城データ

城名:吉川元春館跡

別名:無し

標高:380m

比高:10m

築城年:天正11年(1583)吉川元春によって築かれた。

城主:吉川元春

場所:広島県山県郡北広島町海応寺

北緯:東経:34.716364/132.465119

吉川元春館跡はここ

 

 

攻城記

石切り場。

有名な石垣。

「石つき之もの共」という集団がいた。

庭園。

館跡は非常に広大。

往時の建物が再建されている。

復元模型。

 

海応寺【菩提寺】

吉川元春の墓
 
吉川元春は1586年(天正14)豊臣秀吉の要請により九州の小倉へ進攻したときに57歳で病没した。
遺骸をこの地に帰し葬送し、随浪院殿前駿州太守四品海翁正恵大居士と号す。
 
又、左に隣接しているのは、元春の長男元長の墓で、1587年(天正15)に宮崎県日向において40歳で病死したものである。
元春に同じくこの地で葬送し萬徳院殿前禮部中翁空山大居士と号す。
なお、右に離れている墓標は、元春の四男で早逝した禅岑法師の墓といわれているが定かでない。
吉川家が岩国に移封された後は、一時期荒廃したが、1827年(文政10)に修復され、玉垣・石塔ができた。
さらに1908年(明治41)の進賞、追贈に際し改修が行われ現在に至っている。
昭和60年2月1日
広島県教育委員会
豊平町教育委員会

吉川元春、元長墓。

 

位置関係

 

open-hinataより【吉川元春館】

 

余湖図【吉川元春館】

 

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の概要

吉川元春館跡

駿河国(静岡県)を本拠としていた吉川氏は、鎌倉時代の終わりごろに、大朝本庄(北広島町大朝)に地頭として入り、室町時代には安芸国の北部を中心とする地域を治める国人領主に成長します。
その後戦国時代には周防国の大内氏と出雲国の尼子氏との間に立たされましたが、毛利元就の次男である元春を当主として迎えることにより毛利体制に入ります。
吉川元春は弟の小早川隆景とともに毛利氏を補佐し、おもに山陰攻略に貢献します。
1600年関ヶ原の戦い後、吉川氏は山口県岩国に移りますが、それまでの吉川氏に関わる遺跡が山県郡北広島町に分布しています。

そのうち、駿河丸城跡、小倉山城跡、日山城跡、吉川元春館跡、松本屋敷、万徳院跡、洞仙寺跡、西禅寺跡、常仙寺跡の9遺跡が史跡吉川氏城館跡として国の史跡に指定されており、小倉山城、万徳院跡、吉川元春館跡の3遺跡は広く一般へ活用するために整備し、歴史公園として公開しています。
北広島町教育委員会

 

看板より。

 

城の歴史

天正十一年(一五八三)秋、元春は家督を長男元長に 譲って日山城を下り、隠居所として館を築く。

 

翌十二年 (一五八四)六月までに元春夫妻の居所や衣装などを収 める蔵などができ、元春はこの夏ここで病(マラリア) に襲われた。

 

同十三年(一五八五)には、正面(東側 に石垣、背面(西側)に柴垣が設けられ、付近に塗蔵 が建てられた。

 

同十四年(一五八六)秋には会所が建つ。

 

元春・長男長の相次ぐ死後、広家は、同十六年(一五 八八)、結婚に当たり妻の居所の建物を新築する。

 

同十 九年(一五九一)、出雲国への移封により館の機能は終わり、元春の菩提寺海応寺が建立される。

 

『安芸の城館』より引用。

 

城主家系図

 

所感

●長年田んぼとして利用されていたのが奏功して、発掘調査跡は史跡の復元を行っている。

 

●往時の姿を模型で見ることができて、分かりやすい。

 

●実際に当時の建物を復元しているところは非常に分かりやすく勉強になる。

 

●吉川元春の墓がここにある。

 

関連URL

【広島県】日山城【山県郡北広島町新庄】

当時の吉川家居城。

【広島県】万徳院跡【山県郡北広島町舞綱】

吉川元長ゆかりの寺院跡。

 

参考URL

吉川元春館(ウッキペディア)

城郭放浪記(安芸吉川元春館)

西国の山城(吉川元春館)

吉川元春(ウッキペディア)

吉川元長(ウッキペディア)

 

参考文献

『日本城郭大系』13

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』

『広島県の地名』

『広島県地名大辞典』

『安芸の城館』

『広島の中世城館を歩く』

『萩藩諸家系譜』

『毛利八箇国御時代分限帳』

『萩藩閥閲録』

公開日2022/02/11

 

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