城データ
城名:火野山地土居屋敷
別名:無し
標高:340m
比高:2~3m
築城年:16世紀?
城主:石井木工允
場所:広島県北広島町舞綱
北緯:東経:34.716709/132.489500
攻城記
高さ1m余りの石垣が並ぶ。
石垣の上現在は田んぼになっている
山裾には神社もある、また日野山の麓だということも分かる。
位置関係
open-hinataより【火野山地土居屋敷】
余湖図【火野山地土居屋敷】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【火野山地土居屋敷】
『芸藩通志舞綱村』から一部加工
城の概要
火野山地土居屋敷跡 北広島町舞綱
日山城の南麓、舞綱道(搦手道)の登城口にある屋敷跡で、ほ場整備で盛土されていますが、間口56m、奥行50mの規模があります。
正面の石垣は高さ約1m、長さ約56mで、屋敷中央部の石垣が途切れたあたりが門跡と思われます。
石垣は吉川元春館跡や万徳院跡と共通する手法が用いられ、16世紀末の屋敷跡と考えられます。
周辺には、福原屋敷・福永屋敷·宮谷屋敷·岡本屋敷·鍛冶屋等の地名が残っています。
また、先祖は大工(番匠)だったという言伝えのある「番匠屋」の屋号をもつ民家には、万徳院跡出土版木と同一組の版木が伝えられており、この一帯が吉川氏の家臣や職人が住む城下であったことがうかがえます。
北広島町教育委员会
『看板』より引用
火野山地土居屋敷跡
館の規模は,現状では80mX50mであるが,南面の畑・田の位置や館に伴う石垣から考えると,56mX50m程度であったと思われる。
正面の石垣は,高さ約1m,長さ約56mで,石垣の上にさらに約1.5m盛り土があり,館内部は水田となっている。
この盛り土はおそらくまちだおしの際のものと思われる。
館の中央部は,幅約2mの道となっており,石垣が途切れているところが門であろう。
石垣は正面から向かって左側が良好であるが,右側は若干崩れている。
構築方法は,向かって右側部分については,横積みを基調としながらも,所々に石の広い面を表に出して立てるというものである(右側部分は横積み基調で立石が2つある)。
このような石垣の構造は,吉川元春館跡・万德院跡・二宮氏館跡のものと共通である。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
城の歴史
詳細不明
所感
●吉川元春館跡、万徳院跡、二宮氏館跡と同じ造りのため、吉川氏の石工集団である「石つき之もの共」が関与したと思われる
●現在は圃場整備を行っており当時とはイメージが違うが、石垣の部分のみは当時のまま
●56m×50mと面積も広いため、家臣の家としても上級家臣の屋敷だったのかもしれない
●近隣には神社もあり、その後方には日野山城がひかえている。
●丁度現地にいた時にこの土地の所有者がおり、話を聞けたが、古くからの家は多いが代替わりをして皆市内に出ているのこと
関連URL
参考URL
参考文献
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『万徳院跡 史跡吉川氏城館跡 発掘調査概要 第2次(1992) (中世城館遺跡保存整備事業発掘調査報告』
公開日2025/06/08