城データ
城名:赤城山城
別名:赤城
標高:280m
比高:20m
築城年:永禄年間(1558~1569)
城主:天野氏、阿曽沼氏の可能性もある。
場所:広島県東広島市志和町奥屋
北緯:東経:34.460953/132.615679
攻城記
赤城山城全景。
目新しい看板があった。
説明文があればなおよい。
館跡か
比高があるが直登。
なかなかの高さ。
どうもこの部分までは曲輪ではないらしい。
回り込んで更に直登。
本丸に到着。
長大な曲輪。
二の丸から見た本丸。
二の丸。
二の丸の先になる土塁。
堀切るので降りてみる。
堀切が道になっている。
地蔵堂。
典型的な戦国時代の五輪塔。
この城主に由来の五輪塔か。
位置関係
open-hinataより【赤城山城】
余湖図【赤城山城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【赤城】
城の概要
最高所の1郭は35×10〜17mで,その北西約1.3mに27×11mの2郭がある。
2郭の先端部(北西側)には,高さ1.3mの「L」字型の土塁があり,その先には堀切が残り現在道路として利用されている。
1郭の西には二段からなる郭が残るが削平が著しく,旧状はもっと広い郭であったものと思われる。
城主は天野氏といわれ,永禄年間(1558〜1569) の築城と伝えられる。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
赤城山城
奥屋上条にある。標高二六一m・比高二〇mの山で永禄年中(一五五八〜六九)天野元政が築城したと芸藩通志にある。
奥屋はもと世能阿曽沼氏の領地であった。
天文二十年(一五五一)九月、西条槌山城を落した毛利氏の軍は転じて奥屋村へ入いり、阿曽沼軍と戦い阿曽沼氏は敗退する。
そして奥屋村は毛利氏の手に帰し、のち天野氏へ与えられることになる。
そうしたことから考えると赤城山城ははじめは阿曽沼氏 のものではなかったろうか。
遺構は四段になっていて、西端が一番高く土塁もあり、また北麓に小川が流れている。
後の笠松山からの水路がある。 この水路は明治維新のとき鉄砲鋳造所にも利用されている。
『賀茂郡史』-中世武士編-より引用
城の歴史
詳細不明。
永禄年間(1558〜1569)にはこの地域は戦が無かった時期であり、もしこの時期であればどのような意味で築城したのだろうか。
所感
●『芸藩通志』では天野元政が築城とのことだが、元政が生まれたのが1559年で1569年に天野元定の婿養嗣子として家督を継がせることになったので、もし築城時代がこの時代であれば、元政よりも元定の方が自然。
●天文年間以前は天野氏ではなく阿曽沼氏の支配地域であり、そうなってくると、天野氏の築城というよりも阿曽沼氏の築城だった可能性もある。
関連URL
参考URL
参考文献
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
『賀茂郡史』-中世武士編-
公開日2024/04/29