城データ

城名:恵下城

別名:狼山城

標高:188m

比高:55m

築城年:南北朝前半から戦国時代か

城主:遠藤氏、三須氏

場所:広島県広島市安佐北区安佐町飯室

北緯:東経:34.567386/132.451101

在りし日の恵下城はここ

 

攻城記

完全に団地化されている。

城が団地の名前になっている。

ここら辺が城の南端か。

今は公園になっている。

面影全くない。

城主は遠藤氏か三須氏、南に三須氏の居城である土居城がある。

 

位置関係

 

 

open-hinataより【恵下城】

 

今は団地よなっており何もない。

 

余湖図【在りし日の恵下城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

『芸藩通志』【恵下城】

 

 

1960年代の航空写真

 

城の概要

本城跡は、宅地造成に伴い発掘調査が実施された。

最高所に1郭を置き、北側に2郭~4郭、南側に5郭、西側に6郭の配置が確認された。

 

1郭の東西両側は、堀切によって尾根が分断されている。

 

1郭内において、杭列、礫群、石垣、掘立柱建物跡、礫石建物跡が検出されている。

 

2郭は、低い土塁二条によって三区に区分され、東側では地山削り出しの土塁と杭列を伴う通路状遺構が検出されている。

 

出土遺物から、南北朝時代前半から、戦国時代にかけて存続したものと推定されている。

 

城主は、遠藤氏と伝えられている。

 

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用

 

 

VIまとめ

「芸藩通志」に「恵下,一に狼山と云,遠藤某が所居,一説には三須隆常と云」としている本城跡は,調査前の踏査によって6つの郭と2本の堀切り,5本のたて堀を備えた山城跡であることを確認していた。

 

調査によって,これらのことを確認するとともに,建物跡,杭列,通路状遺構,たて掘7本の遺構が明らかになり,実戦的な山城であることを確認した。

 

まず,城の縄張りについて述べよう。本城跡は堀切で尾根を切断しており南北約90m,東西約80mを測る。

 

尾根は南西へ延びており,水田面の広がる南東側を大手側,尾根が後側に続くところから,搦手と推定した。

 

大手側には,第1堀切の外側に第6郭を配しており,第6郭の前面に遺構が検出されなかったところから,第6郭までを大手側の限界とした。

 

搦手側は第2堀切があり,これより後部は自然の丘陵が見られ,郭としての加工が見られないところから,第2堀切までを搦手の限界とした。

 

しかし,第2堀切の後方約60mの位置に地山を削平した幅約8m深さ3mの山道が見られる。

 

この道は「芸藩通志」の飯室村絵図に見られる道であり,往時この道が鈴張へ行く主要道であったと伝えられるところから,かなり古い道であろうと推定されるが,もとは本城跡の使用時期に搦手の防禦のために堀切っていたのを,後世道とした可能性もある。

 

地形的にも尾根が両側から細くなっている所であり,堀切を設けた可能性が高いが,現在確認することはできない。

 

いずれにしても,城の縄張りの際,範囲内と意識したであろう。本城跡は,主郭である第1郭を中心に,西側に第2〜第4郭,東側に第5郭,大手側に第6郭を配している。第2〜第4郭は有機的な関係をもっていたことが考えられ,後方側面からの攻撃に対しているものと思われる。

 

さらに,第2郭は通路状遺構によって第2堀切と連絡しており,城の使用の際通路となると同時に,搦手からの敵をここに導びき入れるものであろう。

 

第5郭は大手側面からの攻撃に対するものである。第6郭は,堀切とたて堀によって,他の郭と分離されており,捨郭として設けられたものであろう。たて堀は,堀切を補強するものである。

 

この他第1郭より建物跡,杭列,石垣,礫群,第2郭より通路状遺構,土塁が検出された。

 

建物跡は3棟分が検出されたが,内2棟は掘立柱,1棟が礎石をもつものであり検出例は少ない。

 

杭列は第1郭1の段のほぼ全体,:2の段,3の段の西側縁辺部より検出されている。

 

溝を伴ならこと,ピットの規模,間隔等から、縁辺部の拡張のための盛土の土留めのための施設と考えられる。

 

第1郭より多くの礫群,石垣が検出されているが,土留めのために使用したものと思われる。

 

周辺の郭,堀切から第1郭よりのものと考えられる角礫が出土しているところから,第1郭には,本来,さらに多くの土留めの礫群があったと思われ,この時期に大修復を加えたと推測される。

 

第2郭より検出された通路状遺構は,第2堀切から連続しているものと考えられ,第1郭へ至る通路として作られたものと思われ,城の使用と防禦に関して注目すべき遺構であろう。さて,本城跡の機能について検討を加えてみよう。

