城データ
城名:金ノ口城
別名:無し
標高:318m
比高:40m
築城年:戦国時代か
城主:不明
場所:広島県広島市安佐北区安佐町鈴張
北緯:東経:34.592652/132.485049
攻城記
金ノ口城遠景。
突き当りまで進む。
ここから登る。
直登していく。
山頂部に着くが何もない。
削平地にも見えない。
曲輪に思えない。
反対方向に進む。
窪みがあるが曲輪に見えない。
高速道路の先端分の平坦地。
位置関係(国土地理院のサイトに加筆)
open-hinataより【金ノ口城】
余湖図【金ノ口城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
城跡東側は中国自動車道によって消滅しているが、西半分が残存している。
残存部は頂部に二つの郭を配し、北側に2本、南側に1本の竪堀があり、尾根線に沿って東西郭端から土塁が築かれている。
本城跡はもともと尾根上に五つの郭を階段状に配していたものと考えられ、比較的傾斜の緩やかな南側斜面を意識して、大小5~7本の竪堀を設けていたものと思われる。
しかし、城郭全体としては大規模なものと言えず、見張台として機能したと思われる
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
(4)まとめ
本城跡の縄張りについては,不明確な部分が多いが,表面観察によりある程度知ることができる。
郭の配置は,基本的に尾根上に5郭を階段状に配したものとみられ,背後を堀切によって画している。
今回調査した手部分の西方約20mは本城の最頂部にあたり、ここに幅3〜5m、長さ約20mの細長い郭が設けられている。
そしてこの郭を頂点にして東西の尾根上に4つの郭が階段状に築かれている。
東側では搦手の掘切との間に東西約20m、南北約20mの郭があり、その東端には幅1m、高さ1.5〜2mの土塁が約20mにわたってみられる。
他方、西側は郭の状態が明確でなく、むしろ自然地形のままに近い。
各々の郭の南側斜面には大小の竪堀が5〜7本配されているが、北側斜面では地形が急峻なため竪堀は非常に少ない。
南側に堀が多いのは緩斜面という地形上の不利を補うためと思われる。
このように、本城跡は天然の地形を利用しながら防御に不利な部分には竪堀を設けるなどして前面および側面からの攻撃に対処している。
一方、搦手部分については、今回の調査で明らかなとおり、石垣状遺構を伴う堀切、南北の竪堀とそれらにより形成された陸橋部、そして土拡などその防御施設にはかなり気を配っている。
しかし、郭の規模は総じて貧弱で必ずしも大規模な城郭とはいえない。
城の占地条件などを加味すると、おそらくこの城跡は見張台的な機能をもった山城であろうと思われる。
城の築城時期や城主については文献上の記載がなく、また遺物も出土していないので不明である。
ただ、城の構築法からみると、郭を階段状に配し多くの竪堀を設けるなど、非常に堅固なつくりで実践的であり、戦国期の特徴を示している。(桑田俊明)
(注)
1 広島県教育委員会『恵下城発掘調査概報」1978年では、城跡の立地及び郭の配置の特徴より鈴張川流域の山城跡を3分類しているが、金ノ口城も基本的には階段式山城のうちにはいるものと思われる。
『中国縦貫自動車道建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告(3)』
より一部引用
城の歴史
詳細不明。
千代田との街道に位置しており、見張り台の役割をしていたと思われる。
となると、関山城の管轄城になるか。
所感
●縄張図では曲輪の跡もあったが、実際に行くと、細尾根があるだけで曲輪っぽくっは無かった。
●高速道路で東半分は無くなっており、竪堀は消滅している。
●この金ノ口城から千代田に抜ける街道が見えており、逆に千代田から降りてくると最初にこの城が見えるので立地的には最適。
関連URL
参考URL
参考文献
『中国縦貫自動車道建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告(3)』
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2024/04/21