城データ

城名:矢野城

別名:保木城、保喜城

標高:466m

比高:380m

築城年:建武2年(1335)

城主:熊谷蓮覚、野間氏

場所:広島県安芸区矢野町

北緯東経:34.331843/132.537842

矢野城はここ

 

攻城記

会下山駐車場(559m)から降りる。

下から登る方法もあるが車を停める場所がない、交通の便も悪いことから会下山駐車場に車を停めて降りていくのが良い。

展望所からの景色は抜群によく、広島市内を一望できる。

※ちなみに当時の広島市は殆ど海であった。

 

保喜山にある曲輪は加工度も高くなく、平削地がある程度。

どんどん下っていく。

堀切のような遺構も散見できる。

明らかに加工されている石。

そのまま降りていくと野間神社に到着する。

野間神社本殿。

野間興勝の霊を弔っているらしい。

子孫もいるようだ。

周囲にも若干の曲輪があるがそこまで広くない。

更に下って矢野城本丸に向かう。

途中の景色、府中町方面。

 

矢野城本丸に到着

 

矢野城は、14世紀の南北朝の動乱の幕開けとともに歴史に登場してきます。

 

それは矢野城合戦と呼ばれ、建武2年(1335)12月、南朝方(宮方)の熊谷蓮覚が北朝方(武家方)の武田氏等の安芸国の有力武士を矢野城に迎え討ち、激しい攻防戦の末敗れたものです。

 

当時の矢野周辺は、宮方ゆかりの荘園が多く、武家勢力が浸透していない宮方の重要な根拠地でした。

 

また、矢野城からは山陽道が眼前に見えるとともに、広島湾への出入を見張ることができる陸海交通の要衝でもあります。

 

その後、文安2年(1445)には尾張国野間荘から野間氏が城に入り、弘治元年(1555)に毛利氏に減ぼされるまでの110年間居城としました。

 

現在矢野城跡では、尾根を分断した堀切等で区分された3つの郭群が確認されています。

 

特に中央の郭群の先端には、自然石を利用した門跡とみられる遺構が存在しています。

 

また、矢野城跡の麓には、土居・土居屋敷等、武士の屋敷地であったことを推定させる地名も残っており、矢野域が、この地域の中世武士団の拠点であったことを伝えています。

 

平成6年2月28日

広島県教育委員会

広島市教育委員会

 

本丸付近。

宝篋印塔や五輪塔の残欠がある。

本丸近隣にお馬屋敷跡がある。

引き返す時に石の加工されたものを確認する。

いかにも門石っぽい。

矢野城遠景。

『芸藩通志』に加筆修正。

 

open-hinataより【矢野城】

 

余湖図【矢野城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の概要

概要

本城跡は、広島湾東岸にそびえる絵下山(標高568m)山頂から北へ延びる丘陵尾根上に位置している。

 

城跡の構成は、全体を三群に分けることができ、最高所から先端にかけてA郭群,B郭群C郭群と呼称することとする。

 

なお,C郭群のみ県史跡として指定されている。

 

A郭群は,発喜山山頂(標高466m)周辺に位置し,四つの郭から成っている。

 

背後は絵下山から下ってくる尾根を堀切で分断している。

 

B郭群は、A郭群から約250m下った尾根上に位置し,最高所には野間神社が建立されている。

 

七つの郭から成り、背後はA郭群から下ってくる尾根を堀切で分断している。

 

尾根上から東斜面を約20m下った地点の小郭には自然石を利用した門跡とみられる遺構がある。

 

C郭群は、B郭群から約200m下った尾根上に位置している。

 

五つの郭から成り、B郭群から下ってくる尾根を堀切で分断している。

 

なお、A郭群上方には絵下山がそびえ、山頂には現在テレビ塔が建てられているが、この部分にも郭があった可能性が考えられる。

 

南北朝時代に熊谷蓮覚が築城したと伝えられる。

 

