城データ
城名:関山城
別名:無し
標高:288m
比高:40m
築城年:戦国時代か
城主:横山眞高
場所:広島県広島市安佐北区安佐町鈴張
北緯:東経:34.587875/132.474127
攻城記
関山城全景。
本丸は非常に綺麗。
2段になっている。
神社になっているために整備されているのであろう。
少し盛り上がっている。
曲輪の先端部。
奥には堀切がみえる。
堀切。
本丸部分を見上げる。
堀切よりも南に進む。
南の部分にも平坦面が広がっている。
麓を確認。
位置関係(国土地理院のサイトに加筆)
open-hinataより【関山城】
余湖図【関山城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【関山城】
城の概要
北東に延びる丘陵の先端部の南北のピークに郭があり、その間の鞍部に堀切と竪堀を配している。
北側の郭は規模が40m×15m程度の大きな郭で、東側に土塁がある。
南側は最高所の郭とそれを中心に配された小郭からなる。
鞍部の堀切に面して南側にも二段からなる郭がある。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
城の歴史
詳細不明
『芸藩通志』では「關山城 東殿山 並に鈴張村にあり、關山は天文の頃、横山眞高、所居、その裔、今村内にあり、東殿山、一に東藤山に作る、横山民部、所守いふ、」とある。
城主(一族)石高
『芸藩通志』が東殿山城主と記す横山民部丞は、当城の東1kmにある関山城に拠った横山右馬介眞高の一族らしい。
天文10年(1540)郡山合戦に敗れた尼子軍が撤退したのち、尼子方についていた武田氏が大内軍に攻撃されて滅亡。
横山眞高はその翌年大内義隆から鈴張内23石余の地を与えられている
(広島県史古代中世資料編Ⅳ)。
小花と春の古城巡り(東殿山城)より引用。
広島県史 古代中世資料編Ⅳ
横山林左衛門氏旧蔵文書(完)
一 大内義隆下文 ○東大影寫本ニヨル
(義隆)
(花押)
下 横山右馬助眞高
可レ令二早領知一安藝国安北郡鈴張内貳拾三石余地事
右以二件人一所二宛行一也者、早可レ全二領知一之状如レ件、
(1542)
天文十一年十一月十二日
享禄4年(1531)にはこの土地を吉川氏に与えている。
当時まだ武田の支配領域の為、切り取り次第としたのだろう。
天文21年(1552)には鈴張が熊谷氏の所領になっている。
吉川⇒熊谷への所領の変遷があったか?
所感
●横山氏にも2系統あり、武田氏に最後まで従い滅亡した東殿山城主の横山民部丞とこの関山城の横山眞高。
●城は北はしっかり造られているが、堀切よりも南は自然地形のようにも見える。
●今でも子孫がこの地域にはいるらしい。
関連URL
参考URL
参考文献
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2024/04/21