城データ
城名:高山城
別名:妻高山城、古高山城、道谷山城
標高:190m
比高:180m
築城年:建永元年(1206年)か。
城主:小早川氏
場所:広島県三原市本郷町
北緯:東経:34.419364/132.983904
攻城記
高山城の最初の入口は少し分かりにくい、登り口に墓があるのでそこから登城。
攻城開始。
道はしっかりと整備されている。
途中の石積みの跡。
最初からこのような感じでワクワクが止まらない。
高山城矢竹。
北ノ丸跡
非常に広い。
麓を望む。
船木方面を望む。
二の丸跡。
本丸。
扇ノ丸。
井戸跡。
当時の風景が想像できる。
扇ノ丸石垣。
石垣がしっかりと残っている。
馬場跡。竹やぶが無ければかなり広いと思われる。
井戸跡。
ここまで石垣が残っているので見ごたえある。
イワオ丸。
確かに大きな岩がある。
イワオ丸からの眺望。
広さも十分ある。
井戸跡?
最高所。
周辺部を散策。
堀切発見。
降りてみる。
ここにも石垣の跡が。
大幅改修されている感じが分かる。
更に周辺部を散策。出丸付近。
非常に見ごたえのある山城。
前方には新高山城が見える。
高山城と新高山城の山には新幹線が走っている。
とにかく城域が広い。
高山城を麓から望むと山腹に何やら建物があるのが分かる。
実際に下っていくと神社がある。
鷹山神神社とある。
再び戻ってくる。
新高山城が築城された後でも、廃城されなく機能していたのではないか?
若宮跡。
立派な手水鉢があった。
瓦の残骸。
鳥居の跡。
高山城全景
左の山が新高山城で右の山が高山城になる。
米山寺(小早川家菩提寺)
災害になる前の画像。
位置関係
open-hinataより【高山城】
余湖図【高山城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』高山城
赤が高山城で青が新高山城。
城の概要
山頂は東西に延びる二つの尾根が並行しており、この部分を中心に郭が配置されている。
城域には七ヵ所の井戸跡があり、また南東下に延びる尾根筋上には堀切がある。
所々に小規模な石垣が見られ、南東端の郭には土塁が確認できる。
本城跡は、小早川氏の本拠の城で、16世紀半ば頃に西にある新高山城に本拠を移すまで使用した城域である。
応仁の乱の際には竹原小早川氏が本城を攻め入ったが沼田小早川氏がこれを防いでいる。
なお、築城の時期は明らかではない。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
高山城跡本郷町本郷・船木、三原市高坂町真良 沼田川東岸
標高約一九〇メートルの山頂にあり、対岸の新高山城跡とともに沼田小早川氏の居城であった。
国指定史跡。山頂は三原市に属し、山頂付近の北西から 南東方向に延びる谷を中にして二区画に分れ、広さ約一 六ヘクタール。沼田古高山城図写(県立三原高校蔵)によると、北の峰に西から北の丸・二の丸・本丸、南の峰には 西から出丸・権現丸・イワヲ丸・南丸・出丸などがあり、 船木側から谷沿いに上がる道が大手道とされ、真良側へ 谷に沿って搦手道が通じていた。
天文一四年(一五四五)の小早川正平絵像(現三原市成就寺藏)の賛賛に「高山屹■ 培摟泰衡 攢壁峭壁 祖元築城 其諱本仏」とあり、本仏祖元は小早川茂平の法号であるから、茂平の築城とされていたことが知られる。※■=山へんに立
応仁の 乱の際、小早川熙平の在京中に、その子敬平が西軍方の 竹原小早川氏に三ヵ年にわたって攻められ、熈平没後の 文明五年(一四七三)から同七年にかけての合戦では落城寸前まで追込まれ、同七年四月に和議を結んで包囲陣が解 かれている(同月二三日付「政信盛忠連署状写」小早川家文書)。
『小早川文書』204
次いで天文八年、大内氏と尼子氏の抗争のなかで小早川正平が尼子方に味方したとき、大内氏一味に攻められて 占拠され、大内氏は同一一年頃まで城番を置いて、在城奉行田坂四郎右衛門尉を監視させている。(「閣閱録」所収神代六左衛門家文書、仏通禅寺住持記「三原市史」所収)。
同一三年 に尼子勢に包囲攻撃されたときは、これを撃退している (陰徳太平記)。
同一九年に沼田小早川家を相続した毛利元 就の三男隆景は、翌二〇年一〇月に当城に入城し、翌二 一年六月、対岸の新高山城を改修して本拠を新高山城へ 移した(仏通禅寺住持記)。
『広島県の地名』より引用。
城の歴史
建永元年(1206):小早川茂平によって築城とされるが詳細は不明。
応仁2年(1468):竹原小早川家の小早川弘景が高山城を攻撃する。
文明5年(1473)9月:再度、西軍の小早川弘景が東軍の城である高山城を攻撃する
※この頃当主の小早川熙平は京都に滞在。
文明6年(1474)12月:高山城が落城寸前となるが、小早川敬平が京都から戻り、また前将軍の足利義政の御教書によって近隣の豪族に敬平を助けるように命令し、これによって盛り返す。
文明7年(1475)3月:高山城を攻める事が困難と悟り和平交渉を進める、23日に高山城包囲網を解く事が決まる 26日に撤退する。
天文20年(1551):小早川隆景と小早川正平の娘(間田大方)と婚姻し小早川家が一つになる。
天文21年(1552):小早川隆景が隣の新高山城を築城するに当って廃城となる。
城主家系図
城主石高
1592年当時で小早川隆景所領として48078.618石あった。
中世の海岸線
中世は高山城の麓まで海岸線が広がっていたものと考えられる。
所感
●個人的には広島の山城ではベスト5に入るみごな城である。
●高山城でも十分城の機能はあるがやはり人心一掃のため、あえて新高山城を築いたのではないか。
※小早川隆景が沼田小早川家を継ぐのには田坂全慶らの反対者を粛清しているため。
●城域は広くまた石垣のある平削地があるので家臣の住居もあったのかも知れない。
●イワオ丸から見た景色は非常に素晴らしく絶景である
関連URL
小早川隆景が高山城から西の新高山城に移動した城。
参考URL
参考文献
『芸藩通志』
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
公開日2021/05/16