城データ

城名:五龍城

別名:無し

標高:310m

比高:130m

築城年:南北朝時代。

城主:宍戸氏

場所:広島県安芸高田市甲田町上甲立

北緯:東経:34.695050/132.750622

五龍城はここ

 

攻城記

麓の縄張り図。

攻城開始。

麓を臨む。

宍戸元家の三男である家俊を祀ってある。

 

一位の段。

釣井の段

矢倉の段。

三の丸。

二の丸。

桜の段。

本丸。

本丸後ろの堀切。

五龍城全景。

川が天然の堀の役割をしている。

麓の看板。

 

広島県史跡 五龍城跡

指定年月日 一九七一年四月三十日

所在地広島県高田郡甲田町上甲立五龍山

 

五龍城跡は、甲立盆地の西南端の丘陵先端部山城で、南北朝 期以後、毛利氏の防長移封までの約二百五十年間、宍戸氏の本拠として用いられた。

 

宍戸氏は、常陸国宍戸(茨城県西茨城都友部町)にいた宍戸朝家が、元弘三年(一三三三)、足利尊氏と共に六波羅攻略に功があり、翌建武元年(一三三四)に安芸守に任ぜられて甲立荘を領し、当初菊山中腹の柳ヶ城に入ったが、ここは城として 不適当と考え元木山に城を移した。

 

しかし、用水がないので、 五龍王を勧請して祈願したところ、直ちに井水が湧出したので 大変喜び山名を五龍山と改称した。

 

城の遺構は、本村と江の川に挟まれて半島状に延びる丘陵尾根上に、先端部を空堀で区画した約七〇〇mの範囲に広がっ ている。

 

尾根上の郭は尾根を横切る三本の空堀によって三群にわかれ、毛利氏も幾度かこの城を攻めたが遂に落城させることができなかった。

 

のち、天文二年(一五三三)には八代城主隆家と毛利元就の娘との婚姻により両氏は和睦した。

 

所領は約十五万石にも及んだという。

 

九代元続は、慶長五年(一六00)毛利氏が防長二州に移封 の際に、これに従い周防三丘(約一万二千石)に移った。

 

一九九〇年十二月

広島県教育委員会 甲田町教育委員会

 

 

宍戸隆家夫婦の墓

宍戸隆家の墓。

隆家継室(小河内石見繁継姉)の墓

 

余湖図【五龍城】

 

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

『芸藩通志』【五龍城】

拡大図。

 

城の概要

尾根筋上及びその山腹部分約700×150mの範囲に広がる遺構は,尾根を遮断する堀切と土塁によって三つの郭群に分けることができる。

 

両側を堀切によって区切られる中央部郭群は本城跡の中核をなす部分で,「本丸」「二の丸」「三の丸」などの郭名が残る。

 

西側の堀切に面した本丸西端には削り残した高さ約5mの土塁があり,堀底からの高さは約16mにも及ぶものである。

 

西端の郭群には「御笠丸」の名をもつ郭をはじめとして長大な郭が多い。

 

中央部郭群と同様「御笠丸」西端にも高さ約3mの土塁を置き,その外側は土橋をもつ堀切と竪堀を設けている。

 

本城跡は宍戸氏の居城である。

 

宍戸氏は南北朝期にこの地に移り,当初本村川の対岸菊山の中腹に柳ヶ城を築きこれに拠ったが,やがてこの五龍城を築き本拠とした。

 

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用

 

五龍城

五龍城は、甲立盆地の西南端の丘陵先端部に立地した山城で、南北朝期以降、 毛利氏の防長移封までの約二百五十年間、突戸氏の本拠として用いられた。

 

位置としては、甲立盆地の西南端、甲立荘の南側にあたり、富裕な甲立盆地 の支配のためと、可愛川沿いに続く陰陽連絡の道、備後路の交通の要所を押さ える位置にあり、可愛川とそれに注ぐ本村川が天然の濠をなしている。

 

なお、 標高は二七〇~三二〇m、水田面からの比高は九〇~一四〇mと、かならずしも高くないが、甲立盆地に半島のように突出した尾根上に立地しているため、 北東側の甲立盆地全域と西方は本村川沿いに上甲立の谷を見下ろすことができ、 交通の要所の押さえと所領支配に適した城郭のようである。

 

城の創建年代については異説もあり明らかではないが、もともと常陸国にいた突戸朝家が、正慶二年(元弘三、一三三三)、足利尊氏に従って六波羅を攻め、その功によって翌建武元年(一三三四)、安芸守に任じられ、甲立荘を領したことにより移住したのが最初とされており、当初は本村川ならびに甲立盆地を挟んで北側対岸の支尾根上の柳ケ城に入ったが、のち、すぐに対岸の元木城を移して五龍城と名付けたとされている。

 

以後、二代基家・三代家秀・ 四代持朝と続き、五代興家の時、常陸の宍戸氏と分立して安芸突戸氏としたが、結局は持続できず、文明十年(一四七八)、常陸宍戸氏より六代宍戸元家を迎えることによって再興された。

 

元家は相続後、甲立盆地北方の深瀬の中村氏、秋町の辺見氏などと戦い、しだいに勢力を拡大していったが、永正元年(一五〇四)には長子元源に家督を譲り、次男隆兼と共に深瀬の祝屋城に移っている。

 

