城データ
城名:沼田城
別名:保田城、曲輪が2つに分かれており北西は沼田城、南東は城田城(城迫城)、併せて保田城とも呼ばれる。
標高:260m
比高:13m
築城年:不明
城主:天野九郎左衛門か
場所:広島県東広島市志和町七条椛坂
北緯:東経:34.468309/132.637480
攻城記
沼田城全景。
真ん中の道路で分けられいる。
最高所に当たる。
南方面の風景。
南東方面に進む。城田城方面
前方には泥田城が見える。
少し高くなっていることが分かる。
南東の端から。
北東部の曲輪(沼田城)
位置関係
城の名称
open-hinataより【沼田城】
余湖図【沼田城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【保田城】
1960年代の航空写真
現在の航空写真
城の概要
1981年に一部発掘調査が行われ,またその後宅地造成等によって現在ほば全壊している。
中央部の堀切によって,北郭群と南郭群に分かれる。北郭群は1郭を中心に北西側に六つの郭を,南郭群は7郭を中心に南側に六つの郭を配している。
北郭群を「沼田城」,南郭群を「城田城」または「城迫城」と呼び,全体で「沼田城」あるいは「保田城」と呼ばれている。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
保田城と沼田城
七条表迫にある。田圃の中に西北から東南へかけて長さ約 二百mの細長い丘陵があるのがそれで、その中ほどに道がと おり丘陵は二つに別れているが、どちらにも城跡としての遺 構がある。
西志和村誌(大正十二年刊・中村編)によると、西北側が 保田城、東南側が沼田城と二つの城名になっている。
そして 沼田城の別名を櫔田城(櫔は「レイ」で木の名であるが、これを 「レイタ城」と読むのかは不明)としている。
城主として岡氏の名を同誌はあげている。
賀茂郡古城史(前出)では、城主として天正年間天野九郎 左衛門だったとしている。
これは天正十九年(一五九一)給 地付立絵図に出る天野九郎左衛門と同一人であろう。
賀茂郡古城史(前出では、城主として天正年間天野九郎 左衛門だったとしている。
これは天正十九年(一五九一)給 地付立絵図に出る天野九郎左衛門と同一人であろう。
また、これはあくまで推定であるが、西村に入って来た天野氏の居城(西天野氏については前述している)が判明していない。
あるいはこの城跡がそれではなかったかと思っているが、将来の研究課題である。
城跡は周囲を人家で囲まれており、丘陵は竹藪や畠となっており、保田城跡の方は北西が一番低く、それ より四ー三ー二ー二ー二mと階段状に高くなっている。そして一番高い部分の南はしに宝篋印塔が一基、北 保田城と沼西隅に五輪塔一基がある。
市教委の手によって発掘調査されたが、格別の出土品はなかった。
『賀茂郡史』-中世武士編-より引用
城の歴史
詳細不明、城主が天野九郎左衛門とあるが戦国時代後半になるので、城というよりも館跡なのかもしれない。
城主家系図
城主(一族)石高
天野九郎左衛門
1018.413石
内訳
312.102石 安芸 賀茂
94.174石 安芸 高田
327.815石 出雲 出東
159.400石 出雲 秋鹿
50.016石 出雲 神門
74.906石 備後 芦田
所感
●城というより館跡という印象。
●周りよりわずかに微高地となっており、周囲の眺望もいい。
●名称が多くあり複雑になっている。
関連URL
参考URL
参考文献
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
『賀茂郡史』-中世武士編-
公開日2024/04/29