城データ

城名:新高山城

標高:198m

比高:186m

築城年:天文21年(1552)に小早川隆景が隣の高山城から移動。ただし小早川雅平が砦として築城したともある。

城主:小早川隆景

場所:広島県三原市本郷町

北緯:東経:34.419958/132.975543

新高山城はここ

 

 

攻城記

圧倒的な看板でお出迎え。

 

史跡 小早川氏城跡(新高山城跡)

指定年月日 昭和32年(1957年)2月11日

所在地 三原市本郷町本郷・船木

 

小早川氏の祖、土肥実平・遠平父子は、源頼朝の平氏追討に当って終始勲功をたて、はじめ備前、備中、備後の三国の守護の地位を与えられたが、安芸国沼田荘(沼田川流域一帯、蓮華王院領)の地頭職を得ると一族あげて相模国から西遷して来た。

 

鎌倉・室町時代を通じて沼田小早川氏が本拠地とした山城は、沼田川対岸の高山城であったが、沼田小早川家を継いだ隆景は、これまで高山城の副塁であった新高山城の大改修を行ない、天文21年(1552)にここに本拠を移した。

 

以来慶長元年(1596)に三原城に移るまでの45年間、この新高山城が小早川氏の本拠となった。

 

この城郭は、標高197.6mの新高山城の天嶮を利用した山城で東西400m、南北500mの全山を城塞としている。

 

山頂尾根を削平した本丸、二の丸、三の丸など各種の郭は60余に及ぶ広大なもので、城主や家臣の居館を山上にあげた中世山城から近世の城郭への過渡期を示す城郭である。

 

三原市

 

三原市が新高山城を押しているのが良く分かる。

 

鐘の段。

匡真寺跡。

綺麗に整備されておりよく分かる遺構。

釣井の段

井戸郭でこの場所に6か所の石積井戸がある。

新高山城の石垣は三原城築城の時にかなり移設された為ほとんど残っていないが、ここは残存されている。

山頂。

抜群の眺望。

当時は麓まで海であり舟も行きかっていたようだ。

正面には高山城が見える。

 

宗光寺

国重要文化財

宗光寺山門一宇

昭和二十八年十一月十四日指定

所在 三原市本町一九七二番地

 

宗光寺山門は、小早川隆景の居城であった豊田郡 本郷町の新高山城の城門で、隆景によって当寺に移 築されたものと伝えられている。

 

四足門の切妻造り本瓦ぶきで、桃山文化の趣を伝 えるすぐれた蟇股の彫刻類、木割りの未確立のとき 建てられているなど、桃山時代の特色をもつ建築物 である。

 

中世に沼田荘の経営にあたっていた小早川氏は、 毛利元就の三男隆景を養子に迎え、瀬戸内海の水軍 を手中に収め、毛利氏の一翼をになって中国統一に 乗り出したが、本郷の地は海岸より離れているので、 水陸交通の要にあたる三原の地に三原城を築城した。

 

この際、沼田地方から移築されたと伝える寺院は 少なくない。宗光寺・香積寺・正法寺・成就寺.中 台院(以上本町)大善寺・寿徳寺・釜山寺(以上 西町)・極楽寺・観音寺(以上東町)などがそれである。

 

三原市教育委員会

 

この山門が当時新高山城の城門だったようだ。

いかにも古そうな門。

 

位置関係

 

open-hinataより【新高山城】

 

余湖図【新高山城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

『芸藩通志』新高山城

青が新高山城で赤が高山城。

 

城の概要

概要

1郭は北と南西隅に虎口があり,南西の虎口には土塁囲みの桝形が確認できる。

 

この郭の西・北辺には石垣が用いられている。1郭の北下の郭には石垣,石塁,井戸がある。

 

2郭は南側に石段があり,そこから西の郭群に向かうルートと,南下に向かい4の匡真寺に続くルートに分かれる。

 

3は東・西端に土塁があり,特に東は土塁と2の郭の切岸によって堀切状になっている。

 

3の郭から西さらに北へ向かう尾根筋上には各所に石垣がみられ,連絡路には折がn,また西下には畝状空堀群がある。

 

4の南には西辺に土塁を有する5の郭があり,その四周に郭が巡る。5の北下には横堀状の堀底道が通る。

 

4の東にある尾根筋には登城路と,登城路に面する側に土塁を設けた三つの郭が並ぶ。

 

本城跡は小早川氏の本拠の城で,16世紀半ば頃に東の高山城から移り,その後三原城に本拠を移すまで使用された城である。

 

城内の様子は『小早川家文書」に収められている1561(永禄4)年の「毛利元就父子雄高山行向滞留日記」に詳しい。これによると,匡真寺,能舞台,会所,高間,宴座敷などの施設がみられ,井上春忠,桂右衛門大夫の屋敷も城内にあったと考えられる。

 

 

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用

 

