城データ
城名:水晶城
別名:石道本堂
標高:132m
比高:100m
築城年:源平合戦時に源氏方の佐々木国正が城にいたとされる。
城主:佐々木国正、麻生右衛門、杉甲斐守、麻生鎮里、小幡氏
場所:広島県広島市佐伯区五日市町大字石内
北緯:東経:34.416331/132.376349
攻城記
入口があるので分かりやすい。
人工的に切られたか。
削平地。
このような削平地が無数にある。
武者走り。
二の丸。
三の丸。
麓を臨む。
本丸。
本丸周辺部。
遠く広島湾方向を臨む。
当時はほぼ海であった。
空堀。
削平地。
どこが水路跡か分からない。
削平地。
井戸跡か。
位置関係
余湖図【水晶城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【水晶城】
拡大図。
城の概要
山陽自動車道建設に伴い一部の発掘調査が実施されている。
調査の結果、通路状遺構、柵状遺構などが検出された。
城跡は9~10の郭群から構成されるが、基本的には丘陵の屋根上に多数の郭を置き、中心となる郭群には斜面に帯郭を配置するというものである。
また、東側の谷あいからの侵入に備えた郭群には畝状の竪堀や横堀を設けている。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
水晶ヶ城跡 現五日市町石内中
臼山八幡神社から西へ三五〇メートル離れた標高一二 四メートルの山上にある。
史料には多く「石道本城」と記されるが、山地より水晶を多く産することから水晶ヶ城とよばれる。
古山陽道を眼下にした要衝にあたる。
「芸藩通志」は「水晶城」として「始佐々木国正居守、 其後大内氏より麻生右衛門を置て守らしむ、一説に、昔蒲冠者範頼の麾下某、此城に居といふ、佐々木国正と一 人なるや、詳ならず、此山の後に、源氏大休の壇とよぶ あり、参考すべし」と記す。
また「国郡志下調書出帳」 に「元暦年中の頃源氏平家合戦の時、源氏の大将蒲冠者 範頼当国御在陣の時、籏下某水晶ケ城要害の城主なりし時云々」とある。
平岩にあった今市・串山両城の平家方と戦ったと伝える。
「房顕覚書」の永正年間(一五〇四~二一)の記事に「本城」「石道本城」とみえ、厳島社神主友田興藤に対抗するため大内義興は当城へ杉甲斐守を城番として配した。
その後、神領衆小幡氏が拠して当地を支配。
大永七年(一五二七)九月一〇日付の大内義興感状(「譜録」所収真鍋長兵衛家文書))前記「房顕覚書」によれば、大永六~七年にかけて当城をめぐって攻防戦があり、近藤清石の「大内氏実録」にもその記事がみえる。
「国郡志下調書出帳」によれば、天文一〇年(一五四一)頃には大内氏家臣麻生鎮里が在城したという。
同二一年の棚守房顕大願寺円海連署神馬請取注文(大願寺文書)によれば、「本城殿」から神馬一疋が 寄進されている。
同二三年八月五日付の毛利元就同隆元連署判物(「閥閲録」所収熊谷帯刀家文書)では「石道本城分九十貫」が熊谷信直に給されているが、その後は文献に現 れず廃城となったらしい。
「石内村郷土誌」によると、一の丸・二の丸・駒返し・大釣井・小釣井・大門・亀ヶ段・ 青木ヶ段などがあったという。
城に水を引いた溝跡二〇余町が小さい山道となって残ると記している。
『広島県の地名』より引用。
城の歴史
源平合戦時:源氏側の佐々木国正の居城であった。
永正5年(1508):大内義興に従い上洛していた厳島神主藤原興親が亡くなると厳島神領を大内氏の直轄領とし杉甲斐守を城番とした。
大永3年(1523):友田興藤か大内氏に対して謀反を起こして当城を攻撃、杉甲斐守を討ち取る。
大永4年(1524):友田興藤の反乱を鎮圧後に大内氏の家臣である麻生鎮里を城番とする。
大永7年(1527):城を巡って攻防戦がある。
天文23年(1554):毛利元就が陶晴賢に対して叛旗を翻して、水晶城を攻撃して落城させる。
所感
●城域も広く、曲輪も多く何回か戦いがあった城としてしっかりと造られている。
●現在は山陽自動車道の水晶トンネルが城の下を通っている。
●対岸の有井城とは僅かな距離である。
関連URL
毛利氏が陶氏に叛旗を翻した時に僅かな期間で攻め取った城。
参考URL
参考文献
『日本城郭大系』13
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『安芸の城館』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2022/01/22