戦に加わり、七本槍の一人として、武勲をたてたことは余りにも有名である。

その後従五位下、左馬助に補せられ、文禄の役の戦功によって伊予国正木(伊予郡松前町)六万石の城主に封ぜられた。

 

その後慶長の役(1597)においても活躍し、十万石に加増され、慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いに徳川家康に従軍し、その戦功が認められて二十万石となった。

 

そこで嘉明は同7年(1602)に道後平野の中枢部にある勝山に城郭を、その周辺部に城下町を築くため、足立重信を普請奉行に命じて工事に着手した。

 

翌8年(1603)10月に嘉明は、家臣および正木の住民とともに居を新城下に移すこととなり、初めて松山という名称が公けにされ、その後も工事は継続された。

 

当時の天守閣は五層で偉観を誇っていた。嘉明は松山にあること25年、寛永4年(1627)に会津へ移った。

 

その後へ蒲生氏郷の孫忠知が出羽国(山形県)上ノ山城から入国し二之丸の造営を完成した。

 

在城僅か7年のち寛永11年(1634)8月参勤交代の途中京都で病没し、嗣子がなかったので断絶した。

 

その後、寛永12年(1635)7月伊勢国(三重県)桑名城主松平定行が松山城主15万石に封ぜられて以来世襲して、明治維新に至った。

 

なお天守閣は、寛永19年(1642)に三層に改築されたが、天明4年(1784)落雷で焼失した。文政3年(1820)から再建工事を企画し、35年の歳月を経て、安政元年(1854)に復興した。これが現在の天守閣である。

 

標高132メートルの勝山山頂に本丸を置き、中腹に二之丸、山麓に三之丸(堀之内)を置いた。

 

広大な規模を持ち、姫路城、和歌山城とともに典型的な連立式平山城である。

 

看板より

 

松山城松山市丸之内

加藤嘉明が慶長七年(一六〇二)正月に築城の工を起とし、 蒲生氏を経て、寛永一二年(一六三五)松平定行の入城以来 明治維新まで、松山藩主松平氏の居城であった。重要文 化財。

 

慶長六年に、加藤嘉明は徳川家康に対して勝山に築城 する旨を請願して、許可を受けた(内山家記、近江水口加藤家譜)。

 

嘉明は本丸の位置について、天山と御幸寺山と勝山 あま 2ヵ所を候補地として申請したところ、勝山が許れたとの説話がある(松山個人談)。

 

この伝承は広く世に知 られているが、これは伝説であって歴史上の根拠は発見されない。また勝山は南北の二峰あるいは三峰に分れて いたが、築城に際して谷の部分を埋めたとの伝説がある。

 

谷にあたるいまの郷土芸術館付近を小谷と称したこと、 またこの地にかつて小谷山雲祥寺があったことから想像 すると、その埋立工事の規模の大小は別問題としても、 この説話は信用してよいであろう。

 

翌七年正月一五日の吉日をトして、勝山築城の工を起 こした。

 

普請奉行となってその局に当たったのは、足立半右衛門重信であった。

 

まず本丸・二の丸・堀之内(三の丸を含む)の位置が決定され、石塁の構築に全力が集中さ れた。

 

この時使用された石材は、付近の山地から積み出されたものも少なくなかったであろうが、すでに廃城と なっていた湯築城および伊予郡正木(松前)城から運搬されたものも多かった。

 

『愛媛県の地名』から一部抜粋

 

松山城

慶長五年の関ケ原の戦に際し、徳川家康の東軍に属した伊予国正木(伊予郡 松前町)十万石の城主加藤嘉明が、その戦功によって十万石を加増されたあと、 道後平野の中心部にある勝山(味酒山)に新しく築いた平山城である。

 

これが松山城の名で呼ばれるようになったのは同八年に嘉明が正木から新城に移り城下町を「松山」と命名したことによる。

 

『加藤家譜』によれば、嘉明は永禄六年(一五六三)、三河国永良郷に生まれている。

 

本名を孫六といった。もともと加藤姓を名のったのではない。父は岸教明といい、徳川氏に仕えていたが、同五年に主家に背いて一向一揆に加わり、 浪人した。

 