 

地形図で見られるように,本城の両側には,比較的深い谷がかなり奥まで入り込んでおり,城の選地の際,この位置を考慮していると思われ,自然地形を利用した堀切と見なすことができるであろう。

 

大手側からの攻撃に対する構えは,第6郭を配しており,前面は削り出しの土塁を設けている。

 

第6郭は他の郭と独立しており,捨郭の機能をもっている。さらに堀切とたて堀によって,側面に向からことを困難にしており,大手側は強固に構築しているといえるであろう。

 

これに対して,搦手の構えは,第2堀切によって主郭と分離してはいるものの,前述した通路状遺構によって連絡しており,後部丘陵がゆるやかな傾斜をもつことから,侵入は容易だったと思われる。

 

さらに,第3郭は平坦面を有し,後部丘陵のゆるやかな斜面を伝っての侵入は比較的容易と思われ,大手側の構えと比して,一見弱いように構築していることは,城の郭の構築を考える上で,検討を要するであろう。

 

第2郭へは,第2堀切を通って行くことができるが,その通路状遺構は,狭く複数の通行が困難である。さらに,第3郭への侵入が容易なことは,そこに敵が集まることを示す。言いかえれば,第2郭と第3郭に集まらざるを得なくなるような構造にしているものと思われる。

 

ところで国衙領となっていたとみられる飯室を中心とする鈴張川流域は,鎌倉時代からの安芸国の守護である武田氏の勢力下に次第に組み込まれていったものとみられる。

 

応仁の乱後,芸備地域は細川氏に代って大内氏が進出し,武田氏もこれに従属するにいたり,永正5年(1508年),大内義興が義稙を奉じて京に上り,武田元繁,厳島神主興親などがこれに従った。

 

この時,京で興親が病死して正統が絶え,一族の友田,小方両氏の間に後嗣争いがおこり,これを鎮めるため,武田元繁が帰国させられたが,元繁はこれを利用して勢力の拡大を図り,抗争に干渉したため,大内義興は毛利元就に命じ対抗させた。

 

永正14年(1517年),有田合戦において元繁が戦死するに及んで,その勢力は急速に衰え,元繁の子光和の代になると熊谷氏が離反し,光和の病死後,己斐氏,香川氏など有力重臣がさらに離反するに及んで衰微が決定的となり,これに代って毛利氏が広島湾沿岸に進出し,急速に勢力を伸ばした。

 

このような安芸国の状態を勘案すると,飯室村については,少くとも室町時代中葉頃までは,武田氏の勢力下にあるが,元繁の死後急速に勢力が衰徴し,毛利氏がこの地域に進出してくる。

 

すなわち毛利元就はこの地を吉川元春に与え,①さらに熊谷信直に与えたことが文献にみえ,最終的には熊谷氏の一族②とみられる三須氏が知行したとみられる。

 

さて,城主であるが,「高宮郡郡中国郡志」には「三須遠藤殿」 とあり,1名としている。これに対し,文政年間に編纂の「芸藩通志」には「遠藤某,三須隆常」とあり,2名としている。「芸藩通志」による2名の城主を「国郡志」では同一人としていると思われ,いずれが正しいか明確にはできない。

 

しかし,「陰徳太平記」による山県郡千代田町の有田合戦の条に,武田元繁に従った武士の中に「遠藤」の名が見え,この頃の飯室の地は,武田氏の支配下に組み込まれていと推定されるところからこの「遠藤」が「芸藩通志」に見える「遠たると思われ,「遠藤」,「三須」は別人とした方がよいように思われる。

 

このこよ,本城跡が築城後2回にわたって修復されているところから本城変化があったことが推定でき,両者を別人とすることと符合すると思われる。

 

つぎに,本城跡の築城及び使用期間等についてみると,県下の山城跡の調査例から,本城跡の立地と郭の配置状態は戦国期の城跡とは異っている。

 

戦国期の山の多くは丘陵頂部から階段状に郭を配置しているが,本城跡は主郭心に堀切りたて掘および郭を周囲に配置している。

 

このようなあ類似の発掘調査例③は必ずしも多いものではなく,また変遷についても十分に認識されているものではないが,戦闘の変化に伴う階段式山城の構築が普及する以前とみられる。

 

すなわち本城跡は戦国期以前あるいは戦国期の初期にはすでに成立していたとみられる。

 

このことは本城跡出土の遺物のうち備前焼のすり鉢が南北朝時代のものとみられることからも首肯されよう。④

 

