城データ
城名:万徳院跡
別名:無し
標高:440m
比高:2m
築城年:天正3年(1575)頃に吉川元長によって建立された寺院。
城主:吉川氏
場所:広島県山県郡北広島町舞綱
北緯:東経:34.723666/132.472996
攻城記
寺を復元をした資料館ホール
往時の模型。
発掘調査後の写真。
発掘調査前の写真。
1575年頃に吉川元長が建立したが、その頃は本堂と庫裏くらいしか無かったぽい。
本堂まで長い。
視界が開ける。
正面石段。
庭園跡。
左建物は風呂を復元。
当時は蒸し風呂であった。
霊屋跡。
容光院墓所
これは直して欲しい。
容光院も墓に木が植えてある。
吉川2代目から9代目の墓石ということらしい。
少し離れたところから見るとまた違う。
塔頭跡
容光院へ続く道を逆に駐車場に戻る道の中に実は色々な遺跡がある。
伝元長墓所
河原の小石がびっしりと敷き詰めた状態。
ぱっと見で少し違う空間だと分かる。
旧容光院墓所(吉川広家正室)
宝篋印塔の基壇部分。
基壇の更に下の土台か。
位置関係
open-hinataより【万徳院跡】
余湖図【万徳院跡】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用。
1974~78年頃の航空写真
当時は藪化されておりほぼ誰も来なかったと思われる。
現在の航空写真。
城の概要
万徳院跡は,日山城麓に天正2年(1574)に吉川元春の嫡男元長が建設を始めた「諸宗兼学」の寺院跡である。
元長は,元亀年間(1570~1573)の末頃から政務に参画するようになり,その中で疑心暗鬼に苛まれる自分を「アマタノ加勢」=大勢の(万)神仏の加護(徳)によって救い,現世利益を享受しようとして,「草庵」を建立した。
天正15年(1587)に元長が病死すると,弟の広家は前当主元長の菩提寺として改修した。
境内地には本堂,庫裏,風呂屋,庭園があり,石垣,石段,参道が残る。
広島県の文化財 – 万徳院跡より
概要
吉川元長の菩提寺跡である。吉川元春館跡と日山城跡の間に位置する。
寺跡の前面には、長さ約70m,高さ約2mの石垣と,門に至る石段が構築されている。
門の礎石や築地塀基礎の石塁,建物用の礎石も見られる。
西端部には築山,池,水路からなる庭園がある。
この寺院は16世紀後半のおおよそ1570年代頃の築造といわれ,その後、関ヶ原の合戦によって同氏が山口県の岩国に移封される1600(慶長5)年まで存続したといわれる。
廃絶後は他の施設に利用されることなく今日に伝わってきた。
1991(平成3)年から境内を中心に発掘調査が行われ,礎石建物と庭を主とする遺構や,土師質土器·輸入陶磁器などの遺物が見つかっている。
特に注目されるのは境内の西側に残る庭園跡であり,この庭園は室町時代後半期遺構の特色である立石を配し,池の中心に中島を浮かべた秀作である。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用。
城の歴史
天正3年(1575):吉川元長が建設開始する。
天正15年(1587):元長が病死すると,弟の広家は前当主元長の菩提寺として改修する。
天正19年(1591):吉川広家の正室である容光院が亡くなるとこの寺に葬った。
またこの年に広家は山陰に転封される。
城主家系図
所感
●400年ぶりに発掘、整備保存のされており往時を偲ぶことが出来る。
●庭園や風呂(サウナ)も復元されている。
●最初に現れる石段、石垣のスケールに圧倒される。
●近隣で草刈りをされていた方に詳しい事お聞きして、塔頭跡や伝元長墓所を教えていただいた。
●旧容光院跡付近の発掘調査はされていないらしい。
関連URL
近隣にあった吉川氏の館跡。
参考URL
参考文献
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『安芸の城館』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2022/02/11
更新日2025/06/07