新高山城跡 本郷町本郷.船木

沼田川西岸に位置し、対岸の高山城跡、三原城跡(現三原市)とともに、小早川氏の居城で国指定史跡。

 

標高約一 九〇メートル。「国郡志下調書出帳」には沼田小早川雅平 が高山城の副塁として築城したと記す。

 

仏通禅寺住持記 の天文二〇年(二五五二の項に「十月十三日、毛利之三男 高山入城、両新田牢籠、高山城易」、同二一年の項には 「壬子歳六月十一日新高山普請始、同廿六日降景ワタマシ アリ」とあり、同一九年に沼田小早川家を相続した隆景 は、翌二〇年に高山城に入城したが、翌二一年に新高山 城を改修して本拠城としたことが知られる。

 

同書の付紙 によると、隆景が慶長元年(一五九六)の秋、当城の石垣を 取壊して三原城に移すまで、この城は沼田小早川氏の本 拠であった。

 

当城は、本丸・東の丸・中の丸・西の丸・北の丸・井戸郭(釣井の段)・匡真寺(現三原市宗光寺)・鐘の段・土塁・ 空堀などが巧みに配置された広大な山城で本丸跡・中の丸跡には大規模な建 物の礎石が現存し、山上には慶長元年に取壊したときに 取残した大石などもみられる。

 

中世の山城から近世の平 城への移行期の城として貴重である。

『広島県の地名』より引用

 

 

新高山城は、山陽本線本郷駅の北西約一・五畑にあり、沼田川右岸に屹立する峻嶮にして豪壮・雄大な近世過渡期の山城である。

 

左岸には当城と対峙して 小早川氏の旧城の高山城がある。標高約二〇〇mに近い頂上の尾根筋の郭群からは沼田荘のほぼ全域が見渡せると共に、沼田川から三原浦へ向かう眺望に優れ、水運にも恵まれている。

 

本家の沼田小早川家を継いでまもなく、隆景は天文二十一年六月、それまで 対岸の砦にすぎなかったこの地に、本格的な修築を行なって本拠地を移した。

 

このことは、彼が後に三原浦の三原要害を「城郭兼軍港」の三原城として整備し、瀬戸内海上勢力の掌握に努めたことと考え合わせると、時代の要請とはい え、彼の城地の見立て、洞察力がきわめて優れていたことを物語っている。

 

隆景は天文二年、毛利元就の三男として吉田の郡山城内で生まれた。そして 同十三年、弱冠十二歳であったが、当時周防・安芸に勢威を振るっていた大内義隆の強い勧めを受けて、小早川氏の有力庶家である竹原小早川家を継いだ。

 

彼は早速、大内方の第一線として小早川氏の軍勢を率いて備後神辺城攻撃に参加し、目覚ましい活躍をみせている。

 

ところが、このような竹原小早川家の勢力増大に対して、惣領家である沼田小早川家は大内氏の信頼が得られず、また当主に不幸が続いたことから、その 影は薄れがちとなっていった。

 

このため惣領家の家臣団の中から沼田・竹原両 小早川家の合体論が持ち上がり、乃美隆興を中心とする隆景迎立派と田坂入道全慶を中心とする反対派が争ったが、結局反対派は押し切られた。

 

もちろん、 この陰に毛利元就の強力な支援があったことは容易に想像できる。

 

こうして、天文十九年、隆景は十八歳で沼田小早川家の養子となり、当主の 又鶴丸(繁平)の妹と婚礼の儀を執り行なった。盲目の又鶴丸は、意に反し隠居の身となり、仏門に帰依することとなる。

 

天文二十年十月十三日、竹原小早川家の本拠地木村城(竹原市新庄町)を出た 隆景は、家臣団を伴って高山城に入ったが、その後八か月を経て、対岸の新高 山城に本拠を移すのである。

 

その後、彼は、永禄十年(一五六七)頃から三原城を前進基地として重視し、その修築に力をそそぐようになる。晩年の慶長元年 (一五九六)には、三原を隠居所とするため、新高山城の石垣の大石を残らず三原へ引いたといわれている。

 

しかし、その間四十五年間は新高山城を本拠地 として使用している。つまり、新高山城は、隆景が完成させ、家臣団と共にこ の広壮な山上の居館で生活し、やがて彼みずからが破壊した彼一代の城郭であ た。

 

破壊したとはいえ、なお各所に石垣や土塁・礎石が残り、往時の威風を充分にとどめている。

 

記録によれば、彼の父元就や兄隆元も、永禄四年にこの 城を訪れ、山上の居館で茶会や能舞を楽しんだといわれている。

 

城の繩張りは東西四〇〇m×南北五〇〇mで、山そのものは七〇〇m×九〇 〇mあり、北側と東側は沼田川が天然の濠をなし、南側は谷が奥深く入ってい る。

 

内郭を構成する本丸・二の丸・三の丸は頂上尾根を削平して連設し、南斜 面の中腹から派生した二本の枝尾根を中心にして、各種の外郭が巧妙に配置さ れている。

 

