城データ

城名:大洲城

別名:比志城、地蔵ヶ嶽城、大津城

標高:43m

比高:30m

築城年:元徳2年(1330)

城主:宇都宮氏、藤堂氏、脇坂氏、加藤氏

場所:愛媛県大洲市大洲

北緯:東経:33.509456/132.541364

大洲城はここ

 

 

攻城記

下台所。

付近の石垣。

下台所からみた天守閣。

二の丸御殿跡。

看板が劣化しており読みにくい。

高石垣。

ここにも藤堂高虎の築城の凄さが伝わってくる。

御門番長屋。

玉櫓跡。

大洲城全景。

鉄砲櫓跡。

裏から進んでいる。

天守閣の石垣。

本丸廻り櫓跡。

素晴らしい石垣、藤堂高虎の凄さを改めて認識。

瓦の残骸も残っていた。

かま櫓跡。

井戸跡。

天守閣(復元天守)。

暗り門跡。

城の中に入っていくと、天守閣の模型がある。

大洲城の古地図。

元禄5年(1692)の古地図らしい。

天守閣から見た大洲市。

大井戸、まだ水があった。

まだ算木積みではない。

川の向かい側からみた大洲城。

 

open-hinataより【大洲城】

 

 

余湖図【大洲城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の概要

大洲城跡大洲市大洲

西流する肱川が、山間部から大洲盆地に入ってすぐ北 西から北東方向に曲流する攻撃斜面の深淵に臨み、北流 する久米川が西側をめぐる小丘上にある。

 

古くは地蔵ヶ岳城・亀の城・大津城ともいった。宇都宮氏八代にわ たる根城地蔵ヶ岳が天正一三年(一五八五)開城させられた のち、戸田・池田・藤堂・脇坂・加藤の諸氏が城主とな った。

 

近世城郭として大津城が建設・整備されたのは、 藤堂・脇坂両氏が城主の頃慶長年間(一五九六-一六一五) とみられる。

 

本郭の位置は現在と大きな変動はないが、度々城郭の 修築が行われた。

 

高さ三間の石垣に囲まれた山上の本丸 は、南北三〇間、東西二〇間で、西南の隅に四重四層の 天守閣を構え、その東の台所櫓とその南の高欄櫓は、渡櫓でつながれた複連結式天守閣であった。

 

山下にあって 高さ三間の石垣に囲まれた二の丸は、東西八六間、南北 一〇三間、西側から南側にかけて幅一〇間の内堀をめぐ らし、太鼓・鉄砲など七櫓と冠木門・穴門・脇小門のほ か数個の小門があった。

 

本丸・二の丸の東南にあり、南 北に幅一五間の堀(南半分は蓮池)をめぐらした三の丸の一 郭には苧綿櫓をはじめ六櫓があり、ほかに南隅櫓ほか数 個の隅櫓があり土塀でこれをつないでいる。

 

三の丸の大 部分は城の西部から南部を占め、鉤の手に侍屋敷が並び、城南椎の森丘陵に続いていた。

 

『愛媛県の地名』より一部抜粋。

 

大洲城

「宇都宮氏系図」によると、元徳二年(一三三〇)、宇都宮豊房が伊予国の守護職に任ぜられて喜多郡を領し、翌元徳三年、地蔵嶽に新城を築き、「地蔵嶽城」 称したとある。

 

山の名は中腹に石の地蔵が祀ってあったことにちなむという。

 

代々宇都宮氏の居城となったが、戦国時代の天正八年(一五八〇)、宇都宮氏の家老だった大野直之が城主となり、さらに戸田勝隆・藤堂高虎・脇坂安治を経て加藤貞泰が継ぎ、以後、明治維新まで大洲六万石加藤氏の居城として続いた。

 

しかし、近世に入ってからの城郭は戸田・藤堂・脇坂と三代続いた間 に逐次整備されたものであり、それ以前の地蔵嶽城と呼ばれていた時代の中世城郭は、新城の建設の中で埋没したものと考えられる。

 

ところで、宇都宮豊房が地蔵嶽に新城を築く以前の源平合戦当時、この地方 に比志城と呼ばれる城塞があり、『予陽河野家譜』や『予章記』によると、文治元年(一一八五)一月、平氏の与党である阿波の田内則能が伊予に侵入、河野通 信が守る比志城を攻めたとある。

 

あるいはこの比志城も地蔵嶽に築かれていた のではないかといわれる。つまり「比志」は肱川の「ヒジ」であり、川の流れ に沿った地点にあったもので、それが地蔵嶽であったというのである。

 

しかし 比志城と地蔵嶽城を結びつける確かな根拠となるものはなに一つない。

 

“宇都宮氏は豊房のあと、宗泰ー泰輔―家網―安網ー宣網―清網ー豊網が代々、 地蔵嶽城主を継いだ。

 