七代元源は、 永正四年(一五〇七)から同十三年にかけて西方吉田の郡山城の毛利興元とたびたび交戦し、また大永五年(一五二五) には、高宮町原田の高橋氏の猿掛城を攻め落とすなど、勢力をますます拡大し、毛利氏とも戦ったが、のち、天文二年(一五三三)には元源の孫八代隆家と毛利元就の女との婚 姻によって両氏は和睦した。

 

しかし同七年の元源の死により、以後はしだいに毛利氏の勢力下に組み込まれていった。

 

その後は、隆家の孫元続が九代を継ぐが、慶長五年(一六 〇〇)には毛利氏の防長移封に伴って移住しており、以後、本城は廃城となった。

 

『日本城郭大系』13より引用。

 

【城 史】

安芸北部の有力国人宍戸氏の本拠城として知られる。

 

宍戸氏は常陸国が出自で、南北朝期に甲立郷へ下向し 土着したと伝わる。

 

十五世紀には内部抗争があったようで、この城は大内方宍戸氏の城であったが明応七(一四九八)、細川方の備中三村氏らの攻撃により落城している。

 

以後、細川方宍戸氏の城になったと思われ、十六 世紀初頭に毛利氏とはたびたび抗争があった。

 

しかし宍戸氏は享禄年間には大内方国人として毛利氏と協調し ている。

 

元就の娘が宍戸隆家と婚約したとされる天文年間(一五三二〜一五五五)には毛利氏と同盟関係となり、 徐々に毛利一族の城として郡山城北面の防衛拠点となっ た。

 

弘治四年(一五五八)正月に毛利隆元が訪問・宿泊し、城内に「たまり所」と「矢倉」があったことが記録にある(『毛利家文書』六七七)。

 

その後は少なくとも毛 利氏の広島城移転時までは一門の筆頭である宍戸氏の本拠として存在し、防長移転まで維持されたと思われる。

 

なお、先端部にある司箭神社には、管領細川政元との関わりが深く謎の多い、一族の宍戸家俊(司箭院興仙) が祀られている。

 

『安芸の城館』より引用。

 

城の歴史

建武元年(1334):宍戸朝家が甲立に下向する。

 

宝徳2年(1450):宍戸智元,重ねて幕府に高田原の安堵を請う〔(県)厳島野坂 1178〕。

 

寛正元年(1460):宍戸持朝,壬生官務家より,40 貫文で入江保領家預所職を請負う。〔(県)壬生 63〕。

 

文明2年(1470):幕府,毛利豊元に宍戸駿河守跡を宛行う〔毛利 134〕。

細川勝元,宍戸安芸守に毛利豊元の合力を命じる〔毛利 135〕。

 

『毛利家文書134 135』

 

文明3年(1471):綿貫左京亮が高橋命千代らと共に吉茂下荘で西軍(大内方)の宍戸駿河守と合戦〔閥閲録巻126-綿貫左兵衛14〕。

 

文明10年(1478):この年より,宍戸・高橋両氏争う〔(県)壬生77〕。

 

明応7年(1498):大内方宍戸氏であったが、細川方の備中三村氏に攻められて落城、駿河守系統(大内方)の宍戸宮内少輔が討死する、細川氏方宍戸となる。(閥閲録巻 73天野求馬-17)

 

同じ頃に父親の筑後守も岩屋城に籠城するも大内氏の支援を得られずに落城して駿河守系宍戸氏が滅亡する。

『平賀家文書49』

 

永正4年(1507):毛利氏と1月に高田郡高田原で合戦〔閥閲録97佐藤又右衛門-1〕、5月に甲立で合戦〔閥閲録巻84児玉彌七郎-1〕。

 

永正13年(1516):1月三吉致高・宍戸元源,三次郡志和地長野に押寄せ,毛利軍と戦う〔閥閲録巻168〕。5月甲立で宍戸元源が毛利軍と戦う〔閥閲録巻80〕。

 

享禄年間(1528~32):大内方につき毛利氏と協調関係になる。

 

天文3年(1534):この頃毛利元就の次女である五龍姫と宍戸隆家が婚姻して一門衆となり和睦する。

 

天文13年(1544):大内義隆,宍戸隆家に伴五郎跡佐東郡穴村 274 貫の地を預け置く〔閥閲録 1〕。

 

弘治4年(1558):毛利隆元が五龍城を訪問する。

 

 

 

城主家系図

 

城主石高

宍戸元続(元秀嫡男)

25,124.396石

 

宍戸元秀(元続父)

870.155石

 

所感

●城は長年の戦で堅牢になっており、現在も遺構がしっかりと残っている。

 

●本丸後ろの大堀切が見もの。

 

●現在の甲立駅周辺が城下町であったのだろうか。

 

●どうも宍戸氏は庶流が惣領家を力ずくで奪い取ったと思われる、それが元家だったのではないか。

 

関連URL

【広島県】長見山城【安芸高田市甲田町下小原字内長見】

近隣の城

 

参考URL

安芸高田市(五龍城)

五龍城(ウッキペディア)

城郭放浪記(安芸五龍城)

西国の山城(五龍城)

五龍城 -安芸の城ー

安芸宍戸氏(ウッキペディア)

武家家伝(宍戸氏)

 

紀要

石塔から読み解く理窓院と安芸宍戸家

 

参考文献

『日本城郭大系』13

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』

『広島県の地名』

『広島県地名大辞典』

『安芸の城館』

『広島の中世城館を歩く』

『萩藩諸家系譜』

『毛利八箇国御時代分限帳』

『萩藩閥閲録』

公開日2022/02/23

 

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