嘉明はその長男であるが、幼くして孤児となる。若い頃に馬喰をしていたという記録が滋賀県水口町の加藤家や同町細野家に残っている。

 

ずいぶ ん苦労もしたらしいが、馬をあやつることの巧みな彼は、そのため近江で加藤 景泰に見いだされ、さらに羽柴秀吉に推薦された。

 

秀吉は嘉明を景泰の養子にさせたうえで自分の小姓に加え、この時から加藤姓を名のるようになった。

 

秀吉に従って天正六年(一五七八)三月の三木城攻略に初陣するが、同十一年 の賤ケ嶽の戦いで七本槍の一人となり、三千石を与えられた。

 

以後、戦陣に明 暮れ、同十三年の四国征伐では従五位下左馬助に叙せられ、翌年初め 志智一万五千石の城主となり、さらに三万石に加増される。

 

文禄・慶長の二度 の朝鮮出兵に従軍しているが、文禄の役の功績によって旧領に合わせ、伊予国 で六万石、さらに公領四万石の管理を合わせ、正木十万石の城主となった。

 

文禄四年七月である。この時、新しく領有した伊予の所領は、『加藤家文書』に よれば、浮穴郡二万三千石、和気郡六千七百二十七石余、温泉郡七千四十石余、 予郡三千五百四十二石余であった。

 

慶長の再征では二千四百の伊予水軍 の島で敵の水帥元均の水軍を破っている。

 

征韓の役中に秀吉が没し 分け目の関ケ原では徳川家康の東軍に属し、戦後の論功行賞では伊予 いて二十万石を与えられ、松山城を築くのである。

 

『日本城郭大系』16より一部抜粋。

 

城の歴史

(ウッキペディア)より

  • 1602年(慶長7年)、伊予国正木城(松前)城主10万石の大名であった加藤嘉明[注釈 2]が、関ヶ原の戦いでの戦功により20万石に加増され、足立重信を普請奉行に任じ、麓に二之丸(二之丸史跡庭園)と三之丸(堀之内)を有する平山城の築城に着手。

 

  • 1603年(慶長8年)10月、嘉明が、この地を「松山」と呼ぶこととし、松山という地名が公式に誕生した。

 

  • 1627年(寛永4年)、嘉明は、松山城の完成前に会津藩へ転封となり、蒲生忠知(蒲生氏郷の孫)が、24万石の松山藩主になる。

 

  • 1634年(寛永11年)8月、忠知が参勤交代の途中に死去し、蒲生家が断絶する。そのため大洲藩主、加藤泰興が松山城を預かる(松山城在番)。城在番中に替地の申し出が、幕府になされる。

 

  • 1635年(寛永12年)7月に松平定行が15万石の藩主となり、松山城に居城。

 

  • 1642年(寛永19年)、創建当初5重であったという天守を、定行が3重に改築する。

 

  • 1784年(天明4年)、天守を含む本壇の主な建物が、落雷により焼失。

 

  • 1854年(安政元年)2月8日、第12代藩主勝善が大天守以下、本丸本壇を再建。

 

家系図

 

城主石高

加藤時代:20万石。

蒲生時代:24万石。

松平時代:15万石。

 

所感

●近代城郭の代表的な城であり完成まで約30年かかっている。

 

●石垣の美しさや広大さは秀逸。

 

●井戸が44mあり当時の技術では不可能であったらしい。

 

※どうも谷にあった井戸を谷を埋めた為結果的に44mになったらしい。

 

●天守閣からみる松山城下町は景色もよく、さらに瀬戸内海まで見えるので気持ちが良い。

 

●目の前には伊予国の守護大名であった河野氏の城である湯築城がみえる

 

 

関連URL

【愛媛県】今治城【今治市通町】

弟の松平定房の城。

 

参考URL

松山城(公式)

松山城(ウッキペディア)

城郭放浪記(伊予松山城)

加藤嘉明(ウッキペディア)

蒲生忠知(ウッキペディア)

松平定行(ウッキペディア)

open-hinata

 

参考文献

『愛媛県の地名』

『日本城郭大系』16

公開日2021/06/12

 

ホームに戻る

攻城一覧

 

 



Copyright © 山城攻城記 All Rights Reserved.