その後,1445(文安2)年野間氏がこの地に入部し、矢野城に拠ったという。

 

広島県中世城館遺跡総合調査報告書より引用

 

城の歴史

熊谷蓮覚と矢野城

建武の新政後に足利尊氏が反旗を翻し、北朝(武家方)と南朝(宮方)に分かれて争うこととなる。

 

矢野城があった場所は安摩庄内矢野浦と呼ばれおり、この地に後醍醐天皇縁の土地があり、宮方に付き従うものが多かった。

 

近隣では宮方として、石井城の石井末忠が従っている。

【広島県】石井城【安芸郡府中町石井城】

熊谷氏自体は広島市安佐北区可部に所領を得ており北朝(武家)方として、守護である武田氏に従っており、一族で分かれて戦ったことになる。

 

矢野城の戦い

武田方軍勢の矢野城政撃は建武二年(1335)十二月二十三日から 同二十六日に至る四日間にわたって激しく行われた。

 

矢野城攻撃に参加した部将で文章の上から明かに知られるものは、矢野城の大手に向ったものには、

 

大朝本 庄一分地頭吉川師平、

大朝本庄一分地頭吉川実経代須藤景成、

宮庄地頭周防親家、

安木町村地頭逸見有朝があり、

 

西搦手に向ったものに

内部庄内福原村地頭三戸頼顕があり、

西尾頸高矢庫本を攻めたものに三入本庄一分地頭熊谷有直後家尼智阿代朝倉仏阿があり、

北頸を攻めたもの に伊勢国真弓御厨地頭波多野景氏があった。

 

その他、この攻撃軍に加わっていたことが明かなものに、

福島新左衛 門入道

武藤五郎入道

武田次郎

内藤次郎

綿貫孫四郎

毛利元春等があった。

 

矢野城の攻防戦は実に激しいものであったが、ついに 建武二年十二月二十六日城の正面である大手の木戸が打ち破られて、攻撃軍が城内へなだれ込んだために城はついに陥落した。

 

この戦いが激しかった証拠には大手の木 戸において攻撃軍の部将の一人吉川師平は戦死し、周防親家及びその家臣の旗差藤三郎男は股を射られ、また北頸 に向つた波多野景氏自身が膝を射られ、その旗差孫六は 手を射られている。

 

これに対して矢野城の主将熊谷蓮覚はその子直村、甥直続及び家人志村彦七等 と共に討死にしたのである。

 

熊谷蓮覚について

熊谷蓮覚、俗名直行は、通称は四郎三 郎、蓮覚はその法号であって、彼は三入庄地頭熊谷氏の一族であった。

 

三入庄は根ノ谷川に沿う安佐郡可部町内三入・大林を中心とする庄園で、熊谷氏がこの地に入つたのは熊谷直実の孫直国が承久の変で勲功をたてた恩賞としてであった。

 

熊谷氏の本貫の地は武蔵国熊谷郷すなわち今日の熊谷市であるが、直国の二子直時・祐直は間もなく本拠を東国からこの三入庄に移して来るのである。

 

鎌倉時代は惣領の地位が重んぜられたが、一方所領の分割相続が行われるのが普通で、三入庄の三分の二と東熊谷郷は兄直時に、三入庄の三分の一と西熊谷郷は弟祐直に譲られ、直時の系統は 熊谷本庄方、祐直の系統は熊谷新庄方といわれた。

 

蓮覚は熊谷新庄方から更に分れた分家であつた。

 

鎌倉時代末期に於て熊谷家は大体有力な四家に分れていた。

すなわち

三入本庄地頭熊谷直経、

三入本庄一分地頭熊谷有直、

三入新庄地頭熊谷直氏、

三人新庄一分地頭熊谷直行(蓮覚)である。

 

直経・直氏は元弘年間北条氏の味方として楠木氏の籠る赤坂・千早両城を攻めており、南北朝争乱期に入つては足利方として行動している。

 

