城データ

城名:東殿山城

別名:東藤山城

標高:256m

比高:48m

築城年:不明

城主:横山民部

場所:広島県広島市安佐北区安佐町鈴張

北緯:東経:34.581877/132.463341

東殿山城はここ

 

攻城記

立派な石碑もある。

本丸はすぐそこ。

本丸に到着。

城主は横山民部と呼ばれる。

本丸から降りて周囲を散策。

本丸を望む。

周辺部。

削平地。

 

open-hinataより【東殿山城】

 

余湖図【東殿山城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

『芸藩通志』【東殿山城】

拡大図

 

1960年頃の航空写真

白丸が城域であるが、1960年当時は南西にも山並みが広がっており、この部分にも城域があったのかもしれない。

 

城の概要

郭は最高所の1郭の北・西・南を囲むように帯郭を配している。

 

東側は畝状竪堀群と、堀切をはさんで一つの郭があり、さらにその東には尾根筋が土塁状に延びている。

 

西下には北から上る谷を囲むようにL字状の郭があり、また南西下には横堀状の土塁が巡っている。

 

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用

 

城の歴史

詳細不明であるが、

 

東殿山城主民部丞は若狭・丹波の守護武田元信(安芸武田氏と一族)家人(家臣)としてこの地域を領有する(元禄 17 年の鈴張地誌)とある。

 

また、関の城址が近くにあり、山口の守護大名大内義隆の家人、横山右馬之助眞高の居城とされる。義隆の下文(くだしぶみ「命令書」)今に残るともある。

 

『ふるさと 町あるき』安佐町の魅力再発見 より

 

城主(一族)石高

『芸藩通志』が東殿山城主と記す横山民部丞は、当城の東1kmにある関山城に拠った横山右馬介眞高の一族らしい。

 

天文10年(1540)郡山合戦に敗れた尼子軍が撤退したのち、尼子方についていた武田氏が大内軍に攻撃されて滅亡。

 

横山眞高はその翌年大内義隆から鈴張内23石余の地を与えられている

(広島県史古代中世資料編Ⅳ)。

 

小花と春の古城巡り(東殿山城)より引用。

 

所感

●小さいながらもしっかりとした造りの城。

 

●堀切、畝状竪堀もあり、城としての機能を最低限有している。

 

●鈴張は武田氏の所領であり、横山氏もその家臣だったことが伺われる、1541年の武田滅亡時に滅亡か。

 

関連URL

【広島県】土居城【広島市安佐北区安佐町大字飯室】

 

参考URL

ひろしま昔探検ネット(東殿山城)

城郭放浪記(東殿山城)

小花と春の古城巡り(東殿山城)

 

参考文献

『日本城郭大系』13

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』

『広島県の地名』

『広島県地名大辞典』

『広島の中世城館を歩く』

『萩藩諸家系譜』

『毛利八箇国御時代分限帳』

『萩藩閥閲録』

 

公開日2024/01/12

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