城データ
城名:曽場が城
別名:大山城、飯田城、曾都山城、杣城(同時代史料にはすべて「杣城」と書かれている)(『安芸国の城館』より)
標高:607m
比高:380m
築城年:大永年間
城主:伊香賀壱岐守(代官)、飯田頼氏、結城盛貞、杉野(杉?)義晴、弘中隆兼、杉隆宣
場所:広島県東広島市八本松町飯田
北緯:東経:34.433885/132.674068
攻城記
最初にこの看板が目に入る、このなかを進むのかを一旦躊躇する。
これは違うと思い道路をそのまま進む。
道なりに進むときちんとした登山道があり安心。
攻城スタート。
戦没者の名前が彫られている。
少し見晴らしがよくなってきた。
ひたすら尾根道を登っていく。
最初の曲輪に到着。
矢竹の繁茂が凄い。
三の丸跡。
午の段後。
二の丸跡。
この矢竹の森を抜けると本丸。
本丸に到着。
西条方面。
最高所はまだ先。
本丸を囲む石垣。
一見の価値あり。
降りると堀切がある。
本丸方向。
最高所の一ツ城跡に到着。
北の八本松方向。
位置関係
open-hinataより【曽場が城】
余湖図【曽場が城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【曽場が城】
城の概要
曽場が城山の山頂部東西約750mにわたって郭群が広がっている。
郭群は堀切群をはさんで大きく西側郭群と東側郭群に分けられる。
西側郭群は本城跡中でも最高所の標高607mの位置にある郭を中心に北西,南西,東の三方向に小郭を配している。
堀切群をはさんで東側にある郭群は細長い郭を尾根筋上に連ねて南下に帯郭を置いている。
東端の尾根筋上にある郭群から南下に広がる郭群には石垣が用いられ,土塁や小郭を組み合わせて虎口部を形成している。
本城跡は,大内氏の東西条支配の拠点の一つと考えられている。城主には,飯田氏,結城氏,椙野氏,杉野氏の名がみえる。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
城の歴史
曽場ヶ城跡は、大山城跡、飯田城跡、杣城跡とも呼ば れるとされる。
同時代の史料では、「杣城」と記される。 ここでは城についていうときは杣城の呼称を使う。
杣城の初見は、大永七年(一五二七)頃の陶興房書状 である。
大永五年(一五二五)、東西条を回復した陶興房は、鏡山城を廃し、重臣の伊香賀壱岐守を代官(小郡代カ)として仙城に在城させている。
その後、東西条郡代に就任した弘中隆兼が在城したと みられ、天文五年(一五三六)から始まる平賀弘保・興貞父子の内紛では、大内方の弘保を支援して頭崎城を攻める拠点として機能した。
尼子氏の支援を受けて抵抗する頭崎城に対し、大内義隆は天文八年(一五三九)、弘中隆兼に代えて杉隆宣を派遣し、長門守護代内藤興盛の嫡子内藤隆時に隆宣の支援をさせる体制を採ったようで ある。
天文十二年(一五四三)、杉隆宣の出雲での討死後、新たに西条守護に就任した弘中隆兼は杣城南方約四・五キロメートルの槌山城に拠点を移し、杣城は廃城 となった。
『安芸の城館』より一部引用。
所感
●比高380mと県内でもなかなかの比高であるが、登りやすく山頂まで1時間位。
●尾根に広域に城跡があり、また段々城の曲輪もあるのでじっくりみると時間がかかる。
●本丸からの景色はよく、遠く西条方面も一望できる。
●石垣も残っており歴史を感じさせる。
関連URL
参考URL
弘中隆包(ウッキペディア)
参考文献
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『安芸の城館』
『賀茂郡史』-中世武士編-
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2024/04/27