城データ

城名:市場城

別名:市場ノ城

標高:186m

比高:90m

築城年:戦国時代か

城主:本木与一

場所:広島県安佐北区安佐町飯室

北緯:東経:34.558651/132.449807

市場城はここ

 

攻城記

市場城遠景。

高速道路の下から入る。

いつもの直登。

頂上に到着。

削平地もあり曲輪跡だと思われる。

 

逆方向から。

残っているのはこの部分しかない。

高速道路が出来て破壊されている。

この部分も曲輪であったか。

この辺りが頂上っぽい。

土居城が見える。

関之内方面。

元の曲輪に戻る。

 

位置関係

 

open-hinataより【市場城】

 

余湖図【市場城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

『芸藩通志』【市場城】

 

 

城の概要

中国自動車道建設に伴い、大部分が発掘調査されている。

 

最高所の1郭はL字型で二段からなり、3郭の土塁のような位置にある。

 

2郭は城跡内最大の規模である。この2郭から西尾根に三つの郭、北尾根に一つの郭が配されている。

 

1・3郭の南側尾根続きには、幅7m、長さ17m、深さ2mの堀切がある。

 

竪堀はこの堀切の東側に二つあり、この間には小郭が三つある。

 

遺物は出土していない。 城主は本木与一と伝えられている。

 

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用

 

 

 

 

 

(3) まとめ

今回の発掘調査によって城跡の主要部分について明らかにすることができた。

 

位置的には陰陽を結ぶ中世の主要路がごの城の麓を通過し,地名も”関の内”ということから交通路の要所に立地しており,丘陵尾根の自然地形を最大限に利用し,戦

国時代に一般的に見られた階段式山城である。

 

郭は4つのまとまりがみられ,最高所の郭群(1〜3郭),南西尾根の郭群(4〜6郭),北西尾根の7郭,北東斜面の郭群(8〜10郭)である。

 

1〜3郭は城でもっとも重要な主郭部分で,有機的に関連し,中枢部を担っており,面積的にももっとも広く,建物跡が存在した可能性が高い。

 

4〜6郭は1〜3郭の南西に連結し,”古市”の平野に向き,面積的にも狭く,通路的な意味を持つものであろう。

 

7郭は北西方に離れており,”猪の子”の平野に向かっており,大手筋にあたるものと思われる。

 

8〜10郭は急斜面に築造された小形の郭群で,あまり整形加工が見られない。

 

これらの郭群のうち,戦時には1〜6郭は守備側であるが,7〜10郭は捨郭にされたものと思われる。

 

城の搦手は尾根が連続的に伸びていることから,堀切が1郭・竪堀と関連して構築されているが,非常に浅く,その機能を充分に果たしていたとは思われず,背後からの攻めに非常に弱かったのではなかろうか。

 

このように天然の要害に立地しているが,細尾根の為,郭は充分な広さを確保することができていないし,なおかつ,最小限の削平加工をし,盛土などを行わなかった為,小型で,守る城というよりは監視の城(見張所)といった性格が強く,”猪の子””古市”の両平地に注意を払い,特に前者に対し,重点を置いていたと考えられる。

 

「郡中国郡志」によれば「市場ノ城 城主本木与市久吉殿ト申候」また「組頭源四郎先祖八当村市場城主本木与市ト电者数代相続仕熊谷氏当国下向領地没収二付只今ノ屋敷二落仕百姓二相成」とある。

 

『芸藩通志』にも同様な内容のことが書かれており,「土居城市場並に飯室村にあり,土居は,三須刑部,所居,市場は,本木與一,共に熊谷家人なり」また「飯室村本木氏 先祖,飯室市場の城主,本木典一久吉(与)と稱す,熊谷氏,此に来たりて,其所領を奪ひければ,遂に農民となる,源四郎(与),傳吉等,その後裔なりといふ」とある。

 

これらを総合すると,市場城の城主は熊谷氏の輩下である本木与市久吉で,その後数代市場城を守ったが,熊谷氏の防長移封後は飯室村に留って帰農したということである。

 

飯室周辺について中世の歴史をふりかえってみると,平安時代後半〜鎌倉時代にかけて国衙領と考えられるこの地は,守護の武田氏が次第にその勢力を広げていったものといえよう。

 

特に,鎌倉時代後期以降,武田氏が在国するようになり,銀山城を中心に国内の武士を家臣化していき,遠藤氏や小河内氏も従っていたものと思われる。

 

ところが室町時代になると安芸国をめぐって細川・大内・尼子らが進出し,これら諸氏に呼応した安芸国内の在地領主の複雑な動向がくりひろげられるなか,武田氏は永正14年(1517)元繁の死後,急速に力を弱め,天文10年(1541)ついに滅びてしまう。

 

その後大内氏が銀山城に城番を置き,町域もその手中に入るが,天文20年(1551)陶隆房(晴賢)が大内義隆に謀叛をおこし,これに呼応して毛利・熊谷氏も勢力拡大をはかり,熊谷氏が飯室に進出し,実際には熊谷氏の一族である三須氏が知行したものと思われる。

 

三須氏の城としては恵下城跡・土居城跡があげられ,これらは猪の子と古市の両平野の中央に突出した丘陵上に位置し,この飯室の小地域を領有するにふさわしい城と言える。

 

本木氏も熊谷氏の家人とされていることから,市場城跡も惠下城跡・土居城跡と同時期に存在した可能性もあるが,立地や構造がはなはだ異なる階段式山城であることから,築造がやや新しいことも考えられる。

 

城に関連する遺物がなかったので断言できないが,戦国期のものといえよう。(植田千佳穂)

 

『中国縦貫自動車道建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告(3)』より一部引用

 

 

城の歴史

詳細不明、熊谷氏の家臣とあるが、1551年以降に飯室がその支配下に入ったためで、その前はどうだったのか不明。

 

その前は武田氏の支配地域だったため、武田氏の配下だったとも考えられる。

 

所感

●遺構が残っていると思ったが、ほとんどは高速道路の為削られていた。

 

●しかし、僅かながらでも曲輪の跡があり、往時を偲ばれた。

 

●最後部に鉄塔があるが、そこからの景色を見ると、当時の距離感が掴めて理解できた。

 

関連URL

【広島県】土居城【広島市安佐北区安佐町大字飯室】

 

参考URL

ひろしま昔探検ネット(市場城)

 

参考文献

『日本城郭大系』13

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』

『広島県の地名』

『広島県地名大辞典』

『広島の中世城館を歩く』

『萩藩諸家系譜』

『毛利八箇国御時代分限帳』

『萩藩閥閲録』

 

 

公開日2024/04/20

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