また有直後家の代官は上述の如く矢野城に加わつており、宮方として立ったのは熊谷氏一族の中蓮覚のみであった。

 

元弘三年船上山からの後醍醐天皇の召 しに集つた武士の中に安芸の熊谷氏の名が 見えるが、これは熊谷蓮覚が率先して馳せ参じたのであろう。

 

熊谷蓮覚関係図

 

なぜ熊谷蓮覚が南朝(宮方)についたのか

安芸国には後醍醐天皇縁の荘園があり元々南朝勢力の扶植もあり、特に矢野は安摩庄矢野浦として宮方荘園として長い間管理されておりその素地があった。

 

しかし、熊谷一族が北朝(武家方)についているのに、蓮覚だけが宮方についたのには理由がある。

 

個人的には惣領家である熊谷本庄家からの独立を果たしたいという、思惑もあったのではないかと考えられる。

 

蓮覚の新庄一部地頭ともなれば、その所領も僅かであり、なにかと、本家の新庄地頭家や総本家の本庄地頭家からの圧迫もあったと推測される、そんな中で、惣領家からの独立を果たすべく宮方についたのではないか。

 

野間氏と矢野城

矢野は文安二年(一四四五)から弘治元年(一五五五)に至る室町時代から戦国期にかけて百十年間、戦国大名として活躍した野間氏の城下として発展することとなった。

 

野間氏は清和源氏の出で、南北 朝争乱期に宮方として名をあらわした足助重範の子孫で、重範の長子重政は身を隠したが、次子重俊は出 でて足利義満に仕えた。

 

その子重宗は義満から尾張国野間庄三百貫の地(愛知県知多郡野間町・内海町を中 心とする地域)を知行地として与えられ、その在地名によって足助を改めて、野間氏を称した。

 

重宗から五代目の重能は足利義政から矢野の地を与えられて、文安二年に尾張から移って矢野の保木城に居を構えるようになった。

 

重能の死後、その子則澄、孫則能が相続いで死んだので、則能の妹八重に尾張国の遠戚小池氏の二男を養子に迎えた、これが野間興勝である。

 

彼が矢野の野間家へ養子にきたのは文明二年(一四七〇)であると云われている。

 

興勝は尾張内海から矢野に遷した尾崎八幡宮を、文明二年三月十三日に造営して いるから、彼が矢野に来たのは少くともそれ以前であるに違いない。

 

彼は優れた人物であった上に長命を保ち、戦国争乱の時代に野間氏の全盛期を出現させたのである。



野間氏の謎

野間氏家系由来書では上記の伝承及び家系図となっているが、伊予国にも野間氏がおり、この野間氏が北上して矢野に来住した可能性も指摘される。

 

具体的には、後世の「野間家系由緒書」は、清和源氏足助氏の子孫が、足利義満から重能が足利義政から尾張国野間荘を拝領して野間氏を名乗り、重能が足利義政から矢野を与えられて下向したと伝えられている。

 

しかし、矢野野間氏が海賊衆的性格を有すること、有力家臣に伊予衆に出自をもつ末永氏がいること。

 

伊予国野間郡を名字とする伊予衆野間氏がいること。

 

南北朝期に伊予衆の越智姓の領主(重見氏か)の支配下にあった瀬戸(波多見)島に対して野間氏が執拗に領有権を主張して小早川氏と紛争を繰り返していたことなどをあわせ推察すれば、矢野野間氏が伊予国野間郡を本貫とする伊予衆であることは、まちがいないと思われる。

 

波多見島への介入は1421年野間一族である「公光」が小早川弘景に島を譲渡したことが記録されているので尾張から移動してきたことと整合性が合わなくなる。

 

 

城主家系図

 

全盛期を築いた野間興勝

興勝は永正九年(一五一二) 三月三日付で毛利興元・吉川元経・平賀弘保・阿曾沼弘秀・天野興次ら安芸の国衆たちと契約をかわし、現在の政局に処して互に相談し同一歩調をとろうと約束している。

