城データ
城名:槌山城
別名:明神山城
標高:489m
比高:260m
築城年:天文12年(1543)、天文20年(1551)に落城。
城主:弘中隆兼、菅田宣真
場所:広島県東広島市八本松町吉川
北緯:東経:34.398779/132.655477
攻城記
麓に大きな看板がある。
東広島市指定史跡 槌山城跡 昭和53年入1月15日 指定
槌山城は、西条盆地の西端、標高490mの急峻な槌山に築かれた中世の山城で、明神山城とも呼ばれました。
城が築れたのは南北朝時代と言われていますが、明かはありません。
室町戦・国時代、この地域は山口の守護大名大内氏の所領でした。
大永3(1523)年出雲尼子氏によって鏡山城が落城し大永5(1525)年以降大内氏の拠点は机城及び槌山城に移されました。
天文12(1548)年、大内氏は、守護代として重臣の弘中隆兼を槌山城に派遣します。
弘中隆兼は、天文15(1546)年には「西条守護殿 」と呼ばれ、天文19(1550)年頃まで槌山城を本拠として芸備両国を支配していました。
天文20(1551)年、陶氏の反乱によって義隆が滅亡した際、当城は大内義隆派の城番が守っていましたが、陶氏の命を受けた毛利氏らによって攻め落とされています。
厳島合戦後は、小早川氏が管理していましたが、「当国守護山」ということで毛利氏に移管されています。
城跡は、東西400m、南北250mの範囲に広がる大規模なもので、1郭、2郭、3郭、.4郭を中心とする郭群にそれぞれ分けられます。
1郭を中心とする郭群は本丸に当たると考えられ、3段からなります。
郭を中心とする郭群は登城路が集まる場所に当た重要郭群となっています。
城内の要所には石垣を築いており、本城跡は、戦国時代中期の代表的な城跡として重要です。
登城開始。
あのてっぺんまで行く。
あと●●mとあり分かりやすい。
ここで分岐する。
近づいてきた。
地面が砂様で登りにくい。
やっと城域に突入。
削平地が広がる。
本丸前の切岸に石垣がある。
矢竹が繁茂している。
本丸に到着。
こう見ると単郭に見えてしまう。
眺望が良い。
縄張り図が無く残念。
看板の奥。
この先にも長大な曲輪があるが藪化しており断念。
本丸だけなら残念なので北西の曲輪に行く。
行く場所はないので直に降りる。
素晴らしい曲輪を発見。
かなり長い距離曲輪がある。
位置関係
open-hinataより【槌山城】
余湖図【槌山城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【槌山城】
城の概要
遺構は,最高所の1郭を中心とする郭群・西郭群・北東郭群・東郭群の四つの郭群と,南西部の二つの郭状遺構群に分けられる。
最高所の1郭は三段に分かれ,南に虎口があり,南西下に下りる通路が延びる。
この通路に面するところ,すなわち1郭の南西隅は矩形に張り出しており側防(横矢掛)になっている。
1郭から東下に下りる幅の広い通路は北東郭群まで続いており,幹線通路として整備された近世的な遺構であると考えられる。
1郭南西下の郭は三段からなり北側に石垣による側防(折)がみられる。東郭群の南北にはそれぞれ麓に通じる大手道がある。
戦国期,防長の大名大内氏の安芸東西条支配の拠点である。大内氏滅亡後は毛利氏によって管理されたと考えられる。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
城の歴史
南北朝期に南朝方の拠点として築かれたと見られてい るが、一次史料に現れるのは、天文十二年(一五四三) である。
出雲国で大敗を喫した大内義隆は、帰国後の六 月、分国の安定化を図るため、出雲で討死した杉隆宣に替え弘中隆兼を「国役人」として安芸国に派遣し、槌山城に入れた。
弘中隆兼は、「西条守護」とも呼ばれ、安芸国及び備後国南部を管轄した。槌山城は、両国の守護 所として機能したと考えられる。
天文二十年(一五五一)、陶隆房は主君大内義隆を弑すると、義隆派の籠る槌山城を、毛利軍を主力として攻める。
槌山城には城番の菅田宣真、大林和泉守らのほか、 頭崎城から逃れてきた平賀隆保がいたとされる。
城下の戦いで敗退した城方は降参し、上記三名が切腹して他の ものは許されたと伝えられる。
槌山城は「守護山」であることから、後に毛利氏が管理することになり、隆元は城番を誰にするか頭を悩ませ ている。
人材不足の中で、菅田・大林の一類に城を守らせるしかないというようにも考えたようだが、安芸国の 緊張状態が緩和するにつれ、槌山城の重要性は失われたものと思われる。
『安芸の城館』より一部引用。
所感
●安芸国守護拠点として城の造りはしっかりしている。
●地元の方が登山道を整備している、出来れば曲輪も整備して欲しいところ。
●北西の曲輪が長大で見どころあるので東方面の曲輪の降り口も整備されたらと思う。
●城が落城したあとは改変の必要性もなくなったと思われ、1551年頃の遺構がしっかりと残っている。
関連URL
参考URL
参考文献
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『安芸の城館』
『賀茂郡史』-中世武士編-
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2024/04/27