この間、地蔵嶽城はたびたびの戦火を浴びるが 代末期、豊綱は大野氏に退けられた。

 

地蔵嶽城が大津城と呼ばれ、さらに大洲 城となったのは、江戸時代の大洲藩二代藩主の加藤泰興の治世である。

 

現在、大洲城跡には本丸を中心とする石垣と台所櫓・高欄櫓・三の丸の南隅 櫓・学織櫓、それに内堀の一部が残るだけで、四層四重の天守閣や多くの櫓・ 門は明治時代に なって取り壊された。そして史跡の指定地域と なっているのは 旧本丸と二の丸 の一部である。

 

『日本城郭大系』15より一部抜粋。

 

城の歴史

大洲城のはじまり(1331〜)

大洲はもと港を意味する「津」という文字を用い、大津と称していました。大津における城の創建は、元弘元年(1331)伊予国守護の宇都宮豊房に遡ります。

 

戦国末期の永禄11年(1568)までの237年の間、字都宮氏の居城でした。永禄11年(1568)宇都宮は河野・毛利連合軍に敗れ、城は河野の部将大野直昌が預かるところとなりました。

 

小早川隆景・戸田勝隆の時代(1585〜)

天正13年(1585)、羽柴秀吉は四国平定を果たします。この戦いで、大野直昌の弟直之が秀吉方の小早川・吉川連合軍に敗れました。

 

戦後、小早川隆景は、伊予35万石を与えられ湯月城を居城とし、大津城を枝城としました。

 

降景が九州に転封となった天正15年(1587)、戸田勝隆が字和・喜多郡16万石を封ぜられ主城を大津とし、板島、松葉、黒瀬の各城には城代を置きました。

 

藤堂高虎の時代(1594〜)

文禄3年(1594)に朝鮮で病死した勝隆の後を受け、文禄4年(1595)6月に藤堂高虎が宇和郡板島7万石の城主として封ぜられました。

 

併せて宇和、喜多、浮穴各郡約6万6千石の歳入り代官を命じられた高虎は、板島に城代を置き、大津城を居城としました。

 

慶長5年(1600)高虎は、今張国分山城を追増され20万石となり、さらに、慶長7年(1602)には今治城の普請を始め、大津には後子の高吉を城代に据えました。

 

慶長10年(1605)奉行田中林斎は、命を受けて城下に塩屋町を創設した商人に、褒状を送っています。

 

このころから大津が城下町としての形態を整え始めたのです。

 

脇坂安治の時代(1609〜)

慶長14年(1609)、淡路国洲本より高虎と同じ近江出身の脇坂安治が喜多、浮穴、風早の三郡において5万3500右を与えられ、大津城を居城としました。

 

これは、高虎の後,瀬戸内対岸の福島正則に対する備えであったと解する見方もあります。

 

脇坂は、給人所法度や庄屋体制を確立し、大津藩での近世的封建制度を形付けたと考えられています。

 

脇坂は、元和3年(1617)5万5000石で信濃飯田城主として移りました。

 

大洲城天守の基本設計を行った(故)宮上茂隆氏は、脇坂安治が当天守を洲本から移築し、併せて地名を大津から大洲に変更したのではないかと推定しています。

 

加藤貞泰の時代(1617〜)

同年、佰普国米子から加藤貞泰が6万石で大津城に入城します。

 

以来、加藤氏の治世は版籍奉還まで続きました。加藤氏入城の際には、すでに城郭の大枠はほぼ整備されていたものと考えられます。

 

城内の掲示板より。

 

城主石高

小早川隆景時代:伊予35万石の支城となる。

戸田勝隆時代:16万石。

藤堂高虎時代:6万6000石の代官を命じられる。

脇坂安治時代:5万3500石。

加藤貞泰時代:6万石。以後明治維新まで続く。

 

所感

●平成16年に復元されているが昔ながらの工法で再建された素晴らしい城。

 

●中世時代の地蔵嶽城の遺構は散策しても無かった、藤堂高虎時代の大改修で跡形もなくなったと思われる。

 

●大きな井戸があり、水も残っていた。

 

●石垣の素晴らしさは、さすが藤堂高虎築城だけのことはある。

 

関連URL

【愛媛県】宇和島城【宇和島市丸の内】

【愛媛県】今治城【今治市通町】

これらも藤堂高虎築城の城。

 

参考URL

大洲城(公式)

大洲城(ウッキペディア)

城郭放浪記(伊予大洲城)

伊予宇都宮氏(ウッキペディア)

武家家伝(伊予宇都宮氏)

open-hinata

 

参考文献

『日本城郭大系』15

『愛媛県の地名』

公開日2021/06/06

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