 

このような約束をしなけ ればならぬ程お互に利害は対立していたし、既に室町幕府の権威は弱まっているが、小領主である国衆も 未だ独立は出来ず、それぞれ中央政局を動かすほどの協力な大名の勢力と結びつき生存してゆかねばならぬ状態であった。

 

そのような中でも有力国衆として野間氏は安芸国内にて力があった。

 

更に、大内氏勢力の増大と共に野間氏の外阿曽沼・竹原小早川・平賀等安芸の国衆で大内氏の傘下に入つたも のも多かったが、同じ大内勢力下の諸氏の間にもお互の所領争いは絶えなかった。

 

野間氏は領国の北境に 阿曽沼と争い、大内氏の命令で平賀氏が仲裁に入ってやっと和談したこともあった。

 

また波多見島(倉橋島の東北部)を竹原小早川氏と奪い合っている。

 

竹原小早川 の氏の分家であるが、早く独立し竹原の奥の新庄(荘野村)の木村城を根拠とし、海 三津・内海を取つて波多見島まで進出してきており、この地が応永三十四年(一四二七)以前に竹原小早川氏の手に入っていることが知られる。

 

しかし、その後野間氏の勢力が急激に南下し、応仁元年(一四六七)頃には波多見島を実力で占拠してしまったのである。

 

応仁の乱にて東軍の有力な拠点としてその居城高山城(豊田郡本郷町)に拠った。

 

これを西軍方 の竹原小早川弘景が中心となつて攻撃したが容易に陥ちなかった。

 

交明六年四月この時、まだ京都にとどまっていた大内政弘は竹原小早川氏に激励の手紙を送るとともに、政弘の使として野間兵部少輔を遣わし て奔走させた。

 

これは野間氏一族の誰に当るのか不明である。野間興勝は初め刑部少輔後掃部頭を称して いるが、兵部少輔と称したこともあつたとすればっこれは野間興勝自身であると考えられる。

 

大内氏は政弘の子義興の時代となり、永正五年(一五〇八)には山口に逃れてきた前将軍足利義種を奉じ、西国の諸大名を引率して上洛し義稙を将軍に重任させた。

 

この時、野間興勝もともに上洛している。

 

大内氏のかつての対立勢力は細川氏であつたが、この時代になると出雲を本拠とする尼 子氏が山陰一帯に勢力を伸し、安芸国にも南下し大内氏の拠点西条盆地にまで進出しており、安芸国衆の中 にも尼子氏の勢力下に入るものが多かつた。

 

しかし野間氏はここまでは、一貫して大内方であった。

 

大永五年(一五二五)大内義興は安芸の尼子方を攻めたが、義興の部将陶興房(晴賢の父)は同年四月五日野間氏の城下矢野へ船にて来り、ここを拠点として尼子方で東志和村の米山城による天野氏を攻撃したこともあった。

 

野間氏は矢野を中心とする領国の外、安芸東西条の内で下見村百貫、上戸村百貫及び勝屋二十五貫の地を持ち、また遠く離れた石見国邇摩郡内で津淵村・上静間村を所領として持っているが、これは野間氏が大内氏の旗下として活躍した恩賞として与えられたものと思われる。

 

尼子氏の安芸侵攻

永正10年(1513)年頃から尼子経久が勢力拡大し安芸国まで支配下に治めていた。

 

尼子軍の南下を機に矢野の野間氏は積極的に尼子方につき、一気に呉地方を支配下におさめた。

 

この時、呉・警固屋を占領した。

 

大内氏の反撃

その後、大内氏は大永4年(1524)、ようやく佐西郡廿日市桜尾城の厳島神主家と神領衆を従属させ、本格的反撃の準備を進めた。

 

大永5年(1525)3月に安芸国人衆の中心、毛利元就を帰服させることに成功した大内義興は、尼子方に対し全面攻勢に転じ、大内軍司令官陶興房は、尼子方国人衆攻略のため、各地に転戦する。