本城跡使用の下限については出土遺物に明確にそれとされるものがないため明らかではないが,この地域の時代的背景および文献等によると,前述のように武田元繁が永正14年(1517年)の有田合戦で毛利氏に敗れるまで,武田氏の勢力下にあり,その後,毛利氏が熊谷氏に所領を与えており,大きな変化がみられる。

 

本城跡に関する文献によると,城主として「遠藤某,三須隆常」 の記載がみえるが,三須氏は熊谷氏と密接な関係を有するほか, ⑤恵下城跡の南約2Kmの土居城跡も三須氏の城とされていることから,この地域が熊谷氏の勢力下に入る頃,恵下城跡,土居城跡を含む小地域を三須氏が勢力地とし,その後も領有していたとみられる。

 

このよらな三須氏の存在から推察すると,遠藤某については明らかではないが,三須隆常以前の恵下城跡の城主として考えられ,武田氏の衰亡とともに遠藤氏も衰亡し,三須氏の支配するところとなったのではあるまいか。

 

本城跡は少くとも2回の修築がみられることからも,継続して使用していたことを示しており,南北朝期から戦国期まで使用されていたのであろう。

 

①吉川家文書・熊谷家文書による。

 

②三須氏は,出身は不明であるが,熊谷信直の次男に三須兵部少輔の名見え,熊谷氏の娘が三須氏へ嫁している事実,さらに飯室熊谷氏と呼ばれることもあったところから,熊谷氏に近い一族と推定される。

 

③伯崎城跡(広島市高陽町),惠下山城跡(広島市高陽町)等「高陽新住宅市街地開発事業地内埋蔵文化财発調査報告」1977 広島県教育委員会。

 

④間壁忠彦氏御教示による。

 

⑤「芸通志」「高宮郡郡中国郡志」

 

『恵下城跡発掘調査概報』より一部引用。

 

城の歴史

詳細不明。

『芸藩通志』では「恵下城 牛地 並に同村にあり、恵下、一に狼山とよぶ、遠藤某が所據、一説には、三須隆常と云、牛地は、武田氏と云傳ふ、」とある。

 

遠藤氏は治めていたのがその後三須氏の城になった可能性はある。

三須隆常(隆経だと思われる)は熊谷信直の四男で三須房清の養子となっている。

 

遠藤氏は『陰徳太平記』に武田氏の家臣として遠藤左京亮利之がおり天文2年(1533)に可部で横川の合戦があった時に、熊谷氏の高松山城を攻めている。

 

最終的に武田家は滅亡して、遠藤氏も毛利の参加に入ったのではないかと思われる、同姓の遠藤氏に嶽尾城の城主で遠藤美作守がいるが同族か不明。

 

推測であるが、恵下城の城主だった遠藤氏も飯室村が熊谷氏の所領として親族の三須氏の支配地になった時に退去したのかもしれない。

 

その為、『芸藩通志』に城主が遠藤氏、三須氏と2名の名前が記載されている可能性もある。

 

享禄4年(1531)にはこの土地を吉川氏に与えている。

当時まだ武田の支配領域の為、切り取り次第としたのだろう。

 

 

天文21年(1552)には鈴張が熊谷氏の所領になっている。

吉川⇒熊谷への所領の変遷があったか?

 

また、三須と遠藤の記載もあり1552年当時はまだ遠藤氏が毛利氏の臣下としていたことが分かる。

 

城主家系図

 

城主(一族)石高?

遠藤修理

106.019石

内訳

15.000 周防 熊毛

91.019 備後 神石

 

遠藤 六郎兵衛

53.835石

内訳

30.291 安芸 佐西

8.291 安芸 山県

15.354 周防 佐波

 

『毛利八箇国御時代分限帳』に遠藤氏が2名いるが関係あるかは不明。

 

三須六右衛門という人物が安芸賀茂郡に100.122石の所領を賜っているが、この三須氏かは不明。

 

所感

●今は団地になっており跡形もないが、当時は尾根の突端に位置して眺望も利いた立地だと思われる。

 

●近隣に畑城があり、いさかいがあったと言われる。

 

●南北朝から城があったといわれるので、武田家臣として長年尽くしてきたとも思われる。

 

関連URL

 

【広島県】土居城【広島市安佐北区安佐町大字飯室】

 

【広島県】嶽尾城【廿日市市城内】

 

参考URL

ひろしま昔探検ネット(恵下城)

城郭放浪記(恵下城)

武田光和と横川合戦

 

参考文献

『恵下城跡発掘調査概報』

『日本城郭大系』13

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』

『広島県の地名』

『広島県地名大辞典』

『広島の中世城館を歩く』

『萩藩諸家系譜』

『毛利八箇国御時代分限帳』

『萩藩閥閲録』

 

公開日2024/04/20

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