城データ
城名:梨羽城
別名:畑木山城
標高:179m
比高:150m
築城年:不明
城主:梨羽氏
場所:広島県三原市本郷町上北方
北緯:東経:34.414912/132.948043
攻城記
比高も低くて登りやすい。
しっかりと整備されている。
攻城開始。
山頂まで確認しやすい。
眼下を見下ろす。
石積み跡か。
曲輪に到着。
本丸までもう少し。
本丸。
山陽新幹線が城の下を通っている。
周辺部。
open-hinataより【梨羽城】
余湖図【梨羽城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【梨羽城】
城の概要
1郭は30m×25m程度の規模で,南側に2郭に通じる虎口が開く。
2郭の北西下には径7mの凹みのある郭があり,井戸郭と思われる。1郭の東側には4条の,3郭の西側には2条の堀切がある。
1.2郭の南側斜面には畝状空堀群がある。城主は梨羽氏と伝えられる。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
梨羽氏について
沼田小早川氏当主である小早川春平の子である春時が、梨子羽郷(三原市本郷町上北方)を分知されて梨羽氏を名乗る。
4代続いたが、その後本家である沼田小早川家から、当主敬平の子どもである康平を梨羽家に迎える。
※康平は宣平と同一人物と思われる。
この宣平は小早川隆景の沼田家養子の際に尽力した、また永禄4年(1561)には毛利元就と隆元が新高山城を訪問した際に饗応役を行っている。
宣平には子供がなく、近隣の国衆である平賀興貞の次男である景行が継いだ、しかし景行もまた嗣子がおらず、平賀元相の次男である景宗が継いでいる。
『毛利家文書』403
梨羽又次郎(宣平)の名前がある
城主家系図
梨羽氏は景行(初代)の時に無嗣の為、本家である小早川敬平から宣平(康平)を迎える。
しかし、宣平も無嗣の為、近隣国衆の平賀氏から景行(2代目)を迎える。
更に、この景行(2代目)も再度平賀氏から景宗を迎え入れている。
●宣平=康平
●2代目景行は地元の看板から「友行」と名乗っていた可能性もある
城主石高
一族知行分注文(小早川文書)に梨子羽殿350貫文とある。
梨羽小次郎(景宗)が87.730石の所領を毛利氏から賜っている。
所感
●城は地元の方が整備されており登りやすい。
●畝状竪堀群もあるようだが、確認出来ず。
●中世の典型的な山城で数段の曲輪があるが石垣などは見当たらず。
関連URL
本家である沼田小早川家の居城。
永禄4年(1561)に毛利元就、隆元親子を饗応した新高山城。
参考URL
参考文献
『芸藩通志』
『毛利家文書』
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩諸家系譜』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
公開日2021/05/23