 

4月5日・6日両日、陶軍は廿日市の本陣から渡海し、矢野の野間氏を攻撃した。

 

同じ日、の作戦に呼応して瀬戸城の賢勝率いる小早川警固衆・呉衆らは呉方面から野間方を攻撃するため呉千束に上陸して「呉千束要害」(海上自衛隊呉地方総監部の掘切をはさんだ城山)を前進基地とし、集落(呉教育隊、市民公園=練兵場。近世の呉町)に火を放ちこの方面を制圧した(県史V)。

 

この戦いで呉から野間氏は撤退することとなった。

 

野間隆実と野間氏滅亡

興勝のあとをうけて、その子隆実(隆則)が家督を継いだ。隆実は彦太郎といい刑部大輔を称した。

 

隆実も大内氏と結びつき大内義隆に従って九州を転戦したこともあった。

 

大内義隆が陶晴賢に殺された時も、そのまま大内氏(陶氏)に付き従っていた、しかし毛利元就が天文二十三年(一五五四)に陶氏との絶好を明らかにした時に近隣の平賀氏や天野氏が毛利側にすぐさま味方するのに比べ、野間氏は態度を保留にしていた。

 

しかし、天文二十四(一五五五)には毛利に背き陶氏についてしまう、結果毛利氏は矢野城を攻撃することとなる。

 

矢野城に籠もるのは千五六百余に対して、毛利勢は三千余であるといわれる、最終的には岳父である熊谷信直を介して和談し矢野城を明け渡した。

 

この時、野間氏の降伏の申し出に対し毛利氏はこれを許し和談が成立した、しかし降伏後に陶方の援軍は送り返すと称して途中府中にて要撃し、城から退出した野間衆の多くは城麓の真光寺にて討ち果たす。

 

残ったものは熊谷氏の所領である三入において熊谷信直が誅殺されている、野間隆実は自害したとも京都に逃れたともいわれているが詳細は不明。

 

ここに野間氏は滅亡することとなる。

 

熊谷蓮覚にて攻めた側である熊谷直経の子孫である信直が再度矢野城と関わることとなる。

 

 

城主石高

最盛期いは矢野を中心に坂・吉浦・呉・警固屋などの海岸線、また内陸部では熊野方面で平谷・川角・押込・焼山・苗代と広範囲の地域を支配していた。

 

更に大内氏からも安芸東西条の内で下見村百貫、上戸村百貫及び勝屋二十五貫を近隣では賜っていた。

 

所感

●国衆としては室町時代中期からの歴史しかないに、広大な所領を得ていた野間氏に関しては多くの疑問が残る。

 

●100年余りの支配でしかないが、野間興勝の活躍が目覚ましかったと思われる。

 

●大内氏に属していたが、一時期大永3年(1523)の尼子氏の安芸国侵攻の時には尼子側につく。

※この時に呉・警固屋を一時期その所領にしている。

 

●城は会下山から下り1時間で本丸につく戻るのに1時間かかるので合計2時間あればゆっくりと見て回れる。

 

関連URL

【広島県】掃部城【呉市苗代町】

野間掃部の居城。

【広島県】城平山城【呉市焼山町】

野間氏の城。

 

【広島県】日浦山城【安芸郡海田町】

南北朝時代に矢野城と同じく宮方として戦った日浦山城

 

参考URL

ウィキペディア(矢野城)

城郭放浪記(安芸矢野城)

サムライワールド(矢野城)

ウィキペディア(野間隆実)

戦国日本の津々浦々(野間氏)o

pen-hinata

 

参考文献

『芸藩通志』

『音戸町誌』

『熊野町史』

『広島県矢野町史 上巻』

『萩藩諸家系譜』

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』

『中世の呉』(呉市史編纂委員会編『呉市制100周年記念版 呉の歴史』)

『毛利家文書』

 

公開日2021/02/06

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