その主要なものについてながめてみよう。

 

本丸跡

山頂尾根筋を削平した四段からなり、東西一二五mに及ぶ広大な郭で、西側 と北側の斜面は巨石による石垣で補強している。東端の最高所は巨石が露頭し ているが、この上に櫓をあげていたものと思われ、近世城郭の天守台にあたる 郭である。

 

1の広い郭には、居館の跡と思われる礎石が一部露出しており、また西側の中の丸からの登り口にあたる本丸西南隅には内桝形の跡 が残っている。

 

大手門跡

大手門を登りつめた山頂部の入口にあたり、外桝形の総 門の跡と推定される。

 

三原市本町の宗光寺山門(重要文化 財)は、この大手門を移したものと伝えられている。

 

釣井の段(井戸郭) 本丸から北へ延びる東の丸と中の丸とに挟まれた両尾根 の間の低地を利用した上下二段の郭である。

 

東西・南北と も五〇m余で、城内最大の面積がある。 上段の郭には直径約二mの円形石積井戸が四基、下段の 郭には直径約四・二mと二・二mの円形石積井戸が残って いる。

 

いまなお清水をたたえているものもあり、城主をは じめ多くの家臣団の城内での生活を物語るものである。

 

匡真寺跡

小早川氏の菩提寺跡で、隆景は天正五年(一五七七)、亡父毛利元就の七回忌、亡母妙玖尼の三十三回忌に際して、 ここに匡真寺(現在の三原市宗光寺)を建立し、法会を盛大 に営んだ。

 

寺跡は東西四一mメ南北七二mの広さがあり、全面にわ たって瓦片が散乱し、築庭を思わせる湧水池・築地塀の跡 などが残っている。

 

中の丸跡(二の丸)

本丸北方に四段の郭からなる東の丸、井戸郭・五段の郭 からなる中の丸、西側にも四段の中の丸の各郭群が配置されており、これらが二の丸の繩張りである。

 

中の丸の郭には随所に土塁を築き、腰郭を設けて防備を固めている。 また、北方の中の丸の広い郭には礎石の配置が一部みられ、規模の大きな建物 ことが知られる。

 

三の丸跡(西の丸跡・北の丸跡)

中の丸に続いて西方に配置された四段が西の丸で、これからさらに びる北の丸の五郭が連なっている。

 

これらが三の丸の繩張りである。 西の丸の東端の郭は石弓場と呼ばれるが、それ自体が二の丸を守る箱薬研の 堀切の役割を果たしている。

 

また、北の丸の中心的な郭には石積みの方形基壇が残っており、社寺に類す る建物があったと思われる。

 

番所跡 軽石の段・中の段・下の段の三郭からなり、大手道を警固する番所が設けら れていたところである。

 

この番所の東方と西方にもそれぞれ東の番所・西の番 所と呼ばれる郭が残っている。

 

番所跡

軽石の段・中の段・下の段の三郭からなり、大手道を警固する番所が設けられていたところである。

 

この番所の東方と西方にもそれぞれ東の番所・西 所と呼ばれる郭が残っている。

 

鐘の段

山の南斜面の中腹に半独立的な小丘をなしている郭で、北方背後 けた二郭、東側に大小二郭、西南側に三段の郭を配置している。

 

1地形・縄張りなどからみて、中世初期の独立した山城(丘城)の形 しており、この部分の築城年代は古いものと思われる。

 

『日本城郭大系』13より引用。

 

城の歴史

天文21年(1552):小早川隆景が隣の高山城から移動。

永禄4年(1561):毛利元就と隆元が高山城にきてしばらく滞留する。

慶長元年(1596):この頃三原城が完成して新高山城の役目も終わる。

 

城主家系図

 

 

城主石高

1592年当時で小早川隆景所領として48078.618石あった。

 

中世の海岸線

中世は高山城の麓まで海岸線が広がっていたものと考えられる。

 

所感

●小早川隆景1代の城で約40年間の居城であった。

●城域は広大で、毛利両川体制の一角を担った小早川家の城として申し分ない。

●匡真寺から本丸ルートしか行っていないが、ほかの場所もいくと1日がかりになると思われる。

●釣井の段の井戸は今でも水をたたえている、そして井戸に動物が落ちて白骨化していた。

●往時は素晴らしい威容を誇った城であったが、三原城に石垣やほかの物が移転した為、遺物は少ない。

 

 

関連URL

【広島県】高山城【三原市本郷町】

隣の高山城、小早川氏の初期から隆景までの居城であった。

 

参考URL

新高山城(ウッキペディア)

城郭放浪記(安芸新高山城)

小早川氏(ウッキペディア)

武家家伝(小早川氏)

open-hinata

 

参考文献

『芸藩通志』

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』

『毛利八箇国御時代分限帳』

『日本城郭大系』13

『広島県の地名』

『広島県地名大辞典』

公開日2021/05/16

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